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02深大寺付近

深大寺付近

青年は、
顔を斜め下に向けて、
小さな流れを見ながら步いてきていた。
薄いグレイの洋服で、
着こなしがいいし、
似合うスタイルでもあった。
蒼い葉の茂みと雑草が、
それを浮きだした。


浮きだしたことといえば、
後ろに従って步いている女のひとは、
もっと白く目立っていた。
白っぽい着物に、
初夏の陽が当たって、
そこに光がたまって見えたせいだけではなく、
その顔が、
視覚に明るさを滲ませて映したのである。


青年は、
輪香子が立っていることに気づかないで、
せせらぎの清水をさして、
後ろのひとに何か言っていた。
その女のひとは小さくうなずいていた。

青年のかげに半分見えたのだが、
背がすらりとしていて
陰影の深い顔だった。


輪香子が動悸《どうき》を打たせているうちに、
青年は步きながら、
顔をあげてこちらを向いた。
諏訪で、
掘立小屋から出たとき、
初めて眩《まぶ》しい光線の下に見たときの、
あのとおりの顔であった。


青年がこちらを見て、
訝《いぶか》しげな目つきに変化するのを、
輪香子は真正面の視線で受けとめた
胸が落ちつきなく鳴っていた


「ああ」
言ったのは、
青年のほうだった。
これは
そこに佇《たたず》んでいる若い女性が
誰かと分かった瞬間の驚きの目が、
すぐに明るい微笑に変わったものである。


輪香子は、
おじぎをした。


「あなたでしたか?」

声は、
無論、
あのときと同じであった。
違うのは、
青年が、
よごれたジャンパーを着て
うす汚い肩掛け鞄を持っているかわりに、
洗練された紳士の姿でいることだった。
どういうものか、
ネクタイの柄が先に目についた。


「意外でした。
まさか、
あなたをここでお見かけしようとは
思わなかった」

青年はその微笑のなかにも、
素直な驚きを消さずに言った


「わたくしも」

輪香子は言った。


「そこを步いていらっしゃるときに、
あっと、
思ったくらいです」

「あなたは、
さっきから気づいてらしたわけですね?」

「ええ、
びっくりして立ってましたわ」

「ぼくは、
また、
そこにどこかのお嬢さんが二人で立っているとは、
ぼんやり目にうつっていたが、
あなたとは知りませんでした。
いや、
あのときは、
失礼しました」

青年は、
はじめて笑い声を立てた。


「いいえ。
わたくしこそ。
おかげで諏訪が一等、
おもしろい思い出の土地になりましたわ」

「そうですか」

青年は笑っていた。


「越後《えちご》、
じゃなくて、
越中《えつちゆう》ですか、
洞窟をごらんにおいでになりました?」

輪香子は、
上諏訪の駅のホームを步いている、
この青年の姿を思いだしながらきいた。


「ええ、
行きましたよ。
なかなか、
愉快でした。
帰りの夜汽車では、
すっかり疲れましたがね」

「たいへん!」

輪香子は、
そんなに長い旅をして
わざわざ洞穴《ほらあな》の中に
寝にゆく相手をご苦労さまだと思った。


この二人の会話の間に、
青年の後ろにいる女のひとは、
かなりの距離をおいて佇んでいた。
小さな流れの上に視線を投げているのだが、
その横顔には、
つつましげな微笑みが浮かんでいた。
連れの話のすむのを待っている、
しかし、
それでいて、
若い女性の明るい話を、
控え目に傍聴して
好意をみせている、
そのような態度だった。


輪香子は、
自分より五つぐらいは年上のその女性に、
おだやかな知性の匂いといったものを感じた。
それが、
どこか、
彼女に一つの軽い圧迫感となった。
このころの若い年齢が覚えがちな、
年齢の差だけの、
あの劣弱感であった。


塩焼きにしますか、
それともフライにしますか?」

俎《まないた》にかがみこんでいたおじさんが、
声をかけた。


「どうする、
ワカちゃん?」

佐々木和子が、
遠慮そうにきいた。


輪香子は虹鱒に視線を戻した。
魚が四尾、
俎の上にきれいにならんでいた。


「そうね、
あなた、
どっちが好き?」

「あたし、
塩焼きがいいわ」

佐々木和子は、
青年と女のひとにちらちら瞳《め》を投げていた


「じゃ、
わたしもそれでいいわ」

このとき、
後ろで青年の声が聞こえた。


「では失礼します。
さようなら」

そば屋の奥は、
簡単な座敷になっていて、
食事ができるようになっていた。


古い家だから、
万事が山間の小料理屋と思えばいいのである。


ここにすわっていると、

裏から聞こえる流れの音が、
雨でも降っているようであった。


「いまの人、誰なの?」

佐々木和子が、
四つならんでいるうちの、
床の間よりチャブ台
肘《ひじ》をついてきいた。
大きな目を輪香子の顔にまっすぐに向けて、
興味に溢《あふ》れた表情だった。


「古代人よ」

輪香子は答えた。
失敬します、
言って、
木の多い斜面を
ゆっくり上がってゆく青年の姿が、
まだ目に残っていた。
それから、
輪香子の方に会釈《えしやく》をして
青年のあとに步いていった女のひともである。


