日語‎ > ‎特集‎ > ‎波の塔‎ > ‎

04暗 い 匂 い


「小野木さん?」
と、

呼びかけた結城頼子の声の後ろには、
かすかに自動車のクラクションが聞こえていた。
小野木喬夫は、
それで頼子が、
どこかの街角《まちかど》で電話をかけているのだと知った。


「昨日はご迷惑でした」

頼子の声には、
小野木が聞いて、
特有の潤《うるお》いがあった。
低い声を出すときに、
とくにそれがひびいた。


「いえ、
失礼しました」

近くには書記が書類を書いていたし、
一心にガリ版を切っているものもいた。
この事務室に話し声はなかった。


「お仕事でしょう?」

頼子はきいた。


「はあ」

「たいへんね」

頼子は短く切って、
「ちょっと、

お声が聞きたかったのです。
いまどこにいるかご存知?」

「知りません」

「あなたの、
つい、
近くですわ」

「近く? 近くって、
どこです?」

「田村町《たむらちよう》ですわ」

頼子は答えた。


「そうね、
そこから步いていらして三分ぐらい」

「………」

「でも、
だめよ。
わたし、
すぐここから離れますから。
今日は、
運転手が横に車をとめて待ってるんです」

「………」

「もしもし、
分かります?」

「はい、
分かります」

「これからある場所に行くのですが、
あなたの近くだから降りて電話したのです。
べつに用事はありません。
昨日のお礼を言いたかったのです。
いいところへ連れていっていただきましたわ」

深大寺のことだった。
小野木の目にも、
緑色の木立の中に步いている頼子の姿が浮かんだ。
蕗《ふき》が生えている陰に、
暗い湧き水が朽葉《くちば》の積んだ下を流れている場所だった。


「それだけよ。
では、
切ります」

「もしもし」

小野木は、
送受器を握った手に力を人れた。


「今度は……」
と、

彼は言った。


「いつ、
電話をくださいますか?」

会ってくれるか、
とききたいのだったが、
それは言えなかった。


「そうね」

声が切れている間、
電車の音が送受器を通過した。


「近いうちにします。
では、
さよなら、
お元気でね」

「失礼しました」

小野木は仕方なしに言った。
送受器を置かない前に、
ことりと切れる音がした。


電話は、
いつも頼子からかけてきた。
こちらからかけることは不可能だった。
それは彼女の置かれている立場に遠慮しているからではなく、
彼女がその電話の番号を教えなかったからだ。


結城頼子は電話だけでなく、
その家も教えなかった。
彼女の家が漠然と渋谷《しぶや》ではないか、
と考える理由が小野木にはある。
が、
彼女との交渉が半年以上つづいた今でも、
家の所在地を彼に教えることを頼子は、
はっきりと断わった。


だから、
電話は常に頼子からかかってきた。
小野木がかけたくても、
その方法がない。
一方交通だった。


小野木は、
頼子にたびたびそれを責めた。


そのうちね、
と頼子はなだめるように言った。
そのときの頼子の頬が水のように寂しいので、
彼は、
いつも、
その説得に負けた。
しかし、
後悔するのだ。
頼子に無性に会いたいとき、
いらだつだけであった。


小野木は、
これまで何度、
電話帳をくったことであろう。
結城の姓を探し、
渋谷の局番に一致する番号を拾った。
それは、
八つあった。
しかし、
八つの番号にかけてみたが、
ことごとく違っていた。


頼子が夫の姓と違った実家の名前を言っているのかも分からないし、
疑えば偽名かも分からなかった。
小野木は一度だけそれを頼子にきいたことがある。


「そんなこと、

お知りになる必要はありませんわ」

頼子はそのとき言った。


「わたしは結城頼子よ。
あなたは結城頼子というわたしを信じてくださればいいの。
わたしにまつわっている係累《けいるい》のいっさい、
環境は、
あなたには関係ないことですわ。
小野木さん、
わたしという女だけを見つめてくださればよろしいの。
あなたは、
わたしの家族のことを知る必要はありませんわ」

自席にかえると、

柴木一郎が行儀よくすわって待っていた、
小野木が椅子につくと、

容疑者は、
じろりと下からうかがうように見た。


小野木は書類を重ねた。


「柴木」
と、

彼はうなだれている相手に言った。


「だいたいの調べはすんだ。
今日は、
これで帰っていいよ」

「はい、
ありがとうございました」

容疑者は丁寧に頭を下げた。
それから、
すこし怪訝《けげん》そうに小野木の顔をちらりと見た。
小野木の表情に今までとは違ったものを敏感によみとったかもしれなかった。


巡査が来て、
柴木をつれて去った。
その後ろ姿を見ながら、
小野木は刑量のことをなんとなく考えていた。
回ってきている次の書類を見ると、

デパートを常習的に荒らしている万引女だった。
時計を見ると、

十二時を過ぎていたので、
食事に立った。


サンドウィッチの注文を給仕に頼んで会議室に行くと、

コの字型にならんだ机の端の方で、
同期の加藤《かとう》検事がライスカレーを食べていた。


「やあ、
お疲れさん」

加藤は自分の横の椅子をさした。


「今かい?」
と、

昼食のことをきいた。


「ああ」

小野木はそこに腰かけた。


「疲れるね。
元気がないようだが、
何人も調べたのかい?」

加藤はスプーンを口に運びながら小野木の方を向いた。


「いや、
一人だけだったけれど」

「むずかしい事件だったのかね?」

「強盗傷害だ。
女のために生活費がほしくて、
路上で出刃包丁を振るったというのだが」

「その女は、
水商売か何かの女かい?」

加藤検事は、
黄色い飯をつっついていた。


「そうじゃない。
地方にいて、
下宿のおかみさんと仲よくなり、
東京に来たが、
職がなかったというのだ」

「ふうん」

加藤は、
また小野木の顔を見た。


「女の亭主はどうした? 追いかけてはこなかったのかい?」

「いや、
亭主にも女がいたのだ。
ほとんど家には寄りつかなかったらしい。


それで、
いっしょに逃げてきたようなものだ」

給仕がサンドウィッチと紅茶を運んできた。
小野木はそれをつまみながら、
ふと、

結城頼子も今ごろ、
どこかのレストランで食事をしているのではないかと思った。
一人でしているのであろうか。
しかし、
一人以外には考えたくなかった。


「ぼくが調べたのは」

加藤が言った。


「亭主が、
ほかの男と仲よくなった女房を棍棒《こんぼう》でなぐった事件だがね。
田舎だ」

小野木はサンドウィッチに向かっていた。


「三週間の傷を負わせている。
本人は、
女房を叩《たた》きのめすつもりでやったのだが、
それで死ねば死んでもいいと思った、
と言っている。
殺意があったか、
なかったか、
この辺が微妙なところだがね。
送致書には、
殺意を認めているんだ」

加藤は皿をきれいにして手を拭《ふ》いた。


「おもしろい。
勉強になるよ」
と、

彼は煙草をとりだしながら言った。


「女房のほうも尋問したがね、
これは亭主と別れると言っている。
いや、
ひどい目にあわされたから怖《こわ》いという理由だけで、
他の男と仲よくなった事実は認めないのだ。
警察から否認のしどおしだがね」

加藤検事は興にのって、
そのことを話したそうにしていた。


もし、
このとき事務員がはいってきて、
上司が呼んでいることを告げなかったら、
彼の話はさらにつづいていたかもしれない。


「きみ」
と、

椅子を立つとき、
加藤は小野木の肩をたたいた。


「帰りには、
ビールでものまないか」

「そうだな。
しかし、
今日は失敬しよう」

「いやに元気がないね。
どうしたのだ?」

「疲れたのかもしれない」

「そりゃいけない。
じゃ、
また、
田舎にでも出かけてみるんだな」

加藤は、
小野木の趣味を知っていた。


小野木はサンドウィッチを食べおわった。
紅茶をのみながら、
ふと、

気づくと、

厚い本が一冊、
机の上に残っていた。
加藤がすわっていたところだから、
彼が忘れたものらしい。


小野木は、
なんとなくそれをひき寄せてみた。
古い判例集だった。
加藤検事は勉強家だから、
始終、
このようなものを読んでいるらしかった。


本の間には、
加藤が入れたらしい付箋《ふせん》がはさまっている。
小野木はそこを開いた。


その「判決原本」は明治二十四年だから古いものだった。
小野木はそれを読んだ。


「右の者に対する故殺《こさつ》被告事件審理を遂げしところ、
富田勘次郎《とみたかんじろう》は明治二十三年十一月以来、
滋賀県××郡××村、
小杉与兵衛《こすぎよへえ》次女サトと婚姻《こんいん》せしに、
サトは明治二十四年三月中より、
川村金吉《かわむらかねきち》なるものと通じおることを推知するも、
強《し》いてこれを咎《とが》めず、
そのまま黙許しありしところ、
その頃、
横浜に居住するものの由にて、
氏名|不詳《ふしよう》男子、
しばしばサトを訪ね来たりしより、
被告はサトに対し、
如何《いか》なる関係のものなるやを尋ねしに、
サトは甥《おい》なる旨を答うるも、
被告はこれを信ぜず、
強いて事実を詰問したるに、
かく疑わる上は死して潔白を示さんとて、
すでに出刃包丁をもって自殺せんとせしにより、
これを止めたるも、
被告の疑念は一層加わり、
明治二十四年四月三日夜、
被告においては、
サト不在中帰宅せし折、
右男子、
サトを尋ね来たりしにより、
家内に入るべき旨申し聞かせ引きとめるも、
右の者、
逃げるが如く立ち去れり……」

