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08見 た 紳 士


雨あがりの、
気持ちのよい朝である。


輪香子は自分の居間で三面鏡に向かっていた。
白い頬は、
このごろ少し肥えたようだ。
豊かな丸みをおびて、
白粉気《おしろいけ》は全然ないのに、
艶々と輝いている。


少し赤みのかかった柔らかな髪を、
広めの額に垂らしてみる。
その形は丸顔によく似合い、
自分でも、
わるくはないな、
と思う。
額が半分かくれると、

黒いうるんだ瞳《め》が生きいきと見えた。
それほど大きな目ではないのだが、
睫《まつげ》が長くって、
一点を凝視すると、

夢みるような感じになる。


──「ワカちゃんの瞳《め》、
すてきね。
見つめられると、

あたしでもドキドキしちゃう」
と、

佐々木和子が嘆賞する瞳であった。


輪香子も自分の顔の中では瞳が好きだと思う。
けれど顔は少し丸すぎるわ、
細面《ほそおもて》のほうが陰影があっていいのに、
と考えている。
──そういえば、
あの女《ひと》は、
ちょうど理想的な輪郭の細面だった。
米田雪子が電話で「奥さま」と言っていたが、
あれは本当にそうなのだろうか、
それなら、
小野木さんとあの女《ひと》との関係はどういうのだろう。


ぼんやりとそこまで考えたとき、
鏡を人の影がよぎって、
耳もとで声がした。


「ワカちゃん!」

聞きなれた張りのある声で、
佐々木和子だった。


いつのまに来たのか、
まったく気がつかなかった。
うっかり、
とりとめもない考えにふけっていたので、
この賑やかな友だちが来たのを知らなかった。


「あれ、
どうしたのよ? おかしいぞ」

背後《うしろ》にまわって肩に手をかけると、

鏡の中の輪香子を見つめた。


今日は、
思いきって派手な、
オレンジ系の真赤なワンピースに、
太い黒のサッシュ.ベルトを締めている。


「いいお天気ね」

和子の元気に誘われて、
輪香子も笑顔になった。


「うん、
こんな日に、
家にくすぶっていることないわ。
ワカちゃんを引っぱりだそうと思ってきたのよ」

「そう。
ちょっと待って。
いま髪をとかしてしまうから。
それからゆっくり相談しましょう」

手ばやくブラッシングをすませて、
口紅だけつけると、

和子を誘って庭へ出た。


まだ陽ざしはきびしいが、
風はさわやかで、
昨日一日降りつづいた雨の作用で、
芝生も庭木も、
青い水気をおびていた。


「ああ、
いい気持!」

和子は、
派手な手振りで空を仰いでみせたが、
すぐくるりと振りむいて、
輪香子の手を引っぱった。


「ねえ、
このあいだの雪ちゃんの会、
どうだった?」

自分が不参だっただけに、
半分、
まだ悪そうにきいた。


「ええ、
なかなか盛会だったわ。
とても賑やかで。
でも、
あなたが来ないので、
みんな残念がっていたわよ」

「うふふ、
あの日はね……」

和子は、
あの日、
従兄《いとこ》と横浜に遊びに行ったことを告白した。


その従兄は、
大阪の商社に勤めているが、
先日出張で東京にやってきて、
あの日一日だけ暇ができたので、
和子を誘って、
横浜までドライブしたのだという。


「その従兄ね、
すごいノッポだけど、
かわいい顔をしていてね。
二十七だったかな。
ところがね、
だまっているといいんだけれど、
しゃべるといけないの、
ぜんぜん、
大阪弁なのよ。
生まれは東京《こつち》だけど、
小学生のころ大阪《あつち》へ越したので、
やっぱりだめ。
幻滅だわ。
そこへ持ってきて、
はなはだおしゃべりでね。
男はやっぱり、
東京弁のほうがいいわ。
女性の京言葉なんてのは、
お色気があって魅力だけど。
ねえ、
そうでしょ。
そうどすえ、
なんてやさしく言われたら、
男のひと、

まいっちゃうんじゃない?」

和子が、
口をまるめて関西弁を使ってみせたので、
輪香子も笑った。


和子の家は、
江戸時代からつづいた老舗《しにせ》だから、
もちろん和子も東京っ子で、
ピチピチした下町娘であった。


「雪ちゃんの今の家、
わたし内部《なか》をよく見たのは初めてなのよ。
ずいぶんモダンな造りね」

輪香子の言葉を受けて、
「ええ、
あたしもあんな家好きよ。
あたしね、
うちは全然、
日本調でしょ、
だからああいうモダンなのにあこがれちゃうの。
この前、
うちが増築した時なんかも、
ずいぶん主張したんだけど、
結局だめだったわ。
呉服屋が洋風で商売になるかって、
おこられちゃった」

和子は、
唇をとがらせた。


二人の話は、
それから、
当日、
友だちが着ていた着物のことだの、
客の青年たちのことだのにはずんでいったが、
輪香子はようやく、
あの日見かけた「結城」の標札のかかった家の妻らしい、
美しい女性に話の方角を向けた。


和子もいっしょに、
深大寺で見かけた女のひとのことである。


口に出そうか、
出すまいかと、

この友だちの顔を見てから、
ずっと考えていたのだが、
やはり押えておく我慢ができなかった。


和子は、
まるい目をもっと大きく見はっては、
「まあ」とか、
「へええ」

とか合の手を入れて聞いていた。


「おもしろいわね。
けど、
ワカちゃんの錯覚ってことはない?」

和子は、
息をはずませていた。


「いいえ、
そんなことはないわ、
絶対に。
深大寺で小野木さんと步いてたひとよ」

輪香子は友だちに主張した。


「そう、
それなら本当ね。
じゃあ、
これから行ってみましょうよ。
あたしも見たいわ。
なんだか興味ありだわ」

和子は、
先に立ちあがっていた。


渋谷で軽い昼食をとり、
そこから車をひろって、
先日通った付近についたのは、
一時すぎだった。


見覚えの静かな道で、
米田雪子の家はこの先だった。
人通りのあまりない、
静かなこの場所には、
けだるい真昼の気配が降りていた。


「ずいぶん、
立派な家ばかりじゃないの」

和子が素直な口調で言った。


「どこなの、
その問題の家は?」

「そこなの。
ほら、
そこの芝生のある家」

輪香子が教えた。
今日は、
庭には誰も見えなかった。
ただ、
黒塗りの大型の車が、
門のそばに駐車していた。


「いい家ね」

自然と二人の足は、
「結城」の標札の出ていた門の近くに向かっていたが、
和子が急に足を止め、
輪香子の腕をつかんだ。


「ワカちゃん、
誰か出てくるわ!」

出てきたのは三人だった。
一人は背の高い、
うすいグレイの夏服を着た男で、
あと二人は、
この家の女中らしい。
一人は和服でエプロンをかけ、
もう一人は白のブラウスと紺のスカートである。


