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10ビルの事務所


結城庸雄は、
懶惰《らんだ》に椅子にすわったままの姿勢で、
郵便物の束に目を落とした。


格別、
興味のある目つきではなかった。


ひととおり見た封書を、
弄《もてあそ》ぶように繰っている。
相変わらず、
片手は大きな格子縞《チエツク》の合コートのポケットの中にあった。


何かを考えているような横顔である。
端正な輪郭だけに、
まじめになっているときの顔つきは、
怖いくらい冷たいのである。


株式の業界紙を指先ではじき、
デパートの案内状を取りあげた。
封を切り、
中を開いてみた。
色のついた、
きれいな印刷物だった。
それをぼんやりと眺めている。


別に、
読むという気持のない瞳である。


ただ、
きれいな紙を眺めて考えているといった表情であった。


女中がはいってきたが、
窓から射す陽を肩の半分に受けている主人に、
恐れるように近づいた。
黙っておじぎをして、
「ここに、
置いておきましょうか?」

と言った。
運んできたコーヒーのことだった。
結城は、
ちょっと見て、
うなずいた。
それから、
コートから手を出してコーヒーをのみかけたが、
長い袖口が少し邪魔になった。


「あの、
お食事のお支度は?」

女中がきいた。
これは、
朝、
九時に帰ってきた、
主人の時間のことを考えての質問である。
結城はむっつりと黙っていたが、
「小山《こやま》にやれ、
おれはいい」
と、

乾いた声で言った。
小山は運転手である。


「はい」

女中が退ろうとすると、

「おい」

と呼びとめた。


「奥さんは、
誰を送りにいくと言っていた?」

女中の顔は見ないで、
郵便物の方に目を落としたままだったし、
身じろぎもしないのである。


「さあ、
存じませんが。
何もおっしゃらなかったのでございます」

それには、
返事のかわりに顎《あご》をひいた。
顎の下には、
趣味のいいマフラーがまつわっている。


結城は、
そのまま、
何分かじっとしていたが、
やがて前のガラス戸をあけた。
椅子を立ち、
庭に向かった。
芝生の上の陽は、
軒下に近くひろがって来ている。


結城は口笛を吹いた。
芝生の陽だまりに、
犬が一匹、
うずくまっていたのである。
犬は、
結城の口笛に尻尾《しつぽ》を動かして起きあがりかけたが、
そのまま、
からだを戻した。
彼もべつだん、
犬に興味を持っている様子はない。


