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05夜 の 遊 步


輪香子と佐々木和子とは、
閉店のベルを聞いてデパートを出た。
外には、
黄昏《たそがれ》の陽ざしがのこっていた。


陰になった商店街には灯がついている。
暮れ方から夜に移る、
妙に落ちつかない風景であった。


食事をして帰ろう、
というのが、
買物をしている時、
二人できめた相談だった。
人ごみについて流れながら尾張町《おわりちよう》の交差点を渡っていると、

「ねえ、
古代人氏を呼ばない?」

と佐々木和子がおもしろそうな顔をして言い出した。


「小野木さんを?」

輪香子がびっくりすると、

「いいじゃないの。
いつも二人だけじゃつまんないわ。
彼、
ちょうど退《ひ》ける時間よ」
と、

佐々木和子は腕時計を見た。


「さあ」

輪香子が交差点を渡りきって步道に足をゆるめると、

「あたし、
電話するわ。
あの人、
帰らないうちに、
足止めしておくわ」
と、

ハンドバッグから小さな手帳を出して開いた。
彼女は、
小野木喬夫の勤務先の電話番号を早くもメモしているらしかった。


「ね、
いいでしょう?」

佐々木和子は赤電話に步む前に輪香子の承諾を求めた。
求めたというよりも、
強《し》いた口調であった。


輪香子が曖昧《あいまい》に迷った顔色でいると、

和子は目を笑わせて、
さっさと電話機へ行き、
手帳を見ながらダイヤルを回していた。
佐々木和子は、
何か思いつくと、

勝手に実行する癖があった。
輪香子は、
いつもこの友だちのあとにひきずられてしまう。
和子も、
それを承知のことだったが、
しかし、
けっして相手に不本意な独走はしなかった。
そのことは和子の勘の良さを証明する。
すると、

いまの場合も、
小野木を呼びだすのに輪香子が反対でないことを承知しているようだった。


電話は通じたらしい。
輪香子は、
すこし離れたところに立っていて、
佐々木和子の口もとを見つめていた。
目の前を、
絶えず人が流れてゆく。
その隙間からちらちらする佐々木和子の横顔は、
送受器にうつむいて笑っていた。


輪香子は小野木が勤め先から帰らないで残っていたことを知った。


落ちつかない気持で佇んでいると、

佐々木和子が戻ってきた。


「来るそうよ」

にやにやしていた。


「たいへんだわ」

輪香子は、
友だちの顔を見た。


「驚いてらしたでしょ?」

「ううん、
ちっとも」

佐々木和子は首をふった。


「ちょうど、
帰るところだから、
行ってもいいっていうの」

佐々木和子は、
小野木喬夫の返事を取りついだが、
小野木がそんなに簡単に承知するとは思わなかった。


彼女が電話口でねばったに違いない。


「あたし、
これから、
タクシーで迎えにいってくるわ」

佐々木和子は、
いくらか声をはずませていた。


「そういうお約束をしたの。
小野木さん、
検察庁の前で待ってるんですって。


往復二十分はかかるわね」

彼女は腕時計を見て、
輪香子をのぞいた。


「あなた、
いっしょに行かない?」

「さあ」

輪香子はとまどうような目をした。
タクシーに乗って小野木の勤め先に行く。
いくら友だちといっしょでも、
そんな会い方をするのは厭だった。


「わたし、
その辺で待ってるわ」

輪香子は言った。


「そう?」

佐々木和子は、
その場所を求めるように、
あたりを見回していたが、
「どこかの喫茶店で、
待っててくださる?」

ときいた。


「そうね」

輪香子は考えて、
思いついて言った。


「じゃ、
千疋屋《せんびきや》の二階で待ってるわ」

「そう。
あそこなら分かりやすいわね。
では、
急いでいってきます」

佐々木和子は、
輪香子の背を軽く叩くと、

もう足早にタクシーの駐車場の方へ向かっていた。
その肩が生きいきとしていた。


輪香子は、
ゆっくりと人ごみの中を步いた。


思いがけないことになった。
ここで小野木と食事をする羽目になるとは想像もしていなかった。
散步の人通りにはさまれながら、
輪香子は、
これから自分の人生に、
一つの光と翳《かげ》とが射してくるような予感がした。


銀座の表通りが見おろせるガラス張りの隅にすわって、
輪香子が待っていると、

目の下の步道のわきにタクシーがとまった。
直感は当たって、
佐々木和子がまず降りた。
立って、
車の中を微笑《ほほえ》みながら見ている。
見覚えのある小野木の姿が、
高い背をかがめて出てきた。


佐々木和子が片手をさしだして、
小野木の腕に触れ、
早く、
と誘うように店の中にはいった。
輪香子の見ているところからは、
両人の姿が軒の下に消えたのである。
どうして、
あんなに無心にふるまえるのだろう、
と輪香子は、
佐々木和子の人見知りしない性格が羨しくなった。


不意だが、
胸に小さな動悸が打った。
いまに、
両人でこの卓に近づいてくる。
その姿が入口のドアをあおって現われるまで、
不安に似たたかぶりを覚えた。
輪香子はフルーツ.カクテルに目を落として、
その不安の正体が来るのを待っていた。


倍の時間に思えたが、
むろん三分とはたたなかった。
灯をよぎる影が目の前に動いた。


「お待ち遠さま」

佐々木和子の明るい声が落ちた。


輪香子は椅子をすべらせた。
和子とならんで、
小野木喬夫の高い体が立っていた。
柔和な微笑でおじぎをした。


「先日は、
どうも」

小野木はTホテルの披露宴で見た印象よりはくだけていたが、
こうして三人で揃うと、

輪香子には、
あのときのつづきのような気がした。
Tホテルの帰りに、
三人でここに立ちよっているような錯覚が過ぎた。


「ご迷惑ではなかったかしら?」

これは小野木に直接でなく、
傍の佐々木和子にきいたものだった。


「いいえ」

小野木がひきとった。


「役所が退けたら用のない体です。
お誘いをうけてありがたかったです」

「でしょう?」

語尾について、
佐々木和子が輪香子の顔をさしのぞいた。


「やっぱり、
電話してみるものね。
ワカちゃん、
遠慮ばかりしているんだもの」

和子は笑っていた。


「だって、
急にお誘いするんですもの、
ちょっと、

とっぴみたいだったわ」

「ぼくが、
こうして平気でうかがっています」

小野木は輪香子に微笑を投げて、
煙草をとりだした。
彼女は断わったが、
佐々木和子は、
一本を紅い爪の指先でつまんだ。


「お食事、
どこか、
連れていってくださいます?」

佐々木和子が小野木にきいた。


「いや、
ぼくは、
そのほうは、
さっぱり不案内ですから」

小野木は笑った。
その頭の上に、
天井から吊りさがった熱帯植物の葉が、
ひろがっていた。


「じゃあ、
Aにしない?」

佐々木和子が、
コップの苺《いちご》をつぶしながら、
輪香子を見た。
すっかりたのしそうな恰好をしていた。


「そうね」

輪香子が、
小野木の方に目を向けると、

「ぼくなら、
どこでも結構です」
と、

小野木は簡単に答えた。
が、
案外に遠いところを見つめるような瞳《め》をしていた。


この人には知った店があるのかもしれない、
と輪香子は瞬間に見た小野木の眼差《まなざ》しで想像した。
食事のことで、
その知った店を考えたのだが、
そこに行こうとは言えない、
そんな感じの目の表情であった。