和服のほうの女が、
丁寧に男に鞄を渡した。
運転手がとびだしてきて、
扉をあけた。
男は一瞬、
やや離れて佇《たたず》んでいる和子と輪香子の方にちらっと目を走らせたが、
これは普通の通行人と思ったらしく、
まぶしい、
暑い光線を脱《のが》れるように、
車の中に乗りこんだ。
大型の車は、
風を起こして二人の前を走り去った。


和服のほうの女が、
二人をいぶかしげな目で眺めたので、
二人は、
あわてて、
步きはじめた。


「ワカちゃん、
見た?」

「ええ、
見たわ」

「あの人がご主人かしら?」

「らしいわね」

輪香子はまだ、
車に乗る前にちょっと佇んだ男の、
眩《まぶ》しい、
白い光をうけた顔を目に残している。
整った顔という印象だった。
お客ではない。


あれが主人に違いないのだ。
それは断言できそうだった。


「いくつぐらいだと思う? 四十越しているかしら? 立派なかたね。
中年の男性の一種格別の魅力があるわね。
そう思わない?」

和子が言った。


「立派なかただわ。
でも、
わたしは、
ああいう型《タイプ》はあんまり好きじゃないわ。
何か、
冷たい、
というのか、
凄味《すごみ》のある感じね」

「そこがいいのよ。
ちょっとウィリアム.ホールデンを冷たくしたみたい。


けど、
そう言えば、
たしかに、
あの男《ひと》、
堅気でないような雰囲気があったわね。
どんな人かしら? 洋服は、
生地も仕立てもすばらしかったわ」

さすがに呉服屋の娘だけに、
和子の目はすばやかった。


「あの男《ひと》の隣に、
深大寺の女《ひと》を並べてみたらどう見えるかしら? 似合いの、
きれいなご夫婦とも思えるし、
何かそぐわないみたいでもあるし……」

和子が言いだしたとき、
輪香子はかすかに胸がふるえた。
自分でも、
そのことを考えていたのである。


「でも、
わたし、
ご夫婦とは思えないわ。
何か事情があるんじゃないかしら」

輪香子が、
もらすと、

和子は強い調子で言った。


「でも、
それじゃおかしいわ。
現に雪ちゃんだって、
〝奥さま□だって言って、
いるんでしょう? そうすると……」

和子は、
やはりつづけた。


「あの古代人さんと彼女とは、
〝危険な関係□にあるわけね。
彼女は夫のことを隠しているのかどうか分からないけど……」

輪香子が、
ちょっと驚いたのは、
和子のその調子が、
この友だちに日ごろきけないくらい強いことだった。
輪香子のほうがなんとなく、
はっとするものを感じ、
「雪ちゃんのところへ寄らないの?」
と、

話を変えた。


「うん、
このあいだ行かなかったから、
まずいわ。
また今度にするわ」

和子は、
乾いた答え方をした。


ちょうど通りかかった小型タクシーに、
和子が急に手をあげた。


京橋の『芳見屋《よしみや》』といえば、
老舗だし、
特殊な呉服を扱うことで知られていた。


新橋、
赤坂、
葭町《よしちよう》の芸者が品物を選びにくる。
昔から、
そのむきの呉服を置いていて特徴があった。


店の構えは間口が広かった。
奥が深く、
番頭たちがすわっている上がり框《かまち》の畳までには、
三和土《たたき》の中央にいくつかの陳列台を置き、
客は店にはいっても、
迂回した道順で、
奥の番頭と顔を合わすことになっている。


日が暮れて間もないころだった。
空の隅には、
まだ蒼い光線が残っていて、
夕暮れともつかず、
夜ともつかぬ妙に落ちつかぬときだった。
店の照明が明るいだけに、
向こうの、
街灯の背景になっている消え残りの青空が気になった。


もっとも、
人通りはこの時間がいちばん激しい。
店の中から外を見ていて、
人の群れが流れるように步いている。
が、
買物をするような脚ではなく、
会社が退けて、
気ぜわしく急いでいる脚だった。


この通行者の脚が、
もっと緩《ゆる》やかになり「客」のそれになるのには、
さらに時間がたたねばならなかった。


番頭の里見《さとみ》が、
ぼんやり外を眺めていると、

店のまん中の陳列台と、

入口の飾り窓の角との間に、
黒光りする自動車《くるま》の車体が一部、
はさまるようにぴたりととまった。


おや、
と思っていると、

ばたんとドアを閉める音がした。
姿は見えないで、
足音だけが先に店先に近づいてきた。


番頭は浮き腰になった。


里見が視線を凝《こ》らしていると、

例の三和土の陳列台の間を客は回ってくる。
女の派手な着物の色彩だけは分かるが、
顔はまだ現われない。
客だと思って、
里見はズボンのすわり皺《じわ》を手で伸ばして立ちあがった。


このごろの呉服屋の番頭は、
老舗でもデパートの影響のためか、
夏だと、

開襟シャツに紺のポーラーのズボンをはいている。
秋冬は、
背広に下駄をつっかける。


里見が框から下駄の上におりると、

見えぬところで陳列を眺めていたらしい客が、
まぶしい照明の中に、
自分のほうから顔を出した。


「あ」

里見が愛想笑いを満面に浮かべて、
腰を折り、
「いらっしゃいまし」

と迎えた。


「毎度、
どうも、
ごひいきに……」

客は、
むろん女性で、
二十五、
六ぐらいかと思われるが、
派手なつくりだから、
実際はもっといっているのかもしれない。
髪のことには、
里見は不案内だから、
名前が分からないが、
ゆたかに上にふくれあがり、
前の額にはポアンが垂れさがっている。