「古代人? なんのこと」

佐々木和子は目をまるくした。


「諏訪で会ったの。
この間、
あっちを回ったときにね。
諏訪湖の近くに竪穴の遺跡があるのよ。
そこを見にいったとき、
いまの青年が、
復原した掘立小屋の中で寝てたの。
聞いてみたら、
それが趣味で、
お休みのたびに、
そんな場所を探して旅するんだって」

「へええ。
変わってるわね。
古代人というのは、
あなたがつけた綽名《あだな》なの?」

「うん。
だって、そんなところに寝ていると、
家族がみんな狩猟に出はらって、
自分だけが
留守番してるみたいな気になるって
言うんだもの」

「おもしろいわ。
原始への夢ね、
ロマンチストだわ、
煩雑《はんざつ》なる現代生活への反逆ね」

佐々木和子は手を打った。


「どういう人なの?」

「知らないわ。
どんな職業の人だか。
名前は、
T.Oというんだけど。
きたならしい古い肩掛け鞄に
中学生みたいに墨で書いてあったの」

「ふうん。
ちょいと魅力あるわね。
それで、
今日は、
リュウとした青年紳士の恰好で現われるなんて、
すてきだわ。
プリミティブなものとモダニズムが同居してるのね」

佐々木和子は両肘をついて、
指を組み合わせ、
その上に
顎《あご》をのせた。


「そして、
モダニズムの側が、
すてきな恋人を連れて深大寺あたりを、
遊弋《ゆうよく》させているのね」

「あら、
恋人かしら?」

輪香子は、
目をあげた。


「ばかね。
恋人じゃなかったら、
二人きりでこんなところを步かないわ。
あなたはなんだと思ったの?」

輪香子は、
すこし考えていたが首を振った。


「分かんないわ」

分かる気はする
しかし、
はっきりと
恋人と決めてしまう気には
なれなかった


「あたし、
観察したんだけど」

佐々木和子は、
目を輝かして言った。


「あの女のひと、
奥さんじゃないかしら」

「奥さん?」

「いいえ、
あの古代人の奥さんじゃないわ。
そら、
年は同じぐらいだけれど、
あのひとのじゃないわ」

「………」

「ねえ、
とてもおちついた
感じじゃないの。
着ている着物だって、
未婚女性のものと違うわ。
一越《ひとこし》の白地
タテの銀通しを置いて
グリーン
イェローオーカー
ローズピンクの配色で、
細かい印度ふうの更紗《さらさ》模様
紋織りにしているんだけど、
渋派手《しぶはで》で感心したわ」

「ずいぶん、
詳しい観察ね」

「そりゃ呉服屋の娘だもの」

そのとおり、
佐々木和子の家は、
京橋《きようばし》の古い呉服専門の老舗《しにせ》だった。


「帯は、
塩瀬《しおぜ》だと思うんだけど、
錆朱《さびしゆ》型染め
とても利《き》いてるわ。
着物には
感覚の贅沢《ぜいたく》なひとだと思うし、
未婚のかたとは思えないわ」

輪香子は黙るよりほか仕方がなかった。


「きれいなひとね」

佐々木和子は、
輪香子を見るのに、
片目をつむっていた


「そう、
きれいなかただわ」

輪香子には、
そのひとの白い顔に
かげっている陰影
くっきりと目に残っていた。

「いやに元気がないわね」

「だって、
カズちゃん」

輪香子は顔をあからめた


「変なこと、
言うんだもの。
あの古代人、
そんなひとと思えないわ」

「バカね」
と、
佐々木和子は言った。


公明正大な間柄だったら、
ちゃんとワカコにも、
あたしにも紹介するわ。


それをしないで、
こっそりと立ち去ったじゃないの。
これ、
あたしの推理の根拠よ」

焼きあがった虹鱒が皿にのってきたが、
輪香子は急に食欲を失った。


小野木喬夫《おのぎたかお》は、
諏訪の竪穴で会った田沢輪香子のことを、
結城頼子《ゆうきよりこ》に話したところだった。
無論、
その若い女性の名前は知らないのだが、
いいところのお嬢さんのようだし、
明るい性格だとほめていた。


「驚いた。
あのひとに、
こんなところで、
すぐ会おうとは思わなかった」

寺の前を通って、
林の中にはいってゆく途中の道であった。
結城頼子は静かな微笑を浮かべてそれを聞いていたが、
茶店の陳列棚藁《わら》でできた馬がならべてあるのを目にとめると、

「かわいいわ。
買おうかしら」
と、
立ちどまった。


「そんなもの買って、
どうします?」

小野木喬夫は、
子供もないのに、
という言葉をのみこんだ


結城頼子は、
小野木の顔を目で微笑《わら》ってみて、
「記念にするわ。
あなたと、
ここにきたのを……」
言って、
上背《うわぜい》のある姿を茶店の前に寄らせた。