小野木はそこで誰かと食事をしている。
輪香子は、
深大寺の木の茂みから見た、
すらりとした背恰好の婦人を思いだした。


Aは、
近かった。
フランス料理で評判をとっている店だし、
設備も気がきいて、
清潔であった。


「小野木さんが、
検事さんとは存じませんでしたわ」

佐々木和子が、
ナイフを皿に動かしながら言った。


「はあ、
どのように見えました?」

小野木は、
軽い笑いをふくんでいた。


「そうですね、
はじめて深大寺でお見かけしたとき……」

和子は、
輪香子の顔をうかがうように、
ちらりと見た。


「若い学者かと思いましたわ」

輪香子も、
その観察には同じ意見だった。
諏訪で初めて見たとき、
そうだと思いこんだものだ。


「それは光栄ですな」
と、

小野木は、
若どりの蒸焼《むしや》きの脚をつまんで言った。


「がっかりなさったでしょう、
こういう殺風景な職業で」

「いいえ」

佐々木和子が、
急いで否定した。


「そのほうが好きなんです。
きっと学者|型《タイプ》の検事さんだと思いますわ」

輪香子の方をむいて、
「ねえ、
あなたもそう思わない?」
と、

上目で共感を求めた。


「ええ」

輪香子は仕方なしにうなずいたが、
佐々木和子が天衣無縫《てんいむほう》に、
小野木の中にぐんぐんはいってゆくのを羨しいと思った。


食事は一時間たらずで終わった。


フルーツを食べながら、
佐々木和子は、
「このまま、
帰るの、
なんだか惜しいわね」
と、

輪香子に言いだした。


「まだ時間が早いんですもの、
小野木さんをお誘いして、
映画でも見ない?」

「あら、
だめよ」

輪香子は、
びっくりしてとめた。


「用事があるの? これから」

「ううん、
そうじゃないけれど、
小野木さんが、
ご迷惑だわ」

「あら、
それなら大丈夫よ。
ねえ、
小野木さん、
いいでしょう?」

小野木は、
メロンを匙《さじ》でえぐっていたが、
仕方がないように苦笑してうなずいた。


見た映画は外国ものだったが、
ひどくつまらなかった。


「がっかりだったわね」

カーテンが閉まり、
場内に灯がついてから佐々木和子が言った。
和子の隣が小野木、
その隣が輪香子の順にすわっていた。
三人とも椅子を立ち、
明るくなって初めて顔を見合わせた。
観客は、
ぞろぞろ階段をおりていっていた。


輪香子も失望していた。
筋も平凡だったし、
演技も盛りあがりがなかった。


よい映画を堪能《たんのう》したあとの、
溜息の出るような感動は少しもなかった。
一時間半ばかり、
椅子にくくりつけられていた退屈感と疲労感しか残らなかった。


小野木も、
つまらなそうな顔をしていた。


佐々木和子が、
時計を見て、
「まだ十時前だわ。
どこかに行ってみない?」
と、

輪香子を誘った。


「まだ、
どこかに行くの?」

步きながら、
和子が、
輪香子の肩のところにすりよってきた。


「なんだかつまらない映画を見て、
気がおさまらないわ。
ぱっと派手な雰囲気にひたって帰りたいの」

「そんなとこ、
どこにある?」

「小野木さんとごいっしょに、
ナイト.クラブに行ってみない?」

「ナイト.クラブ?」

輪香子は驚いて、
佐々木和子の目を見た。
和子は白い歯を出して笑っていた。


「どう? 好奇心、
あるでしょう。
もう先から、
あたし、
行ってみたいと思っていたのよ。
でも、
女たちだけでは行けないでしょう。
今夜がチャンスだわ。
小野木さんに連れてっていただきましょうよ」

輪香子にとっても、
それは興味のないことではなかった。
小野木といっしょに未知の虹《にじ》のような世界にひとときを過ごすのはすばらしいことに思えた。
それは、
つまらない映画を見たあとの損失感を何倍か埋めてあまりがあるようだった。
しかし、
時間もおそいし、
小野木の当惑も考えなければならなかった。


「だって、
もう時間がおそいわ」

輪香子は、
一応、
言った。


「大丈夫よ。
四十分もいたら十分だわ。
あたしたち、
お酒をのむわけじゃなし、
ただ見学するだけだわ。
あたし、
車でお家までお送りしてよ」

佐々木和子は、
輪香子を引っぱるようにした。


「でも、
小野木さんに悪いわ」

「それは大丈夫だわ、
ねえ、
小野木さん」

和子はひとりぎめしたように、
小野木の高い背を見上げた。


「何ですか?」

小野木はふりむいた。


「あら、
おききになってらっしゃるくせに。
ナイト.クラブに、
連れて行っていただきたいんですの、
あたしたち、
行ったみたことがないんです」

「ぼくも、
一度もないんですよ」

小野木は、
ぼそりと答えた。


「大丈夫ですわ。
名前だけ、
あたし、
知っていますの。
クラブ.トロアっていうんです。
東京で一流なんですって」

佐々木和子の家は、
京橋の呉服屋で、
そのほうでは老舗《しにせ》であった。
近ごろの商法で、
各デパートの名店街にも支店を置いている。


和子の知識は、
父や兄の商売話から耳にはいったに違いなかった。


「悪いわ。
きっと高いでしょう」

輪香子は言ったが、
心のどこかで弾《はず》むものがあった。


「ばかね、
検事さんだけに払わせないわ」

これは、
小野木に聞こえないような低声《こごえ》だった。


「割り勘よ。
なんだったら、
あたしが立て替えてもいいわ」

やはり下町の娘だった。


「小野木さん、
お願い。
ごいっしょに行きましょうよ」

「そうですか。
ぼくはかまいませんが」

小野木は、
輪香子をちらりと見た。
かばっているような瞳《め》だったのが、
輪香子に小さな反発を起こさせた。


「小野木さん、
ちょっとだけ見せてくださいません?」

輪香子が、
すすんで言った。


二十分の後、
三人はタクシーを赤坂のナイト.クラブの前にとめていた。


真赤な制服をきたボーイが走りよって、
いんぎんにドアをあけた。
見ると、

フロアの前は、
高級車が列をつくってパークしていた。


玄関のドアをボーイが丁重にあけたとき、
佐々木和子は輪香子を見て、
ちょっと舌を出した。



ホールに出るまでの、
ほの暗い廊下を、
赤い制服のボーイが懐中電灯で案内した。
こういう場所の礼儀として、
小野木喬夫が、
女性たちの後ろについた。


佐々木和子が先頭だったが、
これは顔を上げてまっすぐに步いている。
緋《ひ》色の絨毯《じゆうたん》を長く敷いた通路を肩をたてて、
大股で足を運んでいた。


この海峡を通りぬけると、

広い海に出た。
赤い漁火《いさりび》がいっぱいに集まり、
人々がそれを囲んですわっていた。
空には満天の星がきらめいている。


初めてだし、
輪香子は、
あっと思った。
正面のホールに明るい光線が降りそそぎ、
客が群れて舞っていた。
背景には、
白服のバンドがいならんで、
音楽を演奏している。


