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06風


結城頼子が座敷にもどったとき、
夫は、
黒檀《こくたん》の台に肘をもたせて、
女将《おかみ》と小さな声で話していた。


結城|庸雄《つねお》は背の高い男で、
まるい体の女将と話をするため、
細身を前向きにかがめている。
額が広く、
鼻梁《びりよう》が高い。
すこし長顔で、
彫りが深く、
いつも、
眉をややひそめている癖は、
苦味走った中年の好男子という印象があたる。
玄人《くろうと》筋の女性に好かれる顔だ、
と夫の友人が頼子の前で言ったことがあった。


頼子が襖をあけたときに、
夫と女将の、
声をひそめた話しぶりは目にはいったが、
頼子は気づかないふりをして、
自分の席にすわった。


「そりゃあいいお話ですけれど」

女将は急に顔を結城庸雄のところから離し、
体をそらせた。
声も大きくなったのである。


「あの土地は、
高うござんすからね。
この間、
あの近所の宮さまの地所を、
女優さんが法外な値段で買って家を建てたそうじゃありませんか。
うちなどは、
まだまだですよ」

「そうかな」

結城庸雄は、
グラスのウィスキーを、
うつむいてながめながら言った。


「おかみさんのところは、
相当あると思ったが」

「いいえ」

女将は、
大仰《おおぎよう》に手を振って、
「借金だらけでございますよ。
なかの世帯は火の車で。
……申しわけございません」

あとは、
料理の皿に静かに箸をつけている頼子にも、
賑やかに笑いかけたものだった。


この話題が、
頼子が部屋にもどってくる前の密談の内容と違っていることを彼女は知っている。
彼女は、
おとなしく笑ってみせた。


卓の上には、
杯に冷えたままの酒が置いてある。
いくつもの皿や鉢が、
明るい電灯の下で、
はなやかであった。


珍しいことに、
夫が誘ったから、
頼子は、
この『谷川』にきたのだった。


日ごろは、
黙って出かけたまま、
一週間に一度帰るか、
十日に一度帰るかして、
すぐに外に出かけてゆく夫を、
よその人のように眺めて暮らしていた。


夫は遠いところに出張するのではなく、
都内に別の家をもっていた。


何日かぶりに帰ってきても、
頼子は夫にその間の動静をきくのではなく、
夫も話そうとはしなかった。
夫が家を出かけるときも、
頼子は玄関に膝をついているだけで、
何を質問するのでもなかった。
このようなしきたりは五年来のことで、
もとより頼子が夫から慣らされ、
あとでは夫も妻から慣らされたものだった。


女中は二人おいていたが、
料理は頼子のためだけであった。
夫には少しもその必要がない。
十日目ぐらいに帰ってきても、
夫はその晚に、
食事もせずに外へ出るのである。


夫婦の間に、
口のいさかいはなかった。
よそから見ると、

静かな夫婦とうつるかもしれなかった。
夫は、
きわめて短い、
必要上のことしか言わなかった。
頼子の答え方もそうであった。
夫に口をきくときは返事だけにかぎられていた。


夫の身の回りのことは頼子は妻として遺漏《いろう》なくつとめた。
もっとも、
久しぶりに帰ってくる夫の脱ぎ捨てたものには、
頼子の手にかかっていないものがいくつもある。
それが夫のもう一つの生活の意匠《いしよう》なのだが、
頼子はそれを気にかけたこともなかった。


夫が、
何日かぶりに一度、
帰ってきて、
その日のうちに床にもはいらないで、
すぐに出てゆく気持は頼子に分かっていた。
そのことがあるので、
身の回りのことだけは、
妻の義務をはたしているといえる。


夫が『谷川』に飯を食いにいこうと言いだし、
それに従ったのも、
頼子は義務の一つとしか考えていなかった。
夫は傍にいるが、
遠くにすわっているのと同じであった。


これも、
他人の目にうつることだが、
ここにいる頼子はおとなしい夫人に見られたに違いない。
夫が話していることを横で静かに聞いているのである。


唇のあたりに微笑を時々、
浮かべるが、
これを薄い嗤《わら》いと知っているのは夫の庸雄だけであろう。
女将は、
初めて会う頼子に目をみはって、
「おきれいな奥さまですこと」
と、

結城庸雄の耳もとで、
驚いた声で言った。


結城庸雄は声を出さずに笑っていた。
彼が、
うつむいて微笑《ほほえ》む時は頬のあたりにかげりができるので、
冷たい魅力があると、

見た女たちが騒いでいた。
女将に妻のことをほめられたときも、
結城庸雄は、
同じ表情をして黙っていた。
これも見方によっては、
内側に愛情をふくんだ鷹揚《おうよう》な夫の雰囲気を感じさせたかもしれない。


「おかみさん、
そろそろ、
誰かを呼ぼうか」
と、

結城庸雄は、
ひとりで言った。


「あら」

女将は驚いて目をあげた。


「今夜は、
奥さまをお連れでいらっしゃるじゃありませんか?」

「かまわないんだよ、
これは」

結城庸雄は、
黒檀の卓に両手を突いて立ちあがりながら、
頼子のほうを見ないで言い捨てた。


頼子が女将と、

庭のことを話しているとき、
庸雄が手洗いから帰ってきた。


「言ってくれたかい、
いつものを?」
と、

きいたのは、
彼が始終よんでやっている芸者のことだった。


「ほんとに、
よろしいんですか、
奥さまも?」

女将は頼子の方を見た。


「どうぞ」

頼子は笑った。


「わたしも、
きれいなかたを拝見したいのですから」

「そうですか。
では、
ただいま」

女将は、
傍の女中に、
目くばせした。
女中は女将の口もとに耳を持っていって、
立ちあがった。


「いま、
そこで」

結城庸雄は、
女将の方を向いて言った。


「きれいなお嬢さんに出会ったよ」

「まあ、
そうですか」

「洋服を着た、
まだ二十《はたち》ぐらいの若いお嬢さんだったが。
お客さんかい、
誰かが連れてきた?……まさか、
こんなところで、
女子学生の同窓会を開くわけはないだろうが……」