小野木は、
煙草をすった。
煙が紙の上をもつれてはっている。
目は、
いやでも、
その先を読まないと承知できなかった。
不安な文字である。


「被告は立ち去りたる右の男子のあとを、
ひそかにつけ行き、
車屋某方へ立寄りたるを認め、
右車屋方にいたり、
該《がい》男子の氏名住所を尋ね、
かつ、
右男子とサトと私通の周旋《しゆうせん》をなしたることあるやを問いたるに、
車屋は住所などは存ぜず、
かつ、
私通の周旋などは致《いた》さざる旨、
答うるにつき、
爾来《じらい》、
面会の世話等はいたさざるよう断わりおき、
帰宅せしに、
該夜、
十一時にいたり、
サトは知人と同道、
寄席《よせ》より帰り来たりしにつき、
一応、
横浜より来たりし某の儀申し出たるもサトは依然、
甥なる旨答えおりたり。
しかるにサトが、
甥と称するものは、
その実、
情夫にして、
サトは執心これを慕いおることは、
最早、
掩《おお》うべからざる事実なるに、
あくまでこれを隠蔽《いんぺい》するは甚《はなは》だ嫉《ねた》むべきことと思惟《しい》し、
サトに対し、
その不道義を責問するに、
このとき初めて坂本喜太郎《さかもときたろう》なる旨、
氏名を申し明かす。
なお、
その住所は押し包みおるのみならず、
いたずらに疑いを受くるなれば死するほう勝《まさ》れるにつき、
殺すべき旨|傲然《ごうぜん》申し答え、
さらに事実を吐露《とろ》せざるにより、
被告はここにおいて、
怒心にわかに発し、
自ら押えること能わず、
むしろサトを殺すべしとの意志を生じ、
翌四日午前二時頃、
かねて隣室の箪笥《たんす》の下にしまい置きたる鰻截《うなぎさき》包丁を持ち来たり、
サトが横臥せる傍より、
俄然その咽喉部を刺し貫き、
左右|頸動静脈《けいどうじようみやく》気管を切断し、
なお、
外《ほか》数カ所に傷を負わせ、
ついに殺害したり。


これを法律に照らすに、
刑法第二百九十四条にあたり論ずべきものとす。


右の理由なるをもって、
被告人富田勘次郎を死刑に処す。


明治二十四年十月三十一日、
東京地方裁判所において検事|阿南尚《あなみひさし》立会第一審の判決を言い渡すものなり」

小野木は厚い本を閉じた。
付箋の赤い色がページの間からはみだしている。


同期の検事はおそらく、
いま自分が手がけている事件と相似しているので、
栞《しおり》がわりに付箋をはさんだのであろう。


小野木は、
長いこと煙草をすった。
目が暗くなった。
食事をしていたほかの検事たちは、
誰もいなくなった。
窓から薄ら陽が射している。
隣の建物が高いので、
ここにはわずかな陽しか洩れてこなかった。


靴音が、
廊下から聞こえてきた。


目をあげると、

石井検事が猫背を、
戸口からゆっくりと現わした。
顔がうす暗いので、
眼鏡だけが光っていた。


小野木は、
はっ、
となっておじぎをした。


「あ、
小野木検事」

石井検事は、
小野木の傍に寄ってきた。


「食事だったのか?」
と、

先輩検事はきいた。


「いえ、
もうすみました。
これから部屋に帰るところです」

小野木が言うと、

「きみ」
と、

石井はとめた、
「さっき、
きみがやっていた強盗傷害の尋問だが」

「はあ」

「あれは、
よかったよ。
ぼくは、
ちょっと聞いていたがね」

「はあ」

小野木は頭をさげた。
石井検事が、
あのとき、
横に立って聞いていたのは知っていた。


「いずれ」
と、

小野木は言った。


「論告の草案のときは、
なにかと教えていただきます」

「いいよ」

石井は答えた。


小野木は部屋へ帰る廊下を步いた。
先輩からほめられたが、
そのことは実感がこなかった。
あたりが暗くて仕方がなかった。


しかし、
その暗い中に、
結城頼子の声が、
もう一度無性に聞きたくてならなかった。


役所が退《ひ》けてから、
小野木はひとり日比谷《ひびや》公園の横を通って、
銀座の方へ步いた。
すぐにバスに乗って帰る気になれない。
步きながら、
いろいろなことを考えてみたかった。



夜、
アパートで、
小野木喬夫は日記をつけた。


「頼子より電話。
役所」

最後の部分は、
いちばん簡単である。
ただ、
心覚えというだけの文字であった。


昨日のところは、
こう書いている。


「頼子と深大寺に行く。
諏訪で会った若い女性と偶然に出会う。
深大寺より多摩川へ回る」

ほかのことは、
かなり詳しく書いたが、
頼子の名前の出る部分はどこも短かった。


小野木は煙草をすいながら、
前のほうを繰って見ている。
ひとり住まいだから、
しんとしたものだった。
どこかの部屋で、
ラジオがニュースの終わりとして、
プロ野球の結果を知らせている。


「頼子と向島《むこうじま》を步く」

「頼子よりアパートに電話」

「頼子と夜の海を見にゆく」

二日おきのときもあるし、
十日もはなれていることもあった。


このような簡略な文字になったのは、
いつごろからであろう。
以前はもっと詳しかったし、
感情も書き入れてあった。
簡素になったころから、
一つの意味が発生している。
そのことから文字が自由を失いはじめたのだった。


日記は勝手なつけ方だった。
帳簿のように厚いノートに書いているので、
去年のぶんまでいっしょについていた。


「×月×日。
天気だが、
風が寒い。
夕方からモスクワ芸術座を演舞場に見にゆく。
一週間前から手に入れた切符。
今日から〝桜の園□のかわりに〝どん底□上演。
──途中で出る」

この日から、
頼子が日記に顔を出している。


小野木がそのときにとった席は二階で、
かなり前の方だった。
客はぎっしり詰まっていて、
開演前に廊下を步いていても、
新聞などで顔を知っている文化人や、
新劇の俳優や、
はっきりそれと分かるジャーナリストのような人が多かった。


小野木は、
芝居がそれほど好きというわけではなかったが、
世界的に知られているモスクワ芸術座というものを見ておきたかったし、
以前に『どん底』を読んだことがあるので、
その本の活字からうけたイメージが舞台でどのように実際に目に組みたてられて映るか、
確かめたい興味があった。


開幕の前に、
ソ連にいる日本人の高名な女優の声が流れて、
ドラマの解説がはじまった。
レコードだったが、
それを聞いている観客席では、
あちこちで小さなささやきがはじまっていた。
長い間、
この女優はソ連にいるのだが、
日本語の音韻の美しさを十分に聞かせてくれた。
観客の静かなざわめきは、
そのことの驚愕《きようがく》と、

述懐《じゆつかい》がまじっていた。


小野木の左隣には、
黒っぽい洋装の婦人がすわっていたし、
右隣には髪の長い初老の紳士がいた。


その婦人の横顔が、
うす暗い照明のなかで美しいのは気づいていたが、
それ以上の注意は、
小野木にはなかった。
彼は、
それから始まった舞台を一心に見ていた。


舞台は陰惨な洞穴《ほらあな》のような地下室の木賃宿である。
ぼろ服をきた浮浪者がきたない寝台にごろごろしていた。
破れた服がたれさがったりするので、
観客席ではくすくすと笑いが起こっていた。
言葉は分からなかったが、
日本人には馴染《なじみ》深い劇なので、
新劇を見るように、
観客は、
舞台の進行といっしょに、
目に感情を動かしていた。


