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07雨 中 行


夜が明けて風は落ちたが、
木はまだ揺れていた。
が、
それは普通の強い風の動き方であった。
雨だけは残っていたが、
それもふだんの強い雨の程度になった。


が、
赤い川の水はふくれあがっていた。
想像もつかない幅になって、
速力を増し、
暴力を加えていた。
木をのせた崖が、
たわいなく水に揉《も》まれて過ぎた。


旅館組合事務所の二階に集まった者が、
第一に気づかっているのは、
汽車が来るかどうかということだったが、
甲府発六時二十分の列車も、
富士宮《ふじのみや》発七時一分の列車も、
姿を見せなかった。


消防団の服を着た男が、
駅から駆けもどった。
普通の電話線は断たれていたが、
鉄道電話は通じているらしく、
「Kから甲府までの線は、
崖くずれで不通になったそうだ。
こっちの方は、
Hから先の線路が、
富士川に洗い流されて不通になったぞ」
と、

報告してきた。


居合わせた一同が色を失ったものだ。
七時すぎが満潮時だというので、
万一の懸念はあったが現実に直面すると、

みなが狼狽《ろうばい》した。


「何時間ぐらいで復旧するのか」
と、

きく者がいたが、
「二日はかかるだろう」

との返事だった。
それも正確ではないというのである。


頼子は、
さすがに蒼い顔をして、
組合事務所の窓から奔流を見おろしていた。


「頼子さん」

小野木は言った。


「どうします?」

「どうするって?」

頼子は反問したが、
目が虚脱したようになっていた。


「復旧に、
二日はかかると言っています。
二日間もここにいたら、
あなたは……」

さすがに、
それから先は言えなかった。


頼子は夫に口実をつくってきているに違いなかった。
小野木の予定のとおりに、
彼女も一泊の予定で来ているのだ。


ここで二、
三日も足どめをくったら、
彼女の立場はどうなるのだろう。
小野木は顔から血の気がひく思いだった。
動悸《どうき》が苦しいほどにうった。


「仕方がありませんわ」

頼子は低いがふるえる声で言った。
その目は、
半分、
絶望を待っているような目つきであった。


いけない、
と小野木は思った。
血が逆流するような感じで、
目の前が一瞬に暗くなった。
いかなる犠牲を払っても、
今夜のうちに、
頼子を夫のところに返さなければならぬという本能的な叫びが、
体の内からつきあげてきた。


小野木は、
知らせを持ってきた消防服の男のところへ大股で步いた。


「崖くずれで、
復旧の見込みがたたないというのは確実ですか?」

自分でも血相が変わっているのが分かった。
男は、
小野木の顔をびっくりしたように見た。


「確実です。
駅員が電話連絡でそう言ったんですから」

「折返し運転をやっているでしょう? それはどこの駅ですか?」

「さあ」

消防の男は、
ぼんやりした顔をした。


「どこだか、
まだ、
分かっていません。
おそらく、
まだ、
はっきりしないんじゃないですか」

小野木には、
その言い方が他人事《ひとごと》を言っているように聞こえた。


「今から確かめてください。
その責任はあると思うんです。
ぼくらは、
今夜のうちに東京に帰らなきゃならない」

あとで、
小野木の言うのが無理だと分かったが、
そのときの彼の目は血走っていた。


(挿絵省略)小野木の抗議に、
気がついたように、
閉じこめられたほかの客が、
消防服の男の周囲に集まった。


「そうだ、
おれたちは帰らなきゃならんのだ。
旅館がその世話をする責任がある」

若い会社員のような男が口をとがらせた。
その後ろには、
事務員ふうな女が泣きそうな顔で立っていた。


「こんなところに泊めやがって、
なんだ。
もう二晚も、
ここへ寝ろというのか」

額の禿《は》げあがった男が、
目を三角にしていた。
裏を流れる川の水嵩《みずかさ》が増していることは、
誰の目にもはっきりしていた。


が、
台風が過ぎた安心が危険感をはぎ、
こんどは、
一刻も早く、
この土地から脱出したい焦燥が、
誰の顔にも真剣に出ていた。


が、
ここに集まって抗議しているどの客よりも、
小野木はせっぱつまった気持になっていた。
彼の心は、
口をあけて喘《あえ》いでいた。


「わたしは、
旅館の者ではないので」

消防服の男は、
気圧《けお》された顔で、
尻ごみしながら言った。


「旅館側の責任者を呼んでこい」

みなが怒鳴ったので、
その男は逃げるように、
階段を駆けおりて行った。


しかし、
旅館側も客を放っておいたのではなかった。
三、
四人の番頭が駆けあがってきて、
やっと旅館の割当てがすんだから、
そこへ移ってくれ、
と言った。


「列車の運行見込みは、
まったく立たないということです。
中央線が寸断されているので、
たとえ甲府まで行けても、
東京方面には列車が出ていません」

別の男が言った。


「東海道線への連絡は、
Hから向こうが三カ所切断されていますから、
こっちのほうもだめです。
鉄道では、
水の状態がよくなり次第、
徹夜してでも復旧工事をやると言っています」

客は、
孤立を宣言された。


監禁された客たちは、
しばらく口々に、
不平を言っていたが、
やがて諦《あきら》めたようにおとなしくなり、
誰からともなく腰をあげて番頭たちの案内のままに散っていった。
不可抗力だという意識が客を静かにさせ、
おだやかな自暴自棄に導いた。


小野木と頼子も、
ひとまず組合事務所の上手《かみて》にある柏屋《かしわや》という宿に案内された。


小さな宿だったが、
どの部屋も人が溢れている。
窓からは不安な目がのぞいていた。


「きたない部屋で相すみません」

案内の女中が詫《わ》びた。
まったく、
ふだんは使っていないらしい古びた六畳間だった。
畳は赤茶けてへりはすりきれ、
障子の桟《さん》も汚れていた。


番頭が引きさがったあと、

二人はあらためて顔を見あわせた。
こんな部屋に置かれると、

何か駆落者《かけおちもの》みたいな錯覚が起きた。


頼子はぬるい茶を飲んでいる。
外には、
まだ雨の音が聞こえていた。


顔の色は紙のように白く、
かたちのいい唇がふるえていた。


小野木は、
その顔を見た。
彼はある決心を迫られていた。


──帰らなければいけない。
このひとを帰さなければ重大なことになる。


──「頼子さん、
あなたはここで、
休んでいてください。
僕は、
駅に行ってきいてみます」

小野木は、
ろくにすわらないうちに部屋を出た。


常にない超満員の客にとまどって、
廊下を右往左往している女中のひとりをつかまえて、
駅への近道をきき、
小野木は外へ出た。


雨はかなり弱くなっていたが、
やむ様子はなかった。
黒い斑《ふ》になった雲が、
かなりの早さで北へ流れていた。
駅には、
消防団の若い連中が集まっており、
駅員と水の話をかわしていた。


