1 東京地検の、 特別捜査部の窓から見える銀杏《いちよう》の葉が黄色くなった。 銀杏の木は、 地検の狭い庭に並木のように並んでいる。 高い木で、 三階からでも、 まだ頂上の梢が見えない。 一日の光線の加減で、 銀杏は、 朝は一方の側が輝き、 夕方になると陰の方が光ってくる。 まだ青い部分が多いのに、 すでに葉がかなり散っていた。 散る前の葉の縁は、 茶色になっている。 特捜部に移ってからの小野木は、 この銀杏の木を眺めて、 信州の山を考えていた。 古代の遺跡を訪ねて、 小野木は信州の各地をかなり步いている。 銀杏の黄色い葉を見るにつけ、 彼は記憶の山々の秋の色を考えている。 それが諏訪の山だったり、 伊那《いな》の山だったりする。 下諏訪の山は諏訪湖を中心にして、 斜面が緩《ゆる》く囲むようになっている。 小野木は、 カリンの花の咲いたあのあたりの畑も、 黄色くなっていることだろうと思っていた。 古代の掘立小屋に寝たときは、 麦の時であった。 真向かいの塩尻峠《しおじりとうげ》も、 左手の諏訪神社の下社《しもしや》の杜《もり》も、 いまは杉の茶褐色が目立つころである。 小野木は、 塩尻峠を越えて松本平《まつもとだいら》に出たことがあるが、 峠を下って、 一望に開けるリンゴ畑の向こうに光るアルプスの山の雪も考えている。 また、 下諏訪の裏山は|霧ヶ峰《きりがみね》の下を通って蓼科《たでしな》高原に抜けるのだが、 小野木は、 茅野《ちの》の尖石《とがりいし》の遺跡から、 蓼科にはいったことがある。 白樺と落葉松《からまつ》の多い高原で、 小野木が行ったのは新緑のころだったが、 今は紅葉が盛りであろう。 窓から見えている、 一本の銀杏の木を眺めて、 小野木は毎日、 そんなことを考えていた。 旅のことを考えるのは、 小野木の心に平静でないものがあるからだ。 以前は犯罪の調書をとるために被疑者たちを調べたりして、 人間関係の複雑さ、 煩《わずら》わしさを毎日のように心に押しつけられて、 それを逃れるために田舎に出たものだが、 近ごろは、 自分の気持を救うために旅に出たくなった。 陽の加減で、 銀杏の葉は、 眩《まぶ》しい黄色になったり、 くろずんだ色になったりする。 長い間、 ひとり旅に出なかった小野木は、 次の連休には、 思いきって一人で出かけようと思った。 小野木は、 信州から飛騨《ひだ》、 北陸にかけてはかなり步いたが、 まだ、 佐渡《さど》には行ったことがなかった。 連休の二日を利用すれば、 一晚泊まりで行けないことはない。 小野木は、 日本海に向かうこの島の断崖に立って、 暗鬱な海の色を眺めたくなった。 佐渡を思いついたのは、 かつて、 氷見《ひみ》の洞窟を見に行ったおりに、 日本海の色を見たのだが、 そのときに、 もっと北の島の端で見たいと思ったのだ。 特捜部の仕事は、 それほど忙しくはなかった。 しかし、 小野木の目から見て、 近ごろ、 何か微妙な動きが感じとられるのである。 それは石井検事が、 たびたび副部長に呼ばれていることでも推察できた。 石井検事は副部長の部屋から帰ると、 そのあかい顔をかなり緊張させていた。 地検には、 部長の下に副部長が二人いる。 一人は経済、 財政などを担当し、 ここでは脱税とか、 外国為替違反などの事件が対象になっている。 石井検事が呼ばれている黒田《くろだ》副部長は、 警視庁二課から送られてくる事件、 または、 地検が直接独自な捜査をする事件を担当していた。 それで石井検事が、 黒田副部長にたびたび呼びつけられて、 何か相談を受けているのは、 後の場合の事件である。 石井検事は、 副部長室に行くだけではなく、 部長室にも出かけて行った。 それから、 検事正室でも次席検事、 部長、 副部長をまじえて、 長い間、 会議が持たれることがあった。 それが三日も四日も続くのである。 そのたびに、 石井検事の顔は緊張度がいよいよ増してくるのであった。 かなり重大な事件が起こったであろうことは、 その経過が進むにつれて周囲にも分かってきた。 しかしこれは、 小野木が先輩検事にきくべきことではない。 「ちょっと大きそうな事件が起こっているようですな」 小野木喬夫に付いている検察事務官の木本《きもと》が、 役所の帰りに話したことである。 検事には、 一人か二人ずつ、 検察事務官が付いている。 検察事務官は、 警視庁にたとえれば、 捜査員で、 いずれも練達のベテランであった。 だから、 こうした首脳部の動きを判断する彼らの知識は正確であった。 「いったい、 なんだろうな?」 小野木も考えている。 「汚職かも分かりませんよ」 木本事務官は言った。 「どうも、 そんな気がしますね。 それも、 検事正が慎重に幹部を集めて話をしているくらいですから、 かなり規模が大きいようです」 小野木は、 今までたびたび起こった大きな疑獄事件のことを考えて、 相変わらず、 同じことはいつまでも跡を絶たないものだと思った。 「もしかすると、 これは小野木検事の担当になるかも分かりませんよ」 木本事務官は自分の観測を言った。 「さあね。 ぼくなんかまだ若いし、 そんな大物を手がけるところまでいっていないよ」 小野木はそう言ったが、 先輩の石井検事が、 もし一つの事件を担当することになれば、 自分がその下につくかも分からないという予想はあった。 小野木が石井検事に呼ばれたのは、 それから四、 五日後だった。 石井検事の個室に行ってみると、 彼は、 白い頭を机の上にかがませて、 書類を見ていたが、 小野木のはいって来た気配を知って顔をあげた。 石井検事の眼鏡の奥の目は、 少し疲れているようだった。 「かけたまえ」 石井検事は前の椅子をさした。 石井検事は、 厚い綴込みを閉じて、 その上に自分の肘《ひじ》をのせた。 それから、 眼鏡をはずして、 ゆっくりとふいた。 「小野木君」 検事は、 銀杏の葉の見える窓の方に眼鏡を透かし、 曇りを拭《ぬぐ》うと、 目に戻して、 小野木の方を見た。 「ちょっと、 新しい事件が起こってね、 あるいは、 きみに手伝ってもらうことになるかもしれない」 小野木は緊張した。 このごろの動きから見て、 大きな事件という予感はあったが、 いま、 石井検事から直接に言われてみると、 その口吻《くちぶり》からも予想した大きさが、 曖昧《あいまい》ながらも、 にわかに自分の前に現実的となった。 