正面の左側にはカーテンが下がり、
死にそうな肺病女が寝ていた。
やがて、
袋を背負ったルカ老人が現われ、
絶望の止宿人にキリストの教えを説いている。


小野木は熱心に見入った。
舞台は、
彼が本から受けとったイメージを越えていた。
目をつむると、

彼以外には誰一人としていないように、
満員の観客席が静まりかえっていた。
みんな身じろぎもしていなかった。


いや、
ただ一人、
体を小さく動かしている者がいた。
それが小野木の左側にすわっている黒っぽい洋装の婦人だった。


舞台を見つめている目には、
左の端にちらちらと映るその婦人の動作が、
目ざわりでならなかった。
椅子に腰かけた彼女の体は、
ゆっくりだが、
左に傾いたり、
右にゆれたりした。
そして、
前にうつむいたりしているのである。


落ちつかない女性だと思った。
その落ちつかなさが、
彼の正面を凝視《ぎようし》している目まで撹乱《かくらん》するのである。


劇は進行していた。
喧嘩がはじまったり、
酔っ払いが出てきたりする。
木賃宿の主婦のワシリーサがその妹のナターシャに嫉妬《しつと》している。


このころから、
小野木は隣席の女性の動作が普通でないのに気づいた。


不躾《ぶしつけ》だから、
はっきりと横を向くのを遠慮していたのだが、
彼女は口にハンカチを当て、
目をとじて、
いかにも、
その場に耐えられないように身もだえしているのであった。


ただ、
彼女はその苦悶をできるだけ抑圧しているのだった。


小野木は隣の女性からしばらく目を放していた。
もう一度舞台にとけこみたい気持もあったが、
この女性に同伴者があることを考えたからだ。
彼女の左側には太った男がすわっていた。
小野木は、
それとなく様子をうかがったが、
太った男も、
時々気になるように、
彼女に目をやっているようだった。


だが、
声はかけなかったので、
その男が同伴者でないらしいとは見当がついた。


婦人はもう舞台の方を見ていなかった、
うつむいて口にハンカチをあてている。
相変わらず、
体をくねらせていた。
小野木は、
今度は、
はっきりと見た。
その婦人はハンカチの端を口の中に入れて噛《か》んでいるのだった。


見えないが、
汗も流しているように思えた。


小野木は、
思いきって、
婦人に低い声をかけた、
「ご気分でもお悪いのですか?」

婦人は返事をしなかった、
ハンカチは口からはなれず、
声もおさえているようだった。
顔を伏せたが、
それがうなずきのかわりにもとれた。


小野木はひそかにあたりを見回した。
劇場の案内係は一人も姿を見せていなかった。
観客のたくさんな顔が、
石のようにならんでいる。
それは一種の威圧であった。


おそらく、
この婦人は、
観客の迷惑を考えて、
途中から席を立つのをはばかったのであろう。
立つと彼女の姿勢は、
きっと普通の状態ではあるまい。


観客の注視からうける苦痛も、
彼女を椅子から立たせないに違いなかった。


舞台ではナターシャがカーテンの中をのぞいて肺病女の死んでいるのを発見し、
叫び声をあげる。
修理工の亭主が枕もとで慟哭《どうこく》する。
第二幕の終わりに近づいた高潮の場面であった。


さっきから早くカーテンがおりればいいと思っていた小野木は、
婦人の苦しみがひどくなってきたようなので一分も猶予ができない気がした。


彼女にささやいた。


「失礼ですが、
ひどくお苦しみのようですから、
廊下に出られたらいかがですか。
この劇場には、
たしか医務室があるはずです。
よろしかったら、
ぼくがそこまでお供をします」

婦人は、
小野木が思ったよりも素直にうなずいた。
それはよほど我慢ができなくなったからに違いなかった。
しんと静まりかえった小ゆるぎもしない周囲の観客たちの圧迫をはねかえすように、
小野木は勇気を出して椅子から立ち、
通路を步いた。


その婦人は、
後ろから影のように従ってついてきた。


廊下に出て、
はじめて小野木は婦人の顔を明るいところで見た。
すらりとして背の高いひとに違いなかったが、
姿勢はうつむき加減に傾いていた。
彫《ほ》りのふかい顔が蒼白《そうはく》になっていた。


小野木は、
「医務室がどこか、
きいてきます。
ここに休んでいてくださいますか」
と、

廊下に置いてある長椅子をさした。


「すみません」

婦人は初めてハンカチを口からはなして低い声で礼を言った。
それからクッションの上によりかかって斜めにかけたが、
その形態《フオーム》は自然な、
きれいな線になっていた。


小野木は向こうに立っている案内嬢のところに行った。


「急病人が出たんでね、
すぐに医務室に連れていってもらいたいのだが」

紺色の制服をきた若い娘は、
小野木の顔を大きな目で見て、
次に長椅子によっている女性を眺めた。


「あのかたですね?」

そうだ、
と言うと、

敏捷《びんしよう》な動作で急病人のところへ行った。


「医務室は地下になっております。
どうぞ」

案内嬢は、
婦人をたすけて步きながら、
小野木を振りかえって言った。
小野木を彼女の同伴者と思いこんでいる言い方だった。


小野木は、
それは違うのだ、
と言おうとしたが、
とっさにそれが口から出なかった。
ここまで連れてきたのだから、
医務室までついていかぬと徹底しないような気持になった。
あとで考えると、

小野木はそのときに、
もう結城頼子に惹《ひ》かれていたと言えそうだった。


案内嬢が彼女の腕を抱えるようにして地下室の階段をおりた。
小野木は、
すこし離れて従ったが、
医者に彼女を渡したら、
すぐに引きかえすつもりでいた。
遠くの方で長い拍手が聞こえてきた。


医務室には医者も看護婦もいなかった。


「先生をすぐにお呼びしてきますから、
しばらくお待ちください」

案内嬢は、
病人にではなく、
後ろからついてきた小野木に向かって言った。


医務室は狭かった。
診察机の横は、
上がり框《かまち》になっていて、
二畳ばかりの畳が敷いてあり、
隅に急患を寝かせる布団が折りたたんであった。


案内嬢は医者と看護婦を探しているらしく、
すぐには帰ってこなかった。


小野木は妙な立場で佇んでいる自分を知った。


「あの時は、
どうぞ観客席にお帰りください、
と言いたかったけれど、
苦しくて、
それも言えませんでしたの。
それに、
やっぱり、
あんなところで、
ひとりぼっちにされるのは心細かったわ」

あとになって頼子は、
そのときのことを言って小さく笑った。


しばらくして、
医者は看護婦といっしょに戻ってきた。
今まで舞台を見ていたらしかった。


「どうなすったんです?」

医者も小野木に向かって言った。


小野木は無関係の人間とは言えなくなった。
曖昧《あいまい》に、
「急に、
苦しい様子だったものですから」

と言った。
医者はそれで簡単に納得し、
そこの椅子によってハンカチを顔にあてている婦人に向かった。


「どこがお悪いのですか?」

小野木には聞こえなかったが、
婦人が小さく答えたので、
医者はうなずいた。


「胃痙攣《いけいれん》ですね。
では、
注射をしておきましょう」

と言い、
小野木の顔を見た。
医者も、
看護婦も、
案内の女の子も、
みんな頭から小野木を病人の同伴《つれ》だと思いこんでいるようだった。
──「あのとき、
どうしてお逃げにならなかったの?」
と、

やはりあとで、
頼子は小野木にきいたことだった。


「なんだか、
そのままにして帰ったら悪いような気がしたんです。
せめて、
車に乗せるまでは世話したかったのです」

小野木は、
そう答えた。


「ご親切なかただと思ったわ」

「こいつ、
不良じゃないかと警戒していたんじゃないですか?」

「ううん。
それはわたしが薄目をあけて、
小野木さんを観察していたから分かったの。
その区別はつくわ」

「ぼくが、
あなたの車に乗って、
お宅の近所にお送りします、
と言ったときは、
おどろきませんでしたか。
自分でもあとで、
その勇気にびっくりしたくらいです」

「いいえ。
あのときは、
自然にそうなったのね」

頼子は、
うまい表現をした。


実際、
そのときは自然にそうなったという以外には言い方がなかった。
小野木はタクシーの中に先にはいった頼子が、
まだ体を折って前にもたれているのが気になってならなかった。
彼女は注射が終わって、
医者が、
しばらくすると楽になるから、
ここに寝《やす》んでいるように、
という忠告を断わって、
タクシーで帰ると言いだしたのだ。
そういう場所に体をしばらくでも横たえたくない彼女の潔癖らしいものが、
傍に立っている小野木にもよく分かった。


タクシーに彼女がはいったとき、
運転手が当然、
小野木もつづいて乗りこむものと思い、
ドアをあけて彼を見ていた。
小野木には、
その運転手の顔も風采《ふうさい》もひどくガラが悪く見えた。
頼子は、
まだ、
ろくに口も利けないようにして、
前部のよりかかりに体を支えている。
夜だったし、
弱り疲れているきれいな婦人客をひとり乗せて走るこの運転手に、
小野木は危惧《きぐ》を突然に覚えたものだった。