「ああ、
それは」

女将が思い当ったように言った。


「ご家族づれでみえてるんですよ。
そこのお嬢さまでしょう、
きっと」

「ほう、
誰かな?」
と、

首をかしげたのは、
その娘の父親のことだった。


「それは……」

女将は曖昧に笑って、
「今夜は、
家庭サービスのお組が多いんですのね」

「多いって?」

「ほら、
こちらさまも、
そうじゃありませんか?」

女将に言われて、
結城庸雄は、
鼻でわらった。


「ふん。
ぼくのほうは……」

と言いかけてうつむき、
グラスをとった。


頼子は、
知らぬ顔で箸を動かしていた。
庸雄は頼子のほうに向って、
ものを言っていない。
女将にだけ目を向けていたし、
頼子が微笑をして言うときも、
女将の方に顔を上げていた。


女将もおかしいと思ったらしい。
が、
そのまますぐには座が立てないので、
「一昨日の晚もね」
と、

笑い声をまじえて言った。


「うちのお客さまが、
十時ごろからナイト.クラブに連れてってやろうとおっしゃるので、
ついて行きましたよ。
あたくしも、
めったにのぞいたことがないので、
年寄りのくせに、
つい、
尻に乗って行きましたが」

「ナイト.クラブは、
年寄りの婦人でも、
来ている。
外人なんか、
そうだな」

「そうなんですよ。
アメリカ人のお婆さんが踊ってるんです。
驚きましたね」

「おかみさんだって踊っている」

「厭ですよ。
あたくしのは若いときから、
ひとりで踊るんです。
殿方なんぞと抱きあって踊りはしません」

「どこのナイト.クラブだね?」

「横浜ですよ」

「横浜?」

結城庸雄は、
不意に言葉を切った。


頼子の心に風が起こった。
が、
蒸焼きの錫紙《すずがみ》をとりのぞく手は、
しっかりとしていた。


「横浜とは、
遠出だね」

庸雄は、
ぽつんと言った。


「そうなんですよ。
あたくしは厭でしたが、
車でドライブしようとおっしゃるんで……」

「おかみさん、
横浜、
よく知ってるの?」

「昔から出無精ですから、
よく知らないんですよ。
お客さまに笑われたくらいです」

「山下公園、
行ったかい?」

頼子は、
瞬間に目をつぶった。


「ああ、
海の見える、
大きい汽船の浮いたとこなんでしょう?」

「そう」

「ちょっと、

お客さまが見せてくださいましたよ。
婆さん、
どこも知らないから、
と言ってね。
でも、
夜はあんなとこ、
木が多くて寂しゅうござんすね?」

「寂しいところがいいんだ」

結城庸雄は声を出して初めて大きく笑った。


頼子は箸をおいた。


芸者が四人で賑やかに、
『谷川』の内玄関にはいってきた。


座敷から出てきた女将がそこにいて、
女たちの挨拶をうけると、

「ちょっと」
と、

そのなかの一人を呼びとめた。


「はい」

丸顔の、
目の細い妓《おんな》が、
体を振るようにして、
女将の横にきた。


「ユーさん、
ひとりじゃないよ」

「お客さま?」

「奥さまとごいっしょだよ、
あんた」

「あら」

丸顔の妓は、
細い目をいっぱいに見開いた。
色を変えたような表情をしている。


「気をつけなさいよ」

妓は黙っていたが、
「奥さん、
偵察に見えたんじゃないかしら?」
と、

不安そうな顔をした。


「まさか」

女将は言って、
「そんな奥さんとも見えなかったがね。
おとなしいかたのようだけれど……」

すこし考えるような目になっていた。


「何よ、
おかあさん?」

妓は女将の目つきを気にかけた。


「いえ、
なんでもないよ。
ただ、
気をつけてね。
いつもと違うんだから」

後ろに立っている三人の妓に目を移して、
「あんたたちも、
つまらないことをうっかり口に出すんじゃないよ」
と、

注意した。
三人とも、
首をちぢめて、
「はいはい」
と、

廊下をもつれるようにして步きかけるのに、
「ちょいと」

女将は追うように言った。


「奥さん、
とてもきれいなひとだからね」

「まあ!」

これは四人とも、
大仰に声をあげた。


女将が、
帳場にはいると、

女中頭が会計と話をしていたが、
女将を見上げて言った。


「ユーさん、
初めてですね、
奥さんを連れてくるなんて」

「驚いたね、
蝶丸《ちようまる》さんを呼ぶんだから」

女将は、
そこにあるせんべいを、
口の中に入れた。


「でも、
あの奥さんじゃ、
蝶丸さん、
足もとにもよれませんよ」

「そりゃ、
そうさ。
あの妓《こ》、
帰りには目を泣きはらすよ」

「奥さんの着てらっしゃる衣装だって十万以下じゃありませんよ。
指輪のダイヤだって、
二カラットぐらいですね。
とてもいい趣味で……でも……」
と、

これは声を急に小さくして、
「ユーさんて、
何が本当の商売でしょう? 奥さんにあんな贅沢《ぜいたく》がさせられるんですもの」

「あたしにもよく分からないよ」

女将は、
眉《まゆ》をすこししかめて、
答えた。


「政治家でも実業家でも、
誰のことでもよく知ってるようだけれど、
自分のことはちっとも言わないからね、
いまだに正体がよく分からないよ」

女将はいっそう、
声をひそめた。


「ちょっと、

薄気味が悪いね」

このとき、
座敷から女中を呼ぶブザーが鳴ったので、
女中頭は急いで出ていった。


女将は口に入れたせんべいを噛みくだいた。


頼子は、
ひとりで『谷川』を出ると、

砂利道を步いて、
広い道路に出た。


門の外に待っていた運転手が、
あわてて車からおりてドアをあけようとするのを、
自分は用事があるからいい、
と断わった。


タクシーを拾った。


「どちらへ?」
と、

運転手がきく。
すぐには行先が出なかったが、
前に一度、
通ったことがある場所を思いだし、
「三河台町《みかわだいまち》の方へ」

と命じた。
夜の寂しい街であった。


芸者がはいって三十分もしてから、
夫には、
銀座で買物があるから、
と断わって、
座敷を出た。


「そう」

夫の庸雄は一言《ひとこと》言っただけで、
芸者の方へ勢いよく話しかけていた。


夫は、
今夜からまた帰らぬであろう。
芸者のなかにひとり、