「東京までですか? 全然だめですねえ。
まあ二日ぐらいはかかるでしょう。


富士宮まで行けばいいらしいですが、
あそこまでは六里あります。
山道だし、
この天気だし、
とても行けるもんじゃないですよ」

まだ三十前らしい若い駅員は、
事務的に答えた。
今朝から何度も同じ返事をしているに違いなかった。


宿に戻ると、

頼子は軒下に立って、
ぼんやり空を見ていたが、
小野木の姿を見ると問いかけるように眉をあげた。
頬にはこわばった微笑がある。
寂しい空虚な表情ではあったが、
それはまた、
小野木を頼っている笑顔でもあった。


小野木は、
頼子がこんなに訴える表情を、
今まで見たことがない。


その頼子を見たので、
小野木の決心はついたといえる。
この時まで、
彼は迷っていたのだ。


「頼子さん、
行きましょう、
富士宮まで。
あそこまで行けば汽車に乗れるそうです」

小野木の目に現われた強さに、
頼子はうなずいた。


「六里あるそうですよ。
さあ、
そうなると食料もいるし、
装備も必要ですね」

小野木は、
宿から、
乾パン、
ありあわせの罐詰、
懐中電灯、
古リュックと水筒、
それにレインコートと帽子など、
必要ないっさいの道具をゆずり受けた。


決心したとなると彼の行動は早かった。


「けど、
無理じゃないですか、
ご婦人づれで六里の山道は。
この天気だもんなあ」

宿の主人は、
五十年輩の、
頭の禿げあがった大男だったが、
頼子のほっそりとした姿を眺めて気づかった。


しかし、
二人の決心が変わらないと知ると、

主人は急に積極的となった。


何かよほどの事情があると見たのであろうか、
その靴では危ないと、

女物のレインシューズを探してくれたり、
これも持っていったがいいと、

蝋燭を出してくれたりした。


小野木は礼を言った。


一メートル七五センチぐらいはありそうな、
がっちりした体格の男と、

すらりとした細身の美しい女とが二人づれで、
台風をおかして出かけてゆくという図が、
いささか気にかからぬこともない、
というような主人の様子であった。


レインコートは、
あいにく女物がなかった。
頼子に与えられたのも、
外縫のいかついトレンチコートだった。


その大きすぎるコートに、
しっかりと体を包みこむように着こんだので、
顔も手足も急に小さく見えた。


その、
ほんの小娘のような頼子を眺めて、
小野木は、
激情とよんでいいものが胸もとにこみあげた。


今まで小野木の知っていた頼子は、
いつも感じの上では年上の女の落着きを持ち、
ついぞ取り乱した姿など見せたこともない女性だった。
リードされているのは小野木のほうだった。


だが、
今の彼女は、
ただ小野木喬夫だけを見つめ、
彼を信頼し、
全身でよりかかっていた。


小野木に勇気がわいた。


「この雨の中を、
それは無理ですよ」

とか、
「まだ、
崖くずれがありますよ。
これからが危ないのに、
とても半分も行けやしませんよ」
と、

引きとめる番頭や女中たちの声を振りきるように、
二人は出発した。


客がみんな顔を出していた。
途中で会う人が、
ことごとく呆れたように二人をふりかえって見送った。


山裾の径《みち》を步くのだが、
これは想像した以上につらかった。
足もとを水が小川のように音を立てて流れ、
しばしば膝まで浸《ひた》って步いた。
雨は小やみなく降りつづいた。


頼子は小野木の腕に助けられて步いたが、
蒼白い額には黒髪が乱れ、
さすがに息苦しそうだった。


どれだけの時間步いたろうか。
二人とも夢中で步いた。
步くことだけが、
今は目的であった。
かなり急な斜面だし、
絶えず、
上がったりおりたりする步き方だった。
段々にせりあがった田からは水が流れ落ち、
畑は泥をかぶっていた。


二人の脚は、
水で重くなり、
さらに泥で重くなった。


右手の下の方に線路が見えた。
絶えず、
線路を見失わないで步いているのだが、
これは山峡になっていて、
向かい側の山肌にも、
白い筋になって水が流れていた。


時々見えてくる農家からは人が出て、
こちらを步いている人間を眺めていた。


山峡が切れると、

富士川が目にいっぺんにとびこんできた。


ふだんの富士川は、
両岸に白い小石の床を置いて、
中央を肩身せまく流れているおとなしい川だった。
が、
いま見る富士川は両方の堤防にいっぱいに溢れて奔流している別の形相だった。
渦がいくつも巻いて、
狂暴な勢いでほとばしっていた。


ひろくひろがった平野の田にも、
赤い水が海のように満ちていた。


步いている位置から見おろすと、

こちら側の線路が、
水の中に消えていた。


蓑《みの》や合羽《かつぱ》を着た人間が、
十四、
五人ぐらい集まって、
手の下しようがないといった様子で、
雨の中に立っていた。


汽車は当分通らない。
早くて明日の夕方か、
明後日の朝になるだろう、
と小野木は思った。
思いきってS温泉を出てきたのがよかったような気がしたが、
疲労している頼子を連れての、
これから先の不安を考えると、

心がふるえた。


汽車の通らない線路は、
それからも、
見えたりかくれたりした。
駅が下の方に見えるたびに、
かならず人間が集まっていた。
いつ来るともしれない汽車を待っている旅客に違いなかった。


その駅をいくつ見たであろう。
三つはたしかに数えた。
富士宮駅までの残りの数を小野木は考えていた。


雨はまだ降っていたが、
かなり小降りになっていた。
が、
あたりはいっこうに明るくなるどころか、
次第に暗くなってきた。
雲が厚くなったせいではなく、
陽が傾きかけたのである。
時計を見ると、