客は下ぶくれの丸顔だから、
この髪かたちがひどく似合い、
瀟洒《しようしや》に見せている。


しかし、
その粋好みの着物の着つけや、
柄からみて、
この頭に|かつら《ヽヽヽ》がのっていたであろうことは誰でも気づくのである。


「ようこそお越しを。
さあ、
どうぞ」

番頭の里見は椅子をすすめ、
自分は上がり框の上にとびあがった。
勢いで、
下駄が片方裏返しになった。


里見はズボンの膝を折って両手を突き、
「毎度、
ありがとうございます」
と、

あらためて挨拶した。


客の女性は白っぽい着物に、
黒のかった帯をしている。
里見は、
すばやく、
それに視線をやって、
「へえ、
これはよくおうつりでございます」

とほめた。
これも里見がすすめて買わせた品物である。


「そう?」

女は、
うつむいて帯と膝の着物を見ていたが、
「あんがい、
よかったのね」

と顔を上げた。
化粧のうまさは、
さすがに素人《しろうと》放れがしていて、
里見の目がまぶしいくらいであった。


「へえ、
そりゃもう、
奥さまにはなんでも、
よくおうつりになりますが、
ことに、
この白いものは、
どなたにも向くというわけにはゆきませんので」

里見は、
じっと目を定めながら、
「奥さまには、
その白い着物も、
よくお似合いですが、
やはりその黒い帯が結構でございましたな。
なんとも言えぬいいアクセントになっております」
と、

感に耐えぬように言った。


「お世辞でもうれしいわ」

女は軽く微笑み、
若い番頭の出した茶碗に目を落とした。
まぶたの上に、
淡いアイシャドーがついている。


「いえ、
とんでもない、
奥さま、
手前は実感を申しあげているので」

「番頭さん、
すみません、
お茶をもう一つくださいな」

「へ?」

里見が、
店頭をうかがうと、

背の高い男が、
影のように陳列を見て立っていた。


「あ」

里見が声をあげて、
「こりゃ、
気づきませんで。
おい、
お茶を早く、
もう一つ」
と、

若い店員を叱って、
自分では、
裏返しになった下駄を直して、
大急ぎで三和土《たたき》におりた。
番頭の里見は中央の陳列台を回って、
背の高い男に近づいて、
頭をさげた。


「へえ、
いらっしゃいまし。
毎度どうも」
と、

手を揉んで、
「どうぞ、
内部《なか》へ。
へえ、
どうぞ、
こちらへ」

と掌で奥をさした。


背の高い男は、
端正な横顔を見せて、
陳列台の前に立っていたが、
里見の方へ少し顔を向けて、
微笑《わら》いをもらした。


「いいんだよ、
ぼくは」

この言い方が、
なんとなく冷たかったが、
里見は頬を皺だらけにし、
歯茎《はぐき》まで出して笑い、
また頭をさげた。


「まあ、
そうおっしゃらずに。
奥さまもあちらにいらっしゃいますことで」

「いいんだよ。
勝手に見せてやってくれ」

「でも、
まあ、
お茶でもさしあげとうございますから……」

里見の勧誘には応じないで、
その男は足を動かさずに横顔に戻った。


里見は手持無沙汰になって、
黙っておじぎをし、
もとのところに帰った。


「どうも」
と、

ほかの店員が出した反物を眺めている女客に笑い、
「旦那さまはお誘いしても、
こちらにはおいでになりません」

と言いながら、
上にあがって、
その女性の正面にすわった。


「そう」

女は目だけ微笑し、
「これ、
どうかしら?」
と、

見ている柄のことに移った。
秋ものの塩沢だった。


「へえ、
これは渋派手でございますな。
いいお見立てでございます」

里見はほめて、
ほかの反物を片寄せるときに、
茶碗が一つ、
茶をたたえたまま置かれてあるのが邪魔になり、
そっと持ちあげて別なところに置いた。


そのとき、
ちらりと店頭を見たのだが、
男客は退屈そうに陳列に向いたまま、
頑固に動かないでいる。


「奥さま」

里見は、
塩沢を長く伸ばしながら、
女客にそっと、

「今夜は、
旦那さまとお揃いで、
どちらでございますか?」
と、

低声《こごえ》で笑いながらきいた。


「演舞場なの」

女客は、
柄を、
と見こう見しながら、
なんでもないような答え方をした。


「そりゃ、
結構でございますな。
今月の演舞場は、
また、
評判がよろしいようで。
おたのしみでございます」

女客はそれに答えないで、
塩沢をだらりと肩に垂れさげて、
巻いたところを手に持ち、
「これ、
どうかしらね?」
と、

里見の顔を見た。
うすいアイシャドーの加減か、
目に張りがある。
里見は、
上体をすこし後ろにのけぞったようにして眺め、
「とても、
よくおうつりのように思いますが」