小野木が待って、
煙草に火をつけていると、

頼子は藁細工の馬を選び
それから茶店のおばさんに何かきいていた。


「ね、
かわいいでしょう」

頼子は出てきて、
掌《て》の上に馬をのせてみた。
かたちのいい指に囲われて、
小さな馬が長い脚をふんばっていた


「どうして、
藁の馬をここで売ってるか、
ご存じ?」

「知りません」

小野木が步きだした。
湧き水が道の傍を音をたててこぼれていた。


「赤駒を山野《やまぬ》に放《はか》し捕りかにて多摩《たま》の横山步《かし》ゆかやらむ」

結城頼子は、
きれいな声で言って、
「万葉集にあるのが由来よ」
と、
小さく笑った。


「よく知ってますね」

「検事さんには関係ないことね。
実は、
わたしもガイドブックの受け売りですわ」

「そのほかに、
何を茶店できいていたんです?」

ムラサキ草のあるところ」

「分かりましたか?」

頼子は小さく首を振った。


篤志家が栽培しているのだけれど、
いまは忙しくて見せられないんですって。
お寺に鉢植えしたぶんは、
枯れたそうです。
野生のものだから鉢植えはだめなのね。
見たかったわ、
花が今ごろ咲くんだそうです」

「あなたは、
花よりも」

小野木は、
すこし揶揄《やゆ》するように言った。


「その根が見たくないですか?
 着物が好きだから、
江戸紫の原料を見たいでしょう?」

「それほど凝《こ》ってませんわ」

頼子は步きながら笑った。


「でも、
感心に、
そんなこと、
よくご存じね」

「ばかにしないでください。
検事の雛《ひな》でも、
それくらいは知っています」

「根よりも」

頼子は言った。

「万葉集で有名なので、
花のついたところを見たかったのですわ」

道は、
林にはいりかけるところに湧き水の池を見せていた。
池の中に弁財天の祠《ほこら》があり、
水面には白い睡蓮《すいれん》が咲き、
池辺には赤い躑躅《つつじ》があった。


老夫婦が、
子供の手をひいて、
立って水を見ていた。


ケヤキ、
モミジ、
カシの樹林は
陽をさえぎって
草を暗くしていた。
径の脇には去年の落葉が重なって
厚い朽葉《くちば》の層の下には、
清水がくぐっている。
蕗《ふき》が、
茂った草の中で老《お》いていた。


深大寺付近はいたるところが湧き水である。
それは、
土と落葉の中から滲みでるものであり、
草の間を流れ、
狭い傾斜では小さな落ち水となり、
人家のそばでは筧《かけひ》の水となり、
溜め水となり、
粗《あら》い石たたんだ水門から出たりする。


步いていて、
林の中では、
絶えずどこかで、
ごぼごぼという水のこぼれる音が聞こえてくるのである。

下枝を払いおとした木には、
高い梢《こずえ》に、
木箱の小鳥の巣がかかっていた。
下は暗いが、
見上げると、
太陽の光線が葉を透《す》かして
緻密な若い色ステンドグラスのように、
澄明に輝かしているのである。


閑静で、
人の姿はなかった。
遠くの道を、
赤白のバスが木の間を縫《ぬ》って動いていた。


小野木喬夫は、
立ちどまって、
後ろを向いた。
すぐ斜めうしろに
結城頼子が步いてきていたので、
自然に、
それは抱くかたちとなった。


「ひとが来ますわ」

頼子は低く言い、
目を瞑《つぶ》った
葉のために顔が蒼い。

いつもの香水の匂いにまじった、
女のかすかな唇の臭いを、
小野木は吸いこんだ。
鳥が上の葉を騒がせて飛んだ以外に、
人の声は聞こえなかった。


頼子は袂《たもと》からハンカチを取りだし、
小野木の唇を拭った。
白い布にはうすい紅色がついた。
それから、
小野木の顔を見つめると、
黙って先に步きだした。


道は、
崖くずれのあとの赤土の壁の間についていた。
崖には木の根が無数の条《すじ》となって垂れている。


勾配《こうばい》になっている道の傍には、
ふちを白くした熊笹《くまざさ》が集まっていた。
この道までが暗く、
坂の上には陽が当たっていた。

「小野木さんは」

坂を上がりながら頼子が言った。

「あんなお嬢さんと、
結婚なさるとよろしいわ。
きれいなかたじゃないの?」

小野木はそれを聞いて、
頼子が、
あの若い女性のことを、
今まで考えつづけていたのを知った。



崖くずれの坂道を上がると、

今まで頭の上を蔽《おお》っていた木が急にひらけ、
陽と蒼い空とが久しぶりにじかに見えた。


道は平坦となり、
短く刈りこんだ草がひろがって、
公園のような場所になっていた。
実際、
四阿《あずまや》があったり、
茶店が出ていたりした。
遠足らしい幼稚園の園児が、
草をつんで遊んでいた。


「どうします?」

小野木喬夫がきいたのは、
寺の方へ引きかえすことの意味だったが、
「まっすぐにまいりましょう」
と、

結城頼子はそのまま足を運んでいた。
たいていの場合、
きくのが小野木であり、
それに答えて、
その答え方も行動で見せるのが頼子であった。


二人は、
そのまま黙って步いた。
小野木は頼子の顔を見たが、
その横顔はたのしそうに微笑んでいた。


(挿絵省略)公園を突っきって街道へ出るまでは、
かなり長い。
その長い時間、
頼子のその表情は変わらなかった。


街道は三鷹から調布《ちようふ》に通じる道で、
バスも自動車も通っている。


すぐそこにバスの停留所の標識があり、
老人がしゃがんで退屈そうに待っていた。


「バスに乗りますか?」

小野木が言ったが、
頼子は首を振った。


「步きましょう、
もっと」

やはり步き方はゆるめないでいる。


「なんだか、
今日は、
いつまでも步いてみたいわ」

小野木は、
また頼子の顔を見た。


街道の一方は家がとぎれていて、
低い林になっていた。
そこから奥へ細い道がついていた。
頼子はひとりでその道へはいっていった。


「そっちへ行って、
どこへ出るんです?」

小野木がとがめるように言ったのに、
「どっかへ出られるでしょう、
道があるから」

というのが返答だった。


この細い道の片側は、
低い林かと思ったが、
実は植木屋の庭だった。
無論、
庭とは見えない、
種々雑多な樹木が密生していた。
それも手入れの行きとどいたものばかりで、
一本をとってきても十分に観賞用になっていた。