妙に頼子に意識をもった女がいた。


頼子にもそれは察しがついた。
しかし、
そのことで頼子が座敷を中座したのではなかった。
これは、
その芸者が来る来ないにかかわらず、
初めから決めたことだった。


三河台町の電車通りを横にはいったところで、
頼子は自動車をおりた。


両側に大きな邸宅がならんでいて、
塀がつづいている。
外灯が、
距離をおいて、
光の輪を投げているだけで、
步いている人もあまりなかった。


道は急な下り坂となり、
石だたみとなっていた。
靴をはいていれば、
こつこつと足音が響くのである。


坂の下は、
小さな家の多い谷になり、
その向こうからふたたび坂道が起こっていた。
両側の塀は、
だんだんにずり落ち、
せり上がっている。
塀の上には蔦《つた》が覆《おお》い、
樹木が茂っていた。


風があって、
黒い梢も、
蔦も動いている。
塀の中に見える灯は、
ひっそりと底に沈んでいた。


高いところにある灯は、
北欧の国の大使館だった。


結城頼子はめったに人の通らないこの道をひとりで步いていた。
夫が、
横浜のことを言ったのは、
たぶん、
偶然であろうが、
今、
ここを步いているのは、
それを聞いたときの動揺を静めるためではなかった。


暗いところで、
小野木喬夫に話したかったのである。


「どこにも出られない道って、
あるのよ、
小野木さん……」


最後の、
万引常習犯の男の取調べが終わったとき、
小野木喬夫は時計を見た。


十一時四十分だった。
これから、
机の上をざっと片づけて、
石井検事のところに行って挨拶しなければならない。


その時間が十分ぐらいは要するだろう。
新宿発十二時二十五分の長野行の準急にまにあうためには、
時間がぎりぎりだった。


土曜日だから、
いつもは、
午後一時ごろに地検の建物を出てゆくのだが、
今日は特別だった。
それは、
あらかじめ石井検事に許可をもらっている。


「今日は、
いやにそわそわしているんだね」

隣の机にいる横田《よこた》検事が、
調書から目を上げて言った。


「また、
古代の遺跡まわりかね」

横田検事は小野木の趣味を知っていた。


「いや、
今日はちがう。
ちょっと用事があってよそに行くんだ」

「道理で例の肩掛け鞄がない」

横田は笑った。


小野木は、
スーツケースを机の上に置いている。


「遠方かね?」

「いや、
近くだ。
静岡《しずおか》県だ」

小野木は嘘をついた。


「気をつけるがいいな」
と、

横田が言ったので、
小野木は不意をつかれたような気がした。


「今夜あたり、
台風がくるかもしれない」

これは別に比喩《ひゆ》を言ったのではないことは、
今朝の新聞にそのことが実際に出ているので分かった。
が、
小野木は、
自分で少し顔色が変わるような気持がした。


「なに、
たいしたことはないらしい。
進路も南の海上に向かっていると、

測候所の話が出ていた」

小野木が言うと、

横田検事は、
「まあ、
ご無事で」
と、

微笑していた。
小野木は、
スーツケースをとると、

お先に、
と言って横田のところから離れた。


石井検事は何か書いていたが、
小野木の挨拶を聞くと顔を上げて、
「行って来たまえ」
と、

うなずき、
「月曜日には出てくるんだろうね?」
と、

きいた。
窓から射す光線で、
耳の上の白髪が光っていた。


「はあ、
それは……」

「月曜日には、
君にすこし手伝ってもらいたいものがあるから」

「はい、
分かりました。
それでは勝手させていただきます」

先輩検事のうなずくのを見て、
小野木は建物を出た。
時計を見ると十二時近くになっていた。


流れてくるタクシーを目で迎えたが、
どれにも人が乗っていて、
空車は容易にこなかった。
小野木は、
まぶしい步道に立って、
いらいらした。
まにあわなかったらどうしようか、
と思った。


汽車に遅れたときの情景が先に目にうかんだ。
首筋から暑さが湧《わ》いてきた。


六台か七台目に、
やっと空車の標識を出したルノーが来た。


「新宿駅へ」

と言っておいて、
運転手の背中にかがみこみ、
「十二時二十五分の列車だが、
まにあうかね?」
と、

きいた。
運転手は腕を折って自分の時計を眺め、
「いま、
十二時三分ですね。
なんとかやっつけましょう」
と、

乱暴にアクセルを踏んだ。
若い男だった。
車は走りだしたが、
小野木は腰が落ちつかなかった。
結城頼子が心配そうに待っているのが目に浮かんでくる。
まにあわなかったら、
どうしよう。
たぶん、
頼子は発車間際に、
汽車を降りるだろうが、
できるなら、
昨日の打ちあわせどおりに、
いっしょに決めた列車で行きたかった。


若い運転手は赤信号にかかるたびに舌打ちし、
青になると猛烈な勢いで、
ほかの車の間を縫《ぬ》っていった。
小野木は、
運転手の好意はうれしかったが、
事故の場合を想像すると、

目を閉じたくなった。


事故が起きて病院にでも担《かつ》ぎこまれたら、
頼子に連絡する方法は絶対にないのだ。


伊勢丹《いせたん》の建物が見えたとき、
運転手は、
「旦那、
ホームは?」
と、

背中越しにきいた。


「中央線だ」

運転手は黙って交差点から左ヘハンドルを切り、
甲州街道へ出た。
中央線ホームは南口からが近いことを、
この運転手は知っている。
陸橋の坂を上がるとき、
小野木が腕時計を見ると、

十二時二十一分だった。


「まにあいましたね」

運転手が車をとめ、
小野木をふりかえって笑いながら、
自分でも汗を手で拭《ぬぐ》った。


小野木が二等車の中にはいってゆくと、

結城頼子の姿はすぐに目についた。


白いスーツを着て、
座席にもたれて本を読んでいた。
隣には中年の婦人が子供づれで乗っていたが、
頼子の前の席には、
彼女の青いスーツケースが置いてあった。


頼子がホームに降りて、
心配そうに立っている姿を小野木は想像したのだが、
落ちついて本を読んでいるのは、
息せき切って駆けつけた恰好だけに、
ちょっと当てがはずれた思いがしないでもなかった。
が、
頼子というのはそういう女性だと感じた。