と言って首を感心したように傾げると、

「あんた、
なんでもほめるのね?」

「いえ、
本当でございますよ。
また、
実際、
奥さまなら、
何を召してもおうつりになりますので」

「調子がいいわ」

女は、
反物を肩にかけたまま椅子から立ちあがり、
店先に影のように立っている背の高い男に、
「あなた」

と呼びかけて、
ゆっくりと步み寄った。


その客が帰ったあと、

和子が奥の出入口から顔を出した。


「里見さん」

ほかの店員といっしょに、
反物を膝の上で巻いていた里見がふりむき、
「はあ」
と、

顎を持ちあげた。


「ちょっと、

こっちへ来てよ」

「はあ、
これをしまってから行きます。
それとも御用なら、
ここでききましょうか?」

「ばかね。
みんなの前できくんだったら呼びはしないわ。
早く早く。
いまのお客さまのことをききたいんだからさ」

「今の? ああ、
西岡《にしおか》さんのことで?」

「西岡さんというの?」

和子は考えるような目つきをしていたが、
「なんでもいいわ。
いまの旦那さまの素性《すじよう》をききたいからさ。


早くこっちへ来てよ。
そんなもの、
ほかのひとに任せたらいいじゃないの!」
と、

里見をせきたてた。



「いったい、
なんです?」

里見が店との仕切りの暖簾《のれん》の間から、
頬骨のとがった顔をつっこんできいた。


「ちょっとききたいことがあるのよ。
まあこっちへいらっしゃい」

和子は、
誘うように座敷の中に里見を呼んだ。


「へい」

彼は、
まだ、
わけがわからないような顔をしてついてくる。
日ごろ、
和子などからめったに呼ばれたことのない里見は、
面妖《めんよう》な顔をしていた。


「いま見えたお客さんね、
西岡さんていうの?」

和子はききなおした。


「へい、
西岡さんです」

「そう」

和子は火鉢にかかっている鉄瓶を見て、
「まあ、
そこにおすわんなさいよ、
お茶でもいれますわ」
と、

里見を見上げた。


「なんだか気持がわるいですな」

里見は、
半分冗談に笑いながら、
それでもそこにすわった。


「ちょっとききたいことがあるのよ」

「なんです?」

「あの西岡さんね、
あれ、
うちのお得意なの?」

「そうですよ」

里見は和子の顔をうかがうように見る。


「そう、
ちょっと見ると、

素人のかたじゃないわね?」

「そうなんですよ。
前はやはり出ていたという話ですが」

「今は、
だれかの二号さんでしょう?」

「そうだと思いますね」

里見は和子のついだ茶を、
のど仏を動かしてのんだ。


「あなた、
あのかたの家を知っているの?」

「ええ、
知ってます。
ときどき、
電話で呼びつけられたりして、
呉服物を持っていってますからな」

「そう、
あの店先に一緒にいた男の人ね、
あれ、
旦那さんなの?」

「へえ、
そうです」

「西岡というのは、
二号さんのほうの名前なのね?」

「そうだと思います」

「買いっぷりはどうなの?」

「ええ、
なかなか気前がいいですよ。
まあうちでは、
上得意のほうでしょうな」

「じゃあ、
旦那さまというのは、
相当お金持なのね。
いったい、
どういう職業の人なのかしら?」

「さあ、
それは私にもよくわかりません」

里見は、
うす笑いをした。


「でも、
だいたい、
見ればわかるでしょう。
商売人か、
会社の重役かっていうくらいのことは?」

「それがね、
お嬢さん、
私にもよくのみこめないんですよ。
あの旦那というのは、
時たま、
ああして二号さんと一緒に見えますがね、
あんまり私らと口をきいたことはありません。
いつもむっつりして、
とっつきにくい人ですよ」

「そう、
それで、
二号さんも、
旦那さんのことを、
なんにも言わないの?」

「ええ、
そのことですがね、
私はやっぱり興味があるんで、
それとなくもちかけてみるんですが、
二号さんのほうも、
どういうものか、
旦那のことはあまり話したがらないようですな」

和子はそこで考えるような目をした。
しばらく黙っていたが、
つと顔を上げて、
「ねえ、
里見さん、
今のかた、
買物なすったの?」

「いいえ、
四、
五点、
お見せしたんですがね、
どうも気に人らないので、
お帰りになりましたよ。
ちょうど明日の昼すぎ、
荷がはいる予定なので、
それをもって、
お宅のほうへおうかがいする約束をしたんです」

「そう、
それはちょうどチャンスだわ」

和子は目を輝かした。


「何がです?」

「ねえ、
里見さん、
お願いですから、
明日、
あたしを一緒に連れていって」

里見は目をまるくした。
今まで、
和子は、
勤めをもっているせいもあるが、
商売のことにそれほど熱心な言い方をしたことはなかった。
どちらかというと、

うちの商売には無関心で、
一人で勝手に遊びまわっている習慣だった。


「いったい、
どうしたんです?」

「なんだかあの二号さんに興味をもったの。
それで、
どういう生活をしているか、
ちょっと覗いてみたくなったの。
ねえ、
お願いだから、
なんとか理由をつけて、
あたしを一緒に連れてってよ。
ね、
いいでしょう……」

里見は、
困った顔をしていたが、
和子を一緒につれて商売に行くのもわるい気分ではないと思ったらしく、
それほど強く拒絶もしなかった。


「いったい、
どういう名目であなたを連れていったらいいでしょうな。
先方さんは、
妙なお嬢さんが、
一緒にくっついてきたと思いますよ」

「そうね」

和子は考えていたが、
「かまわないわ。
あたしがここの娘だということをちゃんと言ってよ。
いずれ跡取りになるんだから、
今のうちに商売の見習いをしている、
とでも言ってくださいよ」

「しようがありませんな」

里見は、
うわべは仕方がなく承知したような顔をしたが、
まんざらでもなさそうな表情だった。


小型自動車を里見が運転し、
和子がそれに一緒に乗って、
杉並《すぎなみ》の奥の方に行ったのは、
その翌日のひるからだった。


商店街をはずれると、

邸《やしき》まちがしばらく続き、
道は、
杉だの檜葉《ひば》だのの塀が囲っている一画にはいる。


まだ武蔵野の名残りの、
雑木林がところどころにあった。
秋めいた陽ざしが人通りのないこの辺を明るく照らしている。


里見が車をとめたのは、
近所に大きな屋敷があり、
そこに深い木立が一群れ茂って、
その横に沿って小さな道が奥についているところだった。
里見はその道を、
反物を入れた塗籠《ぬりかご》をかついではいっていった。


やはり、
杉の垣根が続き、
それが切れたところに純和風な構えの家があった。


門から玄関の間には、
小さいながらしゃれた庭がある。
標札には、
ただ、
「西岡」とあった。


里見が玄関のベルを押している間、
和子はその家の外観などをゆっくり観察した。
建ててから三、
四年というところであろうか、
三十坪ばかりの家で、
あちこちに、
この家の女あるじの好みらしい粋《いき》な工夫が見えた。
じろじろ見ているうちに、
女中が戻ってきた。


今日の里見は、
呉服屋の番頭らしく縞《しま》の着物に角帯のいでたちだった。
和子は、
商売の見習いという恰好で、
ワンピースを着ていた。


通されたのは庭に向いた八畳ぐらいの部屋で、
床の間に三味線が二丁、
立てかけてあるのは、
さすがに女あるじの前身を語っていた。
お茶が出されて、
しばらく待たされたあと、

昨夜和子がのぞいて見た女客が、
化粧をなおした顔で座敷に現われた。


里見が低頭して、
畳の上にはいつくばった。


「昨夜は、
わざわざありがとうございました。
今朝、
荷が着きましたので、
さっそく持参いたしました。
なかなか結構な柄がございますので、
さっそくお目にかけたいと存じまして」

「そう」

女あるじは、
きれいな目を里見の後ろに控えている和子に向けた。
和子はおじぎをしてちぢこまった。
里見が気づいて、
「あ、
これは、
手前どもの主人の娘でございましてな」

「あら、
そう」

女は、
ちょっと目をみはって、
「それは」

といって少し微笑したが、
なぜ、
店の娘が一緒にくっついてきたのか、
けげんな様子だった。
里見はそれを察して、
「いえね、
このお嬢さんも、
そろそろ家業を継ぐときの準備に、
こういう商売を見習いたいということで、
それで一緒にうかがったような次第です」

「ああ、
そう。
じゃあ、
ご養子さんなんですのね?」

「はい」

和子は小さく答えたが、
これはむろん嘘で、
彼女には弟がいる。
しかし、
嘘も方便だと、

自分で弁解していた。


その間に里見は、
塗籠の中から反物をつぎつぎと取りだして、
女の前にうやうやしくひろげてゆく。


里見は、
反物を指でおさえながら、
「これなど、
いかがでございます。
奥さまによくおうつりになると存じますが」
と、

口まめに商売をはじめた。
和子がじっと見ていると、

その女客は、
格別里見の調子にのせられるふうでもなく、
反物の柄を目分の目で見きわめるように眺めている。
いかにも買物に慣れたような恰好だった。


里見がひろげた柄というのが、
これが粋好みで、
値段はいずれも相当なものだった。
普通の客なら、
柄を一瞥《いちべつ》し、
そこの定価の札を指先でちらりとひっくり返して見るものだが、
その女あるじは、
薄いアイシャドーを刷《は》いたまぶたを柄模様の上に伏せたまま、
定価などにはまったく無関心だった。