朝の冷えた空気が家の中に沈んでいた。
結城は、
コートの襟を少し立てて、
自分の書斎を出た。
廊下を步いて、
斜め向かいにある妻の部屋をのぞいた。


ここにも、
窓には明るい陽が当たっている。
部屋は二つに別れていた。
一つは畳のない桜材の床で、
椅子と机とがあった。


本箱に、
書籍が整然と並べられてある。
頼子の趣味で、
それぞれの種類にしたがって分類されてあった。


壁掛けも、
油絵の額も、
彼女の好みで、
落ちついた色彩のものが多い。
机の上はきれいに片づき、
窓の陽の光を映していた。


結城は、
机の上を、
なんとなく指で触っていたが、
日本間の方に移った。


ゆっくりと、

遊んでいるような動作である。


ここでは、
床の間の生花や、
黒檀《こくたん》の机の飾りを、
立ったまま見ていた。
菊の白さが寒いくらいだった。


この座敷も清潔に片づいている。
隅にある洋服箪笥の前に步いた。
扉をあけて中をのぞく。
すぐにそれを閉めて和箪笥の前に来たが、
ふと、

環《かん》に指先をかけようとして、
その動作をポケットに戻した。


やはり、
考えている顔で座敷を二、
三度、
往復したものである。
腕時計を見た。


部屋を出ていき、
肩をすくめて、
そのまま玄関の方に步いた。


「お出かけでございますか?」

女中が主人を見つけて、
走り出て膝《ひざ》をついた。
結城は、
黙って腰をおろし、
うつむいてヘラを使い、
靴をはいている。


むっつりした動作だったし、
女中に、
格別、
声をかけるでもなかった。


「行ってらっしゃいまし」

女中が言ったのは、
主人の高い背が玄関の外に出るときであった。


玄関から道路までは急な石段になっている。
一段一段を、
のろのろと彼はおりていった。
自動車がすぐ下に待っている。


運転手の小山が、
運転台を急いで降りて、
ドアを開いた。


「ご馳走になりました」

道路に立ってドアを支えた小山は、
頭をさげて朝食の礼を言った。


「会社でございますか?」

ハンドルを握ってから運転手は、
座席の主人に丁寧にきいた。


「うん」

結城は、
ポケットから外国煙草を出して口にくわえる。
道の片側だけに陽の当たっている朝の住宅街を、
車が走った。


結城は、
目を閉じて青い煙を吐いた。
煙は車の天井で横にはった。


住宅街の狭い道が、
商店街をはさむ広い道路になったとき、
結城が何か言ったようだった。


「は?」

運転手がふりかえった。
これは、
行先が変更になると思いちがいをしたからである。
実際、
結城はそれを言うつもりだったらしいが、
時計を見て、
「いや、
いい」

と言った。
いいというのは、
予定どおり会社に行く、
ということなので、
運転手は、
主人がS町に行くのを思い直したのだと思った。
S町には結城の愛人の家がある。


都心に近づくにつれ、
車の数が多くなった。
結城の車は、
信号のところでとまり、
輻輳《ふくそう》した場所でまたとまった。


その退屈な間、
結城は外を眺めて、
ぼんやりと考えているような目をしていた。


車は、
ある大きなビルの前にとまった。
すぐ近くには同じようなビルが並び、
乗用車が何台も列をつくって駐車していた。
結城庸雄が磨きこんだ靴を地におろすと、

「ここでお待ちいたしますか?」

帽子をとった小山運転手がきいた。


「そうだな」

結城は、
すこし思案していたが、
「今日は買物に出ると言っていたな。
あちらに行ってくれ」

と言い捨てて、
ビルの玄関にはいった。
くわえていた煙草を落とし、
靴でつぶした。
小山運転手は、
|あちら《ヽヽヽ》の意味をのみこんでいる。


ビルの一階は商店街になっていて、
きれいな店ばかりが並んでいる。


服地を売る店、
外人向きの土産品のようなものを売る店、
洋品店、
雑貨店、
レストランなどが並んでいた。


どの店も、
見ただけで豪華そうで、
しゃれた店つきなのである。
昼でも、
夜間のように電灯の照明が輝いている。


ビルの中央部にエレベーターがあった。
結城は大理石の床を踏んで、
その前に立った。
十二、
三人の会社員らしい男たちが待っている。
結城は、
一番後ろに立った。


金具の光っているエレベーターが開いて、
結城は中にはいった。


「おはようございます」

籠《ケージ》の中の知った顔が結城に挨拶した。


「おはよう」

よその会社の社員だったせいもあるが、
そのときの結城の顔は、
ひどく愛嬌があった。
笑った目も愛くるしかった。
人々の隅に女事務員が二人いたが、
互いに目を見合わせて、
結城の方を眺めている。


四階で彼は降りた。
そこは廊下を中心にして、
左右にさまざまな事務所がずっとつづいていた。
区切られたどの事務所もガラス戸に会社の名前が書いてある。
結城は、
大理石の廊下を靴音をたてて步いた。
通りがかりの事務所には、
絶えずドアが開いたり閉まったりして、
人が出入りしていた。
これは事務所の隣組の知った顔ばかりなので、
結城は、
何度も「おはよう」をくりかえしていた。
鷹揚《おうよう》な態度だしやさしい目つきだった。