かえって、
眉をよせてホームに佇んでいたのでは頼子らしくない。


どんな場合でも落ちつきを乱さない頼子のほうが、
小野木には好ましかった。


小野木が立ったので、
頼子が目を上げた。
笑って、
前の座席のスーツケースを取り、
そのあとをハンカチで軽く拭《ふ》いた。


「どうも」

小野木は頼子のケースと、

自分のとを網棚に上げて、
そこへすわった。


「まに合わないかと思って、
ひやひやしながら来ました」

小野木は顔の汗をハンカチで押えた。


「たいへんだったでしょう。
お忙しいためだと思ってましたわ」

頼子は微笑して、
小野木を見つめていた。


「この汽車にぼくが乗れないか、
と思いませんでしたか?」

小野木がきくと、

頼子は首を小さく振った。


「いいえ、
きっといらっしゃると思ってましたわ」

だから、
じっとすわって本を読んで待っていたのだ、
と頼子は言葉のあとで言っているふうに見えた。
それは、
小野木がどのような犠牲を払ってもかならず来てくれる、
という確信にあふれている肩であった。


汽車が滑りだしてからも、
頼子は小型の本をとりだして、
目で活字を追っていた。
外国の翻訳小説らしかったが、
小野木にあまり話しかけないその態度は、
やはり複雑な気持をかくしているように思われた。


小野木は煙草を出してすった。
窓の外には、
武蔵野台地の森林が赤い屋根の住宅を裾において流れていた。


──土曜日から日曜日にかけて、
小さな旅に出たい、
と小野木がもらしたのは、
このあいだ会ったときだった。
そのときは、
電話をかけてきた頼子の希望で、
夜のひっそりした坂道を步いたのである。


石だたみが敷いてある暗い急な坂で、
小野木の靴音が暗い中に響いたものだった。


步いていると、

どこかの大使館の門があったりした。
頼子は、
つい、
二、
三日前、
ここを步いて気に入ったから誘ったのだ、
と言っていた。


ひとりでですか、
と小野木がきくと、

無論、
ひとりですわ、
と頼子は暗い中で笑ったものだった。
それが、
小野木が一泊の予定で田舎に出かけたい、
と言うと、

頼子は急に顔をあげて、
わたしもご一緒に行きたいわ、
と言いだしたのだ。
そりゃあ、
と言ったきり、
あとの言葉が出なかったくらい小野木の方が驚いたのだった。


いつもは、
小野木が躊躇《ちゆうちよ》すると、

賢すぎるくらいに自分の申し出を撤回する頼子が、
その夜にかぎって、
頑固に同行することを主張したのである。
小野木にとって、
それが迷惑である理由はない。
ただ、
そんなことは初めてだし、
頼子に、
何かあったのではないか、
と予感したものだった。


小野木は、
結城頼子の正体を知っていない。
彼女は、
小野木に見せている以外の別の世界の姿も、
その生活も、
まったく彼には知らせなかった。


──小野木さんは、
ご自分のまえに立っているわたしだけを対象にしてくださったら、
それでよろしいんですわ。
わたしの後ろに、
どんな線があるのか、
ご存じなくともいいんです。


頼子は、
小野木がそれに近づく質問をはじめると、

かならずそういう言い方をした。
住所も正確には教えず、
電話も頼子のほうからかかってくる一方的なものだった。


頼子から旅に一緒について行きたい、
と頼まれたとき、
小野木は今度は頼子の全部を知ることができるかもしれないと思った。
頼子も、
小野木との奇妙な交渉が苦痛になってきたに違いない。
遊戯ではないのだ。
頼子が小野木に全部を打ちあけられない桎梏《しつこく》に苦悩していることは、
小野木にも想像がついていた。
いつも何かを考えている女《ひと》だけに、
彼に会っても、
その苦痛を表面に見せるようなことはなかったが、
何かのときには、
瞬間に、
それが断層のようにのぞくのである。
そのときの頼子の横顔は、
苦痛を見つめているような表情だった。


見なれた東京では言えないこと──旅先では告白できる決心が、
頼子を中央線の列車に乗せた、
と思った。


小野木は、
時々、
目を窓の外に投げては文庫本を読んでいる頼子を、
やはり時おり、
真向かいから見まもっていた。


汽車はトンネルをいくつも抜け、
出たときはかならず川を、
進行方向の左側の低いところに見せていた。


大月《おおつき》駅では、
登山姿の青年や、
白衣を着て杖を持った行者姿の人たちが、
多く降りた。
外人もまじっていた。
ホームの向かい側に短い列車が着いていて、
その人たちはそれに争って乗っていた。


「どこへ行くんですの、
あの汽車?」

この線は初めての頼子は、
本から顔をあげて、
久しぶりに小野木に話しかけた。


「富士登山や河口湖《かわぐちこ》の方へ行くんです」

小野木が言うと、

頼子は、
あら、
そう、
とその汽車の方を眺めていた。


「富士山まで、
近いんですか?」

頼子は珍しく子供っぽい質問をした。


「河口湖まで一時間です。
富士登山はそれから山麓までバスで行くんですが……ぼくは、
この汽車の途中がいいと思いますね」

「何がありますの?」

「裾野を覆っている樹林ですよ。
迷いこんだら生きて出られないくらいの樹海があるんです。
今日のような暑い日だと、

炎天に燃えて、
むんむんするくらいな瘴気《しようき》を感じるんです」

小野木は学生時代に友だちと、

やはり夏に、
そこを步いたことがある。
そのときの記憶を言うと、

頼子は、
目をみはっていた。


乗っている汽車が出て、
急な登りにかかると、

頼子は草いきれが窓にも打ってきそうな近い斜面をながめていた。


「いつか──」

と頼子は小野木に言った。


「そこに連れてってくださらない?」

頼子は、
まだ樹海のことを目に空想しているらしかった。


「そんなところに行って、
どうするんです」

「だって、
小野木さんが、
今、
いいところだとおっしゃったわ」

「それは、
そうですが、
普通ではおもしろくないところですよ」

「わたし、
そういうのを見るの、
好きなんです」

小野木が、
驚いたのは、
その言い方の強さだけではなく、
頼子の心にそんな願望があることだった。
ふだんは、
贅沢なところにすわっているひとと考えていた。


小野木は黙ってうつむき、
新しい煙草に火をつけた。
小野木が煙を吐いて顔を上げたとき、
頼子はまた本に目を伏せていた。
自分の言った話に、
自分で戸を閉めているような姿勢だった。
これは、
甲府《こうふ》に着くまで変わらなかった。