里見がほとんど部屋いっぱいにひろげたのを、
女あるじは、
その何点かを指でおさえて選りだし、
他のものは後ろに少し片づけさせ、
立ったり、
すわったりして眺め入っている。
和子が見ても、
その女の選択は相当なもので、
やはり、
そういう買物には、
ぜいたくに慣れている女性だった。


このとき、
電話のベルが離れた部屋から聞こえた。


襖があいて、
女中が顔を出した。


「奥さま、
旦那さまにお電話でございます」

反物を見ていた女は、
目はそのままで、
「そう」

と言って、
すぐには立たない。
気に入った柄が一つあって、
それをかなり長い時間をかけて眺めているのだ。
電話のことを忘れているのかと思うと、

「ちょっと、

失礼」
と、

すらりと立って部屋を出ていった。


和子は、
電話が主人にだと聞いて、
すぐに昨日《きのう》の、
店先に立っていた男の顔を目に浮かべた。
同じ顔は、
輪香子に連れられて、
渋谷の閑静な町の一角で、
自動車に乗るところでも見ている。


里見が和子に目で笑いかけ、
何か言いかけるのを、
彼女が制したのは、
そのとき、
あんがい近い所で女あるじの声が聞こえたからである。


「はあ、
さようでございますか」

という声は、
ひどく丁寧だが、
前身がそれだと知っている現在では、
やはり、
特殊な職業的抑揚を感じる。


「はい、
ただいま、
出かけて、
留守でございますが……はい、
かしこまりました」

先方に応じる、
女の声ははきはきしている。
それも、
乾いたものではなく、
どこかコケティッシュなものを感じさせるのである。


「明日、
六時からでございますね。
はいはい、
赤坂の『津ノ川』さんですね、
わかりました。
さように連絡いたします。
はい、
どうも恐れ入りました、
ごめんくださいませ」

電話はそこで切れた。
ふたたび、
女あるじの畳を踏む足音が戻ってくる。


和子は、
赤坂の『津ノ川』というのを頭の中に書きこんだ。


「どうも、
失礼」

女はすわると、

目をふたたび、
ひろげた反物に当て、
「そうね、
採《と》るなら、
これくらいだわ」
と、

さっき選んだ一つを手にとって、
バラリと肩にかけて見せた。
里見は体を後ろにのけぞったようにして、
遠い目つきをし、
「いやあ、
さすがにお目が高いですな。
結構でございますよ。
いえ、
こういう柄は奥さまでないと、

どなたにもお似合いになるというものじゃございません」
と、

お愛想を言いはじめた。
しかし、
和子が見ても、
それが愛嬌だけとは思われない。
実際に、
よく似合うのだ。
女あるじは里見のおしゃべりを、
上の空で聞き流し、
「じゃあ、
これにしとくわ」
と、

自分の判断で決めたように、
それを畳の上にばらりと戻した。
そこではじめて、
彼女は正札を裏返して見て、
目をとめた。


「里見さん、
これ、
すこし、
なんとかなるんでしょうね?」

里見は手を揉んで笑い、
「へえ、
そりゃ、
もう、
いつものとおりにさせていただきます」

「そう、
じゃあ、
仕立てもいっしょにお願いするわ」

「へえ、
ありがとうございます。
毎度どうも」

里見が四角ばっておじぎをしたので、
和子もそれにつれて頭をさげた。
しかし、
女あるじのほうは、
和子の存在など、
まるで眼中にないみたいだった。


和子が改めて部屋の中を見ると、

木口といい、
建て方といい、
ひどく凝《こ》ったものである。
そういえば、
調度も、
そこから見える庭も、
金をかけている。
これだけの生活をさせている旦那というのは、
相当な収入に違いないと思った。


里見が、
ひろげた反物をクルクルと器用に巻きもどしながら、
「いつもおうかがいして思うのですが、
奥さまなど、
結構でございますな。


ほんとにお羨しい話でございますよ」

「あら、
どうして?」

女はちょっと目をあげただけである。
それほど感動もない声だった。


「いえ手前のほうも、
商売でいろいろとよそさまを回らせていただいておりますが、
そう言っちゃなんですけれども、
こういうお高いものをすぐにお決めくださる方は、
そうそうございません。
ほんとに旦那さまが結構でいらっしゃいますから……」