道の片側は畑になっていて、
麦が黄ばんでいた。
植木の林も広いし、
畑も広かった。
その林の奥からは枝をつむ鋏《はさみ》の音が聞こえていた。


この道ではめったに人と行きあわなかった。
農夫が荷車をひいて通るくらいなものだった。
道の涯《はて》が傾いた陽で眩しかった。


「ずるいわ、
小野木さん」

頼子が言った。


「何がです?」

「さっき、
わたしが言ったこと、

返事なさらないのね」

頼子の顔に、
陽が正面から当たっていた。


「ああ、
あれですか」

小野木は軽く言ったが、
頼子の呟《つぶや》いた、
あのようなお嬢さんと結婚なさるとよろしいわ、
という言葉は、
実は、
さっきから胸につかえていた。


「別に、
ずるいわけじゃありません。
返事する必要がなかったからです」

道は屈折し、
畑の中に、
新しいアパートがぽつんと建っているのが見えた。


左側の低い林はそこで切れ、
苗畑がそれにかわった。
光線がもっとひろがり、
遠い山まで見えた。


「やっぱり、
小野木さんと同じ趣味のかたかしら?」

頼子が言ったのは、
無論、
寺のそばで会った若い女性のことである、
「そうでもないんです。
ただ、
もの好きに竪穴を見物にきたというだけでしょう」

小野木は、
頼子を肩の傍に置いて言った。


頼子は声を出さずに笑った。


「いいとこのお嬢さんらしいですわね?」

「そうかもしれません。
名前も何も聞きませんでしたが。
まだ少女ですね」

小野木はカリンの花を説明してやったことを思いだしていた。
湖の色まで、
ふいと目に浮かんだ。
それから白い花の咲いている木の下で働いている農夫の姿もである。


「すなおそうな、
いいかたに見えたわ」

頼子が言った。
が、
小野木は、
それには、
もう返事をしなかった。


アパートの前を通るとき、
窓に夕支度にかかっている主婦の姿がうつっていた。
部屋につづく台所《キツチン》がまる見えなのである。


二人が通りすぎるまで、
庭に出ていたアパートの人が熱心に彼らを眺めていた。


その道は台地の上を通っていた。


だから、
家がなくなると、

左右が畑ばかりで、
その先の雑木林《ぞうきばやし》がずりさがって沈んでいた、
人は相変わらず通らない。
声も音も聞こえなかった。


「脚が疲れませんか?」

小野木が言った。


「ずいぶん、
步いた」

頼子は足を運んでいたが、
そのかたちが少しも崩れていなかったのに、
小野木はちょっとおどろいた。
いつのときでも、
頼子にはこういう一面があった。


「小野木さんは?」

頼子が、
微笑みながらききかえした。


「少し疲れました。
あなたは強いんだな」

「前身は何をしていた女だろう、
とお思いになってるんでしょう?」

頼子は、
今度は低い声を出して笑った。


道は下り坂になった。
また、
林が空を蔽い、
陽をさえぎった。
小さな鳥が葉を騒がせて過ぎた。


「あなたのことを知るのは」
と、

小野木は葉を靴で踏みながら言った。


「もう諦めました」

遠いところで銃が鳴った。
近くの鳥が一どきに騒いで逃げた。


「そう。
そうでもなさそうだわ」

「いや、
本当です」

「そのうち、
また、
何かおっしゃるわ」

小野木はそれに答えなかった。
実際にそうなりそうだった。


道は急傾斜になり、
足が滑りそうになった。
赤土がまじっていたし、
車の轍《わだち》のあとが盛りあがっていた。
陽の射さないところは、
いつまでも濡れている。


頼子が足もとを見つめて立ちどまったので、
小野木は手をかした。
彼女の掌《て》まで青くなっていた。


斜面の道を五、
六步おりてきたところで、
滑る危険は過ぎたが、
小野木は手を放さなかった。
そのまま下降してくる女の体を両手で受けとめる恰好になった。


「いや!」

頼子は言ったが、
小野木はその顔を抱えた。
彼女は、
もう首を動かさなかった。


人声がしたので、
小野木は顔を放した。
が、
その声は、
こっちにくるのではなく、
谷間に茂っている葉の向こう側を通りすぎていた。


「この下に道がありますのね」

頼子が、
紅のついたハンカチをまるめて袂《たもと》に入れながら言った。


「道は、
どこかに出ると言いましたね?」

小野木が言うと、

「そう。
言ったわ」
と、

頼子は答えた。


「だから、
どこかに出たんです」

百メートルばかりで、
白い道に出た。
樹林の中みたいだが、
ちゃんとした舗装道路だった。
片側が低くて古い石垣になっていて、
その上に斜面の樹林がつづいていた。
無論、
ここも蒼い林だった。