「どういうことでしょう?」 小野木はきいた。 「いや、 まだ、 それははっきりと言えない段階だがね」 石井検事は穏《おだ》やかに内容の説明を断わった。 「ただね、 このことには、 検事正も次席検事もひどく慎重なんだ。 正式な命令がないかぎり分からぬが、 しかし、 ぼくに、 その担当が回ってくることは、 だいたい決定的のようだ。 それできみにも、 その気持の用意をしてもらいたいのだが」 「はあ」 小野木は軽く頭を下げた。 研修所時代から、 小野木はこの石井検事に目をかけられている。 検察庁にはいってからも、 この先輩は、 小野木をひきたててくれる様子が見えた。 大きな事件が起こって、 石井自身がその主任になったとき、 小野木をその下につけようというのは、 変わらない好意の現われだった。 「要点は、 ある官庁にかかわる汚職なんだ。 今の段階では、 ただ、 それしか言えない」 石井検事は、 ぼそりと話した。 「実は、 検事正あての手紙の密告があったんだ。 で、 検事正が次席検事と相談し、 これを取りあげるかどうかを、 この間から検討していた。 ようやく、 内偵の線に持っていきかけているんだが、 事件がものになるかどうかは、 もう少したたないと分からない」 石井検事はおとなしい声でつづけた。 「ただ、 これが、 単純な汚職だけでなく、 別な事件もからんでいそうなので、 ちょっと複雑なんだ。 まあ、 なんとなく奥歯に物のはさまったような言い方だが、 何度も言うとおり、 これ以上のことは言えないんだがね」 事件の捜査がはじまると、 多忙になるのは分かりきったことで、 石井検事の、 その予告めいた言い方は、 小野木に、 その時の心構えを準備させるつもりだったのだろう。 「分かりました」 小野木は石井検事の視線に答えた。 「命令があれば、 一生懸命やります。 よろしく、 ご指導願います」 小野木が礼を言うと、 石井検事は、 「まあ、 どうなるか分からないが、 なにぶん頼むよ」 先輩は、 その顔に柔和な微笑を見せた。 小野木は部屋に帰って、 一仕事をすました。 木本事務官があとからはいってきた。 「小野木検事。 いよいよ、 あなたが担当なさるんですか?」 木本の質問は、 小野木にも分かった。 彼は小野木が石井検事に呼ばれたのを知って、 早くも判断をしたのであろう。 「いや、 まだ分かりませんよ」 小野木は正直に言った。 「石井検事に呼ばれたのは、 もし担当になれば、 一生懸命やってくれということだけだった。 事件の内容については、 まだ、 なんにも教えてくれない」 「そうですか」 事務官は、 小野木の横顔を見ていたが、 「石井検事ならやるでしょう。 黒田副部長が石井さんを見こんでいますからね。 それは、 小野木検事、 きっと、 あなたに担当が回ってきますよ」 「そうかな」 小野木もそういう予感があって、 胸がかすかに鳴らないでもなかった。 しかし、 この事務官の前では懐疑《かいぎ》的な目をした。 窓の黄ばんだ銀杏の木の背景には、 蒼い空が屋根の上にひろがっていた。 「なんだか、 大物のような気がしますな」 事務官は声をはずませていた。 「ぼくの予想は、 だいたい当たります。 ほら、 例の××事件ね、 それから、 戦後空前と言われた××事件も、 みんな、 事前の空気がこれに似たものでした。 ここんところ、 事件らしい事件はないので、 ぼくもいささか退屈していました。 もし、 小野木さんが担当となれば、 ぼくもしっかりやりますよ。 ぜひ、 やりたいなあ」 木本事務官は、 最後の言葉を太い息のように吐いて、 腕を組んだ。 「R省なら、 相手にとって不足はない」 小野木が聞き咎《とが》めたのは、 木本事務官のこの言葉だった。 「R省だって?」 「そうなんです。 これはR省の汚職ですよ」 事務官は自信に満ちた声で言った。 「それは、 どうして分かった?」 「勘ですよ」 と、 事務官は低く笑った。 「だって、 現在、 見回したところ、 そういう事件の起こりそうなのはR省しかないんです。 こういう仕事を長年していると、 ふしぎに勘が当たるものです」 小野木は、 土曜の晚、 上野からおそい汽車に乗った。 日曜、 月曜と連休なので、 車内は若い人で混んでいた。 重い荷を持った登山姿の若者が多い。 どれも厚ぼったい支度をしていた。 なるほど、 もう冬山なのである。 荷物棚には登山の用具が並び、 通路にはリュックが両側からはみだしていた。 小野木のすわっている座席の近くでも、 山の話をする声がつづいていた。 発車後、 しばらく小野木が眠っていると、 騒ぎの声で目を覚まされた。 リュックを背負いあげたり、 登山用具を抱えおろしたりして、 若人たちが汽車を忙しそうに降りていく。 汽車が山の地帯を過ぎるまで、 それが何度となく繰りかえされた。 沼田《ぬまた》でも、 水上《みなかみ》でも、 湯檜曾《ゆびそ》でも、 湯沢《ゆざわ》でも、 小野木が目をあけるたびに、 灯の寂しいホームを、 若い群れが、 リュックを背負って步いていた。 駅の後ろは山がすぐせまっていた。 小野木は、 湯沢を過ぎたあたりから目が冴えてきた。 窓の外は、 暗い山峡が走っている。 小野木はポケットから手紙を出した。 それは今朝、 速達で、 頼子から届いたものだった。 小野木がこれを読むのは何度目であろうか。 [#ここから1字下げ]「あなたにおともしていきたかったのですが、 今度は我慢します。 何もかも破壊して突き進みたい心と、 それを押える心とが、 わたしの体の中で、 戦いをしています。 このまえお会いしたとき、 あなたは、 わたしのおともをしたいという申し出に、 怯《おび》えたような目つきをなさいましたね。 台風の夜のことを思いだします。 あなたが、 わたしを夫のところに突きもどそうとなさったとき、 やはり、 同じ目をなさいましたわ。 佐渡の予定のお宿をうかがいましたので、 ぼんやりと待ちきれなくなったら、 電報をさしあげるかも分かりません。 [#ここで字下げ終わり][#地付き]頼子」 小野木は、 目をあげて窓を見た。 暗い中に山の黒い影が走っている。 窓は、 縁が凍《こお》りついたように白くなっていた。 小野木は、 眠れなくなるのを承知で煙草をすった。 さまざまな考えが、 小野木の胸の中に起こった。 小野木は、 それから二本ぐらいは煙草をすったであろうか。 