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01小さな旅


小 さ な 旅


最初の日は
名古屋《なごや》に泊まった。
次の晚には、
木曾《きそ》の福島《ふくしま》に泊まった。
最後が
上諏訪《かみすわ》であった。
諏訪では、
窓から
ヒマラヤ杉越しに
湖面の見えるホテルに泊まった。


中央沿線を
一度ゆっくりと
ひとりで
步いてみたいというのが、
田沢輪香子《たざわわかこ》の希望だった。
女子大を卒業して、
すぐにも
思ったが、
父も母も
容易に賛成せず、
また、
卒業生同士の会合が
つづいたりして
実現しなかった。


「ひとりで?」

父は、
はじめ
聞いたとき
渋い顔をした。


「若い娘が、
ひとりで行くのは
困るな」

父は、
ある官庁の局長をしていた。
夜がおそいので、
朝早く相談するほかは
なかったが、
それも
役所からの車が
迎えにきて、
待たせているような
忙しい時間のときが
多かった。


「お母さまは
どう言ってる?」

父は、
母から
とうに
話を聞いているのに、
そう言うのが
癖《くせ》だった。


毎晚、
外で
おそくなるので、
一応は
家の中で
母をたてていた。


「お父さまさえ、
よろしかったらって」

輪香子が答えると、

「そうか。
考えとく」
と、
言っていた。
その、
考えておく期間が
ずいぶんと長かった。


四月が終わり、
五月にはいって、
ようやく
許可が出た。


「輪香子は
木曾路《きそじ》に
あこがれているのかね?」

父はきいた。


「ずっと、
もう
先《せん》から
行ってみたかったんです。
ひとりで、
自由に
步くのだったら、
あの沿線だと決めたんですの」

「あんまり
自由に
步かれちゃ困るな。
条件があるよ」

「なんですの?」

輪香子は
父が
許しそうだったから、
なんでも
諾《き》くつもりだった。


「三泊四日だ。
これ以上は
いけないよ」

「はい」

すこし短かったが、
仕方がなかった。


「泊まる宿は、
私が指定した旅館だ。
いいね?」

父は
太っていた。
局長になってから
白髪《しらが》がまじったが、
輪香子が眺めても
貫禄がついたと思うのである。
頬《ほお》がたるんでいるので、
厚い唇が窄《すぼ》んで見えた。


「まるで、
役所の人に
出張を命じるみたい」

輪香子は、
行きあたりばったりに
宿をとるつもりだった。
昔の旅人のように、
日が暮れると
行きずりの宿屋にはいってゆく。
部屋は狭く、
太い梁《はり》を這《は》わせた天井
黒く煤《すす》けて
畳は赤茶けている
宿の夫婦が
炉端《ろばた》にすわって、
輪香子を招じてくれ、
自在
鉤《かぎ》から
大きな鉄瓶をはずして、
渋い茶をついでくれる。
話をしていると、

裏の戸を
風が叩《たた》いて過ぎる──
そんな空想をこっそりしていたのである。


「いけませんよ。
ひとりで
勝手な宿に泊まっては」

母が
輪香子の不服を聞いて
口を入れた。


「お父さまの
おっしゃるとおりにしてください。
でなかったら、
出しませんよ」

こういう場合になると、

父よりも
母に威厳があった。
父は
指定の宿をメモに書いた。


それが、
名古屋と、
木曾福島と、
上諏訪であった。
東京から
名古屋に直行して、
逆に
中央線を回って
帰京する
輪香子の予定だけが、
故障をはさまれなかった。


輪香子に
父の魂胆が分かったのは、
名古屋に着いてからであった。

ホームの特二の停車位置に
中年の二人づれの男
立っていて、
降りる客に
目を配っていたが、
輪香子を見ると、

丁寧な態度で
近づいてきた。


「失礼ですが、
R省の田沢局長のお嬢さまでしょうか?」

男たちは
口もとに
やさしい微笑をたたえていた。


「はい。
田沢ですが」

輪香子が、
少々
どぎまぎして答えると、

男の一人が
彼女の提げている
スーツケースを
両手で
抱えあげるようにして取った。

彼らは
何か名前を言ったが、
輪香子は
覚えていなかった。
長い駅の構内
一人が
先導するように
まっすぐに
通りぬけると、

表には
車が待っていて、
身ぎれいな運転手
ドアをあけて
彼女に
おじぎをした。


ホテルは
一流だったし、
彼女がはいらせられた部屋は
立派であった。
ここまでついてきた男二人は
名刺をくれたが、
肩書を見て
県庁の人だ
分かった。


一人の男は
頭が薄くなっていた。


「田沢局長さんには、
日ごろから
お世話になっております」

彼らは、
輪香子が、
局長夫人でもあるように
礼を言った。


「このホテルの者に、
よく
申しつけてありますから、
どうぞ、
ご安心のうえ、
ゆっくり
おやすみください。
それから、
明日は
木曾福島においでのご予定だそうですが、
何時に
お発《た》ちでございましょうか?」

高い窓からは、
名古屋の灯《ひ》が
低い海のようにひろがってみえた。
輪香子に、
自由な旅のよろこびは
なかった。
そう思って、
胸をはずませていたのは、
ここへ着くまでの東海道線の途中だけであった。


ボーイが
赤いリボンの垂れた
大きな果物籠を抱えてきた
名刺には、
輪香子の知らない会社の名前がついていた。


(挿絵省略)

