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03暗 い 窓


「小野木さん?」
と、

呼びかけた結城頼子の声の後ろには、
かすかに自動車のクラクションが聞こえていた。
小野木喬夫は、
それで頼子が、
どこかの街角《まちかど》で電話をかけているのだと知った。


「昨日はご迷惑でした」

頼子の声には、
小野木が聞いて、
特有の潤《うるお》いがあった。
低い声を出すときに、
とくにそれがひびいた。


「いえ、
失礼しました」

近くには書記が書類を書いていたし、
一心にガリ版を切っているものもいた。
この事務室に話し声はなかった。


「お仕事でしょう?」

頼子はきいた。


「はあ」

「たいへんね」

頼子は短く切って、
「ちょっと、

お声が聞きたかったのです。
いまどこにいるかご存知?」

「知りません」

「あなたの、
つい、
近くですわ」

「近く? 近くって、
どこです?」

「田村町《たむらちよう》ですわ」

頼子は答えた。


「そうね、
そこから步いていらして三分ぐらい」

「………」

「でも、
だめよ。
わたし、
すぐここから離れますから。
今日は、
運転手が横に車をとめて待ってるんです」

「………」

「もしもし、
分かります?」

「はい、
分かります」

「これからある場所に行くのですが、
あなたの近くだから降りて電話したのです。
べつに用事はありません。
昨日のお礼を言いたかったのです。
いいところへ連れていっていただきましたわ」

深大寺のことだった。
小野木の目にも、
緑色の木立の中に步いている頼子の姿が浮かんだ。
蕗《ふき》が生えている陰に、
暗い湧き水が朽葉《くちば》の積んだ下を流れている場所だった。


「それだけよ。
では、
切ります」

「もしもし」

小野木は、
送受器を握った手に力を人れた。


「今度は……」
と、

彼は言った。


「いつ、
電話をくださいますか?」

会ってくれるか、
とききたいのだったが、
それは言えなかった。


「そうね」

声が切れている間、
電車の音が送受器を通過した。


「近いうちにします。
では、
さよなら、
お元気でね」

「失礼しました」

小野木は仕方なしに言った。
送受器を置かない前に、
ことりと切れる音がした。


電話は、
いつも頼子からかけてきた。
こちらからかけることは不可能だった。
それは彼女の置かれている立場に遠慮しているからではなく、
彼女がその電話の番号を教えなかったからだ。


結城頼子は電話だけでなく、
その家も教えなかった。
彼女の家が漠然と渋谷《しぶや》ではないか、
と考える理由が小野木にはある。
が、
彼女との交渉が半年以上つづいた今でも、
家の所在地を彼に教えることを頼子は、
はっきりと断わった。


だから、
電話は常に頼子からかかってきた。
小野木がかけたくても、
その方法がない。
一方交通だった。


小野木は、
頼子にたびたびそれを責めた。


そのうちね、
と頼子はなだめるように言った。
そのときの頼子の頬が水のように寂しいので、
彼は、
いつも、
その説得に負けた。
しかし、
後悔するのだ。
頼子に無性に会いたいとき、
いらだつだけであった。


小野木は、
これまで何度、
電話帳をくったことであろう。
結城の姓を探し、
渋谷の局番に一致する番号を拾った。
それは、
八つあった。
しかし、
八つの番号にかけてみたが、
ことごとく違っていた。


頼子が夫の姓と違った実家の名前を言っているのかも分からないし、
疑えば偽名かも分からなかった。
小野木は一度だけそれを頼子にきいたことがある。


「そんなこと、

お知りになる必要はありませんわ」

頼子はそのとき言った。


「わたしは結城頼子よ。
あなたは結城頼子というわたしを信じてくださればいいの。
わたしにまつわっている係累《けいるい》のいっさい、
環境は、
あなたには関係ないことですわ。
小野木さん、
わたしという女だけを見つめてくださればよろしいの。
あなたは、
わたしの家族のことを知る必要はありませんわ」

自席にかえると、

柴木一郎が行儀よくすわって待っていた、
小野木が椅子につくと、

容疑者は、
じろりと下からうかがうように見た。


小野木は書類を重ねた。


「柴木」
と、

彼はうなだれている相手に言った。


「だいたいの調べはすんだ。
今日は、
これで帰っていいよ」

「はい、
ありがとうございました」

容疑者は丁寧に頭を下げた。
それから、
すこし怪訝《けげん》そうに小野木の顔をちらりと見た。
小野木の表情に今までとは違ったものを敏感によみとったかもしれなかった。