後ろで、
見送った女事務員たちが、
彼の噂をしている。
このビルの女の子たちは、
かねてから、
結城さんはすてきだ、
という共通の印象を持っていた。


結城は、
『朝陽《ちようよう》商事株式会社』と書かれた磨《すり》ガラスのドアを押した。
この事務所は、
他の事務所よりは半分ぐらい狭かった。


「おはようございます」

結城庸雄を見て、
内部《なか》の女の子が立ちあがり、
おじぎをした。
つづいて、
若い事務員が二人、
椅子から腰をあげて挨拶した。


結城は、
窓側の大きな机の前に行き、
コートを女の子にとらせた。
事務所は一応の体裁が揃っている。
しかし、
商事会社という看板の割合には、
並んでいる帳簿は少なかった。
設備も、
他の事務所にくらべて、
ひどく寂しいのである。
が、
電話だけは、
贅沢に、
ちがった番号で、
結城の前に一つと、

事務員のほうに一つあった。


結城は、
その電話機のある机に頬杖をついて、
煙草をすった。
青い煙の中で、
彼は眉をしかめていた。
煙が目にしみたような具合だった。
ぼんやりと、

とりとめのないことを考えている顔つきだった。


社長が来たので、
二人の事務員たちはいくらか窮屈そうになって、
仕事をしていた。
女の子が、
社長の結城の前に郵便物を運んできた。
頬杖をといて、
一通一通眺めていく。
家でもしたように、
ものぐさそうな動作だったが、
事務所の郵便物は、
今日一日ぶんだけなので少ない。


彼は、
いちいち裏を見て、
不用なものは指ではじいた。
手もとに残っている五、
六通を抜きとって、
きみ、
と女の子を呼び、
余分なものを返した。


結城は、
丹念に鋏《はさみ》で封を切った。
中をひろげて読むのに実に手間をかけている。
文面によっては、
手帳を出し、
メモをとった。
五、
六通の手紙を処理するのに、
二十分はたっぷりとかかった。


彼は、
ポケットから鍵を出し、
机の引出しをあけた。
事務には几帳面《きちようめん》な性格らしく、
きちんと引出しの中は整理されている。
いま、
それにしまったのは三通であった。


引出しを閉めて鍵をかける。
残っているぶんを、
彼は指で裂いた。


その処理が終わると、

また煙草をすった。
この事務所の中を支配しているのは、
四人の沈黙だった。
結城が不機嫌そうにしているので、
他の三人の使用人は、
咳《せき》ばらい一つにも遠慮しているように見えた。


結城の前の電話が鳴った。
彼はすばやく受話器を取った。
二つの電話は切替えではない。
結城の机の電話は、
鳴ると、

かならず彼が取ることにしている。
彼がいるかぎり、
他の事務員や女の子が取りつぐことを絶対に禁止していた。


電話で、
相手が名前を言ったらしい。
結城は、
ただ、
はあ、
はあ、
と言っている。
椅子を少し回転させて、
膝を組み、
横着な姿勢になった。
が、
言葉はわりと丁寧なのである。


「この間はどうも」

結城は話していた。


「いえ、
こちらこそ。
行きとどきませんで。
お帰りがおそくなって、
かえってご迷惑でしたでしょう。
はあ、
はあ」

しばらくは、
先方の話を聞いているようだったが、
「承知しました」
と、

返事の上だけでは、
頭をさげていた。


「彼とはいつも、
連絡がありますので、
さっそくその旨を伝えておきます。


時間と場所は、
いずれ、
あとでおうかがい申しあげます。
どうも、
ご丁寧に、
はい」

電話を切って、
結城は、
椅子をずらせて、
体の向きを変えた。
ライターを鳴らして、
消えた煙草に火をつける。
それから、
手帳を出して、
何かメモをつけていたが、
すぐにそれをポケットにしまった。


しばらくは、
また、
じっとしている。
今の電話の内容とはかかわりのない、
何か茫乎《ぼうこ》とした表情だった。
結城のこのような表情は、
人と話をしている時とは、
まるで違ったもので、
愛想のよい笑いの漂う目もとは、
きびしい孤独なものに変わった。


今が、
その目つきだった。
結城の姿勢からは、
一種の孤独的な荒廃が流れている。


彼は、
体を動かした。
くわえ煙草のまま、
だるそうに受話器をとって、
ダイヤルを面倒くさそうに回した。
先方が出たらしく、
「お柳《りゆう》さん、
いるかい?」