木曾福島の宿でもそうだった。


木曾川が
低いところに流れてみえる駅のホームにも、
やさしい微笑をたたえた中年の紳士が、
これは三人づれで立っていた。


「田沢局長さんから
ご連絡をいただいて、
お宿は
とってございます」

車は、
輪香子を
中央にゆっくりとすわらせて、
川に沿っている
道路へおりていった。
いまの列車で
降りたばかりの人の群れが
步いていたが、
道をよけて
顔を上げ、
車を見ていた。
ああ、
あの中の一人になりたい、
輪香子は
心の中で叫んでいた。


R省の局長でも、
父は羽振りのいいほうの局長だ、
輪香子は
人からも聞いていた。
父は
地方まで伸びているその勢威を、
まさか
輪香子に見せるつもりは
なかったのであろう。
娘の旅の宿を気づかっての
愛情からに
違いないが、
これでは
輪香子は
まるで
要所要所の自由を
父の手に押えられているようなものであった。


ここに来るまで、
三留野《みどの》という駅で降り、
駅前の古びたタクシーで
馬籠《まごめ》へ行ったのが、
精いっぱいの自由といえた。
ここは
「通知」していないから、
さすがに
父の手から洩れていた。


旧中仙道《なかせんどう》の杉の峠道や、
屋根に石をならべた馬籠の宿場、
藤村《とうそん》の旧宅、
それから妻籠《つまご》から、
飯田《いいだ》に抜ける大平峠《おおたいらとうげ》の途中の茶屋での展望は、
ともかく
輪香子に、
「木曾路は
すべて山の中である。
あるところは
岨《そば》づたいに行く崖《がけ》であり、
あるところは
数十間の深さに臨《のぞ》む木曾川の岸であり、
あるところは
山の尾をめぐる谷の入口である。
一筋の街道は
この深い森林地帯を貫いていた」
イメージを満足させた。


五月の初めのことで、
冴《さ》えた新緑が、
黒っぽい杉の森林の間からもえていた
大平峠の茶屋では
木曾渓谷のひろがりと、
初夏の陽をうけて
光ってうねっている木曾川を望んだ。


光線を
眩《まぶ》しく
ふくんだ白い雲の下には、
淡いコバルト色かすんだ御岳《おんたけ》の稜線《りようせん》が見えたものである。
輪香子はひとりであった。


これだけが
彼女が得た自由だった。
夜は違うのだ。
新築して、
きれいな、
東京と少しも変わらない宿の部屋で、
例のやさしい微笑が
真向かいに
膝《ひざ》を折って
すわっていた。


「今夜は、
私たちのうちの誰かが、
階下の部屋におらせていただきます。
どうぞ、
ご安心しておやすみください」

輪香子は
驚いて目をあげた。


「あら、
そんなの困りますわ」

「いえ」
と、
先方は
まじめな顔だった。


「局長さんから
ご依頼をうけておりますので。
万一、
お嬢さまに
何かの不都合がかかりましたら、
われわれが
申しわけございません」

まさか、
父が
そこまで
注文はしないであろう。
輪香子が、
いくら頼んでも
頑固に諾《き》かないのである。


夜、
灯《ひ》を消すと、

枕もとに
木曾川の水の音が
大雨でも
降っているように伝わってくる。
輪香子は、
すぐ階下に、
知らない人が
自分を意識して
横になっているかと思うと、
気味が悪くて
眠れなかった。


どこかに
宴会があるらしく、
木曾節《きそぶし》を弾《ひ》く
三味線の音がいつまでも聞こえた。
太い梁の這っている黒い天井と、
赤茶けた畳と、
炉端の火はどこにもなかった。
──
この上諏訪に着いてもそうなのだ。
やはり、
穏やかな微笑を
口辺に
浮かべた出迎え人があった。
まだ、
昼間だったが、
すぐに
湖畔の旅宿に連行されてしまった。


きれいな芝生の上に、
高く伸びた
ヒマラヤ杉の植わっている
洋式のホテルだった。
戦前は
宮さまが
かならず
お泊まりになった
いう由緒《ゆいしよ》を聞かされたが、
すこしばかり
古めかしいのを除くと、
高雅な建築様式であった。


ホテルの窓からの眺望だけは
よかった。
湖水が蒼《あお》くひろがり、
光を中央にためていた。
黒い小さな舟が動いている。
対岸に屋根が
こまやかな点描《てんびよう》で集まって見え、
その後ろに
ゆるやかな山が横に流れていた。


「真向かいが
岡谷《おかや》の町でございます。
あのあたりが天龍川《てんりゆうがわ》の取入れ口で、
こちらが諏訪神社上社《かみしや》
反対側のあちらの森が下社《しもしや》でございます。
冬になりますと、
湖水が凍って、
有名な御神渡《おみわた》りの現象が
起こります。
ええと、
なんでございましたら、
車で
その辺をご案内いたしましょうか?」

輪香子は、
もうたくさんだったから、
その微笑にくるんだ
親切な申しいでを断わった


ひとりになって、
こっそり
ホテルの女中にきくと、
通りいっぺん
名所を教えたが、
何か変わったところを、
言うと、
女中は小首をかしげていた


「下諏訪に行く途中に、
昔の家がございますが、
変わっているといいましても、
そんなところでございます」

女中は、
あまり自信がなさそうに答えた。


「昔の家、ですの?」

「はい。
なんですか
乞食《こじき》の
掘立小屋みたいなものでございます。


学生さんなんかが、
もの好きに
見にいらっしゃいます」

「ああ、考古学の遺跡なのね」

輪香子は了解した。


「そりゃ、
きっと
竪穴《たてあな》の跡だわ。
小屋が建ってるなら、
復原したのね?」

「はあ、
なんですか
そんなようなことでございます」

輪香子は
それを見にゆく気になった。


「近いかしら、
ここから?」

「はい。
お車で
十分ばかりでございますが」

「じゃ、車、お願いしますわ」

部屋の卓の上には、
やはり
届けものの果物籠がのっていた。
赤いリボンに
名刺が結んである。
輪香子の知らない
会社の出張所か営業所長の名前であった。
これも
名古屋のときと同じように、
宿の女中さんに
食べてもらうつもりだった。