緑色のドレスをきた小柄な女がマイクの前でうたっていた。


ボーイが隅の白いテーブルに案内した。
佐々木和子が、
ボーイに椅子をひかせて鷹揚《おうよう》にすわった。


周囲の卓は、
客でいっぱいだった。


「おのみものは何になさいます?」

ボーイが、
腰を折って注文をきいた。


小野木が、
佐々木和子と輪香子の顔を見た。


「ワカちゃん、
何にする?」

和子が忍び笑いをおさえるようにして、
首を伸ばした。


「そうね。
あなたに任せるわ」

輪香子は何をのんでいいか、
見当がつかなかった。


「そう」

佐々木和子は、
体をそらせた。


「ピンクレディ」
と、

のぞきこんでいるボーイに指を二つ見せた。


「はい」

ボーイが、
かしこまってメモにつけた。


「ぼくは、
ハイボールでももらおうか」

ボーイは足音を殺して去った。


「ピンクレディって、
どんなの?」

輪香子は心配になって、
友だちにきいた。


「よく知らないの」

和子は舌を出した。


「名前だけ、
誰かが言ってたのを覚えていたの。
さあ、
どんなのが来るか、
判じものだわ」

曲が変わって、
ルンバになった。
ホールでは、
忙しそうに客が踊っている。


輪香子はあたりを見まわした。
外国人の客が多い。
金髪の婦人たちが目立つせいか、
洋画の一場面に、
自分が身を置いているような気がした。
黒い天井には、
小さな孔《あな》が無数にあいて灯がきらめいていた。
白い卓は、
ホールを中心に半円にひろがって、
赤い筒型《つつがた》のスタンドの中に蝋燭《キヤンドル》が燃えている。
外国人の客の顔が赤く浮き出ていた。


ボーイが、
銀盆の底を三つ指で支えて、
グラスを運んできた。
小野木の前には黄色、
輪香子と和子の前には、
桃色の液体が配られた。


輪香子は、
目を落として、
「きれい」

と言った。
グラスの酒の色のことだった。


「ジュースみたいね」

和子は、
目八分に透かして見て言った。


「酔うかしら」

首を傾《かし》げて、
「ねえ、
小野木さん?」

ときいた。
和子の鼻と口とが、
赤いスタンドのせいで、
真赤になっていた。


「さあ」

小野木は微笑した。
知らない、
と正直に言って、
「こういうものは甘いけれど、
あとで酔うと聞いています」

と言った。


「ワカちゃん用心あそばせ」

グラスをあげると、

「今夜の、
よき脱線のために」
と、

和子が言った。
輪香子も小野木も笑いながら、
グラスのふちを合わせた。


輪香子は液体に口をつけた。
甘いし、
快い刺激があった。


「おいしい」

和子が目をまるくして言った。


「こんなにおいしいものとは知らなかったわ。
小野木さんは、
どう?」

黄色いグラスを見てきいた。


「ぼくのは辛《から》いです」

「そう?」

薬でものむように、
たしなんですすって、
「小野木さん、
一口、
おのみになりません?」
と、

自分の桃色のグラスを、
ちょっと高くさしあげて見せた。


「いや、
ぼくは結構です」

小野木は苦笑していた。


輪香子は、
ここでも佐々木和子が、
小野木に甘えるように、
自由にふるまうのが羨しかった。


正面のバンドは、
絶えず曲を変えて鳴っている。
卓と卓の間の、
狭い通路を、
踊りの客が女づれで往復した。
この雰囲気が、
輪香子を自然と浮き立たせた。


「小野木さんと踊らない?」

佐々木和子が輪香子に相談した。
和子の目も、
紅色の灯のせいかきらきら輝いていた。


輪香子が、
ちらと小野木の顔をうかがうと、

小野木はすこし狼狽《ろうばい》して首を振った。


「ぼくはだめですよ。
踊れないんです」

「うそ!」

「本当です」

「あら」

和子が叫んだ。


「学生時代に、
おやりにならなかったんですか?」

「友人はやっていましたがね、
ぼくは無精だから、
つい……」

「ご勉強ばかりなすっていらしたのね?」

「そういうわけでもないのですが、
習う気がしなかったんです。
やりだしたら、
おもしろいらしいですね。
ぼくの友人で凝《こ》りだして、
ダンス教師になった者がいますよ」

小野木はグラスを置いて、
煙草をとりだした。
青い煙が、
暗い光の中に浮いて流れた。
小野木の目は、
ホールで踊っている人たちの姿を見ている。
静かな目だったし、
何かを考えているような目つきだった。
そのダンス教師になった友人のことを考えているのかもしれなかった。