ときいた。
当の相手が出たのであろう。
彼は受話器を耳に当てたまま、
椅子を回して、
窓の方に向いた。
事務員たちには、
背中を見せた。


「今夜、
七時から、
客が二人行くから、
よろしく頼むよ。
いや、
おれは行かない」

結城は言っていた。
先方では、
結城に来てくれと頼んでいるのか、
「だめだよ、
おれは」

と断わっていた。


「いろいろと用事があるんでね、
そのうち、
いずれ行くよ」

いつ来るか、
ときかれたらしい。


「近いうちだ。
おれのことだからね、
いつとは言えない。
え?」

結城の声はちょっと薄ら笑いになった。


「ああ、
そんな約束をしたのか。
酔っていたんだろうな。
忙しいおれが、
そんなことができるはずはないよ。
とにかく、
近いうちに行くから。
今夜のお客さんは、
おれだと思って大事にしてくれ」

結城は勝手に受話器をおいた。
切れるまで、
女の声がまだ話の続きをしゃべっていた。
彼は、
机の上にふたたび肘を突き、
拝むように両手を組みあわせて、
指を額《ひたい》に当てた。


何か思案している様子に変わりはなかった。
結城は、
顔をあげて、
女の子に声をかけた。


「きみ、
吉岡《よしおか》を呼んでくれ」

はい、
と返事して女の子は、
自分の机の上にある電話の番号に指を動かした。


二人の男の事務員は、
相変わらず、
黙ったまま帳簿をいじっている。
廊下には、
絶えず靴音が往来していた。


「もし、
もし、
吉岡産業さんですか? こちらは朝陽商事でございますが、
社長さんはいらっしゃいますか?」

向こうの返事を聞きとって、
「ああ、
さようでございますか?」
と、

受話器を掌《て》で押さえて結城に向かった。


「吉岡産業の社長さんは、
今朝から、
ご出張だそうでございます」

と知らせた。


「そうか」

結城は、
机の上をコツコツと指でたたいていたが、
じゃあ、
いい、
と言うような口もとをしたが、
思いかえしたように、
「どこに行ったのか、
きいてくれ」

と言った。
女の子はそのとおり電話に言った。
返事を聞いて、
結城に、
「仙台《せんだい》だそうでございますが」

と伝えた。
結城は、
ちょっと目を上げて考えていたが、
「今朝の何時の汽車だったのか、
きいてくれ」

と命じた。


女の子はまたそれを電話に尋ねた。


「あの六時一分の上野発だそうです」

また、
こちらに顔を向けて報告した。


「よろしい」

結城は低い声で短く言った。
椅子から立ちあがると、

窓の方に步いて、
外を見おろした。


この部屋はビルの四階にあるから、
下の谷間の車の列が上からよく見える。


明るい陽が道路に、
ほんの一部しか当たっていなかった。
ビルの底は、
暗い陽かげが多いのである。
群衆は、
忙しそうに步いている者が多かった。


結城は背中に手を組んで、
しばらくそれを見おろしていたが、
その辺を二、
三步ずつ往復した。
むずかしい顔である。


こういう時の彼の顔には、
翳《かげ》のある冷たさといったものが出ていた。


「出てくるよ」

と言ったのは、
それからだった。
事務員二人が揃って頭をさげた。
結城は、
コートを女の子にとらせ、
机の上をざっと片付けた。
机はガラス板が置いてあるので、
窓からの陽が、
机を白く光らせていた。