「お車がまいりました」

女中が
知らせてきたので、
輪香子は
レース手袋をはめ、
ハンドバッグを抱えながら、
「これ、
皆さんであがってくださいね」
大きな果物籠を指さした。


「は?」

「いいのよ。わたし、ほしくないから」

車は
往還を北にすすんだ。
「茅野《ちの》行」とか「塩尻《しおじり》行」
とかの標識を掲《かか》げたバスが通っている。
輪香子は、
知らない土地で、
未知の地名を見るのが好きである。
道には
白い埃《ほこり》が立っていた。


「お嬢さんは
東京から
初めていらしたのですか?」

運転手が背中できいた。


「そうよ」

輪香子は、
次第に
家が少なくなる
両側を見ながら答えた。


「やっぱり、
考古学を、
ご勉強なんですか?」

「ううん。
そうじゃないけれど。
ただのもの好きよ」

運転手は
牛のひいている
荷車を苦心して追いぬいた
それから
右にカーブを切ると、
小さな道を急勾配《こうばい》で登った。

すぐに、
部落があって、
車はそこでとまった。


「ここでお待ちしております。
その畔道《あぜみち》を上がりますと、
すぐに小屋が右手に見えますから」

運転手は
ドアをあけ、
帽子をつきだして
方向を教えた。


「そう。ありがとう」

そこは
小高い丘になっていて、
左右が
傾斜のある畑だった。
低い木が
林のように集まっていたが、
それには、
いっぱい白い小さな花がついていた。
梨の花かと思った。


輪香子が近づいてみると、

梨の花とそっくりだが、
花弁は
薄赤色をおびていた。
葉も
細長いかたちだった。


が、
新緑の滴《したた》るようなエメラルド色の茂りに梅か白桃かとも
見紛《みまご》う小さな白い花の満開は
美しかった。
畑の麦も
腰ぐらいに高いのである。


復原された竪穴の遺跡は、
その青い麦畑の中に
ぽつんと建っていた。
原始的な合掌造りで、
萱《かや》で葺《ふ》いてある。
輪香子は
畔道を伝って近づいた。


ここまできて、
はじめて気づいたのだが、
諏訪湖が
意外な低さでひろがっていた。
上諏訪の町も、
下諏訪の町も、
岡谷の町も、
一つの展望の中にはいっていた。
陽が少し傾きかけて、
湖面は
目が痛いくらいに強く光っていた。


湖上には
白い遊覧船が動いている。
風に乗って、
案内のアナウンスと音楽が聞こえた。


輪香子は、
合掌造りの掘立小屋を眺め、
そこに立っている
説明の立札を読んだ。
遠くに農夫が
腰をかがめて
麦畑にいるだけで、
誰も近くにはいなかった。


その太古の小屋の傍にも
小さな白い花を
こぼれるようにつけた低い木があった。


輪香子は、
小屋の入口があいているので、
内部を覗《のぞ》きたくなった。


暗くて、
すこし気味が悪かったが、
思いきって
内部に足を入れた。
一段と
地面が低くなっているのは、
竪穴の構造なのである。


明るい外から
急にはいったので、
目には
暗いだけであったが、
空気が不意に冷たいのはよく分かった。


内部にも
何か
掲げてあるらしいので、
それを見たいと思い、
目の慣れるのを待っていると、
急に暗い隅から
何かが動いたので、
輪香子は
肝《きも》を消した。


動物でも
寝ていたのか、
思わず
叫び声をあげるところだったが、
「失敬」
と、
起きあがった先方が
声をかけてくれた。
乞食か浮浪者がいたのかと、
とっさに
今度は
蒼くなって逃げかけようとしたが、
やっと
慣れた目には、
ふくれたズックの鞄《かばん》を
枕にしていたらしい
青年の黒い輪郭がうつった。


「失敬」
と、
相手は
もう一度言った。
「きみ、ここの管理人ですか?」


起き上がった男の姿は、
恐縮していた。
あわてて
白いズックの鞄を肩にかけようとした様子がみえた。


輪香子は
安堵《あんど》し、
それから
気の毒になった。


「管理人じゃありませんわ」

彼女は打ち消した


「ただの見物人なんです」

輪香子が
見まもっているなかで、
男は
自分の動作を急にゆるめた
掘立小屋の入口から
せまく
射《さ》し込んでいる光線が反射して、
彼の片頬をほのかに浮かばせた
声のとおりに、
若い男なのである。