窓は、 山岳地帯を抜けて、 広い野を、 暗い中に見せはじめた。 遠いところに、 農家のわびしい灯が見えるので、 そのことが分かるのである。 少し夜明けが近くなったのか、 空の方に雲の黒い形が見えていた。 小野木は、 それからまた眠りはじめた。 新潟《にいがた》に着いたのは七時過ぎだった。 ジャンパーの上にレインコートという軽い服装だったので、 駅前の宿の客引きも声をかけなかった。 小野木は飲食店のような家にはいって、 蕎麦《そば》をとった。 佐渡行の連絡船が出るまでには、 二時間ばかり間があった。 彼はタクシーに乗って信濃川《しなのがわ》を見にいった。 市中のまん中に長い橋がある。 小野木はそこで降りて、 しばらく步きまわった。 河口の方に海の部分が見えた。 鉛色のうす黒い空と海であった。 佐渡行の連絡船の波止場に行ったのは十時だった。 そこでは、 乗船者名簿を係員が配っていた。 小野木はそれに、 自分の名前を鉛筆で書き入れたが、 事故の場合を予想するこの名簿に、 自分の名前を書くことが、 何か、 人生の将来の暗示のようにも思われた。 汽船に乗って、 船の出るまで下を見ていると、 果物を詰めた荷が船腹に担《かつ》ぎこまれてきた。 遠洋航海のように、 ここでも遊覧客のために、 テープが張られていた。 佐渡おけさの音楽が鳴って、 船は動きだした。 空は曇っていた。 どんよりと重い雲が海の上に立ちこめて、 寒そうな色をしていた。 小野木は、 船室にこもって、 窓から海と空ばかり見ていた。 スーツケースの中には考古学関係の本を二、 三冊持ってきたのだが、 それを出して見る気持も起こらなかった。 かけている斜向《はすむ》かいには、 新婚の夫婦らしい男女が、 旅行案内などをひろげて話しあっている。 その横には、 島の者らしい娘がよその土地に働きに出ての帰りらしく、 不似合いなくらいに着飾って、 雑誌を読んでいた。 寒い風が窓の隙間からもれている。 エンジンの音が床をふるわしていた。 小野木は小さな旅に出るたびに、 東京の仕事との距離を感じる。 同僚の中には、 旅先であることが、 よけいに東京の仕事に密着感を起こさせるというが小野木にはそれがなかった。 空間の距離が彼の心を離しているみたいだった。 小野木は低い雲の下に動いている海を見ながら、 この小さな旅に出る前に起こりかけた事件のことを、 ふと思った。 石井検事は何も説明しないが、 木本事務官は、 それはR省の汚職事件だと想像を言った。 R省と聞いて耳が咎めたものである。 この間、 結婚したばかりの友だちが、 その官庁の者だったし、 その結婚披露宴で会った媒酌人が、 その上役の局長であった。 それも、 それだけの関係の人ではなく、 諏訪の竪穴遺跡で出会った少女の父親であった。 ──が、 いまの小野木には、 その人間関係は空に見える雲の模様の一つのように茫漠《ぼうばく》としたものでしかなかった。 たとえば、 船窓を一瞬の速さで過ぎる海鳥の翼のかげのように、 脳裏をかすめたにすぎぬ。 のみならず、 頼子のことさえも、 こうしていると現実感が遠のいてくるのである。 海に退屈して、 小野木はポケットから頼子の手紙を出して見た。 何度も出しているので、 古い手紙のように封筒がよれていた。 ──このまえお会いしたとき、 あなたは、 わたしのおともをしたいという申し出に、 怯えたような目つきをなさいましたね。 そのような目つきになったかもしれぬ、 と小野木は思った。 小野木も、 その頼子の目を思いだしている。 それこそ、 「何もかも破壊して突き進みたい心と、 それを押える心とが戦っている」目であった。 小野木が怯えたのは、 頼子のその瞳を見たためかも分からなかった。 台風の旅から帰って、 最初に会ったとき、 頼子は、 いつまでも小野木のきくことに黙っていた。 「夫は」 頼子は、 そのとき、 やっと言った。 「わたしが帰ってから三日して、 家に戻ってきましたわ」 その言葉が小野木の胸を刺した。 彼女が破局から救われたという利己的な安堵感はたしかに小野木にきたが、 そのあとで頼子の不幸への共感が海のように起こり、 それを浸して消した。 小野木は、 それから頼子に三度会ったが、 そのたびに、 彼女の破壊して突き進む動作に敗北しそうになった。 が、 一方では、 すぐ頼子は、 小野木に理性を与えていた。 それが、 彼女の瞳の火の中に闘争している別な青い色であった。 ──小野木が手紙をポケットにしまったときに、 佐渡のゆるやかな山のかたちが、 濃く大きくなっていた。 船を降りてバスに乗った。 左に湖水が見えた。 小さな町が、 山道の間にいくつかある。 坂がなくなると、 平野が開けた。 地図では想像できないような、 意外に広い平野であった。 山が遠くにあった。 相川《あいかわ》の町が小野木の行先であったが、 そこに行くまで、 バスは何度も小さな町にとまって客を降ろし、 客を拾った。 郵便局の前ではバスガールが行嚢《こうのう》をおろした。 山がまたせまって、 道は海沿いに近くなった。 屋根に石を置いた古い町並の中でバスはとまった。 それが相川の町であった。 町は山に半分せりあがっていた。 古いことは、 小野木が通りを步いて、 大きな家の多いことでも分かった。 通りの家は、 例外なく、 軒の庇《ひさし》が深く、 雪除けの工夫がしてあった。 なまこ壁の家もあるし、 格子戸《こうしど》ばかりの家が多い。 が、 のぞいてみても家の中は暗く、 町は昼でも眠ったように寂しかった。 すぐ後ろが、 荒い海だった。 2 宿は古かった。 小野木が通された部屋は、 八畳と四畳半の二間続きだった。 古いだけに、 うらぶれた感じで、 この町の印象と同じように、 そこはかとない頽廃《たいはい》が漂っていた。 係りの女中は、 頬の赤い、 丸い顔の若い女だった。 今夜の客は、 小野木一人だと言っていた。 夏の観光シーズンが過ぎると、 この佐渡の町も、 バッタリと旅客がなくなるというのである。 外を見ると、 まだ陽が残っていた。 小野木は、 海を見にいきたくなった。 女中から道を聞いて、 表へ出た。 すぐ前がバスの停留所で、 最終の客を乗せて出発を待っている。 知らない土地でバスを見るというのは、 いつものことだが、 小野木に、 なんとなしに旅愁を感じさせるのである。 乗客もほとんど土地の人ばかりらしく、 五、 六人ぐらいが寂しく乗っていた。 