「でも」

和子が言った。


「すこしは、
おできになるんでしょう?」

「いや、
全然です」

「お踊りになれるように見えますけれど」

和子が観察するように眺めて言った。
小野木は、
長身で均斉のとれた姿勢をしている。


「そうですか、
見かけだおしですよ」

「残念ですわ」

和子は、
溜息まじりに言った。


「あなたは、
踊りがお好きですか?」

小野木が和子にきいた。


「好きなんです」

和子が明るく答えた。


「へたですけれど」

「いいえ」

輪香子が口を出した。


「和子さん、
とても、
じょうずなんですよ。
クラスで一番だったでしょうね。


教習所に通ったりして」

「人ぎきの悪いことを言わないでよ」

和子が、
輪香子を急いでさえぎった。


「嘘ですわ、
小野木さん」

「いや、
それは結構ですよ」

小野木は声をたてずに笑っていた。


「ワカコ、
いやなこと言うのね」

和子が輪香子に目をむいた。


小野木のグラスには、
黄色い液体が半分以上残っていた。


「小野木さんは、
お酒、
あまり召しあがれないんですか?」

「そうなんです」

小野木は、
自分でもハイボールに目を落とした。


「これもだめです。
何もかも、
いけないですな」

「まじめなのね」

これは輪香子に向かって言った。


「やはり、
検事さんというと、

そういうことでも違うのかしら」

小野木は笑いだした。


「それとは関係ありませんよ。
同僚で、
大トラがいます。
いま、
大阪に赴任していますが」

「じゃ、
小野木さんは、
特別なのね?」

佐々木和子は、
顎《あご》の下に指を組んで言った。
ピンクレディはグラスの底に、
わずかに色をためていた。
気づくと、

和子の顔がひどくあかく見えた。


「カズちゃん、
酔ったのね?」

輪香子が気づかうと、

「ううん、
大丈夫」
と、

髪を振った。


「おいしいもの。
もう一杯、
お代わりいただこうかしら」

「もう、
およしなさいよ」

「あら、
ワカちゃん、
ちっとものんでないのね」

和子は、
輪香子のグラスに目をとめて言った。


「うん、
だってあとがこわいもの」

「お母さまに叱られる?」

「でもないけど」

「小野木さん」

と和子が言った。


「ワカちゃん、
ひとりっ子のお嬢さんなんです。
ですから、
とてもお家ではたいへんなんですの」

「いやだわ、
カズちゃん」

輪香子は言ったが、
小野木の目が、
急に自分の横顔に注がれているのを知って、
顔がほてった。


小野木喬夫は、
正面のホールをぼんやり見ていた。
踊っている客が多いので、
せまいところでは、
芋の子を洗っているようだった。
みんな愉快そうな顔をし、
抱きあって動いていた。
こういう場所は初めてで、
珍しいことと眺めた。


若い二人の女性も、
気持のいいひとだった。
いいところのお嬢さんらしく躾《しつけ》もよかったし、
その行儀の上で若さがあふれていた。
この若い純真さは彼にも爽快《そうかい》だった。


佐々木和子は、
やはり下町っ子らしく、
多少はひらけた感じだった。
田沢輪香子は、
高級官吏の家庭の空気を身につけていた。
どちらもいい。
友だちになれたら、
自分でも明るくなれそうだった。


ホールの人ごみの中には、
外人夫婦が踊っていた。
かなりの年輩だが、
若い人にまじって、
にこにこと笑い、
活発に踊っている。
夫は白髪で、
妻の顔には皺《しわ》があった。
傍で踊っている人や、
卓にすわって見つめている人たちのことは歯牙《しが》にもかけないような、
自分たちだけのたのしみに浸っている奔放な踊り方だった。


いいものだな、
と小野木は感心した。
日本人なら、
年齢を気にして、
こうはゆくまい。
その周囲に渦巻いているどの組よりも、
この老夫婦が清潔にみえた。
小野木の目は、
客席に自然に移った。


外人が多かったが、
無論、
日本人も来ている。
このナイト.クラブが一流なだけに、
客の身なりも、
行儀もよかった。
女たちを呼んでいても、
大声を出して笑う者はいないのである。


ふと、

三つばかり離れた卓に、
その日本人の客が、
じっと小野木を見ていることに気づいた。
いや、
相手の視線は、
小野木よりも、
傍にすわっている輪香子か、
佐々木和子に注がれているのかもしれなかった。
そうでなければ辻棲《つじつま》が合わない。
小野木の知っている顔ではなかった。


ほの暗い照明の中でも、
その男は四十前後にみえた。
やや面長だが、
鼻梁《びりよう》の高い彫《ほ》りの深い顔だった。
光線の薄いところだけに、
テーブルの上に乗ったスタンドの光が、
陰影を男の顔にくっきりとつけているのだ。
中年の好男子といっていい、
背の高いことは、
横の女たちの肩が、
ずっと低くみえたことで知れた。


その男客は、
片|肘《ひじ》をつき、
頬に軽く手を当てて、
煙草をくわえている。
女たちが何か言っているのに、
時々うなずきながらも、
目はこちらに向けているのである。


女たちも五、
六人、
その男客を囲んでいた。
彼女たちがここで働いていることは、
その服装の恰好でも知れたが、
よく来る客とみえ、
女たちは勝手にしゃべり、
勝手に笑いながら、
その男客に話しかけていた。


男客の顔は、
相槌《あいづち》のために、
適当に微笑が浮かぶ。
顔も女の方へふりむくのだが、
また、
手を頬に当てて、
小野木の方を眺める姿勢にかえるのである。
これは眺めているのか、
退屈のまま顔をこちらにぼんやり向けているのか、
それとも考えごとをしているのか分からなかった。
とにかく、
視線だけが、
こちらに向いているのは間違いなかった。


小野木は、
その男客が妙に気になった。
いや、
気にかけることではないかもしれない。
知らない人だし、
先方では、
顔を偶然にこちらに向けているだけで、
平気にしていればいいのかもしれなかった。
しかし、
小野木は、
自分が遠くから見られている、
という感じがしてならなかった。


「小野木さん」

佐々木和子が言った。


「はあ」

小野木は目を戻した。


「いやだわ、
二度、
お呼びしたんですのよ」

「そうですか、
すみません」

「おそくなるから帰りましょうか」

小野木は腕時計を見た。
十一時五分になっていた。


「失礼」
と、

あわてた。


「ずいぶんおそくなりましたね。
お家《うち》でご心配なすっていらっしゃるでしょう?」

「ううん、
それは大丈夫。
さっき、
ここからワカちゃん家《ち》と、

あたしんちとに電話しましたから。
ワカちゃんのお母さまは、
あたしがついていると、

ご安心なさるんです」

「それは、
たいした信用ですね」

「でも、
もう帰りましょう。
ボーイさんを呼んでくださらない?」

小野木は、
通りがかりのボーイを呼んだ。
会計のことを言うと、

ボーイは、
しばらくお待ちください、
とおじぎをして去った。


「いくらかしら?」

和子が赤い紙入れを、
そっと出して言った。


「さあ、
分かんないわ」

輪香子も見当のつかない表情をした。


「大丈夫ですよ。
ぼくがお払いします」

小野木が言うと、

「いけないわ。
あたしたち、
いつも、
割り勘で払ってるんです。
小野木さん、
今日から、
わたくしたちのお友だちでしょう。
ですから、
割り勘でお願いしますわ」
と、

佐々木和子が片手をあげた。


小野木はまた苦笑した。
そして、
そのことは、
小野木が、
いつのまにか彼女たちの友だちになっていることを意味した。
ボーイが、
伝票をのせた銀盆を持ってきた。
さすがに体裁が悪いから、
小野木が立て替えて払った。


椅子から三人が揃って立ちあがった。
佐々木和子は、
踊っている組を未練そうに見ながら、
「ねえ、
小野木さん、
少しダンスをお習いになって、
あたしたちと踊ってくださらない? あたし、
お教えしますわ」