とっさに決心して、
乗りこみ、
自分でドアを閉めた。


「ご近所までお送りします。
どこまでですか?」

小野木は顔を伏せている婦人にきいた。


「渋谷ですわ」

婦人は小さな声で答えた。


「渋谷」

小野木は、
獰猛《どうもう》な顔つきをしている運転手に言った。
──「あの時は、
わたしも運転手の顔をみて、
車を降りたくなったくらいでした」

やはり頼子はあとで述懐して言った。


「小野木さんが近くまで送ると言って傍におすわりになったとき、
内心ほっとしたの。
でも、
お気の毒だったわ。
せっかくのモスクワ芸術座を放棄されて……」

しかし、
意識のどこかに惹かれるものがなかったら、
彼も彼女の傍にすわらないだろうし、
彼女も拒絶したに違いなかった。


車は、
赤坂から青山《あおやま》を通り、
渋谷の賑やかな灯の見える坂を下った。


「渋谷はどの辺ですか」

小野木はうつむいている隣の婦人の様子を見まもりながらきいた。


「松濤《しようとう》です」

彼女は、
やや間《ま》をおいて答えた。


車は道玄《どうげん》坂をあがり、
環状線の出合いを右に曲がった。


「ありがとうございました。
ここで結構でございます」

婦人は顔を上げて言った。
車の交通は激しいが、
両側は塀の多い暗い邸町《やしきまち》だった。


「ほんとうにご迷惑をおかけしまして、
申しわけございません。
あの、
お名刺をお持ちでしたら、
不躾ですけれど、
ちょうだいできませんかしら?」

小野木は断わったが、
婦人が車を降りて步きだすころに渡した。
本当は、
このまま彼女との縁が切れるのを惜しむ気持だった。
名刺にはアパートの電話番号もはいっていた。


お宅の前までお送りします、
というのを彼女は強いくらいに辞退した。


小野木は、
車の内に戻るのを忘れて、
そこにしばらく立った。
彼女の姿が、
行き交う自動車のヘッドライトにときどき浮きだされながら、
夜の中に去ってゆくのを見送った。
そのとき吹いていた風の快い寒さを、
小野木はいまでも記憶している。



そのことがあって一週間ぐらい過ぎた。


小野木喬夫にとって、
あの夜の出来事は、
一つの行きずりにすぎない。
しかし、
彼はモスクワ芸術座の舞台を途中で放棄したことを、
それほど後悔はしなかった。
自分がすすんでそれをしたからだという意味ではない。
つまり、
彼女を世話して渋谷の夜の通りに置いてきたことに、
それだけの充実を感じていたと言えそうだった。
あのときの寒い風が頬に爽快《そうかい》だったようにである。


そのとき小野木はまだ司法修習生だった。
裁判所、
検察庁、
弁護士会と回り、
最後にふたたび司法研修所に戻ってきた、
いわば、
二年間の修業の最後の期間だったのだ。


小野木は、
なぜ自分が司法官を選び、
その中でも検事を選んだか、
特別に意義づけて考えたことはなかった。
しいていえば、
叔父に地方検事をつとめた者がおり、
田舎の実家の者がこの叔父を尊敬していたから、
同じ職業につくようすすめられたにすぎなかった。
それは多くの人間の職業が、
そのようなたいした理由もない結びつきで、
ほとんど成立するのと同じであった。


小野木は、
異常な熱意もなかったかわり、
あまり抵抗もなく、
この二年間の研修を終わりかけていた。


それほど熱心でなかったことは、
さして罪悪ではない。
異常な熱意に燃えてついた職業を、
中途から失望して投げすてるよりも、
少なくとも検事になることは、
自己の責任がもてる、
と彼は思っていた。


ただ、
研修所の教程となっている数々の判例集の中に塗りたくられているどろどろした人間臭や、
最後の課程にはいっての生きた人間の取調べの実習に感じる人間の業苦《ごうく》というものには、
時に神経が圧倒された。
小野木のような青二才にはとても太刀打ちできそうもない巨大な壁の厚みが、
犯罪というかたちで凝固《ぎようこ》しているように思えた。
それに手向かうのが『六法全書』という活字本なのである。
これを武器に人間業苦の集積を解決してゆくことの頼りなさに、
小野木は自信を失いそうになるのだ。


ほかの同僚たちも、
同じ懐疑《かいぎ》をもっているだろうか。
小野木はそっと自分の周囲を見渡してみることがある。
が、
無論、
表面のことだが、
その様子は見受けられなかった。


みんなが、
平気な顔で人間の地獄を条文によって裁断してゆこうといそしんでいるのだ。


たとえば同期生の加藤|喜介《きすけ》だ。
この検事志望者は、
はじめから検事を天職と考え、
一番の成績で研修所を卒業しようと、

なみなみならぬ勉強をしている。
研修所のテキスト以外の、
あらゆる広範な判例集を読破して頭にたたきこもうとしているのだ。
おそらく、
彼は、
ぎっしりと細かく活字で組まれた条文以上の絶対はないと信じているに違いない。
彼には、
小野木が感じるような懐疑も自信|喪失《そうしつ》もないであろう。


小野木は、
これまで、
ひどくやりきれなくなると、

地方の古代遺跡を步いてまわった。
中学校のとき、
考古学にひどく熱心な教師がいて、
貝塚や竪穴や横穴などの石器時代遺跡の発掘につれていかれたものだが、
いまごろになってそれにひかれたのは妙な具合だった。
とにかく、
人間関係のあまりに複雑な業苦ばかりを見せつけられると、

古代人の単純な生活の跡が、
いつのまにか彼の逃げ場所になってきた。
そのような習慣が、
そのころから始まっていた。
──あれは、
たしか頼子を最初に送って一週間ぐらいしてからだった。
もちろん、
頼子という名前はそのときはまだ知らなかった。
アパートに電話がかかってきたので出ると、

「この間はたいへんありがとうございました。
演舞場から渋谷までタクシーで送っていただいた者ですわ」
と、

女の声が聞こえたのには驚いた。


「お名刺をいただいたので、
それでお電話申しあげたのですわ。
失礼ではございませんでしたかしら」
と、

彼女の声は言った。


「いえ、
かえってぼくこそ失礼いたしました」

小野木はかなり狼狽《ろうばい》して答えた。
落ちついて考えると、

とりようによっては、
見ず知らずの婦人と同車した彼の行動こそ不躾だったのだ。


小野木は電話口で頬をあからめたのを覚えている。


「あの、
大へん失礼なんですが」
と、

ためらったような声で婦人はつづけた。


「次の土曜日の夕方六時から、
T会館のロビーでお待ち申しあげていますわ。


ぜひ、
ご夕食をご一緒したいと存じますので」

あっと思った。
返事にとまどっていると、

「ご都合よろしいんでございましょう?」
と、

おいかぶせるように言った。


「はあ、
それは……しかし」

「わたくし、
結城と申します。
フロントにそうお尋ねくださいまし。
フロントにそう申しつけておきますから」

それが、
彼女の姓を知った最初であった。


「あの時は、
おしつけがましい女だとお思いになったでしょう? だって、
そういう言い方をしなければ来ていただけないような気がしたんですもの」

あとで結城頼子は小野木に言ったことだった。


「いや、
そのように言われなくとも、
ぼくはおうかがいしたでしょうね」

小野木も答えた。


実際、
その時、
彼は断わらなかった。
のみならず、
土曜日になる二、
三日の間に、
ひどく間隔を感じたものだった。


小野木はそれまで恋愛の経験が一度はあった。
しかし、
それは彼にも相手のほうにも事情があって実らなかった。
その時、
待っている二、
三日の気持が、
その恋愛をしていた期間のある時期の意識に似かよっていたのは、
これもあとで気づいたことであった。


土曜日の夕方、
小野木は研修所が午前中までだったので、
早く支度をして出かけた。
T会館は豪華な洋式の宴会場として一流だったので、
小野木はそれだけの身支度をしていったつもりである。
同時に、
そのような場所を使っている相手の環境の高さも考えずにはおられなかった。


厚い緋絨毯《ひじゆうたん》をしいた、
金色に金具の光っている階段を上がると、

二階が広いロビーになっていた。
立派な緑色のクッションが贅沢《ぜいたく》な数で置きならべてある場所に出ると、

外人客が組になってすわっているのが目についた。
天井からは、
唐草《からくさ》の模様を絡《から》ませた大シャンデリアがつりさがっていた。


ここに小野木が来るまでに、
フロントでは丁重に、
承っております、
と柔らかい声でおじぎをされ、
ボーイを案内に立たせてくれる手数があった。


クッションの緑の波の間から一人の婦人が立ちあがった。
微笑してはいたが、
小野木はそれが自分に向けられている挨拶《あいさつ》とは知らなかった。
白っぽい地に黒い斑《ふ》が大胆に散っている和服で、
すらりと姿勢のいい着つけであった。