巡査が来て、
柴木をつれて去った。
その後ろ姿を見ながら、
小野木は刑量のことをなんとなく考えていた。
回ってきている次の書類を見ると、

デパートを常習的に荒らしている万引女だった。
時計を見ると、

十二時を過ぎていたので、
食事に立った。


サンドウィッチの注文を給仕に頼んで会議室に行くと、

コの字型にならんだ机の端の方で、
同期の加藤《かとう》検事がライスカレーを食べていた。


「やあ、
お疲れさん」

加藤は自分の横の椅子をさした。


「今かい?」
と、

昼食のことをきいた。


「ああ」

小野木はそこに腰かけた。


「疲れるね。
元気がないようだが、
何人も調べたのかい?」

加藤はスプーンを口に運びながら小野木の方を向いた。


「いや、
一人だけだったけれど」

「むずかしい事件だったのかね?」

「強盗傷害だ。
女のために生活費がほしくて、
路上で出刃包丁を振るったというのだが」

「その女は、
水商売か何かの女かい?」

加藤検事は、
黄色い飯をつっついていた。


「そうじゃない。
地方にいて、
下宿のおかみさんと仲よくなり、
東京に来たが、
職がなかったというのだ」

「ふうん」

加藤は、
また小野木の顔を見た。


「女の亭主はどうした? 追いかけてはこなかったのかい?」

「いや、
亭主にも女がいたのだ。
ほとんど家には寄りつかなかったらしい。


それで、
いっしょに逃げてきたようなものだ」

給仕がサンドウィッチと紅茶を運んできた。
小野木はそれをつまみながら、
ふと、

結城頼子も今ごろ、
どこかのレストランで食事をしているのではないかと思った。
一人でしているのであろうか。
しかし、
一人以外には考えたくなかった。


「ぼくが調べたのは」

加藤が言った。


「亭主が、
ほかの男と仲よくなった女房を棍棒《こんぼう》でなぐった事件だがね。
田舎だ」

小野木はサンドウィッチに向かっていた。


「三週間の傷を負わせている。
本人は、
女房を叩《たた》きのめすつもりでやったのだが、
それで死ねば死んでもいいと思った、
と言っている。
殺意があったか、
なかったか、
この辺が微妙なところだがね。
送致書には、
殺意を認めているんだ」

加藤は皿をきれいにして手を拭《ふ》いた。


「おもしろい。
勉強になるよ」
と、

彼は煙草をとりだしながら言った。


「女房のほうも尋問したがね、
これは亭主と別れると言っている。
いや、
ひどい目にあわされたから怖《こわ》いという理由だけで、
他の男と仲よくなった事実は認めないのだ。
警察から否認のしどおしだがね」

加藤検事は興にのって、
そのことを話したそうにしていた。


もし、
このとき事務員がはいってきて、
上司が呼んでいることを告げなかったら、
彼の話はさらにつづいていたかもしれない。


「きみ」
と、

椅子を立つとき、
加藤は小野木の肩をたたいた。


「帰りには、
ビールでものまないか」

「そうだな。
しかし、
今日は失敬しよう」

「いやに元気がないね。
どうしたのだ?」

「疲れたのかもしれない」

「そりゃいけない。
じゃ、
また、
田舎にでも出かけてみるんだな」

加藤は、
小野木の趣味を知っていた。


小野木はサンドウィッチを食べおわった。
紅茶をのみながら、
ふと、

気づくと、

厚い本が一冊、
机の上に残っていた。
加藤がすわっていたところだから、
彼が忘れたものらしい。


小野木は、
なんとなくそれをひき寄せてみた。
古い判例集だった。
加藤検事は勉強家だから、
始終、
このようなものを読んでいるらしかった。


本の間には、
加藤が入れたらしい付箋《ふせん》がはさまっている。
小野木はそこを開いた。


その「判決原本」は明治二十四年だから古いものだった。
小野木はそれを読んだ。


「右の者に対する故殺《こさつ》被告事件審理を遂げしところ、
富田勘次郎《とみたかんじろう》は明治二十三年十一月以来、
滋賀県××郡××村、
小杉与兵衛《こすぎよへえ》次女サトと婚姻《こんいん》せしに、
サトは明治二十四年三月中より、
川村金吉《かわむらかねきち》なるものと通じおることを推知するも、
強《し》いてこれを咎《とが》めず、
そのまま黙許しありしところ、
その頃、
横浜に居住するものの由にて、
氏名|不詳《ふしよう》男子、
しばしばサトを訪ね来たりしより、
被告はサトに対し、
如何《いか》なる関係のものなるやを尋ねしに、
サトは甥《おい》なる旨を答うるも、
被告はこれを信ぜず、
強いて事実を詰問したるに、
かく疑わる上は死して潔白を示さんとて、
すでに出刃包丁をもって自殺せんとせしにより、
これを止めたるも、
被告の疑念は一層加わり、
明治二十四年四月三日夜、
被告においては、
サト不在中帰宅せし折、
右男子、
サトを尋ね来たりしにより、
家内に入るべき旨申し聞かせ引きとめるも、
右の者、
逃げるが如く立ち去れり……」

小野木は、
煙草をすった。
煙が紙の上をもつれてはっている。
目は、
いやでも、
その先を読まないと承知できなかった。
不安な文字である。


「被告は立ち去りたる右の男子のあとを、
ひそかにつけ行き、
車屋某方へ立寄りたるを認め、
右車屋方にいたり、
該《がい》男子の氏名住所を尋ね、
かつ、
右男子とサトと私通の周旋《しゆうせん》をなしたることあるやを問いたるに、
車屋は住所などは存ぜず、
かつ、
私通の周旋などは致《いた》さざる旨、
答うるにつき、
爾来《じらい》、
面会の世話等はいたさざるよう断わりおき、
帰宅せしに、
該夜、
十一時にいたり、
サトは知人と同道、
寄席《よせ》より帰り来たりしにつき、
一応、
横浜より来たりし某の儀申し出たるもサトは依然、
甥なる旨答えおりたり。
しかるにサトが、
甥と称するものは、
その実、
情夫にして、
サトは執心これを慕いおることは、
最早、
掩《おお》うべからざる事実なるに、
あくまでこれを隠蔽《いんぺい》するは甚《はなは》だ嫉《ねた》むべきことと思惟《しい》し、
サトに対し、
その不道義を責問するに、
このとき初めて坂本喜太郎《さかもときたろう》なる旨、
氏名を申し明かす。
なお、
その住所は押し包みおるのみならず、
いたずらに疑いを受くるなれば死するほう勝《まさ》れるにつき、
殺すべき旨|傲然《ごうぜん》申し答え、
さらに事実を吐露《とろ》せざるにより、
被告はここにおいて、
怒心にわかに発し、
自ら押えること能わず、
むしろサトを殺すべしとの意志を生じ、
翌四日午前二時頃、
かねて隣室の箪笥《たんす》の下にしまい置きたる鰻截《うなぎさき》包丁を持ち来たり、
サトが横臥せる傍より、
俄然その咽喉部を刺し貫き、
左右|頸動静脈《けいどうじようみやく》気管を切断し、
なお、
外《ほか》数カ所に傷を負わせ、
ついに殺害したり。