四時になっていた。
五時間步いて、
三里も步いていなかった。


もっとも、
途中で、
山裾のかげに取りつくように二、
三軒の農家があり、
そこで、
頼子を一時間休ませて、
暇どったせいもあった。


農家では熱い茶をもらった。


「これから步いて富士宮まで?」

その家の者が呆れていた。


「そりゃ無茶ですよ。
途中で倒れるに決まっていますよ」

農家の主婦は、
頼子をさした。


「この奥さんを連れてゆくんでは、
なおさらです。
ずいぶん、
疲れてらっしゃるじゃありませんか。
悪いことは言わんから、
次の駅の宿屋に泊まってゆきなさい」

昼の食事はそこでした。
小野木は、
リュックから、
宿でつくってもらった握り飯と、

罐詰をあけた。


頼子に、
いくらすすめても、
よけいには食べなかった。
小野木自身も胸がつまって食欲はなかった。
が、
無理をしてでも、
食べなければならなかった。


「小野木さん」

頼子は小さい声で言った。


「わたし、
今晚、
帰らなくてもいいんです。
わたしのためなら、
汽車が通るようになってから帰りましょう」

「何を言うんです」

小野木は低く叱った。


「今晚のうちに帰ってください」

それから一時間は、
たっぷりと步いたのだが、
頼子の重心が次第に不安定になった。


小野木は頼子を抱えて足を運んでいたが、
彼女は、
少しのものにでも、
すぐにつまずきそうになった。
実際、
これは道ではなかった。
山の斜面をじぐざぐにはっている畔道《あぜみち》や、
小径であった。


それも平らにつづいているのではなく、
急な坂を上がったり、
断層をはいおりたりした。
頼子にとって残酷に違いないのだが、
小野木はその感情を捨てなければならなかった。


が、
山裾の果樹園らしい場所まで来ると、

頼子は、
ほとんど、
全身の重みを小野木にかけるようになった。
荒い息づかいが小野木の耳にはっきりと聞こえるし、
頼子の足が一步も前に進めなくなったのが、
抱えていて分かった。


この辺にくると、

家は一軒も見当たらなかった。
果樹園の木の整然とした列が一画だけ人工的のもので、
あとは原生林のように森林が波うって重なっていた。


谿《はざま》を越した向こう側の山も、
半分から上は雲にぼやけていたが、
その斜面にはいくつかの赤い筋がついていた。
新しい山崩れの爪跡なのだ。


木は雨に打たれているし、
木の間に見える富士川の奔流は濁って赤く、
荒涼とした光景だった。
一軒の家もなく、
一人の人間もあたりに見当たらなかった。


とにかく、
農家のあるところまで、
頼子を抱いても步かなければと思って、
小野木が無理に足を運んでいると、

目の前に小さな小屋が見えた。


が、
それは人家ではなく、
果樹園の見張り小屋らしかった。


人はいない。
小野木が近づいて、
戸を叩いたが、
反応はなかった。


小野木は戸をこじあけた。
ずぶぬれのコートを着た頼子は、
小野木が戸をしばった針金を解く間、
崩れそうなのを耐えて立っていた。


内部《なか》は、
果物採取の道具が乱雑に置いてあった。
木箱や、
籠《かご》や、
梯子《はしご》などが狭い周囲を埋めていた。


小野木は巻いてある蓆《むしろ》をとって、
土間にひろげた。


「頼子さん、
ここに休んでください」

小野木は、
頼子のコートのボタンをはずしてやり、
それを脱《ぬ》がせた。


下のスーツも冷たく濡れていた。


頼子の顔には濡れた髪が乱れてかかり、
体がこまかくふるえていた。


手が冷たかった。
小野木は、
木箱を割って火を燃した。
狭い小屋の中なので、
あまり大きくすると危険なので、
小さな焚火《たきび》にした。


小屋の内が明るくなったのは、
それだけ外が暗いからだった。


頼子は蓆の上にすわった。
火が、
頼子の顔を赤く映した。
蒼ざめていた頼子の顔が、
何か変わったように小野木に見えた。


小野木は頼子の傍にすわった。


「寒いですか?」

ときくと、

「いいえ」

と首を振った。
わざと元気そうに小野木に微笑《わら》ったものだった。


小野木はいじらしくなった。


「もう少しすると、

暖かくなります」

小野木は、
焚火の赤い火を見つめて言った。


トタン屋根なので、
雨の音が騒がしかった。
森の鳴らす風の音は、
まだ消えなかった。
水の音が聞こえる。
小さな山の小屋の中で、
二人とも、
ここに二人の世界しかないことを感じていた。


「罰かもしれないわ」

頼子が低く言った。


きれいな黒い瞳《め》を火に向けたまま、
表情のない顔だった。


小野木は、
心臓をうたれた思いだった。


「罰?」

頼子を向くと、

彼女のほうから、
急に小野木の胸に倒れかかってきた。



「小野木さん」

頼子は、
小野木の胸に顔をおしつけて泣きだした。
精いっぱいに突っかかるようによりかかったので、
小野木の体が重心を失うほどであった。


「別れる、
とおっしゃったら諦めます」

頼子は、
急に泣くのをやめて言った。
が、
声には涙が残っていた。


自分で堰《せき》を切ったすすり泣きを、
短く、
ふいとおさめたのも、
いかにも頼子らしく思えた。


小野木には頼子の言葉が分かった。


昨夕《ゆうべ》、
宿について早々、
頼子の告白を聞いた。
小野木はその解決を言葉でしていない。
が、
解決は、
台風の中の互いの動作でしたつもりであった。
小野木は告白は聞いたが、
彼女から離れない意志を、
それで示したつもりであった。
小野木も頼子の様子から、
その回答を得た気持だった。


が、
言葉ではっきり言わずに、
互いの動作でそれを確かめあうのは、
いかにも曖昧であった。
しかし、
その曖昧さは二人とも意識していることで、
つまりは、
じかに触れるのを回避していたのだ。
そのことは愛情の深さを意味したが、
正確には、
破局の畏怖から、
目をそらそうとする、
ごまかしであった。


小野木には、
頼子が、
「罰だわ」

とつぶやき、
「別れる、
とおっしゃったら諦めます」

という言葉も理解できた。


罰というのは、
この天災的な不慮の事故のことであろう。
事故は、
頼子を予定の晚に家に帰すのを拒《こば》んだ。
それは夫への愛情のいかんにかかわらず、
頼子が妻の意識として自然に口をついて出たつぶやきだった。