上背《うわぜい》があるから、
知らない者でも、
通りすぎてそっと目を向けるに違いないほどきわだっていた。


「お待ちしていました。
結城頼子でございます」

袂《たもと》を動かして、
その女性が小野木に真正面におじぎをしたとき、
彼は一瞬、
棒になり、
目がぼんやりした。


劇場の医務室に体を苦しそうに折っていた同じひとがここにいるとは思えなかった。
若々しいし、
呆れるほどきれいだった。


「よくいらしていただきましたわ。
お忙しいのに申しわけございません」

小野木をうろたえさせて、
そのひとは、
口もとにきれいな笑いを見せた。


劇場で最初に見たときもそうだったが、
いま見ても、
つぶらな目いっぱいに墨を滲《にじ》ませたように瞳が黒いのである。


少々、
気持が静まってから気づいたことだが、
あのときの洋装が和服に変わっているだけではなく、
髪のかたちまでちがっていたのである。
わずかに波打った髪が豊かにふくれ、
眉の上で小さく散っていた。


「あのときは、
どうしてあんな恰好で来たのです? 人が違ってみえましたよ」

あとで小野木がきいてみた。


「劇場で、
いやな自分の姿をお目にかけたでしょう? 恥ずかしかったのです。
そして、
残念でならなかったのですわ。
ですから、
小野木さんに、
ぜひ、
きれいにしたわたしの姿を見ていただきたかったのですわ。
女の気持って、
そういうものなのよ」

結城頼子は答えた。


「へえ、
では、
お礼のためにご馳走に呼んでくださっただけではなかったのですか?」

「もちろん、
それもありますわ」

頼子は力をこめて言った。


「あんなにご親切にしていただいたんですもの。
それはもちろんですわ。
でも、
そのついでに、
あの時にお目にかけただけがわたしでないことも、
訂正していただきたかったのですわ」

小野木には、
彼女のその気持が分かる気がした。


「それは、
女のひとの本能的な自己存在の主張ですか?」
と、

分かっていながら、
多少、
意地悪げな質問をした。


「小さな虚栄心でなかったことだけは、
申しあげておきますわ」

頼子は言った。


「そして、
あなたのおっしゃる本能的な自己存在の主張とやらも、
まったく無関心な異性に向かっては役に立たぬことですわ」

小野木はそれも理解できた。
女性は日ごろは臆病《おくびよう》なのだ。


興味のない異性には、
その面倒の起こることを恐れる。
結城頼子が、
もし彼に関心がなかったら、
夜の寒い風の吹く通りまで見送らせて、
そのまま消えてしまってもよかったのである。


その夜の食事は、
T会館に予約した小さな部屋でとった。
銀色のきゃしゃなシャンデリアの灯をガラスの壁で反射しあったような明るい贅沢な部屋であった。


「まあ、
検事さんですの?」

小野木が招待者に尋ねられるままに、
検事の卵です、
と言ったものだから、
結城頼子はきれいな黒い瞳《め》で彼を凝視したものだった。


「いまではありません。
正確には、
あと四カ月したらそう呼んでくださっても、
おかしくない人間になります」

頼子は、
そのことに興味を起こしてきいた。
小野木は研修所の仕組を詳しく説明させられる羽目になった。


「おめでとうございます。
あと四カ月ってじきでございますわ。
小野木さんは……」
と、

初めて小野木の名が、
頼子の唇から出た。


「きっと、

優秀な検事さんにおなりになるに違いありませんわ」

「いや、
そんなことはありません」

無理もないが、
頼子はそれを、
謙遜《けんそん》と取ったようだった。


「いいえ。
わたしはそう信じますわ」

結城頼子は自信をこめて言った。


小野木は時々起こるいつもの懐疑感にそのとき陥っていた。
が、
初めて会った頼子に、
もとよりその説明をする勇気はなかった。


それよりも、
この女性はいったいどのようなひとか、
と思った。
きれいだし、
化粧の方法もあかぬけていたから、
若くみえるけれど、
ほぼ自分と同じくらいの二十七、
八ではなかろうか。
彼女の落ちついた動作といい、
その着物の好みや着つけ具合といい、
年齢を匂わせ、
結婚を感じとらせていた。
それも贅沢な環境にいるひとなのである。


小野木は、
何度、
ご主人はどこかにお勤めですか、
と聞こうとしたかしれない。
が、
妻にこれだけの生活をさせる人だったら、
普通の勤め人ということはない。
少なくとも重役以上だったし、
商売としたら大きな資本をかけた事業主に違いなかった。
このことが、
小野木の質問する気持をおっくうにした。


一度、
言いそびれると、

妙に気持にひっかかって、
口に出しにくくなった。


それは、
頼子とその後も会うようになったのちまでも尾をひいた。


気がついたが、
頼子自身も、
けっして夫のことを言葉に上《のぼ》らせなかったのである。
それだけでなく、
自分がどのような生活環境を待っているか、
すすんで説明しようとはしなかった。
初対面のときならそれでもいい。


しかし、
二度目からはおかしなことに感じられるのである。


T会館での食事は、
一時間半ぐらいですんだ。
けっして、
長くもないが短くもない。
小野木はその時間を充実して過ごしたが、
どこかにものたりなさがあった。


それも色彩が空気のように逃げてゆきそうなむなしさである。


「今晚は、
ほんとうにたのしゅうございましたわ。
いろいろなことがお話しできて」

頼子はよく本を読んでいたし、
話題も豊富で、
控え目な批評が適切だった。


それらは彼女の知性の高さと感情の奥行を小野木に感じさせていた。
このひとと、

そのような話を交すことができたたのしさは、
むしろ小野木のほうかもしれなかった。


「また、
お目にかからせていただきとう存じますわ」

頼子は椅子をすべらせて立つときに言った。


ぼくもそれをお願いします、
と小野木は言った。
が、
それはあくまでも、
彼女の言葉を儀礼的なものとして受けとったうえでの挨拶であった。
それを、
そのまま期待するほど、
小野木は無節制ではなかった。


「あのときは、
あれきりかと思いました」

やはり、
あとで小野木は、
頼子にそのときの感想を言った。


「そう? それでは、
わたしが二度目のお電話をしたとき、
びっくりなさったわけね?」

「それは驚きました。
しかし……」

しかし、
それはうれしかったのだ。
アパートの受話器を切ったとき、
小野木には、
消失した色彩が掌《て》にもどったような気がした。


二度目は、
最初のときから、
十五日ぐらいはたっていた。
彼女の希望で、
日本料理の家で食事をしたいと言い、
赤坂辺の、
家にくらべて庭のひろい料亭の座敷で向かいあった。