「なんでしょう?」

頼子が石垣の上を見上げたが、
分からなかった。


「天文台ですよ、
三鷹の」

小野木が言った。


「あら、
ここがそうなの」

頼子は目をみはった。
大きくあけたときの瞳《め》がきれいなのである。


「めったに、
この辺まで来たことはないでしょう?」

小野木がきくと、

「一度も」
と、

首を振った。


「いいところに連れてきてくださったわ」

と言ったのは、
古い寺を見たこともふくめてだった。


ここまで来ると陽のかげりがはっきり分かって、
天文台の樹林が道をくもらせていた。
片側は小さな谷間になり、
それから斜面が起こって見上げるように伸びていた。
谷間の樹木の上の方と、

斜面の葉にだけ、
衰えた陽射しが当たっていた。


警笛が後ろから聞こえたので、
振りむくとバスが来ていた。
標示板には調布行と出ていた。
バスは通りすぎたが、
ほとんどの乗客が窓から二人の方を見返っていた。
頼子の姿が目立つらしかった。


「その辺でバスを待ちますか?」

小野木が言ったが、
頼子は、
もう少し先まで步く、
と答えた。
両側から迫ってくる青い葉がきれいだったし、
人家がまた一軒も目に触れなかった。


「ずっと先《せん》にね」

頼子が言いだした。


「田舎に行ったことがありますの。
初めての土地でしたわ。
バスに乗りおくれましてね。
知らない土地で、
乗りおくれたバスが遠くに小さくなってゆくのを見てると、

寂しくて耐えられない気持でしたわ」

その田舎の地名をききたかったが、
小野木は言葉に出さなかった。
頼子が断わるに決まっていた。


珍しいことに、
後ろから空車のタクシーが来た。


小野木は手を上げた。


「どちらまで?」

ドアを閉めてから、
運転手が座席をふりかえった。


「まっすぐ行くと、

どこに出ますの?」

頼子がきいた。


「調布です。
京王線《けいおうせん》の調布駅に出ます」

「それを、
まだ、
まっすぐに行くと?」

「まっすぐですか?」

運転手は考えていたが、
「そうですな、
狛江《こまえ》から多摩川《たまがわ》へ出ます」

「多摩川……」

頼子が声を弾《はず》ませた。


「では、
多摩川に行ってください」

車の窓には、
しばらく両方の林が流れた。


「多摩川なんか行って、
何があるんです?」

小野木がきくと、

「川が見たくなりましたの、
久しぶりで」

頼子は小野木の手をとって握ると、

それを膝の上に置き、
上から袂で蔽った。
車に乗っているとき、
頼子がいつもする癖だった。


車は、
一度、
ひろい原野に出たが、
調布の踏切を越してゆくあたりから、
ひどく、
狭苦しい道をたどたどしく走った。
両側には普通の家が詰まり、
今まで林を見た目には、
それが嘘《うそ》のような記憶に思えた。


人家には、
もう灯《ひ》がついていた。
空に澄明な光線だけが揺曳《ようえい》していた。


「明日から、
また、
忙しいのね」

頼子が、
ぽつんと言った。


「やっぱり、
いろんな人をお調べになりますの?」

「ええ」

「やっぱり専門がおありになりますの? 民事とか刑事とか。
よく分からないけれど」

「それは、
まだ先ですよ」

小野木は気のない声で答えた。


「いまはなんでも屋です。
先輩が指導してくれるんです。
そのうち、
向き向きに別れるでしょう」

「小野木さんは何がお好きなんです?」

「さあ」

小野木は答えずに笑っていた。
このような話はあまりしたくなかった。


「だいぶ暮れましたね」
と、

外を見た。
車はまた場末のようなところを走っていた。
近くに工場があるらしく、
後ろの荷台に、
弁当箱をくくりつけた自転車がいくつも走っていた。


車の前方に、
川が見えてくるまでは、
たっぷりと四十分はかかった。
その間、
小野木は頼子の指を揉《も》んでいた。
尖《とが》った爪が、
ときどき彼の指の頭を軽く刺した。


「多摩川の、
どの辺につけますか?」

運転手が速度を落としてきいた。
車は勾配の道を上がって橋にかかっていた。
橋の前方には、
小さな灯をちりばめた黒い丘陵があった。


「この橋は?」

頼子がきいた。


「登戸大橋《のぼりとおおはし》です」

その橋は黒っぽい欄干《らんかん》をもっていた。
正面に料理屋の名前のついたネオンがかたまっていた。


「この川下にも」

頼子は窓からさし覗いた。


「橋がありますの?」

「あります」

運転手は車を停止して答えた。


「二子玉川橋《ふたごたまがわばし》というのがあります」

「そう。
この堤防の道を行ったら、
そこへ出るのでしょうね?」

「出ると思いますが」

運転手は首を伸ばして見ていた。


「来たことはないのですが、
道がついているから行けるでしょう」

実際、
堤防の上には自動車二台がならんで通れるような白い道がついていた。
両側とも草の多い傾斜になっていたが、
片側の人家は遠くてまばらで、
一方の川も、
中央の水のあるところまでは距離があった。
少ない川の水がにぶく光っている。
河原に生えた一面の雑草は、
近いところだけが暮れ残っていた。