が、
それだけではない。


頼子が泣いて、
小野木さんが別れるとおっしゃったら諦めます、
と言ったのは、
このような女から、
小野木が去りたいと言えば、
それもひきとめることができない、
と言ったつもりであろう。
小野木に、
頼子と別れる意志はなかった。


小野木は頼子の体の重みを胸にしっかりと受けた。
暗かったが、
彼女の肩のふるえるのが、
当てている手で分かった。
頼子は、
声を殺して泣いていた。


「ぼくは」

小野木は、
膝にずりおちてゆく頼子を抱えあげて言った。


「あなたから、
離れることはできませんよ」

ふしぎだが、
小野木にこのとき罪の意識はなかった。
頼子に夫があることは知っている。
そのために、
頼子を今夜のうちに帰さなければならぬ責任を感じた。
雨の中を汽車の連絡があるところまでと思って、
無理をしてここまで步いてきたのは、
その理性からだった。


が、
小野木のいまの感情の中で、
その理性は分裂していた。
頼子を愛する気持と、

責任とは別別であった。


それは、
小野木が頼子の夫をまだ見たことがないからであろうか。
どのような顔をしているか、
肩の恰好も、
背の高さも分からなかった。
名前も、
職業も、
その家さえも分からなかった。


小野木の前には、
「頼子の夫」というぼんやりした幻像しかなかった。
小野木の感じている幻像への責任は強かったが、
濃度は決して厚くはなかった。


だから、
頼子を愛する心が激しくなると、

それはもろかった。


「別れないでくださる?」

頼子は顔を上げて言った。
濡れた髪が小野木の頬に触れた。


「別れません」

小野木は、
低いふるえ声で言った。


「ほんとうに? どんなことがあっても?」

頼子は、
小野木の唇のすぐ前で言った。
頼子の息が、
小野木の鼻にかかった。


どんなことがあっても?──単純な言葉ではなかった。
危険で、
複雑な内容がその一語にふくまれていた。
小野木は、
急に頼子の夫が目の前に立ったように感じた。


「どんなことがあっても別れません」

小野木は息を吸いこんで言った。
言ってしまって、
小野木は暗い断崖をのぞいた、
と思った。
頭も、
胸も熱くなった。


「夫のことは考えないでください」

頼子は言った。


「約束どおりですわ。
……わたし、
それを告白するつもりで来たんですが、
自信を失ったんです。
あなたが、
どこかへ逃げていきそうで」

小野木は黙った。
実際、
それを聞くと、

頼子の言うとおりになるかも分からなかった。
彼にも主張する自信はなかった。


「頼子だけがいると思ってください。
ほかには誰もいないんです。
あなたと頼子とだけが……」

頼子は、
言いかけた唇を自分で小野木の上にふさいだ。
濡れたあとの冷たい唇だったが、
内側は火がついていた。


「そう思います」

小野木は、
頼子の顔をすこし放して言った。
土間に燃えていた焚火が消え、
残り火が赤い豆ランプのように、
闇の中にひそんでいた。
外に、
川の音が鳴っていた。


「寒くないですか?」

小野木は、
頼子の耳朶《みみたぶ》にささやいた。


「ううん」

頼子は、
小野木の胸の中に体を動かして、
小さく言った。


小屋の窓に蒼白い明りを見たのは、
小野木が先だった。
頼子はまだ眠っていた。


時計を透かして見ると、

五時前だった。
肩が寒かった。


小野木は、
そっと起きて、
焚きものを集めた。
懐中電灯をつけると、

空箱のなかには、
木片が散っていた。
彼は、
それを集めて、
もとの黒くなった灰の上で燃した。


火のはねる音がしたが、
頼子はまだ眠ったままだった。


やはり川の音がここまで聞こえていたが、
雨が降っている気配はなかった。


火が頼子の姿を、
髪の方から映しだした。
横を向き、
手を軽くさしのべたかたちだった。
頼子の手の表情が、
小野木の脱けたところを空虚におさえている。


小野木が見て、
日ごろの頼子とちがっていた。
いまはひどく稚《おさな》く眺められるのである。
それは自分の心理的な変化か、
と小野木は思った。


発見だったが、
一夜のうちにその変化をとげたのか、
と思った。


木が大きくはじけたので、
頼子が目をあけた。
赤い色が壁に揺れていたので、
驚いたらしく、
体を不意に起こした。


「あら、
もう、
起きてらしたの?」

小野木を見て、
声をあげた。


「まだ早いですよ。
もっと横になっててください」

小野木は焚火の前から言った。


「だって」

頼子は起きたが、
小野木を見て、
両手で顔をおおった。
小窓は、
前よりずっと明るくなっていた。


「顔を洗ってくるわ」

頼子は小さく言った。


「そんなところはありませんよ」

小野木は、
わざと乱暴に言ったが、
快活な言葉になっていた。


「外は畑か山だし、
水があっても泥水だけですよ」

「そう」

頼子は、
すこし横を向き、
乱れた髪を整えていた。
小野木が立って傍にきたので、
頼子は正面を向いた。
昨夜と同じに大胆な目になって小野木を見つめた。


小野木が手を出したので、
「待って」
と、

体をすこし退こうとした。


「髪ですよ」

「え?」

小野木の指は、
頼子の髪の後ろから蓆《むしろ》の屑《くず》を三つ、
つみとっていた。


「いやだわ、
そんなことなすって」

頼子はうつむいた。


小野木はその肩を抱きよせた。
頼子の顔が、
がくりと揺れたようになって仰向《あおむ》いた。
小野木はその上に自分を押しつけた。


「好きだと言ってください」

唇を放してから、
小野木は言った。


「愛してるわ」

頼子はあえぐように言った。


「ほんとに愛してくれる?」

「愛しているから、
こうして来たんじゃありませんの」

小野木の視野に一人の男が暗くよぎって過ぎた。
彼は目をつぶった。
頼子の唇が彼の頬に触れたことでそれは消えた。
小野木が消したのである。


「昨日からたいへん」

頼子の指が小野木の頬をさすった。
無精髭《ぶしようひげ》がざらざらしているのが自分でも分かった。


「お顔が小さくなったみたいだわ」

頼子は小野木の顔を両手ではさんで、
すこし寂しそうに微笑した。


「いま、
八時ちょっと前だから」
と、

小野木は言った。


「ここを早く出て、
富士宮まで步きましょう。
うまくゆけば、
昼すぎには東京に帰れるかもしれない」

頼子は黙っていた。
小野木の言葉には答えないで、