と言った。


しかし、
小野木は、
三つへだてた卓の紳士が、
まだ、
自分の方をぼんやり見ているのを知った。
上等の客らしいのである。
カクテル.ドレスの女たちも大勢よんでいるし、
支配人のような男が、
その客に腰をかがめて、
お愛想を言っていた。



玄関のブザーが二度つづけて鳴った。


ブザーの鳴らし方で、
訪問客の種類が、
輪香子にもだいたい見当がついた。


父に陳情のためにくる人や、
役所の部下の人たちは、
短く、
遠慮そうに鳴らす。
かなり長く鳴らす人は、
父の友人か、
役所関係では、
対等の地位の人であった。


二度つづけて無遠慮に鳴らすのは、
郵便屋さんぐらいであった。
御用聞きは裏口からはいってくる。
輪香子が、
ブザーの鳴り方で、
ぼんやりそういう判断の仕方をしたのは、
この春、
女子大を出て、
家にいつくようになってからだった。


そのブザーは二度つづけて鳴ったから、
郵便屋さんが、
電報か速達を届けにきたのかと思ったが、
今日は日曜日だと思いあたった。


ブザーを二度鳴らすのは、
客に一人いた。
彼は日曜日にも鳴らすが、
普通の日の真夜中にも鳴らす。
辺見博《へんみひろし》という、
F新聞社の政治部の記者であった。


女中が二人ともいないので、
輪香子が玄関に出た。
ドアを内側からあけると、

輪香子の直感はあたって、
辺見博が薄色の上着をつけ、
ネクタイも、
ちゃんと締めて立っていた。


「こんにちは」

辺見は、
輪香子を見て、
すこしあわてたように頭をさげた。
彼の髪はあぶら気がなく、
無精に、
ばさばさと乱れていた。


「いらっしゃいませ」

輪香子は微笑んだ。
辺見とは、
かなり親しくなっていた。


「辺見さんだと思いましたわ」

「ほう、
なぜぼくだと分かりましたか?」

輪香子は、
ブザーのことは言わなかった。
それを言うと、

きっと鳴らし方を変えるにきまっている。


輪香子が笑って返事をしないので、
辺見は、
目のふちを少しあかくして、
「局長、
おられますか?」
と、

きいた。


「はい。
父はおります。
どうぞ」

辺見は、
この家では、
ただ一人のフリー.パスの新聞記者だった。
彼は、
足を玄関の中に入れながら、
片手にさげている包みを、
輪香子の目の高さまで上げた。


「これ、
お土産です」

輪香子は軽く頭をさげて笑った。
これも辺見の定石《じようせき》で、
お土産と言えば、
I屋のクッキーだった。


彼はこの家に、
もう何回来ているかしれなかったが、
手土産はかならずクッキーで、
クッキー以外には、
何も知識がないみたいだった。


「お母さま、
クッキーさんよ」

母は台所にいたが、
自然に、
「お父さまに、
そう言って」

と答えた。
輪香子が、
はじめて辺見のことを、
クッキーさんと陰で呼んだとき、
笑ってたしなめたものだが、
もう普通になっていた。


父は奥で、
調べものをしていた。
若いと言われている父も、
書類や新聞を見るときは、
眼鏡が必要になっていた。
日曜日でも、
父は、
ときに半日以上、
役所から持ち帰った仕事を、
ひとりで調べていた。


「あとで、
すぐ行く」

父は辺見が来たことを聞いて、
輪香子に顔も向けずに言った。
机の上には綴込《とじこ》みの書類が一山積まれていた。


輪香子が応接間に行くと、

辺見は椅子にかけて小型の本を読んでいた。
輪香子を見て、
それをポケットに押しこんだ。
彼の両方のポケットは何を詰めているのか、
袋のようにいつもふくれていた。


「父は、
すぐにまいりますわ」

輪香子は卓をへだてて、
辺見の前に腰かけた。


「そうですか、
すみません」

辺見は、
煙草をとりだし、
「暑いですなあ」
と、

火をつけた。


「上着、
おとりになったら」

「いや、
いいです」

辺見は遠慮した。
父に会うまでは、
と思っているのであろう。
が、
顔はさも暑そうにあかくなっていた。


「どうぞ。
かまいませんわ」

輪香子がすすめるので、
辺見は立ちあがった。
輪香子がその後ろにまわって、
上着をとるのを手伝おうとすると、

「いや、
結構ですよ、
結構ですよ」
と、

うろたえていた。


が、
輪香子はそれをとって、
洋服掛けにかけると、

彼の上着は、
びっくりするほど重かった。
ものがいっぱいに詰まっているに違いなかった。


「恐縮ですね」

辺見は、
てれたように、
ばさばさの頭をかいていた。


「輪香子さんは、
海にはいらっしゃらないのですか?」

白いワイシャツだけになり、
辺見は涼しそうな顔になってきいた。


最初のころは、
お嬢さん、
と言っていたが、
このごろでは、
名前を呼ぶようになっていた。
それほど辺見は、
田沢家に自由に出入りしていた。


輪香子は毎年、
房州《ぼうしゆう》の海岸で母と一夏の半分を過ごす例だったが、
今年は行かなかった。


「父が忙しくて、
ちっともやってこないので、
つまらなくなりましたの」

輪香子は答えた。
父は、
二日ぐらいしか東京から顔を見せなかった。
それに、
輪香子は学校を卒業したので、
今年は久しぶりに家にいるつもりであった。


「局長は、
本当に忙しいですね」

辺見は言った。


「ほかの局長連は、
そうでもありませんよ。
やはり、
R省では、
いちばん忙しいポストですからな」

辺見は、
わざと重要な地位という言葉を避けた。
輪香子の父は、
出身地の関係から、
保守党の有力者に目をかけられ、
父の勤めているR省の大臣が、
その有力者の側近であることから、
大臣にもひきたてられていた。


田沢局長は、
すぐに次官になる、
という噂は、
省内でも高かったし、
輪香子も聞かないではなかったが、
父には別な意図《いと》があるらしかった。


それは、
もっと大きな希望で、
適当なときに役人を辞《や》め、
有力者のヒキで、
郷里から代議士に打ってでるつもりのようだった。


つまり、
次官どまりの役人に見切りをつけて、
ゆくゆくは大臣を夢みているらしいのである。
そのことは郷里の地方政界の人がよくやってくるし、
陳情などでも、
父はよく面倒をみていた。
また、
父自身、
その有力者のところへは、
よく出かけていっていた。


しかし、
輪香子は、
それを父に確かめたこともなければ、
母から具体的な話を聞いたこともない。
そういう話を耳にするのは嫌いだった。
もっとも母は、
そのことに、
かなりの期待をかけているようだった。