車は、
ヘッドライトをつけて堤防の上を走りはじめた。
舗装はしてないが平坦なのである。
道の両端の草が光芒《こうぼう》をうけて白く浮いた。


対岸に灯はほとんどなく、
まっ暗になりかけていた。
堤防の下は畑だったり、
石を詰めたりしてあった。
こちら側は、
遠いところに工事中の建物が黒い影で見えたりした。
人ひとり通らず、
蕭条《しようじよう》とした暮景だった。


一キロあまり走ったころ、
「おや」
と、

運転手が言った。


道の正面に、
杭《くい》が二本、
門柱のように立っているのが見えたのだった。


「しまった、
この道は行きどまりだ」

堤防は、
その杭の先から切断したように落ちていた。


運転手は舌打ちして、
車をバックさせた。
かなりの距離を突っこんできたので、
後退の道も長かった。


頼子は、
小野木の指に力を入れた。


小野木が見ると、

暗い中で頼子が笑っていた。


「道があるから、
どこかへ出られると思ったけれど、
どこへも行けない道って、
あるのね」

頼子がささやいた。


どこへも行けない道──小野木は口の中で呟いた。



小野木喬夫の机の前にすわっているのは二十九歳の男である。
蒼い顔をして目を伏せていた。
無精髭《ぶしようひげ》が頬から顎にかけて生えている。


普通の蒼い顔ではない。
垢《あか》が、
皮膚の毛穴にしみこんで、
濁ったようなどす黒い蒼さであった。
小野木は、
こういう顔色にもやっと慣れてきた。


小野木の後ろにある窓の陽が、
彼の背中に当たり、
その端が、
容疑者の鼻のあたりから半分下を照らしていた。


小野木の机の上には、
いろいろな書類が重ねて置いてある。
送致書、
意見書、
実況検分書、
領置書、
現場見取図、
強盗事件聞込報告書、
犯罪捜査報告書、
聴取書などで、
一つの山ができている。


この山が全部、
前にすわって目を伏せている蒼い顔の容疑者のものだ。


机は一つだけではなかった。
かなり広い部屋に一列にならんでいた。
小野木と同じような七人の新任検事が片側にすわり、
七人の容疑者が前に向かいあっている。
検事の椅子はゆったりとした回転椅子だが、
容疑者のすわる椅子は、
小さくて堅い。


しかし、
どちらも古いことには変わりはなかった。


七人の若い検事と、

七人の容疑者とが問答していた。
ひとりの年輩の検事が、
後ろ手を組みながらその部屋をゆっくりと步きまわっている。
時々、
立ちどまっては、
ある組の問答に耳を傾け、
微笑して步きだす。


小野木の前にすわっている男は、
柴木一郎《しばきいちろう》という名であった。
それは机の上の書類の全部に出ている。
ことに身上取調書には詳しい。


本籍地は岐阜《ぎふ》県R郡R村である。
無職。
東京へ出てから二週間目に、
ここにくるような犯罪をおかした。


犯罪名は強盗傷害で、
これも所轄署から出ている意見書や捜査報告書などに詳しいのである。


小野木は、
今までにそれを何回となくくりかえして読んで熟知している。


容疑者は、
よれよれのワイシャツを着て、
垢で黒い襟を見せていた。


「経歴は?」
と、

小野木はきいた。
書類を見れば問うまでもないことだったが、
検事の尋問として必要なのだ柴木一郎は、
低い声でそれに答えた、
滋賀《しが》県のある工場の工員となっていたが、
整理されて職を失った。
そのとき、
下宿していた家の下田美代《しもだみよ》といっしょに上京し、
亀戸《かめいど》にある彼女の実家に、
二週間ばかり厄介《やつかい》になっていた。


低いが、
わりに、
はきはきした言い方であった、
「東京へ来てから、
いろいろと就職口も探してみましたが、
適当な仕事がなく、
遊んでおりましたので、
金にも困り、
つい、
悪いことをするようになりました」

「おまえは東京に来てから仕事がなかったというが」

小野木は言った。


「肉体労働をするつもりなら、
仕事があったのではないか?」

「二、
三日、
ニコヨンに出ましたが、
朝早く晚おそいうえに、
仕事にアブレることが多く、
もっと安定した事務的な仕事をしたいと思っていたため、
就職口がなかったのです」

小野木は、
このとき出刃包丁を出してみせた。
それには荷札のようなものがついており、
「証第二号」と記してあった。


「おまえは、
悪いことをするつもりで、
この出刃包丁を買ったのではないか」

容疑者柴木一郎は、
ちらりとその包丁に視線を走らせた。
陽射しが顔の上半分に当たっていないので、
陰のところから目がきらりと光った。


「いえ、
それは下田美代が、
包丁が切れなくなったと言ったので、
今年四月に浅草《あさくさ》の夜店で買ってやったものであります」

「では、
被疑事実についてたずねるがね」

小野木は書類に目を落として言った。


「本年四月十七日午後十時ごろに、
江東《こうとう》区|高橋《たかばし》×ノ××番地付近の路上で、
岸井輝夫《きしいてるお》を脅《おど》して、
金品を奪ったことに相違ないか」