小野木は、 聞いたとおりの道順を步いた。 土産《みやげ》物屋が二、 三軒あったが、 申しあわせたように、 赤い陶器の茶碗を店先に並べていた。 まもなく、 川に出た。 川は真赤な色をしている。 これは、 鉱山の土が水に押し流されているのである。 小野木が見かけた店先の赤い茶碗も、 同じ土質なのである。 川の縁に沿って、 小野木は海辺の方角へ步いた。 しかし、 海まではかなりな距離がある。 古い小さい家が、 狭い路地の奥に入り組んでいた。 ひっそりと静まりかえって、 人もあまり出ていない。 ふと、 一軒の軒先を見ると、 暗い奥でろくろを回す音がしていた。 小野木がのぞくと、 老人が一人、 赤い土をこねながら、 茶碗をつくっていた。 その娘らしい若い女が、 できあがった茶碗を、 長い板に並べている。 茶碗の色は、 むろん、 赤い。 小野木が立っているのを、 茶碗づくりのおやじもチラリと見たが、 別に声をかけるでもなく、 黙ったままろくろを回していた。 この町が相川金山の名で賑わったのは、 明治のころまでである。 近年は、 金《きん》が採《と》れなくなり、 次第にすたれていく話を、 小野木はかねてから聞いていた。 そういう目で見ると、 この町全体が、 いかにも、 うらぶれた感じなのである。 白い土蔵も、 なまこ壁もあったが、 旧家の古い道具を見るように、 くろずんで、 もの悲しく見えるのである。 家はまもなく跡《と》切れた。 普通の民家のかわりに、 漁師の家がそれにかわった。 そこからふりかえると、 家の並んだ丘が見え、 その背後に尖《とが》った山がそびえていた。 相川の町は、 古いだけに、 丘にせりあがった民家をここから眺めても、 建物はしっかりしたものである。 陽が沈み、 雲がおおっているので、 壁の白さが、 沈んだ色で眺められた。 山の色も、 黄昏《たそがれ》に蒼ざめている。 山も人家も、 すべてが、 古めかしい頽廃の中に塗りこめられているのである。 まもなく、 小野木は、 海の傍まで来た。 海は、 左の方に岬を抱いている。 右手には船着場が見えた。 船着場には、 船の影もない。 昔、 金の採掘が盛んなころは、 この船着場から鉱石が積みだされたものであろうが、 今は、 まったく、 そのことがないのである。 海は荒れていた。 強い風もないのだが、 沖には白波が立っていた。 海の上には黒い雲が広がり、 層々と重なりあって垂れこめている。 厚い雲の上の陽は沈みかけているので、 よけいに海の色は暗かった。 沖を見ても、 一|艘《そう》の船の影もないのである。 小野木の立っている場所にも、 人の姿はなかった。 この海を眺めて浜辺に立っていると、 北の島の涯に来たという感じが、 胸に迫った。 小野木は、 小さな蟹《かに》のはっている石の上にたたずんで、 頼子のことを考えた。 船の影も、 島の影もない、 荒涼とした波の色を見ていると、 何か、 自分の人生をのぞいたような気がするのである。 ポケットには頼子の手紙があった。 小野木は、 また読んだ。 手紙の端が風にめくれた。 ──佐渡の予定のお宿をうかがいましたので、 ぼんやりと待ちきれなくなったら、 電報をさしあげるかも分かりません。 小野木は、 頼子に、 泊まっている宿の名前を告げている。 それは、 旅行案内から勝手に選んで、 頼子に知らせた名だったが、 そのことは、 ここにいま立っていても、 彼女との間に、 見えない線が一直線に引かれているような気がする。 が、 その線は、 目の前の風景の色合いのように、 蒼ざめたものであった。 小野木が宿に帰ると、 女中が食事を運んできた。 やはり、 土地だけに魚が多く、 それに新鮮だった。 給仕は、 頬の赤い丸顔の、 係りの女中がしてくれた。 「お客さまは、 東京のかたですか?」 女中はきいた。 そうだ、 と言うと、 夏には東京からの観光客が多いと、 彼女は話した。 「その観光客は、 どこを見物するのかね?」 小野木はきいた。 「たいてい、 鉱山のほうにいらっしゃいます。 佐渡の金山だというので、 皆さん、 一応の話の種になさるんでしょうが、 どなたも失望してお帰りになります。 だって、 今は、 全然金が出ないので、 機械も動いていないくらいです」 「どれだけの人が、 働いているの?」 「せいぜい、 五十人か百人でしょう。 ひところは相川の町も、 鉱山の山師で埋まったといわれたくらいですが、 今はそんな景気ですから、 この町もさっぱりです」 女中は、 そんなことから、 いろいろ土地の話をしてくれた。 鉱山には、 まだ、 古い時代の手堀りの坑道が残っていること、 佐渡金山奉行所の跡があること、 郷土博物館が建っていることなどを話した。 小野木は、 明日あたり、 その郷土博物館に行ってみようと思った。 そこには、 この付近の遺跡から発掘された土器などが陳列されてあるはずである。 佐渡には、 古代の遺跡がかなり多い。 この相川の近くと、 小木《おぎ》の付近に、 発掘報告がなされている。 相川の博物館に陳列してあるのは、 付近の、 低地遺跡の発掘品のはずであった。 もう外は、 夜になっていた。 「夏場ですと」 と、 女中は言った。 「観光客のために、 いろいろと催しがあるのですが、 もう時季はずれなので、 何にもありません。 ご見物なさるところがないので、 お気の毒ですわ」 小野木は、 しかし、 そのような催しものを見る気はなかった。 夜にはいってから、 この古い夜の町を步いてみたいくらいが、 せいぜいだった。 風呂から上がって、 小野木は、 スーツケースの中から持ってきた考古学関係の本を出して、 拾い読みをした。 その一冊は、 『新潟県文化財報告書』の「千種《ちぐさ》低地遺跡」であった。 報告書を読んでいると、 その遺跡からはイネ、 マクワウリ、 ヒョウタン、 モモ、 シイなどの種が発掘されている。 それから、 タイ、 イカなどの魚の骨、 現在は生息していないアシカの骨、 貝類などの出土品が報告されている。 これらは、 登呂《とろ》遺跡の発掘品と似ているのだ。 小野木が、 二、 三ページ読みかけたころ、 例の女中が上がってきた。 「お客さん、 今から、 この土地の有志で、 おけさ踊りが始まります。 お退屈でしたら、 見にいらっしゃいませんか?」 女中はすすめた。 聞いてみると、 それは「おけさ節」を伝統的に保存する土地の会があって、 観光客の求めに応じて踊るということであった。 