辺見博は、
F新聞のR省詰めの記者で、
父にかわいがられているようだった。
辺見が、
夜中でもこの家に自動車を乗りつけてくるのは、
取材のためだが、
父は、
彼にだけは家の中に入れて話してやっているようだった。
ほかの新聞記者は、
いっさい、
家からは断わっていた。


「あの男は頭脳も優秀だし、
人柄がいい」

父が辺見のことを、
輪香子の前でほめたことがある。


「やはりF新聞は、
伝統のある大新聞だけに、
気風がちがうよ。
そのなかでも辺見は優秀だ」

父は、
前からF新聞がひいきだった。
よく聞くと、

それは祖父の代からなのだ。
父の辺見好きはF新聞びいきから出ているようだった。


「お父さまが、
大臣になられたら」

母が笑いながら、
半分は本気にきいた。


「辺見さんを、
秘書官になさいますの?」

「ばか。
大臣になるかどうか分からんのに、
そんなことは言えない」

父は、
しかし、
まんざらでもない顔色だった。


「だって」

母は、
その話から離れなかった。


「いまの経企庁長官のHさんだって、
もとはR省詰めの新聞記者だったでしょう。
それをAさんにかわいがられて、
Aさんの大臣秘書官になり、
代議士に当選なすって、
現在の地位におなりになったのでしょう?」

「そんな例は、
ほかにも、
いくつもあるさ、
なにもH長官だけではない」

父は、
そのとき輪香子がいたので、
控え目だった。


「だからといって、
おれが辺見をどうしてやろうというわけではないよ。
あまり変なことは言わないでくれ」

父は、
そのときはそう言っていたが、
輪香子の予感では、
母の想像が正しいように思えた。
たしかに、
父は辺見博を、
その地位で傍《そば》におきたいように思えた。


そのことをもっと進めると、

父の心には、
輪香子の結婚の相手として、
辺見博を意識しているようなところがあった。
母は、
それには父よりももっと積極的かもしれなかった。


もっとも、
それは一度も、
父や母から出た話ではない。
輪香子が、
なんとなくそう感じるだけである。
この予感もあたっていそうだった。


辺見博は、
さっぱりしたいい人である。
輪香子は辺見が好きだったが、
それは愛情の対象としてではなかった。
友人としてなら尊敬もできるし、
心がおけなかったが、
結婚相手として考える気持はなかった。


辺見のほうでは、
輪香子に好意をもっているらしかった。
それも、
彼ははっきりと表わすのではなかったが、
どこかそれは見えていた。
辺見博は、
ほかのことには、
陽性で、
行動的だったけれど、
その意思表示だけは、
ひどく臆病であった。


その辺見博が、
いまも輪香子とだけ向かいあって話していると、

妙に息づまりを感じたように、
あたりを見まわした。


どこかに、
呼吸のしやすい窓はないか、
と探しているようだった。


その窓が目にとまった。
ピアノである。


「ピアノの練習、
なさっていますか」

辺見博は、
椅子から立って、
ピアノに步きながら輪香子にきいた。


「ええ、
でも、
このごろ、
ずっと怠けてますの。
一向にじょうずになれませんのよ」

「そうですか」

辺見は、
自分の顔を、
黒い台の上に映していたが、
「輪香子さん、
ちょっと、

いたずらしてもいいでしょうか?」
と、

ふりかえった。


「どうぞ」

輪香子は微笑した。
実際、
辺見博のような男が、
ピアノの前にすわること自体が、
はなはだ不似合であった。
どうせ、
一つ覚えの童謡か、
流行歌の一節だろうと思っていた。


辺見はピアノの前にすわると、

両指を交互に折って、
ぽきぽきと骨を鳴らした。


「もう忘れたかな」

首を傾げて、
ちょっと、

目をつむっているふうだったが、
やがて鍵盤《キー》の上に両手の指をかけた。


最初の音色が出た。
正確な音階だった。
輪香子が驚いていると、

ショパンの「雨だれ」が始まった。


輪香子はびっくりした。
あっと思ったのは、
この人が、
という意外さだった。
辺見博は、
キーを叩きつづけた。
無恰好だと思っているこの人の指が敏捷《びんしよう》にキーの上をはねて走ってゆくのである。
辺見のいかつい肩とは、
まったく別なところから、
ショパンが鳴っているようだった。


輪香子が凝《じつ》としていると、

母が果物皿を持って出てきた。


「あら」

母は低く叫んだ。
そこに立ったまま、
目をみはって、
辺見を見ている。
実際、
呆《あき》れたような見つめ方であった。


輪香子も母も、
その三分間の演奏が終わるまで、
毒気をぬかれて聞いていた。
最後のキーを弾《はじ》いて、
辺見博は、
こちらにくるりと向きなおった。
色の黒い顔をにこにこさせていた。
輪香子は気づいて拍手した。


「いらっしゃい」

母は早口で言って、
「驚きましたわ、
辺見さんがショパンをお弾《ひ》きになるなんて!」

とまだ目をくるくるまわしていた。


「こんにちは」

辺見は、
頭をかいて母におじぎをした。


「立派なものですわ。
ほんとにどこで、
お習いになったのですか?」

母はきいた。


「学生時代ですよ。
これでも音楽部員でしたからね。
いたずら半分にやったことがありますが、
とても、
もうだめなんです」

「そんなことはありませんわ。
ほんとうにお上手ですわ。
これからは、
たびたび、
聞かせてくださいね」

母が言っているときに、
父が薄物の着物に巻きつけ帯ではいってきた。
父は肥《こ》えているので着物もよく似合った。


「やあ」

父は辺見に言った。


「おじゃましています」

辺見博は立ち上がって、
礼儀正しくおじぎをした。


「あなた」

母が、
さっそく、
父に言った。


「辺見さんが、
今、
ショパンをお弾きになったんですよ」

「へえ、
辺見君がか?」

父も珍しそうに辺見を見ていた。


「それが、
とても、
おじょうずなんです。
わたしはびっくりしました」

「そうか」

父は微笑していた。


「嘘《うそ》ですよ、
へたくそなんです。
困りますね」

辺見は、
額にうすい汗をかいていた。
彼はポケットからハンカチを出したが、
皺だらけで、
黒くなっていた。
それを平気で自分の額に当てた。


「おまえたちは、
ちょっとあちらへ行ってくれ」

父は、
笑いながら、
手を振った。
辺見の質問に、
父が答えてやるためだった。
母が廊下に出て、
輪香子に低声《こごえ》で言った。


「辺見さんがピアノを弾こうとは思わなかったわね。
快活な人だとばかり思っていたけれど」

母は、
辺見博の嗜《たしな》みに満足しているようだった。



母は、
台所で、
新しくコーヒーを沸かしていたが、
腕時計を見て、
「もう、
そろそろ四時だわね。
辺見さんにお食事を出さなくちゃ」

と言っていた。


夕方に客が来ると、

たいてい夕食を出すことにしている。
輪香子が、
母が言うのは、
その習慣かと思っていると、

「あ、
そうそう」
と、

なにかいいことを思いついたように、
輪香子を見て微笑した。


「あなた、
この間からお父さまに、
お食事に、
どこかに連れていっていただきたいとねだっていたわね。
ちょうど、
いい機会だから、
辺見さんをお誘いして行くよう、
お父さまに言いましょうか?」