「違いありません」

柴木は、
頭を垂れて答えた。


「その時の模様を言ってみたまえ」

「美代の実家に厄介になりましても、
少ない退職金はつかいはたすし、
懐中には金が七、
八十円くらいしかありませんでしたので、
他人から金を奪おうという気になり、
脅すために、
お示しの出刃包丁を、
上着の内側にかくして、
午後八時半ごろ家を出たのですが、
べつだん、
どこという目的もないので、
とにかく高橋のあたりをうろついておりました」

柴木は乾いた唇を、
舌でなめて言った。


「すると、

あとで名前が分かったのですが、
その岸井輝夫さんが、
一人で步いていましたし、
服装もそう悪くないので、
この男を脅かして金を出させようと思い、
あとをつけたのですが、
初めてのことですから、
何回もやろうとしては躊躇《ちゆうちよ》し、
小学校裏のわりに暗いところで、
私は左手で、
その男の腕をつかみ、
右手で出刃包丁を出して突きつけたのであります」

「それからどうしたか」

小野木は、
書類を見て先をうながした、
「出刃包丁を突きつけて、
金をくれ、
と言いますと、

相手は百円札六、
七枚を出して私にくれました。
私はなおもその男から金を奪おうと思い、
財布《さいふ》とも出せ、
というと、

その男は黙ってがまぐちを出したので、
それを受けとると大急ぎで、
住吉町《すみよしちよう》から電車に乗り、
帰宅したのです。
帰って調べると、

千円札が一枚はいっておりました」

「取ったがまぐちはこれか」

小野木は「証第五号」と名札のついたがまぐちを出して見せた。


「そうです」

柴木一郎は、
また、
ちょっと視線を走らせてうなずいた。


「次は、
同月十九日、
品川《しながわ》区北品川×ノ××番地付近の路上で、
行商人|中田吉平《なかたよしへい》から金品を強奪しようとしたことに相違ないかね」

小野木は書類をめくり、
ざっと目を通して頭を上げた。


「相違ありません」

柴木は、
こっくりとうなずいた。
どこか子供のようなうなずき方であった。


小野木は、
自分より二つ年上のこの容疑者が、
ひどく素直な性格に思われた。


「では、
そのときの模様を言ってみたまえ」

「ただいま言いましたとおり、
岸井さんを脅かして千七百円を奪《と》りましたが、
美代の出産費用のこともあり、
また金を奪ろうと思い、
今度は国電に乗って品川駅に行きました。
駅前をうろうろしていると、

荷物を背負った男が、
旅館を探しているらしいので、
おっさん、
宿のいいところを世話してやろうか、
と言うと、

世話してくれ、
と私についてきたので、
暗い道につれこみ、
金をくれ、
と言うと、

その男は、
むちゃを言うな、
おまえ、
客引きなら、
金は旅館に行ってからやる、
と言いましたので、
オーバーのかくしから出刃包丁を出し、
金を出さねばこれだぞ、
と言いながら右手をふりあげたのであります。
すると、

相手の男は、
わあ、
と大きな声を出し、
逃げようとして、
下水の溝《みぞ》に足でも突っこんだらしく、
私は騒がれて人が来てはたいへんだと思い、
そのまま先の方へ走って逃げていったのです」

「そのとき使った出刃包丁は、
これか」

小野木は、
また「証第二号」の出刃包丁を見せた。


「そうです」

容疑者はうなずいた。


「相手の男、
つまり中田吉平は、
このような怪我《けが》をしたということだが、
どうか」

小野木は、
医師の診断書をよんで聞かせた。


「私は出刃で脅すつもりでふりあげただけですが、
そのときに傷ついたものであろうと思います」

容疑者は小さな声で答えた。


「このハンカチは何か」

小野木は「証第三号」とついた、
うすよごれたハンカチを出した。


「そのハンカチは私のもので、
出刃をふりあげたとき、
私の顔の右の鬢《びん》あたりが痛いような気がしたので、
手をやってみると、

血がつきましたので、
そのハンカチで拭《ふ》いたのです。
その傷は、
ほんの少しでした」

「おまえの血液型は何か、
知っているか」

「O型です」

「この出刃包丁で、
ほかに人を脅して金を奪《と》ったことはないか」

「ありません」

このとき、
先輩検事の石井《いしい》が、
すこし離れたところで、
じっとこちらを見ているのを小野木は知った。


彼は書類を見た。


「おまえと下田美代との関係はどうなんだね」

小野木は、
さっきから言うはずの尋問を最後にした。
最後にしなければならぬ理由が彼にだけあった。


「はい、
下田美代は」

と言いかけたとき、
二十九歳の容疑者の顔がやや上向きになり、
声まで弾んできたようだった。


「美代は、
下田武夫《しもだたけお》の妻で、
当年三十七歳になります。
夫婦の間には十二歳を頭《かしら》に三人の子供までありますが、
美代の話では夫と仲が悪く、
いつも別れ話が出ていたそうです。
そうして夫武夫は、
九州のほうの会社に転勤になったまま、
妻子を呼ぼうとはせず、
向こうで愛人ができて、
同棲しているということでした。
そんなわけで、
美代は夫とも仲が悪く、
別れる気持でいましたので、
昨年夏ごろから、
私との間に、
どちらから言いだしたともなく、
情交関係を生ずるようになったのであります」