これを法律に照らすに、
刑法第二百九十四条にあたり論ずべきものとす。


右の理由なるをもって、
被告人富田勘次郎を死刑に処す。


明治二十四年十月三十一日、
東京地方裁判所において検事|阿南尚《あなみひさし》立会第一審の判決を言い渡すものなり」

小野木は厚い本を閉じた。
付箋の赤い色がページの間からはみだしている。


同期の検事はおそらく、
いま自分が手がけている事件と相似しているので、
栞《しおり》がわりに付箋をはさんだのであろう。


小野木は、
長いこと煙草をすった。
目が暗くなった。
食事をしていたほかの検事たちは、
誰もいなくなった。
窓から薄ら陽が射している。
隣の建物が高いので、
ここにはわずかな陽しか洩れてこなかった。


靴音が、
廊下から聞こえてきた。


目をあげると、

石井検事が猫背を、
戸口からゆっくりと現わした。
顔がうす暗いので、
眼鏡だけが光っていた。


小野木は、
はっ、
となっておじぎをした。


「あ、
小野木検事」

石井検事は、
小野木の傍に寄ってきた。


「食事だったのか?」
と、

先輩検事はきいた。


「いえ、
もうすみました。
これから部屋に帰るところです」

小野木が言うと、

「きみ」
と、

石井はとめた、
「さっき、
きみがやっていた強盗傷害の尋問だが」

「はあ」

「あれは、
よかったよ。
ぼくは、
ちょっと聞いていたがね」

「はあ」

小野木は頭をさげた。
石井検事が、
あのとき、
横に立って聞いていたのは知っていた。


「いずれ」
と、

小野木は言った。


「論告の草案のときは、
なにかと教えていただきます」

「いいよ」

石井は答えた。


小野木は部屋へ帰る廊下を步いた。
先輩からほめられたが、
そのことは実感がこなかった。
あたりが暗くて仕方がなかった。


しかし、
その暗い中に、
結城頼子の声が、
もう一度無性に聞きたくてならなかった。


役所が退《ひ》けてから、
小野木はひとり日比谷《ひびや》公園の横を通って、
銀座の方へ步いた。
すぐにバスに乗って帰る気になれない。
步きながら、
いろいろなことを考えてみたかった。



夜、
アパートで、
小野木喬夫は日記をつけた。


「頼子より電話。
役所」

最後の部分は、
いちばん簡単である。
ただ、
心覚えというだけの文字であった。


昨日のところは、
こう書いている。


「頼子と深大寺に行く。
諏訪で会った若い女性と偶然に出会う。
深大寺より多摩川へ回る」

ほかのことは、
かなり詳しく書いたが、
頼子の名前の出る部分はどこも短かった。


小野木は煙草をすいながら、
前のほうを繰って見ている。
ひとり住まいだから、
しんとしたものだった。
どこかの部屋で、
ラジオがニュースの終わりとして、
プロ野球の結果を知らせている。


「頼子と向島《むこうじま》を步く」

「頼子よりアパートに電話」

「頼子と夜の海を見にゆく」

二日おきのときもあるし、
十日もはなれていることもあった。


このような簡略な文字になったのは、
いつごろからであろう。
以前はもっと詳しかったし、
感情も書き入れてあった。
簡素になったころから、
一つの意味が発生している。
そのことから文字が自由を失いはじめたのだった。


日記は勝手なつけ方だった。
帳簿のように厚いノートに書いているので、
去年のぶんまでいっしょについていた。


「×月×日。
天気だが、
風が寒い。
夕方からモスクワ芸術座を演舞場に見にゆく。
一週間前から手に入れた切符。
今日から〝桜の園□のかわりに〝どん底□上演。
──途中で出る」

この日から、
頼子が日記に顔を出している。


小野木がそのときにとった席は二階で、
かなり前の方だった。
客はぎっしり詰まっていて、
開演前に廊下を步いていても、
新聞などで顔を知っている文化人や、
新劇の俳優や、
はっきりそれと分かるジャーナリストのような人が多かった。


小野木は、
芝居がそれほど好きというわけではなかったが、
世界的に知られているモスクワ芸術座というものを見ておきたかったし、
以前に『どん底』を読んだことがあるので、
その本の活字からうけたイメージが舞台でどのように実際に目に組みたてられて映るか、
確かめたい興味があった。


開幕の前に、
ソ連にいる日本人の高名な女優の声が流れて、
ドラマの解説がはじまった。
レコードだったが、
それを聞いている観客席では、
あちこちで小さなささやきがはじまっていた。
長い間、
この女優はソ連にいるのだが、
日本語の音韻の美しさを十分に聞かせてくれた。
観客の静かなざわめきは、
そのことの驚愕《きようがく》と、