白い髪をしているが、
上品なおかみが座敷に出てきて頼子に挨拶をした。


「ご機嫌よろしゅうございますか?」

おかみは手をついて、
艶《つや》のいい顔をにこにこさせていた。


「ありがとう」

頼子の今日の着物は変わっていた。
わざと目立たない工夫をしたように、
塩沢かなにかだった。


「おかみさんもいよいよ繁昌で結構ですわね」

おかみは当たらずさわらずの話を二、
三して退いた。
小野木は、
頼子がこの家で大事にされている客であるのを知った。


「もう先《せん》から、
ご飯を食べにきている家ですのよ。
今夜は、
小野木さんが優秀な検事さんにおなりになる前祝いでお呼びしましたわ」

頼子は会食の理由を言った。


「庭がとてもきれいなんです。
お降りになりません?」

料理の支度には、
わずかな間があった。
小野木は座敷の縁から庭下駄をはいた。
松の梢の上から照明がついていて、
庭は蒼白い風景になっていた。


小野木の前を案内して步く頼子の姿が、
美しい沈んだほの白さで見える。


冬の樹木と石が、
深い水の底のように濡れた明暗をつくっていた。


小野木が頼子を愛するはっきりした意識は、
このときから始まったかもしれない。


[#改ページ]
暗 い 匂 い

三月の終わりが近づいた。
それは小野木に司法研修所の卒業が近づくことであり、
一人前の検事として、
各地検への配属の決定が、
間近になることだった。


「東京だとよろしいのにね」
と、

会ったときに結城頼子は言っていた。
瞳を沈めて、
どこかを見つめるような眼差《まなざ》しが憂愁なときの頼子の癖だ、
と小野木が知ったのも、
そのころだった。


「どなたか、
偉い上役の方にお願いしても、
だめなんですか?」

頼子はたびたび、
それを言った。


「こればかりは、
だめなんです」

小野木は答えた。
彼には、
そういうヒキもなかったし、
あってもむだであることを知っていた。


日本の涯にある検察庁の土地を頼子が覚えたのも、
配属が間近くなってからだった。


「これは、
成績によって決まりますの?」

頼子はきいた。


「いいえ、
そうともかぎりません。
一期先輩で、
首席だった人は札幌《さつぽろ》に赴任《ふにん》しましたよ」

「三番か、
四番は?」

それは、
小野木の成績を、
頼子が聞かされているからだった。


「さあ」

小野木は首を傾《かし》げた。
頼子には言わなかったが、
自分だけは、
東京に残される可能性があるように思われた。


卒業と同時に、
赴任地が言い渡された。
小野木は東京地方検察庁勤務になった。


「うまいことをやったな」

同期生の佐藤が彼の肩を叩《たた》いた。
小野木は、
ありがとう、
と言って、
「きみはどこだ?」
と、

きいた。


「大阪だ」

佐藤は答えた。
佐藤の生まれは仙台《せんだい》だった。
配属は出身地によらなかった。


「大阪なら結構じゃないか」

小野木が言うと、

佐藤はまんざらでもない顔をしていた。


「実は、
芦屋《あしや》に許婚者《いいなずけ》がいる」

佐藤は、
にやにやしていた。


「上司も、
あんがい、
さばけた行政をするものだね」

むろん、
冗談だった。
上司がそんな事情を知るわけはないし、
知っていても、
その都合どおりにはならなかった。


「きみが東京に残ると聞いて、
喜ぶ人があるか?」

佐藤はきいた。


「さあ」

頼子の顔が浮かんだが、
話題にはできなかった。
ない、
と言うと佐藤は、
九州から誰か呼びよせるか、
ときいた。
小野木の故郷は、
大分《おおいた》県だった。


「いや、
兄貴も丈夫だし、
両親をひきとることもない。
当分はひとりでいるつもりだ」

「いずれ、
女房は東京の者をもらうのだろうな? 住むのはいいが、
女房にするのは、
東京者は考えものだ」

「なぜだ?」

「女房は関西がいい。
第一、
経済観念があるし、
親切だ。
そして住むのは東京だね。
これが理想的だ」

おれも三、
四年したら、
東京へ呼んでもらうつもりだ、
と佐藤は勝手なことを言っていた。


「大阪でよい娘がいたら、
きみに世話してやる」

佐藤は笑いながら言ったが、
本気にそうしかねなかった。
小野木とは、
いちばん、
うまが合っていたし、
親切な男なのである。


「ありがとう」

小野木は礼を言ったが、
結城頼子がまた頭をかすめ過ぎた。
しかし、
このとき、
彼女と結婚できそうには考えていなかった。


その直後に、
頼子と会ったとき、
東京にいることが決まったと聞いて、
彼女は、
息をのんで目をいっぱいに見開いた。


「うれしいわ」

という声が洩れたのは、
しばらく時間がかかったように思えた。
小野木を、
まっすぐに見る目がうるんでいたのである。


「あのとき、
すぐ九州に帰ってみるとおっしゃったわね?」

あとになって頼子は、
思いだして小野木に言った。


「そうなんです。
とにかく、
ぼくの人生の一つのエポックですからね。
故郷のある人間は、
そういうとき、
かならず郷里に帰ってみたくなるものですよ」

結城頼子は、
それには答えなかった。
頼子に郷里があるということを小野木はまだ聞いていない。
それを尋ねたとき、
頼子は、
わたし東京生まれですわ、
と言ったが、
小野木の直感として、
その返事が自信なげに見えた。


そのことは、
頼子を膜《まく》のように包んでいる、
秘密めいたものの一つだった。


小野木が九州に帰るとき、
結城頼子は東京駅まで見送った。


十五番線ホームは長距離列車の発車専用だったせいか、
ここには、
あわただしい旅立ちの哀愁がこもっていた。


暮れかかっている時刻も、
その雰囲気をたすけたようだった。


頼子は目立たないスーツで来ていた。


このひとの服装は、
小野木はさまざまな変化で見ていた。
贅沢な生活をしている女なのである。
それが小野木にはぼんやりした不安だったが、
まだ結婚のことは考えていなかったし、
その漠然とした不安を、
自分で押しのけるようにしていた。
だから、
その目立たない服装は小野木を喜ばせた。


「あのとき、
帰りの汽車の時刻を、
なぜ、
急にお決めになったの?」

あるとき頼子がきいた。


「あなたの顔を見ていたら、
急に決めたくなったんです。
東京へ着いたときのホームでも、
ぜひ会いたくなったのです」

列車がホームをすべりだしたとき、
小野木はその約束をしてよかったと思った。
頼子は、
輝きはじめたホームの灯の下で、
白い顔を、
いつまでもこちらに向けていた。
その背後には、
この列車の見送り人が崩れかけていた。


その群衆の中の一人が、
頼子の傍を通りかかると、

気づいたようにおじぎをしていた。


立派な紳士だったが、
次第に遠去かってゆく窓からはさだかに分からない。


分かっているのは頼子がそれを知らないで、
まだこちらに顔を向けていることだった。


小野木は翌日の晚に故郷に帰った。
耶馬渓《やばけい》の裏側にあたる、
小さな山村であった。
中学校も、
彼はここから、
三里の山越しをして步いて通ったものだ。


家の前には白い道があって、
絶えず、
バスが山かげの間から現われて、
山かげの間に消えていった。
それが桑畑の間から見えるのだ。


こんな山の中でも、
以前とは見違えるような大型のバスが通っていた。


郷里に帰って五日間、
することは何もなかった。
小野木は頼子に手紙を書いた。
しかし、
あて先の書きようがなかった。
投函できない手紙で、
東京に帰ってから、
頼子に手渡すほかはなかった。


しかし、
それは帰りの汽車の中で破ったのだ。


「どんなことを、
お書きになったの?」

頼子はきいた。


小野木は言わなかった、
「いただけたらよかったのに」

頼子は残念そうな顔をした。


「きっと山の匂いがしていたと思いますわ」

──その山ひだの間には、
絶えず炭焼きの白い煙がのぼっていた。
頼子が知らないことで、
小野木の目にだけ残っている煙だった、
炭焼きといえば、
小野木に幼いときの記憶が一つある。
四つか五つのころであろう。
炭焼き小屋の近くで男女の心中死体があるというので、
みなが騒動して見にいったものである。
小野木は子供たちと駆けつけたが、
萌《も》えるような若葉の間に、
白い着物が木から下がっているのを一瞥《いちべつ》しただけで逃げ帰った。


村では、
しばらくは、
その噂で、
もちきりだった。
東京から死に場所を捜してきた若い男女ということだったが、
どのような素性《すじよう》の人間か、
いまの小野木には記憶がない。


ただ、
まだ覚えているのは、
その女のほうが死ぬ前に、
村の子供たちに、
にこにこして菓子をやっていた、
という話だけだった。


山といえば、
小野木には蒼い空に、
まっすぐにのぼってゆく炭焼きの煙が目に映るのだ。
それから、
若葉の隙《すき》から見えた垂直の白い着物もである。
頼子に山のことを書いても、
むろん、
それは書けなかったであろう。


しかし、
小野木は、
いつの日か、
それを話すことがあるような気がしている。


それも、
頼子にだけ向かってだった。


小野木は、
田舎にいて、
五日間、
頼子のことばかり追って暮らした。
古い友だちにも会ったし、
小さな日を過ごした山の小径《こみち》や、
沼地を步いたが、
それほどの感慨はなかった。
彼は、
自分の心が、
東京に密着していることを、
はっきりと知った。


六日目、
親戚の老人が古希《こき》の祝いをするから、
小野木にもぜひ来てくれと言った。
むろん、
親も兄もすすめたが、
小野木は、
役所がまにあわないから、
という理由で断わった。
役所はあと五日間も余裕があったが、
結城頼子と東京駅で会う機会を失うのが、
たまらなく耐えきれなかったのだ。


約束の汽車を待ち、
空しく肩を落として步き去ってゆく結城頼子の姿を想像すると、

どのような犠牲を払ってでも、
その列車にまにあいたかった。


小野木は、
その列車で東京駅に降りた。
しかし、
結城頼子の姿はなかった。


小野木は自分の目を疑い、
乗客と出迎え人がいなくなる最後までホームに居残った。
頼子は来ていなかった。


「あのときは、
失望しました」

小野木は、
やはりあとで、
そのときのことを言った。


「目がくらみそうでしたよ。
東京の街がいっぺんに白くみえたくらいですよ」

「ごめんなさい。
ほんとうに申しわけないわ」

頼子はあやまった。


「あのとき、
どんなにわたしもくやしかったか分からないわ。
でも、
どうしても抜けられなかったの。
ごめんなさい。
どんなに叱られても、
しようがないわ」

それは、
その翌日、
小野木のところにかかってきた頼子の電話で、
会った最初に、
頼子に詫《わ》びられたことだった。


頼子は、
しかし、
その「抜けられなかった」理由をはっきりと言わなかった。
涙をためて詫びるだけだった。
小野木が、
頼子に「拘束された生活」を感じた、
それが最初だったようである。