「安心しました」
と、
青年は言った。


「以前に、
管理人から
ひどく叱《しか》られた経験がありますのでね」

「あら、
この内に立ち人ってはいけませんの?」

輪香子は周囲を見回した。


「いや、
ぼくのは寝てたんです」

青年はすこし笑った。


「ここじゃありません。
この少し南に
茅野町《ちのまち》というのがあって、
そこに
尖石《とがりいし》の竪穴というのがあります。
有名な場所ですがね。


二週間前、
その竪穴の内にもぐりこんで
寝てたのを見つけられたのです」

「そういうご趣味を……ああ、
考古学をおやりになってらっしゃるんですね?」

青年の話し方が明るかったし、
輪香子も思わずそんな質問の仕方をした。


「別に、
それを勉強しているわけじゃありません。
学問とか趣味とかを離れて、
好きでこんなところを步いてるんです」

暗さに目が慣れて、
相手の恰好も
輪香子に分かってきた。
登山帽みたいなものをかぶり、
ジャンパーと、
裾《すそ》をくくったズボンをはいている。


田舎《いなか》の小学生が持っていそうな、
肩にかける鞄を、
手にぶらさげていた


好きで、
こういうところに
乞食のように寝るというのは、
どのような心がけだろう。
輪香子が黙っていると、

「びっくりなさいましたか?
 ぼくがここに寝ていたので?」

青年はきいた。


「ええ。逃げだすところでしたわ」

「そりゃ、どうも。たいへん失敬しました」

青年は登山帽をとって、
おじぎをした。


「いいえ。もう、なんともないんです」

輪香子は
会釈《えしやく》をした。


「お嬢さんは
考古学のご勉強で
ここを見にいらしたんですか?」

「いいえ。わたくしは、ただ、もの好きにここに来ただけ」

「失礼ですが、
東京のおかたですか?」

「そうです。
諏訪に遊びにきて、
ほかに見にゆくところがないものですから、
もの好きにここを覗きにきたんですの」

「そりゃ、いいことです。
どうです、涼しいでしょう?」

「え、そりゃもう。
この中に
足を踏み入れたとたんに感じましたわ」

輪香子は実感を言った。


「外の空気とは
三度ぐらいちがうんです。
これで冬ですと、
逆に暖かいのですよ」

青年は
地面の中央に
掘ってある穴を指でさした。

「ここが、炉の跡です。
ここで火を燃しましてね
古代人たちは
弓で仕止めた獣や、
湖水の魚を焼いて食べながら、
家族同士で歓談したんですね」

「そんな古いことに興味をお持ちなんですか?」

「古代人の生活がなんとなく好きなんです。
見ただけでは分かりませんよ。
ぼくのように一晚寝てみないと」

「一晚?」

輪香子は声をあげた。

「じゃ、昨夜《ゆうべ》から、
ここにお泊まりになったんですか?」

「いや、昨夜は違います。
今朝早く、東京から、
こっちに来たんです」

「ああ、東京のおかた?」

それを輪香子が言う番になった。


「ええ。
今日が日曜日で、
明日が祭日ですから」

そうだった。
連休だったことに
輪香子も気づいた。
学校を卒業すると、
曜日の感覚が鈍《にぶ》くなった。


すると、
この青年は学生だろうか。
いやいや、
学生という感じではない。


どこかにもっと
大人《おとな》らしい落ちつきがあった。
たぶん、
勤め人であろう。
それも、
入社してまもないというような。


「お休みのたびに、
東京からわざわざ、
こんな場所に
お寝《やす》みにいらっしゃるんですか?」

輪香子が
すこし
呆《あき》れた口吻《くちぶり》
言うと、

「いや、
かならずしも
寝るとはかぎりませんが

青年の声に、
小さな笑いがまじった。


「外にでましょう、
とにかく」
と、
彼のほうから言った。


外に出ると、

眩しい光が殺到してきた。
蒼い空と
新緑が強い色で
目に迫ったことである。
体にぬくみを感じたのは、
温度がちがう竪穴の中から
出てきたせいだと
輪香子は知った。


外光のなかの新しい印象は、
外の景色だけではなかった。
青年が、
やはり学生でなく、
二十七、八ぐらいの年齢だと
想像できたし、
帽子の庇《ひさし》のかげになっているが、
眉が濃くて目が大きく、
陽の当たった部分の皮膚も、
けっして
白いものではなかった。


青年は、
無遠慮でない程度の視線で、
輪香子を眺めた。
彼女の経験の中にある
あわてて逃げる視線でなく、
ゆったりと見るものは
見届けておくといった、
まなざしであった。


その目を、
自然な感じではずし、
青年は
復原した竪穴住居の外観に
体の向きを変えた。


「さっきのつづきですが」
彼は、
肩に吊るした
無骨なズック鞄の紐《ひも》に
片手をかけて言った。


「この竪穴の中に寝ていますとね、
妙な錯覚が起こるんですよ。
つまり、
ぼくが家族の一員でね、
みんな狩猟に出はらって、
ぼくが留守番をしているような気になるんです」

輪香子は笑いだしたが、
その話以外に、
一つのことを知った。
この話は、
掘立小屋の中でも
できたはずである。
それを誘って外に出たのは、
円形の暗い住居の中に、
二人きりでいることを
青年のほうで避けたことだ。
彼からある距離を置いて
ならんで立っている輪香子には、
その心づかいがよく分かった。


「古代人の夢を見てらっしゃるのね」

輪香子は言った。
義理にも、
詩的とも甘美とも言えない。
石の鏃《やじり》を使い、
石の包丁で動物の皮を剥《は》いでいる半裸体の毛むくじゃらな原始人の恰好を考えると、