甲府で降りて、
別の汽車に二人は乗った。
この身延《みのぶ》線の終点は富士駅だから、
小野木が横田検事に言った静岡県というのは、
誤りではなかった。
ただ、
今夜の目的地がその途中のSというひなびた温泉だった。
小野木が頼子のために、
最初の山を步く予定を変えて、
ここに決めたのである。


汽車は葡萄《ぶどう》畑のつづいている盆地を抜けると山峡《やまかい》にはいった。
小野木と頼子の前には、
身延|詣《まい》りという老人夫婦が乗っていた。


老夫婦は、
わざわざ東北の方から来たとかで、
小野木と頼子に、
旦那さん、
奥さんと呼びかけては話をし、
二人を当惑させた。
S温泉の町で降りるとき、
老人夫婦は自分たちは、
秋田《あきた》県の大曲《おおまがり》というところだから、
あの辺を通りかかったら寄ってくれと、

しきりと東北弁で言った。


「遠いところからいらしたんですもの、
きっとご利益《りやく》があると思いますわ」

頼子がスーツケースを持って立ちあがりながら言うと、

老夫婦はにこにこしながら何度も頭をさげた。


想像してきたことだが、
駅は寂しく、
タクシーも三台ぐらいしかなかった。


「どこか、
お決まりの宿がありますか?」

運転手が寄ってきた。


このとき気づいたのだが、
運転手の顔がひどくかげって暗く見えたのは、
夕方になったせいだけではなく、
空が曇って、
黒い雲が走るように速く流れているのだった。


風も強く吹いていた。


まかせる、
と言ったので、
運転手は旅館のつづいている坂道からは反対の方へ車を向けていた。


「風がやけに吹くが、
台風でも来るずら」

運転手は土地の言葉で言った。


小野木は横田検事の言葉を思いだした。
すこし不安になって、
外を見ると、

木の枝がかなり揺れていた。


「ほんとうに台風がこっちに来るんでしょうか。
新聞には、
太平洋の方へはずれてゆきそうだと書いてありましたが」

頼子も心配したように言った。


「いや、
大丈夫でしょう。
いま吹いているのが、
その余波程度ではないかな」

小野木も新聞記事を信じていた。


旅館は、
ここではいちばん大きいとかで、
広い庭をとって、
たった一軒独立していた。
すぐ後ろを川が流れている。


タクシーを迎えに玄関の外まできて、
頼子を驚いたように見る女中たちも、
その髪が風に乱れて揺れていた。


部屋は離れだった。
ここだけは新しく建てたとかで、
旧館の母屋《おもや》と渡り廊下でつないであったが、
母屋のほうは古いだけに、
見すぼらしさが目立った。
この温泉場は、
もともと自炊の湯治客が主であった。


部屋のすぐ裏が川になっていた。
風致をそえるためか、
その旅館の区域だけ、
柳が植わっていた。
その柳の枝が、
斜めに流れていた。


「今日は、
あいにくと、

風が強うございまして」

中年の女中が茶を持ってきて挨拶した。


「なんですか、
三時のラジオでは、
台風が来るそうでございますが、
いやでございますねえ」

小野木は頼子と顔を見あわせた。


「ラジオでは、
どう言ってました?」

小野木は不安になってきた。


「はい、
なんですか、
伊豆半島に上陸して関東の北部を通って日本海に抜けるんだとか言ってましたわ。
今夜の十一時ごろが、
山梨《やまなし》県ではいちばん、
ひどいんだそうでございますよ」

女中はそう伝えたが、
「でも、
心配なことはないと思いますわ。
この辺は今まで、
一度もそんな被害はございませんもの。
ラジオは、
いつも大げさに言うものですから、
あとで、
なあんだ、
と笑うことが多うございますわ」
と、

自分で客を安心させるように笑った。


「あの、
お風呂は、
廊下を左に曲がったところが、
ご家族風呂になっておりますので」

女中は、
ごゆっくりおはいりください、
その間に、
お食事の支度をしておきますから、
と言って退《さが》った。


「小野木さん、
先におはいりになったら?」

頼子は、
自然な調子で言った。


「はあ」

小野木は、
そのつもりだったので、
洋服を脱いで、
宿の浴衣《ゆかた》に着換えた。
頼子は、
すぐに小野木の洋服やワイシャツをとって、
洋服箪笥にしまっていた。
小野木が、
それを見て感じたのは、
頼子の指先が、
妻になっていることだった。
小野木は、
また頼子の断層の一つをはっきりと見た、
と思った。


小野木が風呂にはいっている間に、
雨が落ちてきた。
ガラス窓をたたいている音で、
かなり大粒な雨であることが分かった。
湯はぬるかった。
部屋に帰ると、

卓の上に料理をならべながら、
女中が頼子と短い話をしていた。


「食事の前に、
湯にはいりませんか?」

と小野木は、
白いスーツですわっている、
頼子に言った。


「ほんとうに」
と、

中年の女中は嗄《しやが》れた声ですすめた。


「奥さま、
旦那さまとご一緒におはいりになればよろしかったのに。
今からざっとお浴《あ》びになって、
お楽なようにお召替えになられたらいかがですか?」

頼子は明るく微笑していて、
「あとにいたしますわ」

と女中に断わった。


「さようでございますか」

女中は、
小野木の顔をちらと見て、
ではどうぞお願いします、
と頼子の方に改まったようなおじぎをして退った。


「なぜ、
着替えないんです?」

小野木は、
御飯をつけてくれている頼子にきいた。
けっしてなじるような言い方ではなかったが、
頼子の耳にはそう聞こえたかも分からなかった。


「あとで、
お話ししたいことがあるんです」

頼子は小さい声で言った。


小野木は、
はっとした。
いよいよ考えていたようなことが来るな、
という予感がした。
頼子は何かを告白するつもりかもしれない。
それが終わるまで、
このままでいたいという意志を見せているようだった。