「ねえ、
これから、
横浜に行きません?」

頼子は、
そのときに誘った。
もう黄昏《たそがれ》が近づいて、
街の灯がもえかけるころだった。
空には澄明な蒼さがまだ残っていた。


頼子は、
東京を少しでも離れた場所に行き、
小野木と、

ひとときの時間を過ごしたい、
と言った。
それは、
半分、
頼子の謝罪であった。
たしかに、
そのときまでは、
小野木は多少、
怒っていたようだった。


自動車は第二京浜国道を走った。
いろいろな車が川になって走っていた。


小野木たちの車も、
その流れに乗って、
高台から下町の灯を見おろしたり、
工場の黒い輪郭を見たり、
羽田《はねだ》あたりの空に回転している照明の筋を眺めたりした。
小野木は、
自分の掌《て》の中に、
頼子の手をしっかりと組みしいていた。


横浜に来ると、

頼子は、
外人墓地を見たいと言いだした。
まだ、
一度もそこには行ったことがないと言った。


墓地に来たときは暮れていた。
車を待たせて降りると、

岬《みさき》の灯が、
自然に黒い海の中に曲線を描いていた。
場所は高いところなのである。


後ろの坂道を人が通っていた。
長い塀が斜面にはっていて、
何かの花の匂いがしていた。
その匂いのことを話しながら、
人が步いていた。
夜だったが、
森閑としたものだった。
小野木たちを乗せてきた車が、
灯を消してうずくまっていた。
賑やかなのは、
暗い海で息づいている灯の点描だけであった。


風が顔の正面から吹いて当たった。
潮の匂いがまじっていた。


「頼子さん」

小野木は呼びかけた。


しかし、
頼子は自分の言葉で別なことを言った。


「東京でよかったわ」

小野木の勤務先のことを言っているのだった。


「安心しましたわ。
もう先《せん》より、
ずっとよく眠れますのよ」

頼子の掌が冷たくなっていた。


「もし札幌とか、
鹿児島《かごしま》だったら、
と考えて、
わたし、
胸がふるえていましたわ」

若い組が、
墓地の中に步いてくるようだった。
笑い声をたてている。


二人は自動車の中にはいった。


「これから、
どちらへ参ります?」

東京から乗せてきた運転手が、
ふりかえってきいた。


「海の近いところ」

頼子が言った。


車は坂道を下った。
街の灯が窓に戻ってくる。


広い通りに出たと思うと、

左側が行儀のよい黒い樹林になっていた。
右側のホテルの高い建物には、
灯がいっぱいにはいっている。


「公園です」

運転手が教えた。


木の多い公園にはいると、

波止場《はとば》がすぐそこに見えた。
岸壁をなめている波の揺れる音が聞こえた。
遠くに誰かが呼んでいる声がしたが、
船かもしれなかった。
灯をつけた汽船は多いのである。


外灯が、
光の斑《ふ》をつくっていた。
木にさえぎられた暗い部分が、
黒インキをためたように、
公園の地面に影を落としていた。


その下を步いたとき、
小野木が突然、
立ちどまった。


頼子が息をひいて立ちどまると、

小野木は頼子の体を抱きかかえた。
手を握っていたので、
この動作は、
頼子の向きを回転させるだけで、
容易だった。


頼子の体の重味と実体感とを、
小野木の手が受けとめていた。
頼子は、
すこしもがいたが、
小野木の唇を素直に、
その唇でうけた。
触れた頬も、
唇も、
熱でもあるように暖かだった。
彼女の胸のふるえが、
小野木の体に伝わった。


それが最初だった。


そのときから、
頼子の許容がはじまった。



結婚|披露宴《ひろうえん》はTホテルで、
午後三時から始まった。


招待状には、
三時半から仲人《なこうど》の挨拶があると書いてあるので、
その前に客は、
ほとんど揃っていた。


カクテル.パーティーになっているので、
客は立っていた。
卓《テーブル》がいくつも広間に置かれ、
客はそれを囲んで、
料理をつまんだり、
グラスを持ったりしてしゃべっている。
女たちは裾模様の着物や、
派手な色の洋装で来ていた。
正面には六曲一双の金屏風《きんびようぶ》が立てまわしてあり、
巨大な花が飾ってあった。
客たちは行儀よく笑いあい、
躾《しつけ》のいい恰好で步いていた。


新郎は若手の役人であり、
新婦は某大デパートの重役の娘であった。
この両人は会場の入口に佇立《ちよりつ》している。
左右に媒酌《ばいしやく》人夫婦が分かれてつきそい、
新郎側、
新婦側の両親がならんで、
はいってくる客の挨拶を受けていた。


輪香子は友だちといっしょに卓の前に固まっていた。
新婦が友人だというだけでなく、
両親が媒酌人だった。
現に、
父親は恰幅《かつぷく》のいい体にモーニングをつけ、
ゆったりとした微笑で花嫁の傍に立っていた。
ならんでいる誰よりも堂々としているのだ。


R省の局長として場なれしているせいもあったが、
新郎が自分の部下だし、
ここに来ている客のなかにも若い下僚が多いのである。
穏やかに微笑しているが、
目立たない威厳が感じられた。


母は目を伏せて立っている。


久しぶりに濃い目の化粧をしているので、
見なれた輪香子にも美しく見えた。
若いときは、
輪香子そっくりだったに違いない、
と知人が想像を言うのである。


「お母さま、
おきれいだわ」

佐々木和子も友だちも、
輪香子に言った。


輪香子は、
友だちの間のことだし、
否定をしなかった。
中学校のときも、
高等学校のときも、
母がPTAの会などで学校に来てくれるのが楽しみだった。
お母さま、
きれいね、
と級友たちがのぞいてきて言ってくれるのが、
うれしかったのだ。


会場の入口に立っている母は、
化粧のせいで十年も若くみえた。


裾模様が派手ではないかと騒いでいたが、
地味なくらいだった。
が、
さすがに父にくらべて、
面映《おもは》ゆそうだった。


「あら」

カクテル.グラスを手にした佐々木和子が、
遠い目つきをして叫んだ。


「あれごらんなさい、
ワカちゃん」

輪香子の肩をつっついた。


背の高い男が、
新郎の前に立って、
笑いながら挨拶しているのだ。


黒っぽい洋服が、
ぴったりと身についていた。


「古代人じゃない?」

客の青年は、
新郎から離れて、
その両親に会釈《えしやく》し、
うつむきかげんに会場にはいってくるところだった。


輪香子は、
あっ、
と思った。
間違いなく、
あのときの青年だった。


諏訪でも会ったし、
深大寺でも見た顔である。


「来るわよ、
こっちに」

佐々木和子が、
また袖をひいた。


客はみんなで二百人ぐらいは確実にいた。
芋《いも》の子を洗うようだったが、
人の陰にかくれて観察するのには都合がよかった、
青年は、
卓の方に步いてきた。
背が高いから目立った。
礼式めいた黒っぽい洋服も颯爽《さつそう》とした感じで受けとれた。
諏訪の竪穴からきたない鞄を、
よれよれのジャンパーの肩に掛けて起きてきた同じ人物とは思えないのである。


ばさばさした髪も、
今日は櫛の手入れがしてあった。


青年は、
輪香子がいることに気がつかないらしい。
花やかなお嬢さんの一群れがあるとは目で知ったかもしれないが、
彼女の顔には一瞥もしないのである。


「彼のところに行って、
話しかけてやろうか?」

佐々木和子が、
大きな目を笑わせて輪香子に相談した。


「およしなさいよ」

輪香子が言った。
急に動悸《どうき》がしてきたのは、
のみつけないジンフィーズの酔いが、
いまごろ出てきたのかも分からなかった。


「妙だわ」

和子が言った。


「古代人氏がここに現われるなんてふしぎじゃないの。
どなたの御縁かしら?」

新郎に挨拶していたから、
その関係とは思ったが、
それがどういう縁故《えんこ》か、
輪香子には分からなかった。


「そら、
そろそろこっちに移動してくるわ」

佐々木和子が教えた。


青年は、
ゆっくりと人の間を步いてきた。
誰か、
知った人間がきているのを探しているのかもしれなかった。
目を客の顔に投げているのである、
佐々木和子が、
くるりと背中を回した。
輪香子が、
あっと止めるまもなかった。