柴木一郎は、
しごく明るい顔になっていた。
小野木の表情のほうが暗かった。


「そうすると、

おまえは」

小野木は、
一度、
息を吸いこんで言った。


「夫のある女と、

そういう関係になったのだね。
それに対して、
悪いとは思わなかったか」

「思ったことはありません」

柴木一郎は即答した。


「ほう、
どうしてだね」

「美代を不幸にした男ですから、
それに対して、
悪い、
という気持は起こりませんでした」

小野木は、
うむ、
と言って、
何か言おうとしたが、
すぐに言葉にならなかった。
言いかえしたいことはいっぱいあるのだが、
当面は言い負かされたかたちだった。


「ところが、
私が失職してから」

柴木のほうから話しだした。


「美代が妊娠三カ月であるということを初めて聞かされました。
私も責任をとらねばならぬと思い、
美代と同棲する気になりました」

「夫のほうはどうするつもりだったのか」

小野木は容疑者の顔をじっと見た。
自分では分からなかったが、
その目が急に険《けわ》しくなってみえたのか、
容疑者の柴木が怪訝《けげん》な顔をした、
「それは、
美代が夫と別れると申していましたから、
その意志に任せました」

「美代とは、
そのような関係ができた当初から、
夫婦になる気はなかったのかね」

「年齢がちがうので、
夫婦になるという気はなかったのですが、
妊娠したことを知ったので、
それで一緒になる決心をしたのであります」

「美代の両親は、
美代が妊娠していることを知っているか」

「実家の者には妊娠の事実をかくしておりました。
しかし、
次第にお腹も大きくなり、
隠しきれぬことにもなり、
なんとしてでも、
私が美代をひき取って同棲せねばならぬことになりました」

「おまえは、
当初、
美代と関係を結んだとき、
夫婦になる意志はなかったといっているが、
結婚するつもりになったのは、
美代が、
妊娠したためか」

「そうです。
それは私の責任であります」

責任であります、
と言ったとき、
柴木一郎は何かをこらえるように口を一文字に結んだ。


「その場合、
美代の夫が、
夫婦別れを承知しなかったら、
どうするつもりだったか」

「夫婦別れをしなくても、
同棲するつもりでした。
生まれる子は、
私の子に相違ありませんから、
美代の亭主も別れないはずはありませんが、
もし別れないときでも、
離婚まで待って結婚するつもりでした」

小野木は、
このとき先輩の石井検事が、
五、
六步の距離に立ちどまって、
耳を傾けているのを知った。


小野木をふくめて、
ここにいる七人の新任検事は、
司法研修所をこの春終えたばかりであった。


司法研修所というのは、
判事、
検事、
弁護士を国で養成するところで、
二年の課程を必要とする。


修習生たちは、
裁判所、
検察庁、
弁護士会と回り、
最後にまた研修所に帰ってくる。
いわば、
医者のインターンのようなものである。
検察庁では、
実際に容疑者の取調べに当たるのだが、
そのときは先輩検事が教官となって補導してくれる。


その期間が終わり、
検事の任命をうけても、
当分の間、
その地検に配属された新任検事は一堂に集まって、
比較的簡単な事件から受け持たされるのである、
先輩検事は、
やはり見まもってくれ、
相談に乗ってくれるが、
刑量の決定については容喙《ようかい》できないことになっている。
つまり、
研修所時代とは違い、
その点が一人前になったわけである。


が、
先輩検事がつきそっているところは、
まだ、
研修所の気分であった。


小野木は、
猫背の石井検事が、
手を後ろに組んで近くに立ちどまっているのを意識しながら、
目の前の容疑者の柴木一郎に次の尋問をした。


「犯罪の動機は美代と関係があるのか」

「はい」

容疑者は、
ここで辛いというような表情をして、
頭を前に垂れた。


「そんなわけで、
美代を実家からひきとって同棲せねばならぬことになりましたので、
そのためには世帯道具も整えねばならず、
また生活費にも困りましたけれど、
依然仕事がありませんでしたから、
金を得るには、
悪いことをするよりほかに方法もなく、
ついに今回の罪をおかすようになったのであります」

「美代は、
今度のおまえの犯罪が、
自分のことから起こったので、
夫の武夫とも別れ、
また、
生んだ子はおまえにも迷惑をかけないで、
自分の手で育ててゆくつもりだ、
と言っているが、
これについて、
おまえはどう思うか」

柴木一郎は、
うつむいたまま黙っていた。
見ると、

涙を膝に落としていた。


落ちるときの水滴は陽にきらりと光った。


事務員が入口に現われ、
靴音をしのばせて小野木の横に来た。


「小野木検事殿、
お電話です。
葛西《かさい》さんとおっしゃるかたからです」

小野木は、
うなずいて、
ありがとう、
すぐ行く、
という意味を返した。
それから、
ゆっくりと步いて部屋を出ていった。


電話機は事務室にある。
書記が机に向かって謄写原紙を切ったり、
書類を書いたりしていた。


「もしもし」

小野木がはずされていた送受器を握って耳に当てると、

「小野木さん?」
と、

結城頼子の声が呼びかけてきた。


小野木は、
柴木一郎を取り調べているときから、
頼子が頭の中に密着していた。
それで、
いま彼女の声を聞くのが、
しごく当然のように思えた。


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