「雨、
まだ降っています?」
と、

窓の白さを見た。


「あがりましたよ」

小野木は、
東京に早く帰る、
という言葉をもう口に出すまいと思った。
そのことに触れると涙が出そうであった。


「握り飯が残っている。
あれを焼こう」

飯盒《はんごう》と米は、
必要がないと思って買ってこなかった。


焚火の上に、
頼子が握り飯をおいて焼いていた。


「そうだ、
湯がないな」

小野木は飯盒を買わなかったことを、
また悔いた。
頼子にだけは湯を飲ませてやりたかった。


小屋には、
がらくたをつっこんだ空箱が積んである。
小野木が、
その中を探すと、

番人が泊まっていたとき使ったらしい古い|やかん《ヽヽヽ》が出てきた。
蓋《ふた》はなかった。


「これに水を汲んできます」

「外は泥水でしょう。
遠くへ行かないと、

きれいな水、
ないかもしれないわ。


わたしだったら結構よ」

頼子が見上げて言った。


「ぼくが飲みたいんです」

小野木は言い捨てて出ていった。


朝が明けていた。
この辺でも木が倒れたり、
枝が折れたりしていた。
風でなぎ倒された草の上に、
雨がたまっていた。
空には黒い雲が切れ、
澄明な青い色がひろがっていた。


たまり水は、
濁って赤かった。
小野木は二、
三町步きまわって、
溜池を見つけ、
澄んだところをよって、
|やかん《ヽヽヽ》を洗い、
水を入れて帰った。


「焼けてますわ」

頼子は、
薄い白い紙の上に、
狐色に焼けた握り飯を一つのせ、
小野木にさしだした。
小野木の掌《て》の上に、
その熱さが伝わった。


蓋のない|やかん《ヽヽヽ》が火の上にのった。


「まるで浮浪者ね」

頼子がおかしそうに笑った。


「村の人が来たら追いだされそうだわ」

小野木が水を汲みに出ている間、
頼子はスーツケースから出したワンピースに着替えていた。
頼子が新しくなったようだった。


小野木は、
ふと笑った。


「あら、
何か思いだしてらっしゃるの?」

「この春だったか、
同じような目にあったことがあるんです」

「そう」

「諏訪の竪穴の中に寝てたんですがね。
不意に人がはいってきたんで、
管理人にどなられるかと思ったんです。
向こうでは、
ぼくが浮浪者かと思って、
びっくりしたようだったが」

「その話、
うかがったわ。
いつか、
深大寺でお目にかかったお嬢さんでしょ?」

「あ、
言いましたか」

頼子は、
虹鱒《にじます》を見て立っている田沢輪香子の顔を、
思いだしているような目つきだった。


「あれから、
あのお嬢さんにお会いになって?」

頼子が微笑んできいた。


「ええ」

小野木は火を見て答えた。


「時々、
友だちといっしょに、
電話などかけてくるんです」

「そう」

頼子は、
小野木の顔を見ないで、
短く言った。
湯が沸いた。
頼子はハンカチで鉉《つる》を握っておろした。
今度は、
湯呑みのないことに気づいて、
ふたりは笑いだした。
それで輪香子のことは切れたが、
頼子の胸になにか残っているように、
小野木には思えた。


が、
それからの頼子の顔は明るかったし、
動作も快活であった。


外に出て、
「いい天気」
と、

空を見た。
陽が上がって、
頼子の顔に当たっていた。
向こうの山にも陽が射して、
昨日はなかった色が鮮かに出ていた。


「步くわ」
と、

たのしそうに言いだしたのも、
頼子のほうからだった。
小野木は、
頼子の不幸な結婚生活を見る思いがした。


富士宮まで步くことはなかった。
汽車はそれから二つ目の駅に着いていた。


山裾をおりて分かったことだが、
そこから富士宮まで折返し運転だった。


全線が通じるのは今日いっぱいかかるだろうという話だった。
富士川の水嵩はかなり減っていたし、
前に見たほどの勢いはなかった。
色は、
まだ赤かった。


汽車が動きだしてから、
小野木はさすがにほっとした。
東京には、
昼の三時ごろに着くと思ったが、
頼子には言わなかった。
窓の外に茫乎《ぼうこ》として目をむけている頼子も、
そのことを考えているに違いなかった。
それでよかった。
口に出すのは辛《つら》かった。


東海道線に乗りかえ、
東京が次第に近づくにつれて、
小野木の心は虚脱感に浸されてきた。
頼子の顔からも艶が褪《あ》せていた。


東京駅に降りて、
小野木がタクシーを拾ってやるまで、
ふたりはあまり話を交わさなかった。
心に充実したものが張りつめて、
どこかで疲労していた。


「ありがとう」

頼子はおさえた低い声で言って、
車の中にはいった。
窓から小野木を見つめた目が光っていた。


その車が、
ほかの車の陰に見えなくなったとき、
小野木は、
自分の横に穴があいたと思った。


小野木は、
地検のうす暗い建物の中にはいった。


「帰ってきたのか?」

小野木を見て、
同僚の検事が二、
三人、
机から離れてきた。


「台風にあったのだろう? 心配していた」

小野木のやつれた顔や、
よごれた服装を眺めて言った。


「ひどくやられたらしいな。
どこに行っていた?」

「信州《しんしゆう》」

小野木は言った。
身延線を步いたことは言えなかった。


「そりゃ、
たいへんだ。
中央線がずたずただそうじゃないか」

小野木は狼狽した。


「トラックで」

と小野木はとっさに言った。


「トラックの便《びん》があったのでね。
汽車のあるところまで、
乗りつぎできた」

「一人だからできたんだね」
と、

ある検事が言った。


「女づれではとてもできない話だ」

他の検事は笑った。
小野木は目をそむけた。


「石井検事のところへ行ってくる」

小野木は大股で、
そこを離れた。
石井検事の個室のドアを叩くと、

内から低い応答があり、
あけると、

白髪の赤い顔がこちらを向いていた。


小野木は、
先輩検事の机の前に立った。


「やあ、
ひどい目にあったらしいな。
まあそこに腰かけてくれ」

小野木は、
まっすぐに立った。


「おそくなりました。
汽車が不通だったので、
今、
やっと帰ってまいりました」

「どこで台風にあったのかね?」

「信州です」

小野木は、
この先輩検事にも嘘をつかねばならなかった。


「そりゃたいへんだったろう。
あの辺は真正面だったのじゃないかな。
なにしろ今度の台風は、
風速三十七メートル、
雨量が山地で三百三十ミリ以上だそうだからな。
もっとも、
ぼくにはそれだけ聞いても見当がつかないが」