述懐《じゆつかい》がまじっていた。


小野木の左隣には、
黒っぽい洋装の婦人がすわっていたし、
右隣には髪の長い初老の紳士がいた。


その婦人の横顔が、
うす暗い照明のなかで美しいのは気づいていたが、
それ以上の注意は、
小野木にはなかった。
彼は、
それから始まった舞台を一心に見ていた。


舞台は陰惨な洞穴《ほらあな》のような地下室の木賃宿である。
ぼろ服をきた浮浪者がきたない寝台にごろごろしていた。
破れた服がたれさがったりするので、
観客席ではくすくすと笑いが起こっていた。
言葉は分からなかったが、
日本人には馴染《なじみ》深い劇なので、
新劇を見るように、
観客は、
舞台の進行といっしょに、
目に感情を動かしていた。


正面の左側にはカーテンが下がり、
死にそうな肺病女が寝ていた。
やがて、
袋を背負ったルカ老人が現われ、
絶望の止宿人にキリストの教えを説いている。


小野木は熱心に見入った。
舞台は、
彼が本から受けとったイメージを越えていた。
目をつむると、

彼以外には誰一人としていないように、
満員の観客席が静まりかえっていた。
みんな身じろぎもしていなかった。


いや、
ただ一人、
体を小さく動かしている者がいた。
それが小野木の左側にすわっている黒っぽい洋装の婦人だった。


舞台を見つめている目には、
左の端にちらちらと映るその婦人の動作が、
目ざわりでならなかった。
椅子に腰かけた彼女の体は、
ゆっくりだが、
左に傾いたり、
右にゆれたりした。
そして、
前にうつむいたりしているのである。


落ちつかない女性だと思った。
その落ちつかなさが、
彼の正面を凝視《ぎようし》している目まで撹乱《かくらん》するのである。


劇は進行していた。
喧嘩がはじまったり、
酔っ払いが出てきたりする。
木賃宿の主婦のワシリーサがその妹のナターシャに嫉妬《しつと》している。


このころから、
小野木は隣席の女性の動作が普通でないのに気づいた。


不躾《ぶしつけ》だから、
はっきりと横を向くのを遠慮していたのだが、
彼女は口にハンカチを当て、
目をとじて、
いかにも、
その場に耐えられないように身もだえしているのであった。


ただ、
彼女はその苦悶をできるだけ抑圧しているのだった。


小野木は隣の女性からしばらく目を放していた。
もう一度舞台にとけこみたい気持もあったが、
この女性に同伴者があることを考えたからだ。
彼女の左側には太った男がすわっていた。
小野木は、
それとなく様子をうかがったが、
太った男も、
時々気になるように、
彼女に目をやっているようだった。


だが、
声はかけなかったので、
その男が同伴者でないらしいとは見当がついた。


婦人はもう舞台の方を見ていなかった、
うつむいて口にハンカチをあてている。
相変わらず、
体をくねらせていた。
小野木は、
今度は、
はっきりと見た。
その婦人はハンカチの端を口の中に入れて噛《か》んでいるのだった。


見えないが、
汗も流しているように思えた。


小野木は、
思いきって、
婦人に低い声をかけた、
「ご気分でもお悪いのですか?」

婦人は返事をしなかった、
ハンカチは口からはなれず、
声もおさえているようだった。
顔を伏せたが、
それがうなずきのかわりにもとれた。


小野木はひそかにあたりを見回した。
劇場の案内係は一人も姿を見せていなかった。
観客のたくさんな顔が、
石のようにならんでいる。
それは一種の威圧であった。


おそらく、
この婦人は、
観客の迷惑を考えて、
途中から席を立つのをはばかったのであろう。
立つと彼女の姿勢は、
きっと普通の状態ではあるまい。


観客の注視からうける苦痛も、
彼女を椅子から立たせないに違いなかった。


舞台ではナターシャがカーテンの中をのぞいて肺病女の死んでいるのを発見し、
叫び声をあげる。
修理工の亭主が枕もとで慟哭《どうこく》する。
第二幕の終わりに近づいた高潮の場面であった。


さっきから早くカーテンがおりればいいと思っていた小野木は、
婦人の苦しみがひどくなってきたようなので一分も猶予ができない気がした。


彼女にささやいた。


「失礼ですが、
ひどくお苦しみのようですから、
廊下に出られたらいかがですか。
この劇場には、
たしか医務室があるはずです。
よろしかったら、
ぼくがそこまでお供をします」

婦人は、
小野木が思ったよりも素直にうなずいた。
それはよほど我慢ができなくなったからに違いなかった。
しんと静まりかえった小ゆるぎもしない周囲の観客たちの圧迫をはねかえすように、
小野木は勇気を出して椅子から立ち、
通路を步いた。


その婦人は、
後ろから影のように従ってついてきた。


廊下に出て、
はじめて小野木は婦人の顔を明るいところで見た。
すらりとして背の高いひとに違いなかったが、
姿勢はうつむき加減に傾いていた。
彫《ほ》りのふかい顔が蒼白《そうはく》になっていた。


小野木は、
「医務室がどこか、
きいてきます。
ここに休んでいてくださいますか」
と、

廊下に置いてある長椅子をさした。


「すみません」

婦人は初めてハンカチを口からはなして低い声で礼を言った。
それからクッションの上によりかかって斜めにかけたが、
その形態《フオーム》は自然な、
きれいな線になっていた。