シーズン.オフになりかけた秋の今は、 開かないはずだが、 たまたま、 よその旅館の団体客の望みがあって、 久しぶりにすることになったから、 ついでに見にいかないかというのである。 女中は、 ひどく熱心にそれをすすめた。 小野木は、 女中の言葉に動かされて、 行く気になった。 宿を出て、 その会場までは二町ばかりあった。 坂道を少し上《のぼ》ったところに、 道場のような建物がある。 中にはいると、 下足番までいた。 桟敷《さじき》のような見物席にすわると、 宿のどてらを着た客が、 二十人ぐらい暗い影になって詰めていた。 土地の者も、 後ろにすわっている。 何か、 田舎の小さな芝居小屋のような感じだった。 正面の小さな舞台には、 浜辺の景色を描いた書割りがある。 唄い手は四人で、 かわるがわる「おけさ」を唄っていた。 踊りは、 これも男ばかりで、 編笠をかぶって、 白い揃いの浴衣である。 本場の土地で、 その民謡を聞くのは、 やはり、 別な趣があった。 薄暗い桟敷でそれを聞いていると、 旅のもの悲しさが迫ってくるようだった。 ふだん聞きなれている「おけさ」節と違って、 ここで聞くそれはもっと哀調があった。 節まわしに妙な艶《つや》がないだけに、 素朴な哀れさというものがある。 それは、 現在の相川の町の頽廃にどこか似合っていた。 小野木は、 そこを途中で出た。 帰りは、 もっと暗い道になっていた。 步いていて、 肩に寒さを覚えた。 秋の初めだが、 もう、 このあたりの夜の空気は冷えていた。 宿に帰る道の両側の家は、 ほとんど、 戸を閉めている。 たまに入口をあけている家は、 奥にとぼしい明りをつけていた。 その道の途中でも、 二軒の茶碗屋があった。 うす暗い灯の下で、 人影が動いている。 陳列の茶碗が目にわびしかった。 小野木の横を、 宿の着物をきた一組の男女がすれ違った。 やはり、 この土地にはちぐはぐな姿だった。 ここは観光地といっても、 土地のものだけで固まっているといった感じの町なのである。 小野木は、 まっすぐに宿に帰る気がしないで、 浜辺への道をまた步いた。 川の音と、 遠くで鳴る潮騒《しおさい》が聞こえるだけだった。 家のある所からは、 話し声もしないのである。 暗い道を步いていると、 空が奇妙にはっきりと見えた。 星一つない空だが、 眺めていて、 黒い雲の模様が分かりそうなくらいである。 小野木の目に、 頼子の顔が浮かんだ。 あくる日の昼前、 小野木は、 相川の町から千種の遺跡に行った。 バスで二十分ぐらいの所だが、 そこは、 広い平野の中にあった。 佐渡は、 南と北に山岳地帯がある。 その間が低地になっていた。 地図の上では狭い島だが、 こうして来てみると、 かなり広い平野である。 バスを降りた所に「河原田《かわらだ》村役場」の看板があった。 そこできくと、 遺跡は、 南に向かって二キロばかり步かなければならないということであった。 ほとんど、 この辺には町らしい町はない。 見渡すかぎり、 波打った初秋の稲田であった。 その日も、 空は曇っていて、 薄ら陽が射していた。 小野木は、 川に沿って步いた。 国府川《こくふがわ》といって川幅はかなり広い。 三十分ほど田舎道を步いていくと、 「千種遺跡」の標柱が立っていた。 そこは、 遺跡とは、 もちろん、 分からないくらい、 一面の田圃《たんぼ》であった。 小野木は、 片手に、 『新潟県文化財報告書』を開いて、 図面と見くらべ、 あたりを眺めていた。 すると、 田圃の畦道《あぜみち》の間に、 二つの人影が動いている。 はじめ、 農夫かと思ったのだが、 そうではなく、 一人は、 ワイシャツと裾《すそ》をまくったズボン姿の、 都会的な青年であった。 一人は、 スラックスをはいた若い女だった。 青年のほうは、 短い鍬《くわ》を持ち、 女性のほうは、 布の袋を持っていた。 小野木が見て、 その男女が、 この辺の発掘をしていると知った。 小野木は、 溝《みぞ》をまたいで畦道に渡った。 その稲の陰に、 かがんだ青年の姿は隠れていた。 小野木が近づいた気配で、 青年のほうが顔を上げた。 「やあ」 先方から声をかけた。 小野木が土地の者でなく、 やはり、 同じ趣味の人間だと向こうで思ったらしい。 若い、 明るい顔つきで笑った。 小野木は会釈《えしやく》した。 すると、 青年の後ろにいる若い女性も、 微笑して小野木に頭をさげた。 「何か、 収穫はありましたか?」 小野木も声をかけた。 「いや」 青年は笑って、 「土器のかけらばかりですよ」 小野木は、 青年に促《うなが》されて、 若い女性のさしだす袋の中をのぞいた。 わざわざ、 拾いあげてくれた女性の掌《て》には、 弥生《やよい》式の土器の破片が、 土のついたままのっていた。 それは、 壺のかけらのように思われた。 「まだ完全なものが掘りだせないんです」 青年は言った。 「こういうかけらは、 ずいぶん、 出てくるんですがね、 何しろ、 このとおり稲があるので、 思うように掘れません。 これでも、 お百姓に叱られはしないかと思って、 おっかなびっくりで掘っているんですよ」 報告書によると、 低地遺跡の広さは、 横三百メートル、 縦六十メートルぐらいで、 こうして掘っていても、 すぐ土器や木製品の破片が出てくるのである。 「失礼ですが」 と、 青年は小野木に言った。 「土地のかたではないようですね」 「東京からです」 小野木は答えた。 「やはり、 こういう方面に関係のあるかたですか?」 「いや、 そうではありません」 小野木は否定して、 青年に反問した。 「あなたも、 そういうご趣味のほうですか?」 「いや、 ぼくは、 いわば、 これが商売です」 青年は自分で、 ある大学の助手をしている、 と言った。 なるほど、 その顔は、 まだ学生から脱《ぬ》けきれないような稚《わか》さが残っていた。 そう思うと、 傍についている若い女性も、 少女らしい面影があった。 「ぼくたち、 小木の方から、 こちらに回ってきたのですがね」 と、 青年は言った。 「向こうでは、 |長者ケ原《ちようじやがはら》という所から、 繩文《じようもん》式土器がおもに出ています。 北海道地方特有の諸磯《もろいそ》式が多いです。 宿に置いてあるので残念ですが、 お見せしたかったですな」 青年は、 実際に、 学問に情熱的な表情を見せて言った。 