小野木は恐れのようなものを覚え、
胸がかすかにふるえた。


それから、
一時間とたたないうちに、
外は雨の音と風の音に狂いだしていた。


女中が、
途中で顔を出して、
電灯が消えるかも分からないと言って、
蝋燭《ろうそく》とマッチとを置いていった。


小野木は煙草をすって、
外の暴風雨の音を聞いていた。
それは頼子の告白を待つのにふさわしかった。


それまで顔を伏せてすわっていた頼子が、
小野木の膝に崩れたのは、
電灯が消えてからであった。
小野木は蝋燭に火をつけなかった。
雨と風の狂う闇の中で、
頼子の告白を聞くほうが、
まだ気持を救えた。
──3

電灯が消えて部屋の中は暗黒であった。
しかし、
暗黒の中にも、
わずかな明りはある。
どこからくるのか、
明りというにたりないものだったが、
とにかく、
小野木喬夫は、
自分の膝が受けている重量の輪郭を、
目で知ることができた。
ぼんやりと白いものが頼子の服の背中だった。


それが、
ふるえていると知っているのは、
むろん目ではなく、
受けている小野木の膝の感触だった。
頼子は全身の重みをあずけて、
すすり泣いていた。


外は風と雨の音とが、
狂っている。
暴風が部屋を吹きぬけそうだといって、
女中がさっき蝋燭とマッチを持ってきたとき、
ガラス障子の外の雨戸を閉めていった。
その戸が震動し、
激しい雨音を立てていた。


外では、
人の声が叫んでいる。


小野木は身じろぎもしなかった。
こまかく動いているのは頼子の体で、
それは次第に激しくなっていた。


小野木は、
頼子が何を言いだすかを知って、
これも心がふるえていた。
いつも、
落ちついている女が、
こんなに取り乱したのは今までなかったことだ。


小野木は、
頼子のすすり泣きが、
ある言葉になるのを待っていた。


蝋燭は火もつけないで、
そのまま、
卓の上に揃えて置いてある。
あかりをつけたら、
頼子はすぐに消してくれと頼むに違いなかった。


一群れの風が、
すさまじい音を立て、
家を揺るがして通りすぎた。
その音が通過したときに、
頼子は、
「小野木さん」
と、

言った。
のどの奥から出るような声だったが、
はっきりした言葉になっていた。


「聞いてくださるわね? 平気で」

小野木はすぐに返事が出なかったが、
唾《つば》をのみこんで、
「聞きます」
と、

かすれた声で答えた。
畏怖《いふ》を予感しているときと同じように、
動悸が激しく打った。
平気で、
と頼子が断わったのは、
いかにも、
いつもの頼子の言い方であった。


「わたしには……」

また荒れた風が通った。
その音で、
頼子の言葉が消えたのかと思ったが、
そうではなかった。


「わたしには、
夫が、
あります」

告白というよりも、
小野木には、
その声が宣言にきこえた。


頼子は、
洋装の支度のままで、
きちんと膝を揃えてすわっていた。
小野木に投げているのは折っている上体だけだった。
宿の着物に着替えることを断わったのは、
この告白のためだ、
と小野木は予知していたし、
頼子の心の準備は、
東京を離れる時にできていた、
と思った。


「それは」

小野木は言った。


「ぼくには、
想像がついていました」

小野木は頼子の宣言をうけとめた瞬間、
今まで心をふるわせていた恐怖が沈み、
そのかわりに、
考えになかった慟哭《どうこく》がほとばしりそうだった。


「そう」

頼子は膝から顔をすこし上げた。


「察してくださっていたのね?」

低い、
涙の残った声だった。


「分かっていた、
というのが正しいかもしれません」

小野木は答えた。


「わたくしも」

頼子は、
もっと低い声で言った。


「小野木さんが、
それに気づいてらっしゃると思いました」

風が外の木を折って通った。
空気が裂《さ》けるような音だった。
雨の音が、
もっと強くなった。


「わたし」

頼子は、
すこし強い声で言った。


「自分が悪い女だということは、
改まって申しませんわ。
その非難は、
自分の心の中で、
ひとりでじっと聞いていればいいんです。
ただ、
これ以上、
小野木さんをあざむいて、
おつきあいをすることができなくなったんです」

「………」

「こう申しあげると、

もう、
お分かりになったでしょう。
わたし、
小野木さんを知ったことで、
今まで、
しあわせでしたわ。
とても短い間でしたけれど、
明日、
死んでも、
悔いがないくらいです。
いえ、
ほんとうはこのまま急に死んだほうが、
明日からの、
無意味な、
つらい生き方よりも、
ずっと幸福かも分かりません」

小野木は、
頼子さん、
と呼んだ。


結城頼子の告白を聞くときが、
彼女との別離であると小野木には分かっていたが、
頼子がまた急につっぷして泣きだしたとき、
小野木は、
いまにも背中を見せて步きだしそうな頼子の体を、
全身の力で引きもどしたくなった。


不意に遠くの母屋で人の騒ぐ声が聞こえ、
廊下を走ってくる足音が聞こえた。


「ごめんください」

女中が、
あわただしく襖《ふすま》の外から声をかけた。


頼子は、
小野木の膝から離れて、
返事した。


襖をあけて、
女中は、
「あっ」

と言った。
蝋燭もつけず、
部屋が真暗なので、
あわてたらしい。
いったん、
あけかけた襖から体をずらせようとした。


「いいんですの、
かまいませんわ」

頼子がとめた。


「風があるので、
わざと蝋燭をつけなかったんです」

女中があけた襖の奥から、
蒼《あお》い薄明りが射したが、
女中は提灯を持っていた。
|橙色《だいだいいろ》の灯が、
家の中にいても揺らいでいた。


「あの、
台風がひどくなりますので」

年輩の女中だったが、
声が気ぜわしかった。


「万一のことがあってはいけませんから、
すぐによそへ移っていただきたいのでございますが」

「よそへ?」

避難することが嘘のようだった。


「よそって、
どこへ行くんです?」

小野木がきいた。


「はい……」

女中は、
蝋燭もともさず、
闇の中でうずくまっていた二人の様子を観察するように、
遠慮がちに見た。
小野木は宿の浴衣のまま卓の前にすわっているし、
頼子は、
白いスーツですこし離れていた。
ほの暗い提灯の光は、
二人の全身まで届かず、
不安な陰影をつくっていた。