小野木は向こうに立っている案内嬢のところに行った。


「急病人が出たんでね、
すぐに医務室に連れていってもらいたいのだが」

紺色の制服をきた若い娘は、
小野木の顔を大きな目で見て、
次に長椅子によっている女性を眺めた。


「あのかたですね?」

そうだ、
と言うと、

敏捷《びんしよう》な動作で急病人のところへ行った。


「医務室は地下になっております。
どうぞ」

案内嬢は、
婦人をたすけて步きながら、
小野木を振りかえって言った。
小野木を彼女の同伴者と思いこんでいる言い方だった。


小野木は、
それは違うのだ、
と言おうとしたが、
とっさにそれが口から出なかった。
ここまで連れてきたのだから、
医務室までついていかぬと徹底しないような気持になった。
あとで考えると、

小野木はそのときに、
もう結城頼子に惹《ひ》かれていたと言えそうだった。


案内嬢が彼女の腕を抱えるようにして地下室の階段をおりた。
小野木は、
すこし離れて従ったが、
医者に彼女を渡したら、
すぐに引きかえすつもりでいた。
遠くの方で長い拍手が聞こえてきた。


医務室には医者も看護婦もいなかった。


「先生をすぐにお呼びしてきますから、
しばらくお待ちください」

案内嬢は、
病人にではなく、
後ろからついてきた小野木に向かって言った。


医務室は狭かった。
診察机の横は、
上がり框《かまち》になっていて、
二畳ばかりの畳が敷いてあり、
隅に急患を寝かせる布団が折りたたんであった。


案内嬢は医者と看護婦を探しているらしく、
すぐには帰ってこなかった。


小野木は妙な立場で佇んでいる自分を知った。


「あの時は、
どうぞ観客席にお帰りください、
と言いたかったけれど、
苦しくて、
それも言えませんでしたの。
それに、
やっぱり、
あんなところで、
ひとりぼっちにされるのは心細かったわ」

あとになって頼子は、
そのときのことを言って小さく笑った。


しばらくして、
医者は看護婦といっしょに戻ってきた。
今まで舞台を見ていたらしかった。


「どうなすったんです?」

医者も小野木に向かって言った。


小野木は無関係の人間とは言えなくなった。
曖昧《あいまい》に、
「急に、
苦しい様子だったものですから」

と言った。
医者はそれで簡単に納得し、
そこの椅子によってハンカチを顔にあてている婦人に向かった。


「どこがお悪いのですか?」

小野木には聞こえなかったが、
婦人が小さく答えたので、
医者はうなずいた。


「胃痙攣《いけいれん》ですね。
では、
注射をしておきましょう」

と言い、
小野木の顔を見た。
医者も、
看護婦も、
案内の女の子も、
みんな頭から小野木を病人の同伴《つれ》だと思いこんでいるようだった。
──「あのとき、
どうしてお逃げにならなかったの?」
と、

やはりあとで、
頼子は小野木にきいたことだった。


「なんだか、
そのままにして帰ったら悪いような気がしたんです。
せめて、
車に乗せるまでは世話したかったのです」

小野木は、
そう答えた。


「ご親切なかただと思ったわ」

「こいつ、
不良じゃないかと警戒していたんじゃないですか?」

「ううん。
それはわたしが薄目をあけて、
小野木さんを観察していたから分かったの。
その区別はつくわ」

「ぼくが、
あなたの車に乗って、
お宅の近所にお送りします、
と言ったときは、
おどろきませんでしたか。
自分でもあとで、
その勇気にびっくりしたくらいです」

「いいえ。
あのときは、
自然にそうなったのね」

頼子は、
うまい表現をした。


実際、
そのときは自然にそうなったという以外には言い方がなかった。
小野木はタクシーの中に先にはいった頼子が、
まだ体を折って前にもたれているのが気になってならなかった。
彼女は注射が終わって、
医者が、
しばらくすると楽になるから、
ここに寝《やす》んでいるように、
という忠告を断わって、
タクシーで帰ると言いだしたのだ。
そういう場所に体をしばらくでも横たえたくない彼女の潔癖らしいものが、
傍に立っている小野木にもよく分かった。


タクシーに彼女がはいったとき、
運転手が当然、
小野木もつづいて乗りこむものと思い、
ドアをあけて彼を見ていた。
小野木には、
その運転手の顔も風采《ふうさい》もひどくガラが悪く見えた。
頼子は、
まだ、
ろくに口も利けないようにして、
前部のよりかかりに体を支えている。
夜だったし、
弱り疲れているきれいな婦人客をひとり乗せて走るこの運転手に、
小野木は危惧《きぐ》を突然に覚えたものだった。