石井検事は煙草を取りだして、
火をつけた。
小野木は寡黙《かもく》を守った。
石井検事がそれ以上、
現地の被害をきくことを恐れた。
が、
先輩の追及はこなかった。


「小野木検事。
疲れているところをさっそくだが、
きみに相談したいことがあるんだがね」

石井検事は煙草を指にはさんだまま、
頬杖をつき、
小野木を見た。


「今度、
ぼくが特捜班の主任に任命されてね。
それできみにぜひ来てもらいたいのだが」

石井検事の言葉は穏やかだったが、
新しい部署についたことで、
顔色にも少したかぶりがあった。


小野木はこの先輩検事に、
修習生時代から好意を寄せてもらっていると思っている。
石井検事の下なら働いてみたいと思ったし、
特捜班という仕事が魅力だった。


「若いうちは、
いろいろなことを手がけてみるものだ」

石井検事は言った。


「今度の仕事でも、
ぼくはきみを大いに鍛えたいと思っている。
まあ、
きみがいちばん若いだけに、
いちばん走りまわってもらわねばならないだろうが、
やってみてくれんかね?」

「ぜひ」

小野木は頭をさげて言った。


「私をその中に入れていただきたいのですが」

石井検事は微笑し、
頬杖の掌《て》の中で、
顎をうなずかせた。
いかにも、
はじめからその返事を知っていたような表情だった。


「仕事のことは、
いずれゆっくり打ちあわせるとして、
今日はそのことだけをふくんでおいてくれたまえ」

「分かりました。
ありがとうございます」

小野木は、
石井検事の前を退った。
廊下を步くとき、
心は新しい仕事の希望でふくらんでいた。
若いし、
それだけの闘志はあった。
が步きながら、
ふいと感じたのは、
頼子に対する愛情と、

仕事に対する意欲との間に、
なにか密着しない一条《ひとすじ》の隙間のあることだった。
そこから空《むな》しい風が吹きあがって、
顔をうつ思いであった。
小野木は、
目を閉じた。


頼子との愛情を考える時、
彼は、
やはり自分が暗い何かを見つめている目になっているのに気づくのだった。



朝十時ごろだった。
まぶしい陽がかっと庭に照っている。
暑そうな天気だった。


輪香子は、
今日が友だちの、
米田雪子《よねだゆきこ》の誕生日であることを、
昨日から気にかけていた。
雪子は同じ大学の卒業生で、
十五、
六人の同級生が集まって、
バースデーを祝うことになっていた。


和服で行くか、
洋装で行くか、
輪香子は迷った。
それで、
そのことを母に相談しようと思って捜したけれども、
母の姿はなかった。


部屋にいってみると、

女中が片づけものをしていた。


「お母さまは?」

ときくと、

「旦那さまのお書斎ではございませんか」
と、

女中のキヌは言った。


「そう」

輪香子は、
父の書斎の方に向かった。


もう十時だから、
役所からの迎えの車は、
とうに門の前に着いていた。
昨夜も父の帰りはおそかった。
輪香子の知らないあいだに帰宅している。
たぶん、
一時ごろだったのだろう。
なにやら騒々しい音は耳にしたが、
それも夢うつつのあいだに聞いたのだった。


父の書斎の前にいくと、

ドアが半開きになっていた。
輪香子はいつもの調子ですぐはいっていこうとしたとき、
内から母の声が聞こえた。
それは普通の声ではなかった。
なにかとげとげしい、
さからっているような声だった。


輪香子は、
はっとなった。
話の内容はわからないけれども、
母の声は、
いつものやさしい声とはひどく違っていた。
父の声がそれにさからっている。


それはあきらかに諍《いさか》いだった。


輪香子は足がすくんだ。
隙を見せているドアの間から、
冷たいものが流れて顔をうった思いであった。


父の書斎は十畳ぐらいの広さの洋間で、
机は窓ぎわにある。
だから廊下との距離が、
かなり遠い。
会話の内容まではわからないのだ。
それに母も父も、
なにか声を押えたような調子だった。


こういうことは、
めったになかった。
父は母にやさしいし、
母も父によく仕えていた。
輪香子は、
かねてから自分の家庭ほど、
なごやかなものはないと思っていた。
友だちから家庭のトラブルを、
時たま聞くことがあったが、
輪香子は、
それを、
離れた世界のことのように思っていた。


しかし、
いまの場合、
これはあきらかに、
それまでの輪香子のなじんでいる空気とは、
ちがったものだった。
彼女は息をつめ、
足音をしのばせて、
自分の部屋に帰った。


父と母がなにを争っていたのか、
彼女には分からない。
しかし、
日ごろめったにないことだけに、
胸のなかが微かにふるえた。


なにを争っているのか分からないが、
母が父に抗弁することも珍しく、
それだけに、
なにか普通でないものを感じた。


輪香子は着物を選ぶ気持にもなれず、
ぼんやりと外を眺めていた。
女中が庭に水をうっている。
植木の葉に水玉がのって、
陽に小さな虹を封じこめていた。
昼から暑くなりそうな天気なのである。


しばらくすると、

母が輪香子の部屋の外から覗いた。


「なにか御用だったの?」

母の声はふだんの調子だった。
が、
ふりむいて見たとき、
母の顔色はいつもより蒼《あお》かった。
それは庭木の青い色が光にのって反射したせいだけでもなさそうだった。