夢といったのが、
せいぜいの彼女の挨拶であった。


「そうかもしれません」

青年はそのお愛想を、
受けとるとも受けとらぬともつかない返事をした。


「彼らの単純な生活が好きになりましてね、
休みの日には時々、
こんなところに来ては、
ぼんやりしてるんです。
無論、
復原してない竪穴もですが」

「そんなところでもお寝《やす》みになれますの?」

「これは野天ですから、
まさか泊まるわけにはゆきません。
腰かけて眺めているくらいなものです」

「やっぱり、
家族の一員のつもりで?」

輪香子の軽い冗談《じようだん》をうけて
青年は声を立てて笑った。


「いつも、
そうはゆきません。
やはり
三千年の時間をへだてた
外来の訪問者ですよ」

「その訪問者は」

輪香子は
ちょっと躊《ためら》いながら言った


「現代の都会生活が退屈になったから
逃げてくるんですか?」

青年は
すぐに返答をしなかった。
輪香子が
軽く後悔したのは、
青年が
気軽に言葉を返してくる
思ったのが、
その顔から
明るい微笑を一瞬に消したことだった。
帽子の庇が
陽をよけてつくっている黒い輪の中の目に、
不機嫌そうなかげりがさしたようにみえた


輪香子が
思わぬ反応にあわてていると、

「そう言えるかもしれません」
と、
青年のほうが
彼女の気持を察したように、
意外に明るい声で言ってくれた。


「そうかもしれませんね、
実際。
でも、
こんな返事をすると、
すこし気障《きざ》になりますね」

「いいえ、
そうは思いませんけれど」

輪香子は顔がすこしあかくなった。
そんなつもりで言ったのではない。
無論、
抽象的な、
気の利いた質問のつもりだったが、
軽薄で生硬な言葉を口に出したものだと自分を叱りたくなった。


「これぐらいの規模で」
と、
輪香子は
自分の気持を急いで
救うように質問をにわかに変えた。


「家族が何人ぐらい住んでいたのでしょう?」

「さあ、
五、六人ぐらいかな」

青年の語調は、
もとにかえっていた。


「もっとも庶民的な住宅ですよ。
こういう竪穴は、
はじめ海岸近くの洪積《こうせき》台地につくっていたんですが、
だんだん奥地にはいって、
やはり、
こういう高台に営まれたんですな。
一つや二つでなく、
数個集まっているところをみると、
一つの村をつくっていたのかもしれません」

「村? では、
村長さんみたいのが、
いたんでしょうか?」

輪香子は、
いよいよ気を変えるようにきいた。
いったん、
傷ついた気持はすぐには直らなかった。


「竪穴址《あと》に特別大きいのがないところをみると、

まだそういう権力者はいなかったのでしょうね。
みなが平等に共同して生活していたのかもしれません」

青年は言って、
話が若い女性向きでないと気づいたか、
「失敬、お嬢さん、
ぼくは下の町に降りてゆきたいんですが」
言い、
輪香子に、どうしますか、
帽子の下から目できいていた。


青い麦畑の径《みち》を青年が先になり、
輪香子が後ろから従った。
自然と、
彼女の目は、
青年の背中を見ながら步いていることになった。
薄いジャンパーを脱《ぬ》いで
シャツになった青年の肩幅は広かった。


その一方の肩から下がったズックの鞄は、
何がはいっているのかふくれていた。
よごれて薄黒くなっているその鞄には、
中学生がするように墨でT.Oと書いてあった。


T.O……輪香子は漫然とその頭文字《イニシヤル》当て字を考えている。


先頭の青年がとまった。
径は下り坂だったので、
輪香子の脚はうっかり彼との間隔をちぢめた。


「きれいでしょう」
と、
彼がさしたのは星屑のように小さく、
無数に枝についた白い花だった。


輪香子が最初見たとき名前を知らなかった梨に似た花である。


「新緑の今ごろが、
カリンの花の盛りなんです。
この花を見ると、
諏訪に来たな、
思いますよ」

「カリンですって?」

「あ、ご存じない?」

青年の声が背の伸びた麦の上から聞こえた。


「秋に実がなります。
唐梨《からなし》とも言いますがね。
大きくて、
香りもいいけれど、
渋いうえに堅いので、
ナマでは食べられません。
この地方では砂糖漬にして売っています。
あんまりうまいものじゃありません」

輪香子が感じたことは、
この青年がこの地方に詳しいということだった。


それほど、
この辺によく来る人であろうか。
もしかすると
この地方で生まれた人かもしれないと思ったが、
不躾《ぶしつけ》だし、
それはきけなかった。
さっきのことが心にまだ残っている。


もしきけたら、
もう一つあった。
この青年はどのような会社に勤めているのであろう。
名前を頭文字で満足したように、
彼の職業もその程度の暗示がほしくないでもなかった。
休日には、
ふらふらと古代人の住居を訪ねてゆくような男を雇っている会社の名を、
できれば知りたいものである。


湖面が沈んで、
それが集落の家と家との隙間に水平となって光っている道路までおりると、

青年は、
輪香子の方をむいて、
登山帽の波打った庇に指をかけた。


「ああ、
お嬢さん、
まっすぐに旅館にお帰りになるんですね?」

彼は、
輪香子の持たせてある車を見て言った。


「ご機嫌よう。失礼しました」

「あら」

輪香子は思わず言った。


「上諏訪へいらっしゃるんでしたら、
途中までお乗りになりません?」

「ありがとう」

青年は軽く頭をさげた。


「でも、
ぼく、
方角が反対なんです。
これから下諏訪に寄るものですから」

「残念ですわ。
もう少しお話をうかがいたかったのに」

輪香子は、
おだやかに笑っている青年の白い歯を見ながら言った。


「それじゃ、
明日《あした》のお休みも、
この辺をお步きになりますの?」

青年は首を振った。


「明日は富山《とやま》県をうろついています

「富山県?」

輪香子は目をまるくした。


「洞窟があるんです。
氷見《ひみ》というところですが」

「それも古代人?」

「そうです。
住居址《し》です。
遠いから休暇を一日とるかもしれません」

青年は低い声で言い、
てれたように苦笑した
輪香子は呆《あき》れた。


運転手がドアをあけた。


「さよなら。お気をつけて」

輪香子は窓から手を振った。
車が斜面の道をおりてゆくまで、
古代人はあとからゆっくり步いて、
にこにこしながら帽子を上げた。
彼の肩からつりさがった鞄が、
あんがいな白さで目についた。