「ここから東側に、
旅館組合の事務所がございます。
土地が高うございますので、
ここよりは安全でございます。
そこに、
とりあえずご案内して、
あとは近所の旅館に交渉しまして、
お泊まり願うことにしたいと存じます」

小野木は、
坂に沿《そ》って建っていた旅館の家なみを思いだした。


「ここが、
危険だ、
というわけかね?」

小野木はきいた。


「はい、
川が、
すぐ傍ですから、
大水が出るかも分からないそうでございます。
なにぶん、
この家がいちばん、
低い土地に建っておりますから」

雨が強いことは知っていた。
しかし、
氾濫《はんらん》の危険があるとは分からなかった。
小野木の頭には、
去年、
伊豆半島の温泉町を押し流した台風のことが閃《ひらめ》いた。
あるいは、
この旅館も、
その前例があるので、
大事をとっているように思われた。


風の音は相変わらず激しい。
風が激しく鳴ると、

雨の音も家全体を叩きつぶすように強く聞こえた。


その音に妨げられて、
よく聞きとれないが、
母屋の旧館の方から、
三、
四人の声が人りまじって叫んでいた。


「あちらのお客さんも、
もう、
お立ちでございます」

女中はせきたてた。
風と雨とが狂って過ぎるたびに女中は、
声に不安をつのらせていた。


「頼子さん、
支度はいいんですか?」

小野木は言った。
こういう危険が迫ったとき、
ふしぎだが、
小野木は、
頼子を無事に夫のもとへ返さなければならぬ気持が、
最初に湧いた。


「ええ、
わたしは……」

頼子は声が変わっていた。
さっと立つと、

洋服掛けのはいっている造りつけの扉に急いで步き、
それをあけた。
小野木の洋服を手早くはずして手に抱えた。


小野木が立って浴衣を脱《ぬ》ごうとすると、

「そのままで、
外においでになったほうがいいわ。
お洋服を濡らさないほうが……」

頼子は、
手に持った小野木の洋服やワイシャツなどを、
自分のスーツケースと小野木の鞄とに分けて入れた。
一どきには一つのケースの中にははいらなかった。
頼子は、
それを手際よく、
速い動作で終わった。
この時、
木か何かが倒れる音がした。


「お荷物は、
これだけでございますね」

女中は、
おろおろした声できいた。


「さあ、
どうぞ」

スーツケースの一つを持って女中は、
提灯を突きだしながら先に部屋を出て行った。
が、
渡り廊下にかかる前に、
その灯は消えた。
戸のない渡り廊下は、
風と雨とが真横に流れていた。


小野木は、
頼子を抱きかかえるようにして、
渡り廊下を走った。
が、
三メートルあまりの距離を通過しただけで、
小野木の体の片側は、
ずぶぬれになった。


雨合羽《あまがつぱ》をかぶった宿の男が暗い中から近づいてきて、
女中の名を呼んだ。


「お離れのお客さまよ!」

女中は、
宿の男にスーツケースを渡して、
「お客さまのお靴を早く包んで!」
と、

叫んでいた。


頼子は、
宿が貸してくれた男の雨合羽を頭からかぶった。
小野木がその肩を抱いて步きだしたが、
風と雨で頼子の体が倒れそうになった。


二人とも体が浮いていた。
瞬間に速い風が吹いたら、
闇のどこかに飛び散りそうだった。
足の先に重力がまるでかかっていない。


前を行く宿の男は、
暗い中から絶えず声をかけた。


「前かがみに步いてください。
前に倒れるような恰好で步いてください」

その声が、
風で細くなったり大きくなったりした。
雨の叩き方が体に痛かった。
鼻からも、
口からも、
水が顎《あご》にかけて流れた。
風は、
息をふさいだ。


「頼子さん」

小野木は水浸しの頼子の体を抱いて步いた。


「大丈夫……心配なさらないで」

頼子の声だけが、
合羽の頭巾《ずきん》から聞こえた。
白い顔は見えなかった。
小野木の浴衣は水で体にはりついた。


避難客は、
後ろからも步いてきていた。
みんな、
木の倒れる音や、
川の水音に怯《おび》えていた。
誰も、
ものを言う者はなかった。
地面にも、
傾斜に沿って水が川のように流れていた。


暗い中に、
木や草が横倒しに動いていたが、
どこを步いているのか分からなかった。
風が雨の音の中に唸りをあげていた。


「頼子さん」

小野木は、
大きな声で言った。
誰に聞かれてもかまわない、
と思った。


「心配、
なさらないで」

頼子は、
また同じことを言った。


小野木が言おうとしたのは、
そんなことではない。
頼子さん、
離れないでください、
と言いたかったのだ。
ぼくから離れないでください、
別れないでください、
小野木はそう言いたかった。
風と雨の中で、
狂暴にそれを叫びたかった。


頼子は、
それを暴風雨のことだと受けとったようだった。
小野木はあとの言葉を沈黙した。


が、
すぐに、
頼子が、
心配なさらないで、
と言ったのは、
もしかすると、

自分の気持に答えたのではないか、
と思った。
頼子の敏感がそれを受けとらぬはずはない。
心配なさらないで、
といった一語は、
頼子の返答ではないか。


小野木は、
頼子を抱きしめたくなった。


人の声が向こうで聞こえてきた。


「おうい」
と、

叫んでいた。


「おうい」

先を步いている宿の男が答えた。


「何人かあ?」

向こうでは人数をきいていた。


「七人だあ」

こっちの番頭が答えた。


踏切りを越して、
道は坂になっていた。
その坂の上から、
懐中電灯を振りながら、
黒い人影が水を蹴散らすようにしておりてきた。
消防団の法被《はつぴ》を着たり、
裸のままの男もいた。