せっかくだが、
女あるじは、
黙ったまま何も答えずに、
口もとを笑わせただけである。


和子は心の中で、
里見がもうすこしこの女客の旦那のことを突っこんでくれるかと期待していたが、
里見は客の顔色を見たか、
それっきりに話をかえてしまった。


日曜日の朝だった。
父はゴルフがあるとかで、
昨日の午後、
役所からまっすぐに川奈《かわな》に行った。
母も、
知った家から相談事で招かれて留守だった。


輪香子は、
朝から久しぶりに一人だった。
このような時は、
めったにない。


始終だったら寂しくて閉口だが、
一日ぐらいなら楽しかった。


女中二人は、
それぞれの仕事をやっている。
輪香子は、
小さな女あるじになったつもりで、
部屋に落ちついていた。


電話が鳴った。
日曜の朝の電話というと、

父の用事ではない。
はたして、
女中が取りついだのは、
佐々木和子からだった。


「ワカちゃん、
おはよう」

和子のはずんだ声が耳に響いた。
日曜の朝の電話というと、

ひどく感度がいい。


「ばかに早いのね。
何かまた思いついたの?」

輪香子は、
和子がまたもや何かの誘いごとに電話をよこしたのだと思った。


「ううん、
そうじゃないの。
ちょいとすてきな発見があったのよ。
それで、
さっそくあなたに報告しようと思ったの」

発見と聞くと、

それは小野木のことか、
このあいだの、
結城という家の関係以外にはない。


「ほら、
この前、
雪ちゃんの近所で見た例の中年の紳士ね、
あのひとが、
うちに現われたわ」

「えっ」

輪香子は驚いた。
あの人物が、
なぜ、
和子の家なんか訪問したのか、
まったくとっさの見当がつかなかった。


「ね、
ふしぎでしょう? 世間は広いようで狭いもんだわ。
ちゃんと、

あの人、
うちのお店に買物にきたの」

その言葉で、
前後の事情は納得できたが、
こんどは和子がもっと何か教えてくれそうなので、
輪香子も思わず、
受話器をかたく耳につけた。


「あの紳士が、
あなたの店に、
着物を買いに行ったわけね?」

「そうなの、
でも、
男物じゃないのよ。
婦人物だったわ」

「あら、
それじゃ、
あのきれいな奥さんとご一緒だったの?」

このとき、
和子は、
受話器の奥で、
ふくみ笑いをした。


「ところが、
そうじゃないの」

和子の声は、
急に秘密めいたものになった。
ふくみ笑いはそのまま残っている。


「別な奥さんなのよ」

「え? 別な奥さん!」

輪香子はびっくりしたが、
すぐにその意味を悟った。


「ねえ、
意外でしょ。
あたしたちが、
すこしばかり魅力を感じていたあの中年氏は、
ちゃんと二号さんがいたのよ」

「まあ」

輪香子は、
その紳士に愛人がいたという驚きよりも、
やはり深大寺で小野木のそばにいたきれいな夫人に、
意識が走った。


「それで、
そのかた、
どういう人?」

輪香子は、
呼吸《いき》をはずませてきいたのだが、
これは和子には、
彼女がひどく興味を持ったものと、

受けとられたらしい。


和子のほうでも、
声が一段とはしゃいできたものである。


「その二号さんというのは、
うちの番頭にきいてみたら、
お店のお得意さんだったわ。
それで、
あたし、
偵察に、
番頭と一緒にのこのこと、

彼女の家《うち》についていったの」

「まあ」

輪香子は、
和子のいつもながらのやり方に感嘆した。


「その二号さんというのは、
前身は芸者さんなんですって。
お家もやっぱりそんなふうだったわ。
でも、
あの旦那さんの正体は、
番頭もよく分からないというし、
二号さんも、
どこか、
あたしに隠してるみたいだったわ。
だけど、
ちょうど、
そのとき電話がかかってきてね、
その電話の話の様子では、
赤坂の『津ノ川』に行くらしいのよ。
あすこいらに行くようだったら、
やっぱり相当な人物ね」

輪香子は和子の電話がすんでからも、
そのことが、
頭にかぶさった。


輪香子が、
そこから離れて、
庭に出ると、

ちょうど、
辺見博が玄関から、
のこのこはいってくるところだった。


辺見は、
父の留守を知らず、
在宅しているものだと思ったらしい。
彼の広い肩に秋の陽ざしがあたり、
步くにつれて、
庭の梢の影が縞《しま》を動かしていた。


輪香子は、
辺見が、
政治部の記者なのに気づき、
赤坂の『津ノ川』のことを彼にきいてみようと思った。


「やあ」

辺見は大股で步いてきながら、
しろい歯を見せて笑い、
片手の包みを高々と輪香子に振ってみせた。



辺見は、
にこにこして輪香子の前に立った。


「こんにちは」

手に持ったクッキーを、
彼は輪香子にさしだした。


「どうもありがとう」

「局長は?」

辺見はきいた。


「あいにくと今日、
留守なんですの」

「へえ、
お留守ですか」

辺見は、
ちょっとがっかりしたような様子をした。


「どちらへ?」

「ゴルフなんです。
昨夕《ゆうべ》から川奈に行ってるんです」

輪香子が言うと、

「へえ、
それは知らなかったな」

辺見がポケットからハンカチを出して、
薄くにじんだ汗をふいた。


「なにか父とお約束があったんですか?」

「いや、
約束はしていませんが、
日曜だと、

いつも局長がいらっしゃるので、
やってきたんです。
連絡しなかったのはぼくが悪かったんですが……」

「どうぞ、
おあがりください」

輪香子は辺見を上に請《しよう》じた。
辺見はちょっと躊躇《ちゆうちよ》したようだったが、
結局、
輪香子のあとからはいって、
玄関で靴をぬいだ。


「こちらのほうがいいようですわ」

輪香子は辺見を、
初秋の陽の射している縁側に案内し、
そこの籐椅子をさした。


「だいぶ、
秋らしくなりましたな」

辺見は、
庭先の色づいた葉鶏頭《はげいとう》を眺めている。


「せっかくお見えになったのに、
申しわけありませんわ」

輪香子は父にかわって詫びたが、
辺見は首をふった。
ネクタイがよじれている。
服装には、
あまりかまわない男だった。


「いや、
いや、
ぼくが勝手に伺《うかが》ったのが悪かったんです。
局長は、
今夜お帰りなんですか?」

「ええ、
今夜帰るという予定なんですけれど、
何しろゆうべから行ってますので、
夕方には帰るんじゃないでしょうか、
なんでしたら、
お待ちになったら?」

「いや、
そうもしておられません。
またこの次の日曜でも、
ご都合を伺って、
お邪魔することにします」

「でも、
今日はごゆっくりなすっていいんでしょう?」

輪香子は、
『津ノ川』のことが頭にあるので、
いつになく、
辺見を引きとめようとした。
辺見も、
口では忙しそうに言っているが、
そこにいることがまんざら心地悪そうでもなかった。


輪香子が女中のところへ行って、
果物など用意させて戻ってくると、

「今日はお母さまは?」
と、

辺見はきく。


「母もちょっと出かけて、
いないんです」

「おや、
おや」

辺見はなんとなく家の中を見まわして、
「じゃあ、
輪香子さんが今日はお留守番ですか。
珍しいな」

と言っていた。
女中が茶や果物などを持ってきた。
果物はアレキサンドリアで、
その透明な青さが、
秋をいっそう感じさせた。


「辺見さんは、
社のほうは、
日曜日はいつもお休みなんですか?」

輪香子が目をあげてきくと、

「そうなんです。
ぼくの仕事は、
新聞社といっても、
大体官庁回りなのですから、
官庁が休みの日は、
われわれも休日ということなんですよ」

辺見は、
葡萄《ぶどう》の粒を口にほおばって話したが、
輪香子と話していることが、
控え目ながら愉快そうだった。


「辺見さんのお仕事だと、

いろんなところをお回りになるんでしょうね?」

「ええ、
そりゃ、
こういう商売ですから、
ずいぶん方々、
駆けずりまわりますよ」

「そうでしょうね」

輪香子は目を伏せたが、
ここだと思って、
「辺見さんにうかがいたいんですけど、
『津ノ川』というお料理屋さんが赤坂にあるんですが、
ごぞんじですか?」
と、

なるべく、
さりげない口調できいた。


「『津ノ川』ですか?」

辺見はうなずいた。


「知ってますよ。
あそこは有名な高級料理屋でしてね、
偉いお役人だとか会社筋の宴会があるので名が知れています。
あの界隈《かいわい》では、
一流中の一流でしょう」