とっさに決心して、
乗りこみ、
自分でドアを閉めた。


「ご近所までお送りします。
どこまでですか?」

小野木は顔を伏せている婦人にきいた。


「渋谷ですわ」

婦人は小さな声で答えた。


「渋谷」

小野木は、
獰猛《どうもう》な顔つきをしている運転手に言った。
──「あの時は、
わたしも運転手の顔をみて、
車を降りたくなったくらいでした」

やはり頼子はあとで述懐して言った。


「小野木さんが近くまで送ると言って傍におすわりになったとき、
内心ほっとしたの。
でも、
お気の毒だったわ。
せっかくのモスクワ芸術座を放棄されて……」

しかし、
意識のどこかに惹かれるものがなかったら、
彼も彼女の傍にすわらないだろうし、
彼女も拒絶したに違いなかった。


車は、
赤坂から青山《あおやま》を通り、
渋谷の賑やかな灯の見える坂を下った。


「渋谷はどの辺ですか」

小野木はうつむいている隣の婦人の様子を見まもりながらきいた。


「松濤《しようとう》です」

彼女は、
やや間《ま》をおいて答えた。


車は道玄《どうげん》坂をあがり、
環状線の出合いを右に曲がった。


「ありがとうございました。
ここで結構でございます」

婦人は顔を上げて言った。
車の交通は激しいが、
両側は塀の多い暗い邸町《やしきまち》だった。


「ほんとうにご迷惑をおかけしまして、
申しわけございません。
あの、
お名刺をお持ちでしたら、
不躾ですけれど、
ちょうだいできませんかしら?」

小野木は断わったが、
婦人が車を降りて步きだすころに渡した。
本当は、
このまま彼女との縁が切れるのを惜しむ気持だった。
名刺にはアパートの電話番号もはいっていた。


お宅の前までお送りします、
というのを彼女は強いくらいに辞退した。


小野木は、
車の内に戻るのを忘れて、
そこにしばらく立った。
彼女の姿が、
行き交う自動車のヘッドライトにときどき浮きだされながら、
夜の中に去ってゆくのを見送った。
そのとき吹いていた風の快い寒さを、
小野木はいまでも記憶している。



そのことがあって一週間ぐらい過ぎた。


小野木喬夫にとって、
あの夜の出来事は、
一つの行きずりにすぎない。
しかし、
彼はモスクワ芸術座の舞台を途中で放棄したことを、
それほど後悔はしなかった。
自分がすすんでそれをしたからだという意味ではない。
つまり、
彼女を世話して渋谷の夜の通りに置いてきたことに、
それだけの充実を感じていたと言えそうだった。
あのときの寒い風が頬に爽快《そうかい》だったようにである。


そのとき小野木はまだ司法修習生だった。
裁判所、
検察庁、
弁護士会と回り、
最後にふたたび司法研修所に戻ってきた、
いわば、
二年間の修業の最後の期間だったのだ。


小野木は、
なぜ自分が司法官を選び、
その中でも検事を選んだか、
特別に意義づけて考えたことはなかった。
しいていえば、
叔父に地方検事をつとめた者がおり、
田舎の実家の者がこの叔父を尊敬していたから、
同じ職業につくようすすめられたにすぎなかった。
それは多くの人間の職業が、
そのようなたいした理由もない結びつきで、
ほとんど成立するのと同じであった。


小野木は、
異常な熱意もなかったかわり、
あまり抵抗もなく、
この二年間の研修を終わりかけていた。


それほど熱心でなかったことは、
さして罪悪ではない。
異常な熱意に燃えてついた職業を、
中途から失望して投げすてるよりも、
少なくとも検事になることは、
自己の責任がもてる、
と彼は思っていた。


ただ、
研修所の教程となっている数々の判例集の中に塗りたくられているどろどろした人間臭や、
最後の課程にはいっての生きた人間の取調べの実習に感じる人間の業苦《ごうく》というものには、
時に神経が圧倒された。
小野木のような青二才にはとても太刀打ちできそうもない巨大な壁の厚みが、
犯罪というかたちで凝固《ぎようこ》しているように思えた。
それに手向かうのが『六法全書』という活字本なのである。
これを武器に人間業苦の集積を解決してゆくことの頼りなさに、
小野木は自信を失いそうになるのだ。


ほかの同僚たちも、
同じ懐疑《かいぎ》をもっているだろうか。
小野木はそっと自分の周囲を見渡してみることがある。
が、
無論、
表面のことだが、
その様子は見受けられなかった。


みんなが、
平気な顔で人間の地獄を条文によって裁断してゆこうといそしんでいるのだ。


たとえば同期生の加藤|喜介《きすけ》だ。
この検事志望者は、
はじめから検事を天職と考え、
一番の成績で研修所を卒業しようと、

なみなみならぬ勉強をしている。
研修所のテキスト以外の、
あらゆる広範な判例集を読破して頭にたたきこもうとしているのだ。
おそらく、
彼は、
ぎっしりと細かく活字で組まれた条文以上の絶対はないと信じているに違いない。
彼には、
小野木が感じるような懐疑も自信|喪失《そうしつ》もないであろう。


小野木は、
これまで、
ひどくやりきれなくなると、

地方の古代遺跡を步いてまわった。
中学校のとき、
考古学にひどく熱心な教師がいて、
貝塚や竪穴や横穴などの石器時代遺跡の発掘につれていかれたものだが、
いまごろになってそれにひかれたのは妙な具合だった。
とにかく、
人間関係のあまりに複雑な業苦ばかりを見せつけられると、

古代人の単純な生活の跡が、
いつのまにか彼の逃げ場所になってきた。
そのような習慣が、
そのころから始まっていた。
──あれは、
たしか頼子を最初に送って一週間ぐらいしてからだった。
もちろん、
頼子という名前はそのときはまだ知らなかった。
アパートに電話がかかってきたので出ると、