「七人だね?」
と、

先頭の男が、
番頭に確かめていた。
その男は、
指で数えているようだった。


「ひとまず、
組合の二階だな。
篠屋《しのや》がやられたので、
そっちの客が逃げてきて、
部屋割りができなくなった」

その男は、
風にとられないように大声を出した。


「篠屋がやられたかあ?」

番頭は、
びっくりした声を出した。


「崖くずれがあってなあ」

傾きかけた旅館の黒い建物だけが闇の中に見えた。
懐中電灯の小さな光が、
軒先をちらちらしていた。
旅館の後ろも川があり、
凄《すさま》じい流れの音を聞かせていた。
その上流が渓谷になっているのを、
小野木は知っているが、
その方角の遠いところが、
ごおう、
と地鳴りのように響いていた。


家の屋根や軒が金属性の音を立てていた。


「これから、
組合事務所にご案内しますから、
気をつけて步いてください」

消防団の男は、
いくぶん威張ったような調子で言った。
客は誰もが沈黙していた。


道路の上には、
絶えず物が落ちてこわれる音がしていた。


「瓦が飛んできますから、
なるべく軒下の深いところを步いてください」

消防団の男は風の中で、
また怒鳴った。


頼子は、
小野木に抱かれて步いていたが、
「小野木さん」

と呼んだ。


小野木には、
その低い声は、
うれしいわ、
と言ったように聞こえたが、
それは風に消されてよく分からなかった。
小野木は、
え、
と言ってききかえしたが、
それも今度は頼子に分からないらしかった。


旅館組合事務所の二階は、
二十畳ぐらいの広さであった。
しかし、
それが少しも広くはなく、
背中と背中を合わせるような窮屈さを感じた。
小野木たちが泊まっている旅館の客七人と、

ほかの旅館から避難してきた客十一人が、
ここに収容された。


他の旅館に交渉しても、
団体客がはいったり、
満員だったりして、
断わられた。
家の数が少ないのである。
それに、
どの旅館も増水の危機におびえていて、
新しい避難客を受けいれるのを拒絶した。


小野木と頼子とは、
ほかの客たちの間にはさまって、
この二階で暗い一夜を過ごした。
裸蝋燭を立てるのは危険だというので、
提灯をつりさげ、
人は懐中電灯で足もとをてらして步いた。
戦時中の晚と同じであった。


小野木は頼子の頭を膝の上にのせて眠らせた。
それも十分に手足を伸ばすことはできず、
隣の人の体にさわるので、
背中を曲げて横にならねばいけなかった。


小野木は頼子の濡れた髪を指でなでた。
髪も頬も、
水が残ったように冷たかった。
薄い提灯のあかりでは、
頼子の顔は暗く、
表情がぼんやりかすんでいた。


「小野木さん、
あなたもお寝《やす》みにならないといけませんわ」

頼子は小野木の膝に、
うとうと眠っては、
じきに目をあけた。
交替にしようという約束だったが、
頼子は、
すぐに起きあがった。


「いいんですよ。
もう少し、
眠ってください」

「いいえ、
寝つかれないんですの、
起きてたほうが楽ですわ」

傍に眠っている人がいるので、
大きな声は出せなかった。
お互いが低い声でささやきあった。


「すみません」

小野木も、
頼子の膝に頭をつけた。
頼子は濡れたスーツをぬぎ、
スーツケースに用意してきたワンピースに着替えていた。
小野木も鞄から出したワイシャツとズボンだけをつけていた。
頼子の膝で、
小野木は浅い眠りに落ちたが、
すぐに目をあけた。


「すみません、
こういうところへ誘って」

小野木は、
下から頼子の顔を仰いで言った。


「いいえ、
小野木さんのせいじゃありませんわ」

頼子は、
微笑をふくんだ声で答えた。


「いや、
ぼくがここに来なければ、
こんな天災にはあわなかったと思います」

「仕方がありませんわ。
わたしが、
勝手についてきたんですもの」

傍に他人が転がっていることだし、
複雑な話はできなかった。
そのほうがかえってよかったのかもしれない。
自然に、
いまの言葉は頼子の告白した問題の中心から逸《そ》れることになっていた。
が、
かえって、
そのことがお互いの心を接近させる結果になった。
外に鳴っている暴風雨も、
暗い提灯の灯も、
それにうつしだされている雑魚寝《ざこね》の人々のおぼろな姿も、
二人の心の密着をすすめた。


その夜のうちに、
二度までも、
山崩れの音を聞いた。
──すぐ、
裏を流れる川が、
はっきり洪水の音になったのは夜明けごろだった。


この川は急な傾斜になっている川だし、
両側の岸壁が高いので、
溢れることはないと思われたが、
それでも水が道路を浸しはじめたと知らせる者があった。


その道路も流れになっていた。


夜が明けたばかりの薄明りの中で、
裏の川を見ると、

真赤な濁流が思いがけない幅と量とで奔騰《ほんとう》していた。
木や、
崖の断片が水をもぐりながら、
すさまじい勢いで走っていた。
雨は小降りになり、
風も落ちていたが、
赤い奔流だけは勝手に勢いづいていた。


「今朝の七時三十分が満潮だ」
と、

消防団の服をきた男が三人で二階に上がってきて言った。
彼らは、
この建物が安全かどうかを見にきたらしく、
奔流をのぞいていた。


「あと二時間だな」
と、

別の男が言った。


「富士川が氾濫するかもしれねえな」

「汽車が不通になるずら」

「そりゃ、
決まってる。
身延線はずたずたになる。
東海道本線なら、
すぐに復旧するが、
ローカル線はおそい。
水がひいても、
二、
三日はかかるずら」

小野木は顔色を変えた。
やはり、
先にきたのは、
頼子を夫のもとに、
今日じゅうには無事にかえさなければならぬという衝動だった。
まだ、
見たこともなく、
名前も聞いていない彼女の夫のところへである。
それは小野木の責任だった。


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