辺見はそこまで言って、
「何か『津ノ川』に、
輪香子さんが興味を持つことがあるんですか?」
と、

ちょっと目をみはってききかえした。
輪香子はその返事をすぐにしないで、
「その『津ノ川』に、
辺見さんは、
ちょいちょいいらっしゃいますの?」

「ええ、
仕事では二、
三回行ったことがあります。
自腹で行くということは、
とてもできませんよ。
すごく高い家ですから」

秋めいた陽は、
庭に明るい光をためている。
塀の外を步く人の声も、
澄んだ空気のなかに聞こえていた。


「辺見さんに、
お願いしたいことがあるんですけれど……」

輪香子は思いきって言った。


「どういうことですか?」

辺見は急いで葡萄の粒をのみこんだ。


「その『津ノ川』に、
出入りするお客さんで、
結城さんという人があるんです。
そのかたの身分を知りたいんですけど」

「結城?」

辺見は首をかしげていたが、
「それは政治家ですか、
それとも、
実業家ですか?」

と反問した。


「政治家ではないと思います。
実業家だと思いますけど、
よくそのかたのことを、
わたし、
知らないんです。
ですから、
どうということは申しあげられないけれど、
『津ノ川』に出入りしてらっしゃることは確かだと思います」

辺見は目をまるくして、
「なんです、
そんな人のことを調べて?」
と、

輪香子の顔をみつめた。
輪香子は、
そのときの返事の用意は前からもっていたが、
辺見にみつめられると、

やはりどぎまぎした。


「それはね、
あの」
と、

思わずどもって、
「わたしのお友だちのご縁談のことで頼まれているんです。
その結城というかたがご当人ではありませんが、
関係があるらしいんですの。
そのお友だちは、
興信所なんかに頼むのは、
なんだか厭なので、
どなたか適当なかたないかしらと、

わたしに相談があったので、
わたし、
辺見さんのことを思い出したんです」

「ああ、
そうですか」

辺見は、
うれしそうに笑いだして、
「そりゃ、
光栄ですな」
と、

軽く頭を下げた。
彼の人のよい目が細まった。


「結城さんですね、
名前は分かりませんか?」

辺見はわざわざ手帳を出して、
鉛筆を構えた。


「結城という苗字《みようじ》しか分からないんです。
それだけでは見当がつきませんかしら?」

「まあ、
大丈夫でしょう。
結城というのは、
あまりない苗字ですからね。
それで、
それ以外に分かっていることは?」

「その方の住所が、
渋谷の××町にあるということは分かっています。
でも、
それ以外のことは全然不明なんだそうです。
それだけの手がかりでしらべていただけます?」

「なんとかなるでしょう」

辺見は手帳をしまって、
「すると、

ぼくの役目は、
さしずめ、
そのご縁談の調査役というところですな」

と微笑した。


「そういうことになりそうですわ」

輪香子は心の中で辺見にはすまないと思ったが、
こういう場合、
そのような言い方よりほかになかった。


「輪香子さんのお友だちも、
だんだん結婚する人がふえてくるでしょうね」

辺見は、
煙草を出して、
うつむきながら火をつけた。
輪香子は、
辺見がそういう表現で、
なんとなく自分のことに探りを入れているように思えた。


辺見が輪香子にどのような感情をもっているか、
ぼんやりと彼女は知っているだけに、
すこし目のやり場に困った。


「この前も、
わたしの友だちの結婚式がありましたわ」

輪香子は、
努《つと》めて世間話のように言った。


「あ、
それは、
お父さまのお役所の方でしょう?」

辺見の方で知っていた。


「あら、
ご存じでしたの?」

「知っています。
優秀な人だそうですね」

辺見は、
父の官庁に出入りしている記者だけに、
その辺の事情もよく知っているようだった。


「辺見さんなんかも、
もうそういうお話があるんじゃございません?」

わざと輪香子がきくと、

辺見は急に目を動かして、
「いや、
ぼくなんか、
まだ早いですよ。
これでいま結婚したら、
食っていけそうにもありません」
と、

月並みなことを言ったが、
その強い否定の仕方で、
輪香子は、
また、
辺見の気持をのぞいたようだった。


辺見は、
それから二十分ばかりは話をしていたが、
彼は輪香子と二人だけで話していることに、
何か気詰まりを感じたように、
椅子を引いて立ちあがった。


「じゃあ、
ぼく、
これで失礼します」

辺見の顔には、
先ほどから薄い汗が出ていた。


「あら、
もうお帰りなの? まだ、
よろしいじゃありませんか」

輪香子は引きとめたが、
辺見は落ちつかないでいた。


「急にこれから行く用事を思いだしたんです」

辺見は腕時計を出して見たが、
いかにもそれがわざとらしかった。


「先方に会う約束の時間が迫っているので、
これで失礼させていただきます」

「そうですか、
それは残念ですわ」

輪香子は辺見のあとから玄関に步いて、
「父に何か御用がおありだったら、
申しておきましょうか」

「いや、
いいんです、
いいんです」

辺見は、
玄関に立って、
輪香子の言葉を押えるようにした。


「いずれ、
また、
あがりますから」

「そうですか」

辺見が帰りかけると、

輪香子はもう一度『津ノ川』のことを頼んだ。


「承知しました。
すぐ、
そっちの方にかかってみます」

辺見は真剣な顔で答え、
輪香子におじぎをしたが、
首筋に薄い汗が光っていた。


輪香子の父が帰ったのは夕方だった。


車の音が聞こえたので、
輪香子が玄関に出てみると、

父は、
ゴルフ道具などを運転手に持たせて、
家の中にはいってくるところだった。
父はひどく機嫌がよかった。


昨日から川奈でゴルフをしたせいか、
顔色も焼けていた。


「お父さま、
今日、
辺見さんが見えましたわ」

父が広い肩幅を見せて部屋にはいっていくのを、
あとからついてゆきながら、
輪香子は言った。


「そうか」

父は居間の方に步いて、
「何か言ってたかい?」

ときいた。


「別に……ただ、
お父さまが家にいらっしゃるかと思っていらしたんだそうです」

「そうか」

父は居間にはいった。
それから、
輪香子をふり返って、
「お母さまは?」

ときいた。
母が出てこないので気づいたのであろう。


「お母さまは、
八代《やしろ》さんのお宅にお出かけなんです。
まだお帰りになってませんわ」

父は黙っていた。
いつもなら母が父の着替えの支度を手伝うのだが、
今日は輪香子がそのかわりをした。
洋服|箪笥《だんす》の前で父は上着をぬぎ、
ネクタイをはずした。