小野木には、 この二人が、 夫婦か、 恋人か、 判断がしかねた。 この問答の間、 若い女性は、 静かに話を聞いていた。 明るい微笑が、 たえず、 彼女の顔から消えなかった。 傍《はた》から見ていて実に幸福そうなのである。 小野木が帰りかけると、 その二人は、 畦に立って手を振った。 知らない土地で会った小野木に、 彼らも特別な好意を持ったらしいのである。 小野木が広い道に出ても、 彼らは、 まだ見送っていた。 小野木が宿に帰ったのは、 午後二時ごろだった。 「お客さん、 電報が来てます」 女中が、 彼の顔を見ると、 すぐ言った。 電報と聞いて小野木は、 頼子からだと直感した。 開いてみると、 やはり、 そのとおりだった。 「オカエリヲウエノエキニテマツヨリコ」 小野木は驚いた。 小野木の予定では、 新潟を夜行で発《た》つと、 上野には朝五時三十分に着くはずであった。 頼子が上野駅に到着列車を迎えにくるには、 彼女は、 早朝に起きて、 駅に駆けつけなければならないのである。 そんな早い時間に、 彼女は、 どのような理由を夫に告げて家を出るのであろう? 小野木は、 少し胸がふるえた。 このごろ、 だんだん頼子に押されていく自分を、 小野木は意識している。 台風の夜から、 頼子のほうで気持が積極的になってきている。 小野木が、 電報を見たまま、 考えていたので、 「何か、 悪い電報ですか?」 と、 女中が心配そうに、 彼の顔を見た。 小野木は次のバスに乗り、 両津《りようつ》に出た。 途中で、 頼子のことばかり考えていた。 電報をうけとって、 急に、 頼子がそこに来ている感じであった。 好きな古代の遺跡步きも、 今度は、 心に密着しなかった。 今までになかったことである。 次第に、 頼子が占める心の部分がひろがり、 重たくなってきていた。 小野木は新潟行の連絡船に乗った。 船に移って、 まだ出航しない前だったが、 甲板に立って、 彼は妙なものを見た。 桟橋には見送り人が、 船を見上げて笑って立っている。 ここにも、 色テープが張られていたが、 小野木の目は、 その見送りの人の後ろに、 ふと止まった。 桟橋に出る前に、 改札の事務所があるが、 ひとりの若い女が、 改札口を出たばかりの隅に佇んでいた。 気づいたのは、 その女が、 けっして船の方を見ないことだった。 顔を横に向けて、 別な海の方を眺めている。 そこに立っているのだから、 船客の見送り人に違いないのだが、 一度も船の方を見ないのは妙だった。 やがて、 船が出る合図の汽笛が鳴った。 下の見送り人たちは、 あらためてテープを振りなおして挨拶した。 女は、 そのとき、 初めてちらりと目を船に向けた。 遠くから見ている小野木にも分かるくらい鋭い顔であった。 彼女は船に乗っている誰かを見つめているのである。 が、 それも五、 六秒ぐらいの時間だった。 女は、 くるりと背中をかえすと、 改札口を通りぬけ、 駆けだしていった。 その姿は、 やがて海岸通りの道の上に見えた。 彼女は袖を顔に当てて、 駆けているのだった。 船はゆるやかに動きだしている。 しかし、 女は一度も船を見ないで、 泣きながら一散に走っていた。 小野木は、 息をのんだ。 女の、 実際の別離の悲しみをそこで見た思いだった。 その女は苦痛のあまり、 別れる相手が乗った船の出港を、 凝視《ぎようし》して待つことができなかったのである。 小野木は、 今日のひる、 低地遺跡で土器を拾う青年の後ろに微笑していた若い女性の、 幸福そうな顔を思いださずにはいられなかった。 泣きながら走っている見送りの女の姿は、 小野木の視界から消えていた。 甲板に立って、 海の風に吹かれながら、 小野木は、 頼子のことを、 また考えた。 3 小野木喬夫は、 支度をして窓の方を眺めていた。 鉛色の中に、 広い平野が動いていた。 民家にはまだ橙《だいだい》色の灯が洩れているのである。 五時半というのだから、 ふつうの人間にはまだ早い時刻に決まっていた。 靄《もや》の中を、 早く起きて仕事に出かける人が、 わずかに見えるだけだった。 次第に上野に近づいてきたが、 線路の横のたいていの家はまだ眠っていた。 台所で火を起こしている家もある。 ホームに汽車が滑りこんでから、 小野木は窓に目を凝《こ》らした。 このような早い時間でも、 出迎え人はかなりあった。 その人間の列が後ろに流れてゆく。 小野木の目は、 一瞬に、 その中にいる和服姿の頼子をとらえたが、 それもたちまち流れ去った。 小野木は安心した。 汽車がとまってから、 小野木はホームに降りた。 頼子の姿を窓から確かめた位置に彼のほうから步いた。 頼子はそのままの場所に、 控え目に立っていた。 小野木の胸はやはり鳴った。 「おはよう」 横から小野木が言った。 別な方を向いて彼を探していた頼子は、 目をあげて驚いたように小野木を見た。 「あら」 小さい声をあげて、 「お帰んなさい」 と笑った。 電報をうけとった時から、 小野木は頼子の姿を期待していたが、 朝の五時半という時間に不安があった。 頼子が来てくれたほうがいいと思う一方、 彼女が来ないほうが無事なような気がしていた。 しかし、 頼子の姿を見ると、 さすがに胸がいっぱいになった。 「早いのに、 よく出られましたね?」 小野木は言った。 「だって、 ちゃんと電報、 さしあげておいたでしょう」 頼子は、 目を微笑《わら》わせて答えた。 あたりは、 汽車から降りた客が、 出口の方に步いているので、 二人もそのまま流れにはいった。 頼子は、 今朝は、 小野木の腕に触れるように寄りそっていた。 「たいへんだったでしょう?」 頼子は小野木の疲れた横顔を見上げた。 「いや、 わりにたのしかったですよ」 彼は快活に答えた。 「相川の宿であなたからの電報をもらった前の晚は、 土地の、 佐渡おけさの踊りを見にゆきました」 「そうお?」 頼子は低く笑って、 「本場はやっぱり情緒があるでしょうね。 見たかったわ」 彼女の声には、 そこまでいっしょに行きたい気持が溢れていた。 二人は改札口を出た。 さすがに上野駅で、 このような早朝でも昼間みたいな人混みであった。 別の線の汽車が同時に着いたらしく、 そのほかの客も改札口に流れていた。 「どこに行きます?」 改札口を出て、 頼子が步きながら小野木にきいた。 