「こんにちは」

和子が青年に腰をかがめた。


青年は不意に立ちどまった。
挨拶してくれた相手に、
まじまじと目を向けたが、
当惑した表情だった。
これは相手が誰か思いだせないときの顔つきである。
微笑はしているが、
眼差《まなざ》しが曖昧《あいまい》であった。


「この間……」

佐々木和子が笑いながら言った。


「お目にかかりましたわ」

深大寺で、
と言わなかったのは、
相手が婦人づれだったことへの礼儀だった。


輪香子は、
和子の陰にいたが、
もうどうしようもないので、
青年に向きなおった。


「こんにちは」

青年は、
輪香子を見たが、
目がすぐに驚いたものである。


「あ、
どうも」

不意だという驚きが消えると、

なつかしそうな笑いが浮かんだ。


「驚きました。
また、
ここでお目にかかろうとは思いませんでした」

青年は、
あらたまったおじぎを、
輪香子とその友人にした。


「失礼しました」

と言ったのは、
佐々木和子を覚えていなかった詫びであった。


「ずいぶん、
盛会ですね」

青年は、
当面の会話に困って、
あたりを見回した。
客は、
前よりもふえていた。
広間と、

次の間とつづいていたが、
混《こ》むので、
ロビーに待機している客もいたくらいである。


「あの……」

輪香子よりも先に、
佐々木和子が口に出した。


「今日の花婿さんのお友だちでいらっしゃいますの?」

青年は、
和子に目をもどし、
「そうなんです」
と、

輪香子にも向けた。


「芝《しば》は、
ぼくの同期なんです」

芝|五郎《ごろう》というのが、
今、
会場の入口で、
しかつめらしく立っている新郎の名前だった。


「そうですか。
あたしたちは、
花嫁さんのお友だちなんですよ」

佐々木和子が、
こちらの立場を説明した。


「もっとも、
この輪香子さんは、
もっと御縁があるのですけれど」

輪香子は、
はっとした。
輪香子という名を青年は、
初めて耳にしたに違いない。
その反応は、
たしかに青年の表情に出たように思えた。


「輪香子さんのお父さまが」

佐々木和子は重ねてつづけた。


「今度の媒酌人でいらっしゃいますのよ」

青年は、
前よりもはっきり意外な顔をした。
輪香子をまっすぐに見て、
「それでは、
田沢さんが、
あなたのお父さまでいらっしゃいますか?」
と、

目をみはってきいた。


「はい」

輪香子は、
うつむいてうなずいたが、
青年のきき方は輪香子の父を知っている口調だった。
輪香子は、
自分が今度は名乗らなければならないことを知った。


「田沢輪香子と申します。
よろしくお願いします」

頭をさげると、

青年も、
すこしあわてたように返した。


「小野木喬夫と言います。
よろしく」

これは佐々木和子にも言ったことなので、
彼女も自分の名を言い、
「輪香子さんの親友なんです」
と、

つけたした。


「お父さんのお名前は承っておりました」

青年は言った。


「芝の上司だということで、
うかがってたんです。
もっとも、
芝に言わせると、

雲の上のようなかただそうですが」

青年は微笑して言った。
芝五郎は、
R省に去年はいった一課員にすぎないから、
局長との間隔は、
雲上の比喩《ひゆ》でも不当ではなかった。


輪香子は、
青年が花婿と挨拶していたとき、
もしかすると、

彼も父と同じ役所の人かもしれないと予想したが、
青年のその言葉で、
そうでないことが分かった。


客は周囲でざわめきあっている。
それが急にやんだのは、
このとき音楽がおこり、
新郎新婦が腕を組んで入場するのを知らせたからである。


拍手がわき、
客の顔がいっせいにその方に向いた。


輪香子の父の田沢|隆義《たかよし》が、
新婦の横に立って、
媒酌人としての新夫婦の紹介を客に話した。
マイクに乗った父の声は、
輪香子が聞いても慣れたものだった。
態度にも余裕があったし、
話しぶりも適当にユーモラスであった。
来客の間からは、
つつましげな忍び笑いがおこったほどである。


それがすんで、
来賓《らいひん》のなかから、
祝辞が始まったが、
その出来は、
誰も田沢隆義におよぶ者がなかった。
やはり、
R省の局長としての貫禄がここでも、
ものをいっているのであろうか。


輪香子は、
しかし、
父の話し方が慣れすぎているのに不満だった。
父は部下たちを集めてよく訓辞しているのであろうし、
会にもたびたび顔を出すので、
挨拶の要領も心得ているであろう。
政府委員として代議士たちを相手に、
国会の何々委員会などで抜かりのない答弁をしているのである。


花婿の同僚という若い客が、
代表格で祝辞を言ったが、
「田沢局長殿のご媒酌で……」

などと、

あきらかに上司を意識した演説をしたのは、
輪香子が聞いてもいやな気がした。
のみならず、
自分の頬があかくなった。


たくさんの客は三十分ぐらい粛然《しゆくぜん》と佇《たたず》んだままだった。
それで、
司会者がスピーチの終了を告げ、
これからどうぞゆっくりお寛《くつろ》ぎください、
と言ったとき、
大勢の客は安堵《あんど》の溜息を吐いて崩れ立った。


輪香子が、
次の間の窓ぎわに、
小野木喬夫の姿を見たのは、
それから十分ばかり後であった。
小野木はソファに腰をおろし、
ひとりで煙草をすっていた。
それを遠くで見た時、
輪香子は上諏訪の駅で、
ホームを步いている彼の横顔を思いだした。
どこか苦渋《くじゆう》じみた寂しそうな表情は、
あの時とそっくりなのである。
登山帽もないし、
よごれたジャンパーもなく、
T.Oの印のはいった肩掛け鞄もなかった。
しかし、
きちんとしたこの若い紳士の姿が、
一瞬にそう見えたから奇妙だった。


佐々木和子は、
どこかにはぐれて傍にいなかった。
輪香子は思いきって小野木のところに步いた。


小野木は、
近づいた振袖の華麗《かれい》な色彩に気づき、
目をあげたが、
輪香子と知って立ちあがった。


「やあ」

それまでの表情が消えて明るいものとなった。


「おかけになりません?」

輪香子はすすめた。
言葉も、
思ったよりすらすらと出たし、
自分で先にソファにすわれた。


「はあ」

小野木喬夫は煙草を消して、
すこし離れたところに腰をおろした。


「このごろ、
やはり古代遺跡をお步きになっていらっしゃいますの?」

輪香子は、
微笑みながらきいた。


「いや」

小野木の頬に苦笑が浮かんだ。


「あれから行ってないんです。
いろいろと忙しいものですから」

どこにお勤めですか、
と、

よほど、
きこうとしたが、
無遠慮に思えたので、
それは勇気がなかった。


「しかし」

小野木が言った。


「驚きましたな。
あのときのお嬢さんが田沢さんのお嬢さんとは知りませんでした。
東京に帰ってからも、
お会いすることはないと思ったんですが、
こうたびたび、
お目にかかるとは意外でした」

小野木の目にも、
その瞬間にかならず諏訪の湖を背景にしたカリン林の花や、
青い麦畑が映っているに違いないと思われた。
が、
その小径《こみち》をいっしょに步いている輪香子の印象を、
小野木がどのように受けとめたかは、
彼女にも分からなかった。
ただ、
分かることは、
輪香子がずっと子供っぽいお嬢さんとして映ったに違いない想像だった。


父が、
左右の客に笑いかけながら、
輪香子のところへくるのが見えた。
でっぷりとしているからモーニング姿が立派だった。


「お父さま」

輪香子が立って呼んだ。
小野木もそのあとから立ちあがった。


「ああ、
ああ」

父はそんな答え方をしてうなずいた。


「輪香子、
お母さまが用事らしい」

父は小野木を見た。


「お父さま。
小野木さんとおっしゃるかたです。
もう先《せん》諏訪でお知りあいになったんですけれど、
今日、
ここでお目にかかって、
芝さんのお友だちだと初めてうかがったんです」

父は、
ほう、
と言って小野木に笑いかけた。
笑うと、

丈夫そうな白い歯が見えた。


「小野木喬夫と申します」

小野木が頭を丁寧にさげた。


「芝君のお友だちだとおっしゃると」

父は会釈してききかえした。


「はい、
大学が同期なんです」

小野木はかしこまって答えた。


「そう?」

父は目尻に皺《しわ》を寄せた。


「私と同じ母校だ」

「後輩です。
どうぞ、
よろしく」

小野木は、
軽くおじぎをした。


「いや、
こちらこそ」

父は、
ゆったりときいた。


「それで、
お勤めもやはり……?」

「いえ」

青年は、
すこし首を振って、
微笑に答えた。


「東京地検に勤めています。
新米《しんまい》の検事なんです」

父はまた、
ほう、
と言った。


輪香子が驚いて小野木の横顔を見た。


[#改ページ]


Comments