「この間はたいへんありがとうございました。
演舞場から渋谷までタクシーで送っていただいた者ですわ」
と、

女の声が聞こえたのには驚いた。


「お名刺をいただいたので、
それでお電話申しあげたのですわ。
失礼ではございませんでしたかしら」
と、

彼女の声は言った。


「いえ、
かえってぼくこそ失礼いたしました」

小野木はかなり狼狽《ろうばい》して答えた。
落ちついて考えると、

とりようによっては、
見ず知らずの婦人と同車した彼の行動こそ不躾だったのだ。


小野木は電話口で頬をあからめたのを覚えている。


「あの、
大へん失礼なんですが」
と、

ためらったような声で婦人はつづけた。


「次の土曜日の夕方六時から、
T会館のロビーでお待ち申しあげていますわ。


ぜひ、
ご夕食をご一緒したいと存じますので」

あっと思った。
返事にとまどっていると、

「ご都合よろしいんでございましょう?」
と、

おいかぶせるように言った。


「はあ、
それは……しかし」

「わたくし、
結城と申します。
フロントにそうお尋ねくださいまし。
フロントにそう申しつけておきますから」

それが、
彼女の姓を知った最初であった。


「あの時は、
おしつけがましい女だとお思いになったでしょう? だって、
そういう言い方をしなければ来ていただけないような気がしたんですもの」

あとで結城頼子は小野木に言ったことだった。


「いや、
そのように言われなくとも、
ぼくはおうかがいしたでしょうね」

小野木も答えた。


実際、
その時、
彼は断わらなかった。
のみならず、
土曜日になる二、
三日の間に、
ひどく間隔を感じたものだった。


小野木はそれまで恋愛の経験が一度はあった。
しかし、
それは彼にも相手のほうにも事情があって実らなかった。
その時、
待っている二、
三日の気持が、
その恋愛をしていた期間のある時期の意識に似かよっていたのは、
これもあとで気づいたことであった。


土曜日の夕方、
小野木は研修所が午前中までだったので、
早く支度をして出かけた。
T会館は豪華な洋式の宴会場として一流だったので、
小野木はそれだけの身支度をしていったつもりである。
同時に、
そのような場所を使っている相手の環境の高さも考えずにはおられなかった。


厚い緋絨毯《ひじゆうたん》をしいた、
金色に金具の光っている階段を上がると、

二階が広いロビーになっていた。
立派な緑色のクッションが贅沢《ぜいたく》な数で置きならべてある場所に出ると、

外人客が組になってすわっているのが目についた。
天井からは、
唐草《からくさ》の模様を絡《から》ませた大シャンデリアがつりさがっていた。


ここに小野木が来るまでに、
フロントでは丁重に、
承っております、
と柔らかい声でおじぎをされ、
ボーイを案内に立たせてくれる手数があった。


クッションの緑の波の間から一人の婦人が立ちあがった。
微笑してはいたが、
小野木はそれが自分に向けられている挨拶《あいさつ》とは知らなかった。
白っぽい地に黒い斑《ふ》が大胆に散っている和服で、
すらりと姿勢のいい着つけであった。


上背《うわぜい》があるから、
知らない者でも、
通りすぎてそっと目を向けるに違いないほどきわだっていた。


「お待ちしていました。
結城頼子でございます」

袂《たもと》を動かして、
その女性が小野木に真正面におじぎをしたとき、
彼は一瞬、
棒になり、
目がぼんやりした。


劇場の医務室に体を苦しそうに折っていた同じひとがここにいるとは思えなかった。
若々しいし、
呆れるほどきれいだった。


「よくいらしていただきましたわ。
お忙しいのに申しわけございません」

小野木をうろたえさせて、
そのひとは、
口もとにきれいな笑いを見せた。


劇場で最初に見たときもそうだったが、
いま見ても、
つぶらな目いっぱいに墨を滲《にじ》ませたように瞳が黒いのである。


少々、
気持が静まってから気づいたことだが、
あのときの洋装が和服に変わっているだけではなく、
髪のかたちまでちがっていたのである。
わずかに波打った髪が豊かにふくれ、
眉の上で小さく散っていた。


「あのときは、
どうしてあんな恰好で来たのです? 人が違ってみえましたよ」

あとで小野木がきいてみた。


「劇場で、
いやな自分の姿をお目にかけたでしょう? 恥ずかしかったのです。
そして、
残念でならなかったのですわ。
ですから、
小野木さんに、
ぜひ、
きれいにしたわたしの姿を見ていただきたかったのですわ。
女の気持って、
そういうものなのよ」

結城頼子は答えた。


「へえ、
では、
お礼のためにご馳走に呼んでくださっただけではなかったのですか?」

「もちろん、
それもありますわ」

頼子は力をこめて言った。


「あんなにご親切にしていただいたんですもの。
それはもちろんですわ。
でも、
そのついでに、
あの時にお目にかけただけがわたしでないことも、
訂正していただきたかったのですわ」

小野木には、
彼女のその気持が分かる気がした。


「それは、
女のひとの本能的な自己存在の主張ですか?」
と、

分かっていながら、
多少、
意地悪げな質問をした。


「小さな虚栄心でなかったことだけは、
申しあげておきますわ」

頼子は言った。


「そして、
あなたのおっしゃる本能的な自己存在の主張とやらも、
まったく無関心な異性に向かっては役に立たぬことですわ」

小野木はそれも理解できた。
女性は日ごろは臆病《おくびよう》なのだ。


興味のない異性には、
その面倒の起こることを恐れる。
結城頼子が、
もし彼に関心がなかったら、
夜の寒い風の吹く通りまで見送らせて、
そのまま消えてしまってもよかったのである。