「そうね」

輪香子は、
一家で食事をしに外に出るのは好きだったが、
辺見博がいっしょに行くのは、
すこし気が重かった。
辺見が嫌いだというわけではないが、
やはり家族だけで食卓を囲みたかった。


が、
母は辺見が好きだったし、
父も気に入っていた。
ここで異をたてるのは、
輪香子に気おくれがした。


「お父さまがよろしかったら、
それでもいいわ」

輪香子が賛成したので、
「じゃ、
そうしましょう。
いい思いつきだわ」
と、

母は顔を明るくしていた。


「お父さまのお話、
まだすまないかしら?」
と、

応接間の方をうかがうように見たりした。


コーヒーが沸いた。
母がそれを茶碗に注《つ》いで、
「あなた、
これを出して様子をみてらっしゃいよ。
そして、
よかったら、
お父さまにおねだりしてごらん」
と、

輪香子にお盆を持たせた。


輪香子が応接間をノックすると、

父の声で、
はい、
と言った。


父は輪香子を見て、
「なんだ、
おまえか」

と言った。
母が来たと思ったらしい。
話はすんだ模様で、
辺見博は手帳をポケットにしまうところだった。


「お母さまはどうした?」

父はきいた。


「台所にいらっしゃるわ。
お呼びしますか?」

輪香子が言うと、

父は、
なんとなく輪香子の顔を眺めて、
「そうだな。
じゃ、
おまえでもいい。
今夜、
辺見君とみんなで飯を食いに行くからね。
お母さまにそう言いなさい」
と、

言った。


「あら」

輪香子が笑うと、

「なんだい?」

父は咎《とが》めた。


「いま、
それをお母さまからことづかったところなんです。
お父さまにおねだりしろって」

「なんだ」

父は目もとに笑いを見せ、
辺見に顔を向けた。


「君の都合はいいだろう?」

「はあ」

辺見は、
ちょっと頭をさげた。


「ご馳走になります」

辺見は、
少しもわるびれなかった。


「じゃ、
そう決めよう」

父は満足そうに言った。


「輪香子、
赤坂に『谷川《たにがわ》』っていう家《うち》があるからね。


私の名を言って、
これから四人で、
飯を食いにいくから、
と言ってくれ」

「はい」

父は、
その電話番号を言った。


台所に行くと、

ちょうど、
外から帰ってきた女中に、
母は何か言っていた。


「どうだった?」

母は輪香子をふりむいた。


輪香子は笑った。


「いま、
お食事する家に電話するところなの。
お父さまから、
先におっしゃったわ」

「そう」

母は、
多少うきうきした様子で、
台所を離れて行った。


輪香子が、
教えられた番号に電話すると、

若い女の声が出た。
田沢ですが、
と言うと、

向こうでは、
ちょっと待たせて、
野ぶとい女の声に変わった。


輪香子は、
父の言うとおりの用件を言った。


「かしこまりました。
ありがとうございます」

先方は礼を言ってから、
「あの失礼でございますが、
奥さまでいらっしゃいましょうか?」
と、

丁寧にきいた。


「いいえ……」

どのような言葉で説明していいのか分からないでいると、

向こうのほうで、
それを察したらしく、
「あ、
お嬢さまでございますか?」
と、

ききなおした。


「はい」

「それは、
それは。
どうも、
いつもごひいきに預かっております」
と、

さらに丁重な声になった。


その電話を切ると、

待っていたようにベルが鳴った。


輪香子が送受器をとると、

その声で分かったように、
「ああ、
ワカちゃん?」
と、

佐々木和子の声が弾むように聞こえた。


「そうよ」

「この間は愉快だったわね」

和子の声は笑いをふくんでいた。


「うん、
たのしかったわ」

輪香子の目には、
ナイト.クラブの様子と、

小野木喬夫の姿とが浮かんだ。


「おそくなったので、
叱られなかった?」

和子がきいた。


「ううん、
大丈夫よ。
だって、
あなたが送ってくださったもの」

「信用あるのね。
では、
安心だわ。
大きな声で言えるのね」

「何よ、
いったい?」

「今度、
また小野木さんをひっぱりださない?」

佐々木和子の声は、
勢いづいていた。


輪香子は、
すぐに言葉が出なかった。
動悸が急に打って、
息が詰まった。


輪香子がだまっているものだから、
佐々木和子が、
もしもし、
と言った。


「はい」

「どうなの、
いいでしょう? あたし明日あたり、
小野木さんに電話して都合きいてみるわ、
ね、
また、
遊ばない?」

「だって」

輪香子は、
和子の無神経に、
少し不愉快になった。


「小野木さんだってお忙しいわ。
そうひっぱりだしてばかりいちゃ悪いわ」

「ううん、
大丈夫よ」

和子は即座に言った。


「あのかた、
まだ新米さんでしょ。
そうおそくまで居残ってするほどのお仕事はないと思うわ。
そりゃ、
ご勉強だってなさるでしょうけれど、
毎晚、
誘いだすわけではないし、
かまわないと思うわ。
それに、
困れば、
お誘いしてもお断わりになるでしょうし……ねえ、
ワカちゃん、
小野木さんに電話してもいいでしょ?」

「そりゃ、
かまわないけれど……」

輪香子は、
どこか強引《ごういん》な調子の和子の声に負けて、
ついそう言ってしまった。


「そう? じゃ、
そうするわ。
返事が聞けたら、
あなたに電話するわね」

和子は電話を切った。


輪香子は、
和子の押しつけがましさが、
ちょっと厭だったが、
結局、
自分が反対しないでよかった、
と思った。
小野木と会うのが、
やはりたのしかった。
この友だちに持った不愉快さも洗い流された。


「お電話だったの?」
と、

母が出てきた。
応接間に行って父と話してきたらしい。


「ええ、
和子さんからです」

「そう」

母は、
それきりにして、
「さあ、
早く支度なさい。
今から行きますよ」
と、

輪香子をせきたてた。


「あら、
もう?」

窓には、
まだ明るい陽が残っていた。


「向こうに着けば、
いいかげんになりますよ。
さあ早く、
早く」

めったに父と外で食事をすることのない母は、
小娘みたいに浮きたっていた。
輪香子は、
かえって気の重い表情をした。


「ああ、
輪香子、
ちょっと、

あなた、
お支度は何にする?」

「お洋服でいいわ」

「着物のほうがいいんじゃない? お料理屋さんだし、
お座敷にすわるのだから」

着るとすれば、
どうせ派手な訪問着をきせられるにきまっていた。
そんな恰好をして、
辺見のような青年をまじえて食事をしたら、
ひとは、
どのような目つきをするであろう。
お見合のように見られるのは、
厭であった。