──が、
輪香子は、
その青年の鞄に偶然に翌日の朝、
再会した。


持主は気づかなかった
輪香子が上諏訪駅から上り列車に乗って発車を待っていると、

下り列車のホームの跨線橋《こせんきよう》の階段へ流れている乗客の群れの中に、
それを発見したのだ。


青年は昨日のとおりの服装で、
鞄を肩から吊《つ》って步いている。
が、
登山帽の下にのぞいている彼の横顔は、
輪香子が、
ちょっと人違いではないかと思ったくらい、
しかめられていた
少しもたのしそうなところのない、
沈んだような表情だった。
移動してゆく彼の広い肩のあたりも、
ひどく寂しそうなのである。
それはわずかな間の目撃だったが、
輪香子を車窓から乗りださせたものだった。


下り列車だから、
彼はいまから信越線回りで、
富山の洞窟に出かけるのかもしれなかった。


「元気で行ってらっしやい、古代人!」

輪香子は
口の中で言葉を投げた。



田沢輪香子は、
三泊四日の旅から帰った。


新宿《しんじゆく》に夕方着いたので、
家にはいった時は、
まだ陽が残っていた。


「あ、お帰んなさい。
予定どおりだったのね」

母は、輪香子が、
玄関から自分の居間にはいるのを、
あとからついてきながら言った。


「時刻表見てたのよ。
やっぱり、
思ったとおりの汽車だったのね。
疲れたでしょ?」

母は四日ぶりに帰ってきた輪香子を、
珍しそうに見ていた。


「まったく、予定どおりだったわ」

輪香子は椅子《いす》の上に体を落として、
脚を投げだした。


「おや、どうしたの?」

母は輪香子が意外に不機嫌なので、
目もとだけに微笑《わらい》を残して、
不審そうな顔をした。


「だって、
あまりにも自由がなかったんですもの」

輪香子は頬をふくらませた


「変ね。なんのこと?」

「お父さまの指定の旅館には、
わたし、
ちゃんと泊まりましたわ。
でも、
駅までのお迎えや、
旅館にまできて、
差し入れしたり
お節介していただく約束はしませんでしたわ」

「差し入れなんて、
きたない言葉はよしてちょうだい

母は顔をしかめた
色の白い細面《ほそおもて》のひとで、
笑うときも、
しかめるときも、
鼻皺が寄るので、
輪香子が見ていても、
母がかわいく感じられるのである。


「で、
輪香子のいただきものや、
お迎えしてくだすったのは、
どなたなの?」

「地方のお役人や、
商売人のかたですわ」

「そう。
お名刺、
ちゃんと持ってるんでしょうね?」

「ハンドバッグの中にありますわ」

母は、
机の上に置いてある輪香子の白いハンドバッグをあけた。
その中から十枚ばかりの名刺をとりだして、
一枚一枚繰りながら目を通していたが、
「これ、
お父さまにお見せしなくちゃね」
と、
帯の間に入れた。


「いいじゃないの。
あなたがひとり旅だと思うから、
お父さまが旅館をお願いしたんでしょう。
お迎えや、
いただきものは
ご先方のご好意ですよ」

母は、
父の中央役人としての勢威が、
田舎にまでおよんでいるのに満足のようであった。
母の鼻皺は笑いに変わった。


宮さまか何かじゃあるまいし
そんなの厭《いや》だわ。
だから、
お父さまがお帰りになったら、
わたし、
うんと文句を言ってあげるの。
せっかく、
たのしみに行ったのに、
ちっとも自由がなかったわ」

「まあ、そんなことは言わないで」

母は機嫌のいい顔でなだめた


「これも、お父さまのおかげで、
輪香子にも皆さまがよくしてくださるのだから、
いいじゃないの」

「わたし、そんなの嫌いですわ」

母が思わず本音《ほんね》を吐《は》いた恰好なので、
輪香子はすこし激しい調子で言った。


「お母さまじゃお分かりにならないようね。
わたし、
お父さまに直接申しあげるわ」

「はい、はい。
分かりましたよ」

母は輪香子の剣幕に困ったように、
苦笑を浮かべて出てゆこうとした。


「あ、お母さま。
お土産《みやげ》」

輪香子はもう一つの椅子の上に置いた四角い包みを母に、
はい、
と言ってさしだした。


「ありがとう。
なに、これ?」

「カリンの砂糖漬ですよ。
諏訪のお土産なの」

「ああ、カリンね」

母は、カリンを知っていた。


「お母さま、ご存じなのね? 
わたし、知らなかった」

「前にいただいたことがあるから知ってますよ」

「でも、カリンの花、
ご存じないでしょう?」

母は首を振って知らない
と、
言った。


「とてもかわいい白い花ですわ。
それが、木にいっぱいに咲いていますの」

「そう。
あなたは見てきたのね。
今ごろ花が咲くものなの?」

「え、新緑に映《は》えて、
そりゃ、きれい」

青い麦畑の径を、
先になって步いている青年の姿が、
話している輪香子の目に浮かんだ。
うすよごれたズックの鞄を肩にかけて、
長身の背中を見せていたが、
急にとまると輪香子をふり返り、
白い花を見せたものである。