「さあ」 小野木は、 スーツケースを持ちなおして考えた。 「温かいものでもいただきません?」 「そうですね」 小野木は今朝、 早くから目を覚ましていた。 なぜか気持がたかぶって、 目が開いた感じである。 山岳地帯を抜けて、 汽車が広い平野を走っている時、 小野木はほの暗い靄の流れている野面《のづら》を見つめながら、 もうあと何十分かしたら、 頼子に会えるのだと考えつづけていたのだった。 上野駅付近は、 旅客を相手に早朝から店をあけている。 駅前の商店街に、 いくつも喫茶店があった。 二人はならんで電車道を横ぎった。 朝はさすがに季節の寒さを覚えるのである。 ──この時、 駅の正面から出てゆく頼子の横顔に目を走らせた中年の男がいた。 彼は驚いたように口の中で何か呟いていたが、 それから人々の肩の間から覗《のぞ》くようにして、 二人の後ろ姿を見つめていた。 電車通りからはいったせまい路に、 小料理屋や喫茶店の並んでいる一郭がある。 「この辺にでも寄りますか?」 小野木は、 その方を眺めて言った。 「ええ」 小野木は先に立った。 頼子は後ろからついていく。 小野木が見て、 あまりきれいな家はなさそうだった。 彼は頼子の贅沢な暮らしを考えて、 ちょっと迷った。 が、 小野木の気持を察したように、 頼子のほうから、 「その店はどうかしら?」 と、 レストランまがいの店をさした。 小野木は入口のドアを押した。 店内は、 やはり、 汽車の客で、 ほとんどいっぱいであった。 「こちらへどうぞ」 店の女の子が片隅に案内した。 卓を前にむかいあってすわると、 小野木はさすがに疲れたが、 頼子を見て、 「あなたも食事はまだでしょう」 ときいた。 「ええ、 まだよ。 ごいっしょにいただくわ」 頼子は答えて、 自分で卓の上のメニューを取った。 「あなたの口にあうかな」 小野木はメニューの上に目を落としている頼子に言った。 実際、 頼子の環境としては、 このような店にはめったにこないのである。 「あら」 目を大きくあけて、 「そんなこと、 ないわ。 これを見ただけでもおいしそうなお料理が並んでいるじゃありませんの」 それから、 小野木にメニューを回して、 「わたしコーヒーをいただくわ」 と言った。 小野木も同じものをとることにした。 やはり、 頼子は料理を頼まなかった。 この時、 入口のドアがあいた。 小野木の位置から見て、 店のドアは正面にあった。 はいって来た客は、 中年の男で、 やはりスーツケースを持っている。 彼は小野木の組には一瞥もくれないで、 ちょうど、 空いたばかりの卓に着いた。 むろん、 小野木の知らない男である。 その男は、 買ったばかりらしい朝刊を出して、 目の前にひろげて読みはじめた。 が、 彼は、 熱心に新聞を読んでいるようで、 実はそうではなかった。 彼の目は、 新聞の端から頼子の後ろ姿と、 小野木の顔とを観察しているのだった。 その位置から、 頼子の顔が少し斜めに見られた。 注文のコーヒーが運ばれた。 少し疲れている小野木には、 そのコーヒーがおいしい。 彼が地方を步いていつも感じるのは、 おいしいコーヒーが飲めないことである。 この店のコーヒーもけっしておいしくはないのだが、 それでも地方へ出て砂糖湯みたいなものを飲ませられるよりはずっとましだった。 朝早く汽車から降りたばかりだし、 温かいコーヒーを一口飲んだだけで、 何か元気づくような気がした。 「佐渡のお話をしてちょうだい」 頼子が小野木に言った。 「どんなコースでお回りになったの?」 「相川に泊まって、 国仲《くになか》というところにいったのです」 と、 小野木は言った。 「佐渡といっても、 地図の上で小さな島かと思うと、 なかなかどうして雄大なものですよ。 北と南に山岳地帯があり、 その間が平野になっているので、 ここを国仲と昔の人は名づけたのでしょうね」 「詩的な名前ね」 頼子は、 今朝は、 いつになく気持をはずませているようだった。 「そう。 古代の人はだいたい、 詩人ですよ。 出土する遺物を見ても、 稚拙《ちせつ》ななかに詩のある作品が多いんです」 と、 小野木は話してから笑いだした。 「ぼくはその国仲の千種という低地遺跡へ行ったのですが、 やはり考古学をやっているという若い学者夫婦が来ていましたよ」 「そう」 「あんな若い夫婦がいっしょに何か発掘しているのを見てると、 やはり、 いいなあと、 思ったな。 実に二人とも明るいんです」 頼子が不意に黙ったのは、 それを聞いてからだった。 今まで明るかった顔色も、 急に沈んで見えた。 小野木の目は、 敏感に頼子のその変化を見た。 「頼子さん」 小野木は、 ちょっと息をのんだかたちだった。 「何か考えていますね?」 小野木は頼子の顔をみつめた。 が、 頼子の伏せた長い睫《まつげ》は、 重たくそろって、 すぐにあがらなかった。 「何も考えないという約束ではありませんか?」 頼子は、 そのままの目つきでいたが、 「そうだったわ」 と、 急に低く言ったものである。 目まで、 わざと元気に開いた感じであった。 「ねえ、 これからどこへ行きます?」 言葉も表情と同じように、 何かふりきって思いなおしたという感じだった。 小野木も、 これから、 どこへ行くのか、 すぐには見当がつかなかった。 時計を見ると、 まだ六時ちょっと前なのである。 どこへも行きようがなかった。 「お宅に帰らないと、 まずいんじゃないですか?」 小野木が頼子にきいた。 「ううん、 いいの」 頼子は、 首をふってから、 「わたし、 どこへも行くところがなかったら、 小野木さんのアパートに行きたいわ」 と言った。 小野木は、 はじめて頼子から、 その言葉を聞いたのだった。 今まで一度も、 小野木のアパートヘ行こうなどと、 彼女は言いだしたことはなかった。 「困るな」 小野木は呟いた。 「あら、 どうして?」 「きたないんですよ、 とても。 あなたのような人の来るところじゃありません」 「平気よ」 頼子は言った。 「わたしがお願いしているんですもの。 連れてってくださいな」 頼子が急にそんなことを言いだしたのは、 小野木には分かる気がした。 自分が話した佐渡の若夫婦の話と無関係ではなく思われた。 彼は頼子の表情を眺めた。 卓を離れて頼子が姿勢を変えたので、 新聞の端から眺めていた中年の男は、 あわてて、 その新聞を自分の顔の前にひろげた。 