「着物なんか、
面倒で厭ですわ。
やっぱりお洋服にします」

輪香子は、
自分の部屋に逃げながら言った。
辺見博は、
よい青年である。


輪香子もけっして彼を毛嫌いするのではなかった。
明るいし、
行動的なのである。
父がほめるだけに頭脳もよさそうである。


無頓着《むとんじやく》かというと、

そうではなく適度の礼儀も心得ていた。
ショパンをひくような指先も持っている。
新聞記者としても有能らしいが、
いわゆる社会部記者みたいな粗笨《そほん》さはなく、
政治部に籍を置いているだけの行儀のよさがあった。


が、
輪香子には、
辺見がそれ以上の対象には映らなかった。
尊敬する友だちなら、
いつでもなれそうなのである。


辺見を見ると、

輪香子は、
小野木喬夫のことを思わずにはいられない。
比較して見るわけではないが、
小野木には、
辺見のような明るさがなかった。


肩のあたりに、
いつもうすら寒い風が吹いているみたいだった。
明るい光線の射す場所に置いても、
小野木喬夫は、
どこか暗い一点を見つめるような眼差しをしそうであった。


輪香子は、
上諏訪駅のホームを、
肩鞄をかけたジャンパー姿で步いている小野木の横顔が、
よく目に浮かぶのである。


人間は他人《ひと》の目のないときに、
無意識に見せる横顔に、
そのひとの心が現われているようだった。
輪香子が汽車の窓から、
ふと眺めた小野木がそうなのである。
少し、
うつむきかげんの、
孤独な横顔であった。


どういうのだろう、
と輪香子は思った。
小野木の寂しさは、
どこからきているのか。
生い立ちも、
現在の環境も聞いたことがない。


輪香子は、
ふと深大寺で、
小野木の横を静かに步いていた女性が目に蘇《よみがえ》った。
彼の寂寥《せきりよう》は、
その女性が翳《かげ》をおとしているのではなかろうかと思った。


『谷川』は、
しゃれた板で囲った塀の中にあった。


自動車で通ってみたのだが、
この界隈《かいわい》は、
同じような料理屋さんが塀をならべている。
輪香子が、
新聞などで知った有名な家の名前が、
表の看板にあったりした。


五十ばかりの丸く太った女将《おかみ》が、
打ち水をした石だたみの正面の玄関に出てきて、
「いらっしゃいませ。
ご機嫌よろしゅう」
と、

輪香子の父に笑顔で挨拶した。


大勢の女中も、
女将の後ろに膝をついている。
これは父よりも、
母や輪香子を、
それとなく観察しているようだった。
座敷は、
庭を眺めるところにあった。
凝《こ》った造りで、
やはり瀟洒《しようしや》なのである。
暮れた庭には石灯籠があり、
暗い灯がはいっていた。
白い庭石の上に、
植込みの茂みの葉が、
かすかに鳴っていた。


女将は、
母に向かって、
局長さんに、
いつもごひいきになっております、
と礼を言った。


「これはお嬢さまでございますか。
さきほどお電話でお声を拝聴しましたが」
と、

輪香子を見て、
「本当に、
おきれいでいらっしゃいますね」
と、

少し身を退《ひ》く恰好をして、
打ち眺めるようにした。
その女将の姿勢は、
踊りをしているひとの形になっていた。


「今夜は、
家庭サービスだからね」
と、

父は笑いながら言った。


「おかみさん、
酒はあまりいらないから、
おいしいものを出しておくれ」

「はいはい、
かしこまりました」

女将は両手の拳《こぶし》を畳につけて頭をさげた。


「局長さん、
家庭サービスなんて結構でございますね。
お羨しいですわ」

「いやいや、
あんまりそうほめてくれるな」

父は苦笑して、
真向かいにいる辺見博を、
あわてたようにさして、
「これは、
家《うち》に出入りする新聞社の人だ。
今夜は、
いっしょに来てもらったが、
家族みたいに親しいから、
新聞記者の強面《こわもて》を恐れずに、
サービスしてくれ」

と女将に言った。


「おや、
さようでございますか。
いえ、
どういたしまして。
よろしくお願いします」

女将は辺見にも丁寧に頭をさげ、
「あたくしは、
また、
お嬢さまとご婚約のかたかと、

ひとりで考えておりましたが」
と、

口に手を当てて笑った。


辺見は、
あかい顔をして苦笑している。
母は微妙な微笑をした。
輪香子は、
やはり辺見を入れてくるのではなかった、
と思った。


料理は、
容器といっしょに中身も凝っていた。
女将が出て行ったので、
母は、
女中に料理のつくり方などきいたりして、
上機嫌だった。


父と辺見とは、
しばらく酒をのんでいた。
辺見は、
出されてくる料理をよく食っている。


「辺見さん、
お帰りになっても下宿ではつまらないでしょう。
今夜はご遠慮なさらずに、
ゆっくり召しあがってくださいね」

母は卓をへだてた斜め向こうの辺見に言っていた。


「遠慮なんかしません。
十分に栄養をつけさせていただいてますよ」

辺見は、
たのしそうに言った。


「あ」

と母は、
不意に思いだしたように箸《はし》を途中でやめた。


「お安《やす》さんに言い忘れたことがあるわ」

母は輪香子を見て、
家の女中に、
それを電話で言ってくれ、
と頼んだ。


電話は部屋になく、
電話室は廊下の離れたところにあった。
女中の一人が立って案内した。


輪香子は、
女中のあとから磨きこんだ廊下を步いた。


廊下に出たときに知ったのだが、
ひとりの女性が先を步いていた。
それは別の部屋から出てきたばかりという印象で、
むろん背中が見えるだけだった。


すんなりとした背恰好なので、
輪香子が美しいと聞いているこの辺の芸者ではないかと思ったくらいである。


が、
廊下の角を曲がるとき、
その女性は、
ちらりと白い横顔を見せた。
それも一瞬の間だった。
たちまち姿は消えてしまった。


輪香子は、
もうすこしで、
あっ、
と声を出すところだった。
横顔が小野木と步いていた深大寺の女性によく似ていた。
瞬間の目の印象だが、
そう決めていいくらいだった。


いまの女性が出て行ったであろう部屋は、
廊下の横にあった。
無論、
襖《ふすま》は閉まっている。
が、
その部屋の前には一組のスリッパが、
廊下にきちんとそろえられてあった。


輪香子は、
その襖の奥に、
小野木喬夫がすわっているような幻覚で、
顔色が自分でも白くなるのを覚えた。


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