(あ、ご存じない?)
丈《たけ》の伸びた麦の上から
聞こえた声も明るかったし、
青年の微笑している横顔も、
斜めに射した光線が
深いかげりをつけたものであった。
麦の下には、
白い湖水が光をふくんで広がっていた。
──
「輪香子は、
さっき、つまらなかったと言ってたけれど、
結構、たのしかったようじゃないの?」

母は、
輪香子の機嫌が急に直ったものだから、
目を細めた。


「え、カリンの花と竪穴を見たときだけですわ」

「タテアナ?」

輪香子は、
その話には不意に戸を閉めた。


「輪香子は、
今度の旅が、
だいぶ不平だったらしいな」

父は、
相変わらず、
役所から迎えにきた車を待たせた忙しい出勤前の時間に、
輪香子の部屋にきた。


「昨夜、お母さまから聞いた。
私に、文句を言うんだって?」

いつも友だちがすわる、
きゃしゃな椅子に、
肥えた父窮屈げに腰をおろし、
笑っていた。


「え、とても厭でしたわ。
いちいち、
駅に迎えにきていただいたり、
旅館にきてよけいなお世話をしてくださったり、
ちっとも、
ひとり旅のたのしさがありませんでしたわ」

輪香子は朝のピアノの練習をするつもりで
楽譜を調べているところだったので、
その本を手に持ったまま父に向かった。


「そりゃ仕方がない。
先方では、
私に気をつかってしてくれたことだ。
旅館の手配を頼んでおいたからな」

父は煙草をくわえ、
うつむいてライターを鳴らした


「でも、わたし、
お父さまの娘だけれど、
お役所の仕事とは関係ないことですわ。
ちっとも名前を知らない人が、
いろいろと目の前に現われて、
旅館までの車にいっしょに乗りこんだり、
いちいち、
こちらの予定をきいたり、
届けものをしたり、
とても不愉快な気分でしたわ。
わたしが空想していた自由な旅のたのしさなんて、
ちっとも味わえずに、
行くさきざきで束縛されたみたいでしたわ」

「それは悪かったね」

父は、
青い煙を吐いておだやかに娘の抗議を受けた。


「でも、
若い女のひとり步きだからね。
旅館だけは指定しておいたが、
同じ気持を、
世話してくれた地方の人も持ってくれたのだ。
その好意をあんまり悪くとってはいけない」

「いいえ、地方のかたは」

輪香子は、
父のくわえている煙草の灰が
長くなって落ちそうになったので、
灰皿代わりにありあわせの紙に受けてやった。


「わたしへの心配じゃなくて、
お父さまへの心づかいですわ」

父は、
それを聞くと、
厭な顔をした。


「まあ、
そう言ったもんじゃない。
私だって、
輪香子がどんなところを步いているか
全然知らないでは心配だからね。
輪香子はひとり旅の自由がなかったと怒ってるけれど、
未知の土地で災難にあうよりも、
そのほうがまだましなのだ。
輪香子ぐらいの年ごろは
夢みたいな冒険心を起こしたがるがね」

父の言い方には、
役所で下僚に
言いふくめるときの口吻《くちぶり》がどこかに滲み出ていた。
それは母にものを言っている場合でも出てきた。
輪香子は父が好きだったけれど、
そういう感じのする瞬間の父は嫌いだった。
輪香子は黙った。


父は輪香子が黙ったものだから、
納得したものと思ったらしく、
腕時計を見て、
椅子から立ちあがった。


「ああ、そうそう、
お土産、ありがとう」

娘の部屋を出るときに言った。


「カリンの花がきれいだったって?」

父は母から昨夜おそく、
話を聞いたらしい。


「ええ」

「よかった。
そりゃ、よかったな」

父は、
輪香子の不満を味の悪いものとして聞いたあとなので、
ほっとしたように、
そこだけを念入りに言った


「お土産の砂糖漬は、
悪いけれど、
それほどおいしくなかったね」

あのときの「古代人」もそんなことを言っていた。
しかし、
カリンのお土産を買ってきたのは、
一人の青年を佇《たたず》ませて、
蒼い空と湖を背景にした、
小さな白い花への愛惜《あいせき》であった。


母が覗きにきて、
父を車にせきたてた。


輪香子に、
友だちから電話がかかった。


「ワカちゃん、
今度の日曜日、
郊外に遊びにゆかない?」
いっしょに女子大を卒業した佐々木和子《ささきかずこ》からであった。
彼女は、
輪香子と違って、
勤めに出ていた。


「郊外って、どこよ?」

「深大寺《じんだいじ》。
知ってる?」

「ああ、
名前だけ知ってるわ」

「行きましょうよ。
武蔵野《むさしの》だし、
新緑がとてもいいわよ。
あなた、
行ったことがないなら、
ぜひ、
お連れしたいわ」

新緑なら諏訪で見てきていた。
帰りの汽車の窓から見えた富士見《ふじみ》から信濃境《しなのさかい》あたりは、
樹林が迫って、
乗客の顔が蒼く映えたくらいであった。
輪香子はその印象を大事にしたい気持であった。