その夜の食事は、
T会館に予約した小さな部屋でとった。
銀色のきゃしゃなシャンデリアの灯をガラスの壁で反射しあったような明るい贅沢な部屋であった。


「まあ、
検事さんですの?」

小野木が招待者に尋ねられるままに、
検事の卵です、
と言ったものだから、
結城頼子はきれいな黒い瞳《め》で彼を凝視したものだった。


「いまではありません。
正確には、
あと四カ月したらそう呼んでくださっても、
おかしくない人間になります」

頼子は、
そのことに興味を起こしてきいた。
小野木は研修所の仕組を詳しく説明させられる羽目になった。


「おめでとうございます。
あと四カ月ってじきでございますわ。
小野木さんは……」
と、

初めて小野木の名が、
頼子の唇から出た。


「きっと、

優秀な検事さんにおなりになるに違いありませんわ」

「いや、
そんなことはありません」

無理もないが、
頼子はそれを、
謙遜《けんそん》と取ったようだった。


「いいえ。
わたしはそう信じますわ」

結城頼子は自信をこめて言った。


小野木は時々起こるいつもの懐疑感にそのとき陥っていた。
が、
初めて会った頼子に、
もとよりその説明をする勇気はなかった。


それよりも、
この女性はいったいどのようなひとか、
と思った。
きれいだし、
化粧の方法もあかぬけていたから、
若くみえるけれど、
ほぼ自分と同じくらいの二十七、
八ではなかろうか。
彼女の落ちついた動作といい、
その着物の好みや着つけ具合といい、
年齢を匂わせ、
結婚を感じとらせていた。
それも贅沢な環境にいるひとなのである。


小野木は、
何度、
ご主人はどこかにお勤めですか、
と聞こうとしたかしれない。
が、
妻にこれだけの生活をさせる人だったら、
普通の勤め人ということはない。
少なくとも重役以上だったし、
商売としたら大きな資本をかけた事業主に違いなかった。
このことが、
小野木の質問する気持をおっくうにした。


一度、
言いそびれると、

妙に気持にひっかかって、
口に出しにくくなった。


それは、
頼子とその後も会うようになったのちまでも尾をひいた。


気がついたが、
頼子自身も、
けっして夫のことを言葉に上《のぼ》らせなかったのである。
それだけでなく、
自分がどのような生活環境を待っているか、
すすんで説明しようとはしなかった。
初対面のときならそれでもいい。


しかし、
二度目からはおかしなことに感じられるのである。


T会館での食事は、
一時間半ぐらいですんだ。
けっして、
長くもないが短くもない。
小野木はその時間を充実して過ごしたが、
どこかにものたりなさがあった。


それも色彩が空気のように逃げてゆきそうなむなしさである。


「今晚は、
ほんとうにたのしゅうございましたわ。
いろいろなことがお話しできて」

頼子はよく本を読んでいたし、
話題も豊富で、
控え目な批評が適切だった。


それらは彼女の知性の高さと感情の奥行を小野木に感じさせていた。
このひとと、

そのような話を交すことができたたのしさは、
むしろ小野木のほうかもしれなかった。


「また、
お目にかからせていただきとう存じますわ」

頼子は椅子をすべらせて立つときに言った。


ぼくもそれをお願いします、
と小野木は言った。
が、
それはあくまでも、
彼女の言葉を儀礼的なものとして受けとったうえでの挨拶であった。
それを、
そのまま期待するほど、
小野木は無節制ではなかった。


「あのときは、
あれきりかと思いました」

やはり、
あとで小野木は、
頼子にそのときの感想を言った。


「そう? それでは、
わたしが二度目のお電話をしたとき、
びっくりなさったわけね?」

「それは驚きました。
しかし……」

しかし、
それはうれしかったのだ。
アパートの受話器を切ったとき、
小野木には、
消失した色彩が掌《て》にもどったような気がした。


二度目は、
最初のときから、
十五日ぐらいはたっていた。
彼女の希望で、
日本料理の家で食事をしたいと言い、
赤坂辺の、
家にくらべて庭のひろい料亭の座敷で向かいあった。


白い髪をしているが、
上品なおかみが座敷に出てきて頼子に挨拶をした。


「ご機嫌よろしゅうございますか?」

おかみは手をついて、
艶《つや》のいい顔をにこにこさせていた。


「ありがとう」

頼子の今日の着物は変わっていた。
わざと目立たない工夫をしたように、
塩沢かなにかだった。


「おかみさんもいよいよ繁昌で結構ですわね」

おかみは当たらずさわらずの話を二、
三して退いた。
小野木は、
頼子がこの家で大事にされている客であるのを知った。


「もう先《せん》から、
ご飯を食べにきている家ですのよ。
今夜は、
小野木さんが優秀な検事さんにおなりになる前祝いでお呼びしましたわ」

頼子は会食の理由を言った。


「庭がとてもきれいなんです。
お降りになりません?」

料理の支度には、
わずかな間があった。
小野木は座敷の縁から庭下駄をはいた。
松の梢の上から照明がついていて、
庭は蒼白い風景になっていた。


小野木の前を案内して步く頼子の姿が、
美しい沈んだほの白さで見える。


冬の樹木と石が、
深い水の底のように濡れた明暗をつくっていた。


小野木が頼子を愛するはっきりした意識は、
このときから始まったかもしれない。


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