「ええ」

輪香子は、
かたい顔になった。


「お母さまにご相談したいと思って」

「そう。
なにかしら?」

「今日ね。
米田さんの誕生日なの。
この間、
言ったでしょ。
それで何を着ていったらいいのかしらと、

ご相談したいと思って」

「ああ、
そのことね」

母はうなずいた。


「じゃ、
見てあげましょうか」

「ええ、
どうぞ」

母ははいってきた。
輪香子は、
目の前の母が、
ふだんの調子とあまり変わっていないのがうれしかった。


「そうねえ」

母は首をかしげて、
「暑いのに和服もなんだから、
お洋服にしたらどう?」

「わたしもそう思いますわ。
でも、
どれにしようかしら?」

「あなたがたの集まりだから、
やはり簡単なほうがいいんじゃないの?」

輪香子は母の落ちつきに、
心がはずんで、
洋服箱をいくつも出した。


ふたをあけて、
それを並べたてた。


「そうねえ」

眺めている母の顔には、
選択にまよっているというよりも、
なにか思いわずらっている様子があった。
つまり、
気持がそのことにないのである。


輪香子は、
やはり母が父との争いのあとを心に残しているのだと思った。


そう思ってみると、

母の顔はやはり蒼かった。
このような母をめったに見たことはない。


輪香子はよっぽど母に、
どうなさったの、
ときこうかと思った。
が、
ドアの内から洩れたあの声を聞かないうちは、
それは平気でできたかもしれない。


しかし、
いま、
母の顔色について質問することがこわかった。
いままで輪香子にあまりない経験だった。


そういえば、
いつもの母だったら、
もっと饒舌《じようぜつ》だった。
朗らかな性格だし、
こういう場合はもっと快活なのだ。
それが、
時々輪香子の言葉にも返事をしない。
なにかぼんやりした顔つきだった。


それでもようやく、
着ていく洋服は決まった。
母は薄いグリーンの、
ドレッシーな感じのワンピースを選んだ。
しかし、
いつもと違って、
どこか今日の母には熱心さがぬけていた。


このとき、
玄関の方で、
自動車《くるま》の音が逃げていった。
父が役所に出勤したのである。


母は、
それをじっと聞いているようであった。
このことも、
いままでめったになかったことである。
父が役所に出かけるときは、
むろん母はいそいそと見送り、
座敷に帰ってからでも、
なにか賑やかな顔つきをしているのが、
いつものことであった。


輪香子は友だちから、
いろいろ家庭の面倒なことを聞いていた。
いちばん多いのは、
父親が外に女性関係を持っていることだった。


輪香子が息をのんだのはそのことだったが、
父には、
いままでそのような噂《うわさ》は、
ついぞ聞かれなかった。
母もその点は安心だと言っていた。


父は官庁の局長だし、
そんな位置にいると、

毎晚のように、
会議や宴会がある。
が、
父の帰宅がどのようにおそくなっても、
母は少しも心配しなかった。


母が父と争い、
そのことをいつまでも屈託に残しているのは、
やはりよその家庭と同じようなことが起こったのかと胸が冷たくなった。
そのこと以外には考えようがないと思った。
が、
事が事だけに、
輪香子は母にきくこともできなかった。


これもいつものことだが、
母は、
さしあたっての用事のないときは、
できるだけ輪香子と話していた。
が、
今輪香子の着るものが決まると、

立ちあがり、
「いつごろお出かけ?」

と問い、
「昼からなんです」

という輪香子の答えを聞いて、
そのまま部屋を出ていった。
母の様子は、
やはり、
あの冷たい、
今朝の書斎のドアの空気と似かよっていた。


このとき、
電話のベルが鳴った。
キヌがきて取りついだ。


「お嬢さま、
佐々木さまからお電話でございます」

輪香子は電話口に出た。
佐々木和子の賑やかな声が聞こえた。


「ワカちゃん? 今日、
雪ちゃんち、
行くんでしょう?」

和子はきいた。


「ええ」

「あのね、
あたし、
急に用事があって行かれなくなっちゃったの、
悪いわね」

佐々木和子の声は甘えていた。


「そう、
残念だわ」

「雪ちゃんによろしくね」

佐々木和子はことづけた。


「ええ、
いいわ」

輪香子の、
声の調子がちがうのに気がついたのか、
和子は、
「ワカちゃん、
今日、
へんね。
あなたも、
気がすすまないんじゃないの?」

ときいた。


「ううん、
そうでもないわ」

「そう、
そんならいいけれど……」

和子の声はもっと話したそうにしていたが、
輪香子がいつもとやはり違うと感じたか、
そのまま、
さようなら、
と言って切った。


輪香子が縁に立って庭を見ていると、

母が後ろからはいってきた。


「あら、
まだ、
お支度しないの?」

母は、
輪香子が廊下で聞いていたのを気づいていなかった。


米田雪子の家は、
渋谷の高台にあった。


庭に立って見おろすと、

都心の街が屋根の海を広げていた。


雪子の父は、
ある会社の重役をしている。
家は新築して三年とは経っていないので、
ひどくモダンな建て方であった。


このあたりは大きな邸宅が多い。
新聞の上でもよく見かける名前の家が、
道を通ってきて、
いくつも標札に見かけるのである。


集まった同級生は、
みなで十二、
三人いた。
だれもがいちばん残念に思ったのは、
佐々木和子の不参加である。
和子はそれほどみなに人気があった。


和子ひとりがいると、

空気の暖かさまでちがうのである。
快活で、
賑やかだった。
どのような憂鬱《ゆううつ》さも、
和子の周囲には漂ってはいなかった。


「佐々木さんが来ないのは残念ね。
今日は会社を休んで来るって言っていたのに」

友だちがいっせいに輪香子に向けた言葉だった。
和子と輪香子は仲のいいことをみんなが知っている。


雪子の誕生日の祝いは、
友だちのなかでもかなり派手なほうであった。
それだけに集まってきた友だちは、
訪問着や、
カクテル.ドレスの姿もあった。


個人の家としては広いロビーに、
一時に花がゆらぐような若い空気が盛りあがっていた。
見た目にも贅沢だった。


女たちのほかに三人の青年がいた。
これも二十二、
三の年齢で、
どのような関係かしらないが、
ひどく雪子と親しそうだった。


学校を卒業すると、

急にみなが大人の世界にはいったように見えた。


青年たちは快活で、
集まっている若い女性にすすんで話しかけていた。
輪香子も三人の青年に紹介されたけれども、
その場で名前を忘れてしまった。


青年は、
一人一人見るとちがいはあったが、
いずれも良いところの家庭の者らしく、
無遠慮ななかにも、
やはり躾《しつけ》のいい礼儀がみえた。


輪香子も、
その青年たちと話した。


しかし、
何を話したか、
どのような内容だったか、
印象は、
少しも心に残らなかった。
彼女は友だちとしゃべったり、
食事をしたりする間にも、
やはり今朝の母と父とのことが、
黒い滓《おり》のように、
いつまでも胸に残って晴れなかった。