輪香子は父のふだん着を取って渡し、
父のぬいだものを始末した。


「疲れた」

父は、
暮れかけた窓に向かって背伸びをした。


「川奈はどうでした?」

輪香子がきくと、

「久しぶりにああいうところへ行ったんだが、
やっぱり、
体の調子が違う」
と、

相変わらず機嫌がいいのだ。


「大勢とご一緒でしたの?」

「うん、
役所の奴ばかりだ。
久しぶりに泊まったので、
誰ものびのびとしていたよ」

着物を着て、
父は書斎の椅子にすわった。
机の上のケースから煙草を取って、
袂《たもと》をさぐったが、
「おい、
マッチが無い」
と、

輪香子に言った。


「ポケットにあるはずだ、
とっておくれ」

「はい」

輪香子は、
しまった洋服箪笥の中の父の上衣のポケットから取りだしたのだが、
見るともなくそのマッチのレッテルに目が落ちた。


ひどく日本調の意匠の中に『津ノ川』という文字があった。


輪香子は、
はっとして胸が騒いだ。
『津ノ川』のことを今日辺見に頼んだだけに、
思いがけなく父のポケットから出てきた同じ家のマッチに息をのむ思いだった。


しかし、
父には黙ってそれを渡した。


父は何も気づかないでマッチを擦《す》り、
うつむいて煙草に火をつけると、

それを、
机の上にぽいと投げだした。
箱のレッテルは表を見せ、
『津ノ川』のしゃれた字体の文字が輪香子の目をまた奪った。


父は『津ノ川』に出入りしているのか? 父ぐらいの役人の地位になると、

毎晚のように決まって宴会がある。
それもたいてい、
一流の料亭であった。


輪香子は今まで一度も、
それがどこで開かれるか、
きいたことはなかった。


が、
今、
『津ノ川』のマッチを見て、
はじめて、
父もここを使っているのだと分かった。


「おい、
どうしたのだ?」

そこにじっと立っている輪香子を、
父は呼んだ。
輪香子は気づいて、
「なんでもないんです」
と、

急いで言った。


「お父さま、
お疲れになってらっしゃるのなら、
コーヒーでもいれましょうか?」

「ああ、
そうしてくれ」

何も知らずに父は頼んだ。
輪香子はキッチンに行き、
女中の手を借りずにコーヒーを沸かしはじめたが、
コーヒー沸かしの中で茶褐色の湯が沸いてくるのを待ちながら、
『津ノ川』のマッチのことが目から離れなかった。
普通なら、
そのようなものが出ても、
何も気にかけることはない。


しかし、
佐々木和子から電話で聞いたことが、
気持に執拗《しつよう》にこだわってくる。


別に、
あの結城という紳士が『津ノ川』に出入りしようがすまいが、
どっちでもいいはずだった。
が、
今の輪香子には、
それが無関心ではすまされなかった。
どうにも落ちつかないのである。


輪香子は、
よほど父に『津ノ川』のことをきこうかと思った。
が、
何かそれをきくのが少々、
怖《こわ》い気がした。


『津ノ川』という料亭が、
一流の家だというのは分かっている。
が、
いまの彼女の頭にある『津ノ川』は、
何か普通でない空気をもっている料亭のように思えた。
そこに父が出入りすることが、
父自体に不安な雰囲気を感じるのだ。


輪香子が父のところにコーヒーを持っていくと、

『津ノ川』のマッチは、
相変わらず以前と同じ位置にのっている。
彼女は、
思いきって、
『津ノ川』のことを父に質問しようかと思った。
が、
彼女のその意思を押えるような何かが勇気を出させなかった。
その|何か《ヽヽ》を表現するならば、
いわば「よくない予感」といったようなものだった。


「輪香子」

父はコーヒーを一口すすって言った。


「今日、
辺見君が来て、
すぐに帰ったかい?」

「いいえ、
ちょっと、

おあげしたんです」

輪香子は、
父の目が何か自分の気持を見抜いているように感じて、
どきりとした。


「そうか」

しかし、
父は微笑していた。


「どのくらい話をして帰った?」

「三十分ぐらいでしたわ」

「おもしろい話が出たかい?」

父は目を細めていた。
父は辺見に好意をもっている。
そのような質問を輪香子にする父の気持は、
彼女にもおよそ察しがついている。


「いいえ、
べつにこれというお話はしませんでした。
だって、
わたしにはそれほどの話はないんですもの」

輪香子は、
辺見に頼んだことを最後まで隠した。


そのとき、
表で車のとまる音がした。


「お母さまがお帰りになったんですわ」

輪香子は父の書斎を急いで出た。
玄関に出ると母の乗った自動車《くるま》のへッドライトが消えたところだった。


その晚も、
輪香子は、
父と母とのいさかいを耳にした。


そのときも、
輪香子は不仕合わせにも、
廊下を通りかかるときだった。


話し声は父の書斎から洩れている。
父と母との会話の口調は尋常ではなく、
この前の朝に、
輪香子が聞いたと同じものだった。


やはり、
話の内容はよく分からない。
ただ、
母のほうがいくらか声が高く、
父がそれを押えるような調子だった。
輪香子が余計にそこを逃げだす気になったのは、
ふとその声の中に、
彼女の名前があったからだった。


「おまえが着たくなければ……」
と、

父の声で聞こえた。


「輪香子に譲ってやればいいじゃないか」

「輪香子にだって着られませんよ」

母の声は、
そこだけが高かった。
そのあとのことは分からない。
輪香子は部屋に戻って耳をふさいだ。
暗い風が家の中に鳴っているようだった。


父と母のいさかいが何に原因しているのか、
輪香子には想像がつかなかった。


両親には両親で、
子供に知らせたくない秘密があるのであろう。


輪香子は、
それをきくわけにはゆかない。
それは、
この前の朝も、
母は蒼い顔をして輪香子に黙っていたことである。


が、
いま、
輪香子は、
思いもよらず自分の名前が出たことで、
両親の争いの中に、
自分がはいっているのを知った。
その紛争の中に、
自分がどのような位置ですわっているのか見当もつかなかった。


が、
輪香子が思わず顔色を変えることが、
その翌日に起こった。


そのときも母は留守だった。
輪香子は何かを探しに母の部屋にはいったとき、
箪笥の上に洋服箱の新しいのがのっているのを見た。
今まで、
気がつかなかったものなので、
何気なく踏み台を出して上がり、
その箱のふたを持ちあげて、
中をのぞいた。


それは薄茶色のミンクのオーバーだった。
これまで母になかった品だし、
輪香子も母から、
一言も聞いたことのない新しい品だった。


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