タクシーを拾って、 小野木は自分のアパートに向かった。 中央線の繁華な街に近いところで、 そのあたりは賑やかな場所からはずれた住宅街だった。 アパートは住宅街の中にあった。 すぐ裏に岸の深い小さな川が流れている。 小野木がアパートの前でおりると、 出勤の早い会社員がおりから出かけるところだった。 「おはよう」 と言って、 小野木の横に頼子が立っているので、 びっくりしたような目をした。 その同じ目つきは、 小野木が自分の部屋にはいるまで、 玄関でも廊下でも会わねばならなかった。 頼子は彼の後ろで小さくなった。 廊下では主婦たちが、 これも驚いたように頼子を見た。 なかにはすれ違うとき無遠慮に眺める者もあった。 「恥ずかしいわ」 頼子が顔に掌を当てたのは、 部屋にはいってからである。 小野木も頬をあからめていた。 「なに、 平気ですよ」 と言ったが、 彼自身、 胸に動悸《どうき》がうっていた。 が、 頼子は部屋のなかを見回すと、 「まあ、 きれいなお部屋だわ」 と声をあげた。 六畳に四畳半の二間つづきだった。 小野木の部屋は、 男としてはわりに整理してあるほうだった。 彼の工夫で、 寝台も、 本箱も箪笥《たんす》も、 椅子も、 机も、 新しい感覚でならべたつもりである。 頼子は珍しそうにそれを眺めていた。 「かけませんか」 と、 小野木は言った。 頼子はそこに突っ立ったままなのである。 「ええ、 ありがとう」 頼子はアパートの人にじろじろ見られた恥ずかしさを忘れたように、 まだ部屋の中を見回していた。 その目の表情からは、 もう物珍しさが消えて、 親しそうなものに変わっていた。 「お疲れになったでしょう?」 頼子は小野木に視線を戻して言った。 「今日も、 お役所へはお出かけになるの?」 「行きます」 小野木がジャンパーを着替えようとすると、 頼子が後ろに回って、 それをとってくれた。 「ありがとう」 と、 小野木が礼を言った。 「ワイシャツは?」 頼子がきいた。 「あ。 その洋服箪笥の、 下の引出しにあります」 頼子が箪笥の前にしゃがんで、 引出しを開けた。 クリーニング屋から届いたワイシャツが重ねてあった。 小野木が、 台所で何かしていた。 頼子が立って行き、 小野木の後ろに立った。 「何をしていらっしゃるの?」 「ホットケーキをご馳走しようと思うんです」 小野木は、 紙袋から粉を、 鉢に移していた。 「あら、 わたしがするわ」 頼子が微笑んで小野木にかわろうとした。 「いや、 いいんです。 ぼくの腕もまんざらではない」 「いけないわ」 頼子が言った。 「あなたは疲れてらっしゃるから、 あっちの椅子にすわって、 お休みなさい」 「しかし……」 「わたしが、 ここのお台所をやってみたいのよ。 ちゃんと、 してごらんに入れるわ。 三十分もしたら、 コーヒーもいっしょにお運びするわ」 頼子は、 電熱器《ヒーター》やコーヒー沸かしの置き場などを見ながら言った。 「さあさあ、 早くあっちへ行ってらして」 頼子が小野木の体を押した。 小野木は椅子によった。 陽が上がって、 ガラス戸から射しこんだ。 彼がすわっているところから、 頼子が働いている姿の一部分が見えた。 皿や器具の触れあう音がしている。 その音が、 朝の空気の中に澄んでいた。 小野木は、 この朝の幸福を感じた。 頼子の体が、 ちらちらと動いていた。 白い煙があたたかそうに上がった。 頼子の動作が、 いつも見なれている彼の目にはずんでいた。 小野木は急に椅子から立った。 「あら」 頼子が、 不意に後ろにきた小野木を見上げたが、 微笑んでいる幸《しあわ》せそうな目だった。 「何か、 御用ですの?」 急に、 小野木は、 手を伸ばして、 その頼子の肩を力いっぱい抱きよせた。 頼子が軽い吐息をつき、 自然に小野木の顔の下に、 自分の顔を反《そ》らせた。 九時になっていた。 結城庸雄は、 朝の陽の当たっている自分の家の石段を上がった。 乗ってきた自動車《くるま》は、 運転手に言いつけて、 そのまま待たせておいた。 玄関をあけた。 女中二人が出てきて、 主人を見て驚いた顔をしている。 「お帰りなさいまし」 結城庸雄は黙って靴の紐を解いている。 背の高い男だった。 少し薄いが、 手入れの届いた髪が匂っている。 女中は、 まだ驚いた目をして主人を見ていた。 こんなに朝早く帰ってくることはめったにない。 結城は、 玄関から奥へ通った。 にこりともしていない顔だった。 端正な容貌だけに冷たいのである。 合コートを着たままだった。 脱ぐものと思って女中が居間までついてきたが、 手持無沙汰な恰好になった。 陽の射している窓際に椅子を寄せ、 コートのままですわった。 手をポケットに入れたままだった。 「あの、 お食事は?」 女中は、 主人が黙って首を振ったので、 茶を入れるつもりで退《さが》ろうとした。 「奥さんは?」 初めて、 黙っている主人が口をきいた。 「あの、 今朝、 お出かけでございます。 なんですか、 上野駅にお知りあいのかたをお見送りなさるそうでございます」 結城は、 ちょっと考えていたが、 別にそのことは何も言わなかった。 「郵便物だけ持っておいで」 と言っただけで、 目を窓の方に向けた。 眩しいので目を細めている。 女中は郵便物の束を持ってきた。 五日分ぐらいたまっていた。 結城は、 それを卓の上にのせて、 片手で裏を返し、 差出人の名前を見ては、 次をめくっている。 片手は、 横着にコートのポケットに入れたままだった。 封を切って読むぶんを選びだしている。 郵便物は帯封の新聞が多かった。 株式関係の業界紙ばかりである。 めくっている結城の指先は、 細いし、 横顔も整った輪郭だった。 女中が、 主人が何も用事を言いつけないので退ろうとすると、 「奥さんは」 と結城は、 ぼそりと呟くようにきいた。 「何時に、 家を出かけたのだね?」 やはり、 郵便物に目を落としたままだった。 「はい、 五時前にハイヤーをお呼びになって、 お出かけになりました」 「五時前?」 結城は、 ちょっと目をとめた。 何か考えているような瞳《め》だったが、 そのまま黙って選びだした手紙の封を切る動作に移った。 女中が去ったあと、 彼はせっかく、 封を切った手紙の中身をひきだすでもなく、 陽の眩しい窓の方を向いた。 日陰になっている部分の芝生は、 まだ露に濡れている。 結城は、 それを見つめていた。 [#改ページ] |