「今日、
何時にお帰りになる予定でございますか?」

事務員の一人がきいた。


「いや、
よそに回るから、
都合で今日は帰れぬかもしれない」

結城は、
ぼそりと答えた。


「ご連絡は?」

「うん」

首をちょっと傾けていたが、
「いや、
別にないだろう。
今日は、
誰もたいした用事で来ないはずだ。
もし、
電話でもかかってきたら、
メモしておいてくれ」

「かしこまりました」

事務員と女の子は、
立ちあがって結城におじぎをした。


「行ってらっしゃいまし」

結城は、
ドアを押して廊下に出た。
やはり、
コートに両手を突っこんだまま、
エレベーターの前に立った。


「お出かけですか?」
と、

笑いながら話しかけたのは、
隣の事務所の支配人だった。
背が低いので、
結城を見上げるようにして笑っている。


「お忙しいんですな」

「いえ」

結城は例の愛想のいい目つきをした。


「閑《ひま》ですよ。
閑だから、
こうしてブラブラ外へ出かけるんです。
お宅と違って、
うちは会社の規模が小さいですからな」

「どういたしまして」

支配人は言った。


「なかなか、
余裕|綽々《しやくしやく》として、
羨しいですよ。
うちなんざあ、
忙しいばかりで、
始終、
金繰りで追われていますからな」

エレベーターが上がってきた。
結城のあとから、
他の若い社員たちが五、
六人駆けこむようにはいってきて、
たちまち混みあった。


それからの結城の行動は、
このビルの事務所とは全然関係のない、
線の切れたところで行なわれた。


結城は、
一《いち》ん日《ち》じゅう、
何をしていたか、
さっぱり分からない。


とにかく、
午後七時ごろには、
自分の女のところへ現われていた。


「あら、
お帰んなさい。
ずいぶん、
お早いのね?」

女は、
目をまるくして、
それでもうれしそうに、
結城を見上げていた。
この女の顔なら、
輪香子の友だちの佐々木和子が自分の店で買物の客として見かけたはずであった。
芸者でもしていたような粋《いき》なところがあった。


「めし、
あるかい?」

結城は、
あぐらをかいてきいた。


「ええ、
そのつもりで、
何か取っておいたんですけれど。
お洋酒になさる?それとも、
お酒でしたら、
すぐ燗《かん》をさせますが」

女は立って、
結城の上着《うわぎ》をとろうとした。


「いや、
これはいいんだ」

結城は断わった。


「あら、
お召しかえなさらないの?」

女は驚いた目をした。


「うむ、
酒も今夜はいらない」

「あら、
どうして?」

「めしだけでいい。
用事がある」

「へんね」

女は、
結城を睨《にら》むように見たが、
男が、
むっつりしているので、
そのまま女中といっしょに卓の上に料理の皿をならべはじめた。


「本当に、
御飯にしてよろしいんですの?」

女は、
まだ疑うように男の顔をうかがった。


「うん」

結城は汁椀の蓋をとった。


「いやだわ。
お忙しいの?」

「まあな」

「お仕事……じゃないでしょ。
これから、
まっすぐお家へお帰りになるんでしょ?」

女は結城の顔を見つめて呼吸《いき》を凝らしている。


「そうだ。
ちょっと女房に用事がある」

結城は、
表情も変えずに答えて、
料理に箸をつけた。



結城庸雄は、
料理をつっついていた。
素人《しろうと》料理だったが、
材料が贅沢《ぜいたく》であった。


いつもは酒をのむのだが、
今夜に限って、
すぐに飯だった。
何か考えているような顔つきで、
すぐ前にいる女にも、
ものを言わない。
女は、
結城の顔をじっと見つめていた。
男の表情から、
何かを読みとろうとしている。


いつもだったら、
女のほうで、
男の気持をはぐらかす、
軽口が言えるのだ。


そういうことに慣れた世界にいた女だった。
が、
今夜の結城の表情には、
どのような言葉も受けつけないような不機嫌さがあった。


女房に用事がある、
と男が言ったときから、
女は顔色が変わっていた。
酒がないので、
食事はすぐにすんだ。


「少し、
お休みになったら?」

女は、
媚《こび》を見せて言った。


「うん」

結城は、
生返事をしている。
休むとも、
休まないとも言わなかった。
すぐ帰る、
と言わないのが、
女にすこし元気を与えたのである。


「奥さんに御用って、
どんなこと?」

わざと冗談《じようだん》めかして言ったものである。
結城は、
黙っていた。
この女の前で、
妻の話をしないのが癖だった。
ときに女が聞きたがっても、
触れたがらないのである。