「ワカちゃん、
今日、
元気がなさそうね」

友だちは言った。


「そうでもないわ」

輪香子は笑って言ったが、
やはり他人の目には分かるとみえた。
が、
だれも、
そのことを、
彼女の家庭に結びつけるものはなかった。


「和子がこないから、
しょげているのね」
と、

皆が言った。
近ごろ、
和子どうしているとか、
恋人できたのとか、
いろいろうるさくきいた。
和子のことなら、
どんなことでも輪香子が知っていると思っている。


輪香子は、
なぜ、
佐々木和子が今日、
来なかったかを、
いままで気にもとめなかった。
が、
ふと、

このあいだ和子が電話をかけてきて、
「小野木さんを誘わない?」

と言った言葉を思いだした。


もしかすると、

佐々木和子は、
今日、
小野木に電話をして、
会っているような気がした。
が、
たちまち、
それを打ち消した。
そのような下品な想像をする自分がいやだった。
なぜ、
いま小野木と和子と結びつけて考えているのか、
自分の気持が分からなかった。


が、
一度そのことを思うと、

これもいつまでも気持のなかにねばりついて、
ひどく不快な気になった。


バースデーを祝う英字のついた大きなケーキがみなのまん中に出された。


見事に飾りたててある。
雪子がナイフを握り、
それを切ろうとしていると、

青年の一人が雪子の手にそえてナイフの柄を握った。


みなが拍手した。
男の一人は外人をまねて口笛を吹いた。


その青年は少し頬をあからめていた。


「あのかた、
雪子のフィアンセかしら?」

そういうささやきが輪香子の周囲から起こった。
輪香子もその興味で青年を見つめた。
育ちのいいことは、
その動作でわかった。
やはりどこかの重役の息子かもわからない。
たぶん、
雪子はこの青年と結婚するのであろう。
が、
いつもの輪香子だったら、
もっとこの友だちと、

その青年の組合わせに関心をもったかもわからない。
が、
いまは、
それも離れたところで眺めているだけであった。


その会は二時間ばかりで終わった。
青年たちはギターを鳴らし、
友だちはピアノを弾《ひ》いた。
みなで合唱もした。
はなやかだが、
輪香子には、
なにか内容のない空疎《くうそ》なふくらみに映った。
みなは、
会がすんで残っている組と、

帰る者とにわかれた。


「どうもありがとう」

雪子は帰る友だちの一人一人に礼を言っていた。
輪香子のところに来て、
「あら、
ワカちゃん、
あなたも帰るの」
と、

目をみはって言った。


「ええ、
ちょっと用事があるの」

「そう、
あなたには残っていただきたいわ」

雪子が甘えるように言った。


「だって和子もこないし、
あなたが早く帰ったらつまんないもの」

いつもの輪香子だったら、
もっと友だちといっしょにいたかったにちがいない。
が、
いまは、
ここに残っていればいるほど、
この空気から離れて、
ちぐはぐになっていきそうであった。


「どうしても用事があるの。
ごめんなさい」

輪香子は詫びた。


「そう、
じゃ、
仕方がないわ。
自動車《くるま》、
呼びましょうか?」

「結構だわ」
と、

輪香子は言った。
ここからすぐ車に乗るよりも、
少し步いていきたかった。


「タクシー、
通らないのよ」

雪子は気の毒そうに言った。


「この先の大通りに出ないと、

めったにここまではいらないの」

ちょうど輪香子にとって好都合だった。


それから、
いっしょの方向に帰るという友だちと雪子の家を出た。


まぶしい陽がかっと道に照っている。
あまり人通りもなかった。
タクシーも通っていなかった。
両側には大きな邸宅の塀が長々と続いている。


塀の外から見ただけでも、
植込みが林のように深く、
蝉《せみ》が鳴いていた。


こんな場所を輪香子は一人で步きたかったが、
あいにくと友だちが横にいた。
この友だちと別れたら、
すぐに車に乗らずに、
また、
どこかの道を步いてみようと思った。


「とても閑静な場所ね」
と、

友だちも言った。


「きっと金持ばかり住んでいるのだわ」

実際、
両側は広々と地所をとり、
贅沢な構えの家ばかりであった。
それも新しい様式の建築が多いのである。


自然と、

目は家を見て步くようになった。
そのとき、
輪香子の視線が、
不意に釘づけになった。


それは、
豪壮な家とは言えなかった。
この辺では、
こぢんまりとまとまった和洋|折衷《せつちゆう》の感じのいい家であった。
土手のように築いた斜面には芝生が植わり、
その上に円形に刈った小さな植木が横に列をつくっていた。
道路から見上げて、
屋根と手入れの届いた植込みの梢《こずえ》とが見える家なのである。


が、
輪香子の視線が不意にとまったのは、
その家のことではなかった。
斜面の上、
その家からいえば庭の端にあたるところに、
ひとりの女性が横を向いて立っている。


輪香子は、
そのひとの顔を見たのだ。


まぶしい陽が、
その女性の顔に当たっていた。
それだけに、
白く、
顔がはっきりと見えた。
すらりとした、
恰好のいい姿勢にも記憶があった。
深大寺で、
小野木喬夫といっしょに步いていた女性だった。


そのひとは誰かと話していた。
相手は植込みのかげになってみえないが、
女中か何かのようだった。


輪香子が、
下の道を通って見つめていることに、
むろん、
気がつかないのである。


輪香子は息をのんだ。
ここで、
その女性を見かけようとは思わなかった。


胸が高鳴りしたものだ。


「いいお家《うち》ね」

友だちは知らずに言った。
輪香子の視線が熱心に上を向いているので、
家を眺めていることとばかり思ったらしかった。
輪香子は、
いそいで顔を伏せ、
足が速くなった。


瀟洒《しようしや》な門の前に出た。
門柱には、
「結城」とだけ出ていた。


「結城」

輪香子は胸の中に名前を刻んだ。
──家に帰って、
輪香子はさっそく、
電話で米田雪子を呼んだ。
ご馳走になった礼を言い、
「結城」という家のことをきいたのだった。


「あ、
きれいな奥さまのいらっしゃる家でしょ?」

雪子は知っていた。
が、
輪香子は、
彼女が「奥さま」といったので、
はっとなった。


「そう」

やっと、

そう言った。


「よく分かんないのよ」

雪子は電話で話した。
声の後ろに、
まだ笑い声や音楽が聞こえていた。


「ご主人は、
どこかの会社の重役さんみたいだけれど、
なんという会社かはっきり分かんないの。
ご近所のかたは、
たいてい分かってるんだけど、
あの家ばかりは分からないと、

父も言っていたわ。
……何よ、
ワカちゃん、
急にそんなことをきいたりして」

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