「そうね」
と、
電話口で渋ると、

「ねえ、
行きましょうよ。
あたし、
あなたがいっしょに行くことに決めて、
たのしみにしているのよ。
もう先《せん》、
行ったことがあるので、
ご案内したいの」

佐々木和子の声は弾《はず》んでいた
輪香子は、
それで承諾した。


寺は古かった。


山門が藁葺《わらぶ》きで桃山《ももやま》時代の建築というから古いものである。
入母屋《いりもや》造りの本堂も、
その横の石段を上がったところにある小さな堂も、
こけがとりついたように
くろずんでいる


が、
その黒い色をいっそう沈ませているのは、
その周囲に立っている樹林の蒼い色のせいかもしれなかった。


場所が武蔵野の中だし、
それも、
ここは「万葉植物」が栽培されているというほどに由緒を感じさせた。
山門までの道は杉木立(すぎこだちがあり、
寺の屋根の上は密林のように葉が緻密《ちみつ》に重なっているのである。


静かだった。
都心から乗物で一時間ぐらいの距離に、
まだこんな場所が残っていたかと、
輪香子も驚いたくらいだった。


「どう、いいでしょう?」

佐々木和子は寺の石段をおりて、
音立てている小さな滝へ步きながら言った。
その滝も湧《わ》き水なのである。


「来てよかったわ」

輪香子は、
小柄で、
いつも明るい顔をしている友だちに実感を言った。
子供が三人づれで、
滝の落ち水に手を漬けて、
氷のようだと騒いでいた。


信州で見た新緑とも違う、
吸いこまれそうな深い緑が、
閑静な空気に重く沈んでいた。


「ここ、おそばが名物なのよ。
ね、食べない?」

山門の前には、
「名物、深大寺そば」
いう看板をかけた店が二、三軒あった。
ひなびた食べもの店で、
これは寺の風景によく似合っていた。


「いいわ」

輪香子は賛成した。


腹ごしらえをして
三鷹《みたか》の天文台の方へ步いてみましょうね。


その径《みち》も、
またいいのよ。
ほんとに武蔵野にきたという感じがするのよ」

佐々木和子は、
以前に步いたことがあるといって、
輪香子を連れてゆきたがっていた。
学校のときから、
輪香子を好きだった友だちである。


藁《わら》でできた馬や、
達磨《だるま》などを店先にならべたそば屋にはいりかけて、
佐々木和子は、
「あら、虹鱒《にじます》もあるのね」
言った。
看板には、
その文字が出ていた。

「珍しいわね。
虹鱒の料理、できたら、
こっちも食べたいわ」

輪香子も、
それは食べてみたかった。


「じゃ、ちょっときいてくるわ」

佐々木和子は、
店の中にはいって、
おじさんと話をしていた。


輪香子は、
その話がすむまで、
そこに立って待っていたが、
ふと、
山門の方を見ると、
古い建物の下をくぐって
一組の男女がならんで石段をおりてくるところだった。
恰好のいい洋服と、
すらりと着つけのきれいな和服の女性だとは、
目が瞬間に捕えた印象だったが、
それヘはっきりとした視線を向けるのは、
もとより不躾《ぶしつけ》なのである


目を店の方へ戻したときに、
佐々木和子がにこにこしながら出てくるところだった。


「虹鱒ね、
おじさんが目の前で料理して見せると言ってるわ」

「そう。見たいわ」

輪香子も微笑《ほほえ》んだ。


「おじさんが、
裏へ回ってくれって言ってるのよ。
行きましょう」

店の横は、
やはり湧き水を利用して、
ジュースやビールの瓶《びん》が冷やしてある。
客の腰かけも素朴なものだった。
そこを通りぬけ、
木の葉や草のいっぱい蔽《おお》っている斜面についた径をおりると、

小さなせせらぎが流れていた


シャツだけの店の主人が、
二人を待っていて、
流れに漬けてある四角い木箱のようなものをさした。


「虹鱒はこの中にいますのでね、
いま、取って、
ここで料理します」

おじさんはかがんで腕を箱の中に入れた。
手が出たとき、
指に跳ねている魚をつかんでいた。
黒っぽい背に、
赤鉛筆でひいたような線があった。


「虹鱒はね、
東京では、
ここしか育たないんですよ」

用意した俎《まないた》の上に置くと、

魚は諦《あきら》めたように動かないでいた


「水質が中性で、
水の温度もこれくらいなところでないと死ぬんですよ。
だから、
ここの湧き水がいちばん虹鱒には適しているのです。
東京のデパートが、
なんとかして虹鱒を飼いたいと苦心しているんですが、
こればかりはどうにもなりませんな」

おじさんは講釈しながら、
包丁を入れていた


「あら、ちっとも跳ねないのね?」

佐々木和子が覗きこみながら言った。


「そうですよ。
鯉と同じでね、
こいつは俎の上に乗せたら立派なもんです

わきには、
草の匂いの中に、
湧き水の流れが絶えず水音を聞かせていた。


流れの末は、
深い杉林なのである。


潅木《かんぼく》の枝が遠くで鳴る音がした。


魚を見ていた輪香子は目をあげて、
その方を何気なく見た。


枝と草を分けて、
洋服と白っぽい着物が、
斜面をおりてくるところだった。


ああ、
さっき、
山門を出てきた人だな、
輪香子が思っているとき、
木の茂みから出た男の顔を見て、
彼女は、
もう少しで声をあげるところだった。


諏訪の竪穴に
寝転んでいた「古代人」なのである![#改ページ]


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