今までの例がそうだったので、
女は、
それきりに話を変えた。


「ねえ」

せがむような目つきをした。


「今度、
箱根《はこね》にでも、
連れていってくださらない?」

結城は茶を飲んでいた。
茶がぬるかったので、
うがいのように口をすすいだ。
女が手早く動き、
別の茶碗を持ってきて、
男の口に当てた。
結城は、
茶といっしょに言葉を吐いた。


「つまらないよ、
箱根なんか」

「あら」

女は、
男の口をハンカチで拭《ふ》いてやって、
目をみはった。


「じゃあどこか、
ほかのところへ連れてってくださる? きれいな紅葉、
とても見たいわ」

「忙しいからな」

結城は、
ぼそりと言った。
それから、
腕時計を眺めた。
この動作は、
せっかく軽くなりかけた女の気持をまた沈めた。


女は、
じっとすわって、
男の動作を見つめている。
結城は、
それにかまわず立ちあがって、
勝手に上着のボタンを掛けなおした。
自分でコートを取った。
さすがに、
これは、
女がみかねて立って、
背中にまわって着せかけてやった。


「あなた」

女は気持を変えて、
コートに掛けた手をそのまま彼の体にまわして、
自分を押しつけた。


「つまらないわ。
今晚、
泊まってくださるとばかり思ってたのに」

「都合がある」

結城は言った。


「このごろ、
さっぱりね」

結城は、
後ろから抱きついた女の手をうるさそうに放した。


「人に会う用事が、
ばかにふえたんだ」

「あら、
その人って、
お仕事の関係のかた?」

「まあ、
そうだ」

「聞いたわ」

女は、
そう言って、
結城を睨みつけるような強い目をした。
結城は、
ふん、
といったような顔をしていた。
こういう時の彼の冷たい顔つきは、
女にとって、
どこか魅力がある。


「返事、
できないのね?」

女は、
なおも言いつづけた。


「ナイト.クラブの若い子に、
このごろ、
ご執心だそうじゃありませんか」

結城は、
ボタンを止めて、
ポケットから櫛を出し、
髪を撫でつけていた。


「誰から聞いた?」

ときいたのは、
少し間をおいてからだった。


「誰からともなく、
噂ははいるわ。
どういう子、
それ?」

顔では笑っているが、
その笑い方はゆがんでいた。


「そんなのは方々にいるさ。
別に、
なんでもないつきあいだからね」

「言いわけなさらなくたって、
いいわ。
わたし、
べつに、
あなたの奥さんじゃないんですもの」

結城は面倒くさそうな顔をした。
眉に皺をよせて、
玄関に步きだしたものである。


「ちょっと、

待ってちょうだい」

女は、
手早くコンパクトを出して、
顔を直した。
結城は、
聞かぬふりをして靴をはいている。
外に出たとき、
女は後ろから追いついた。


冷える秋の夜のことで、
道に舞っている風も、
女の足に寒かった。


「ショールをしてくれば、
よかったわ」

男に並んで女は言った。
結城は、
女をじろりと見た。


「どこまで、
ついて来るつもりか?」

「車があるところまで行くわ。
今日は、
自家用じゃないでしょう?」

「勝手に拾うよ」

結城の声は風に逆らっていた。


「もう、
帰れよ」

「帰ります」

女は、
わざと強く返事した。


「どうせ、
いまから、
奥さんのところじゃないでしょう。
ナイト.クラブの誰かのところじゃない?」

結城は返事をしなかった。
女がそこで立ち止まると、

結城の高い姿だけは、
商店からもれる灯の中に步いていた。
步く時、
大股になるのが、
結城の癖だった。


結城は、
タクシーで家に帰った。


玄関の戸をあけて、
黙って靴を脱《ぬ》いでいると、

女中が出てきたが、
主人の姿を見て、
目をみはった。


主人が、
こんなに早く帰ることはなかった。
今朝も、
突然に早く帰ってきて、
また今夜も十時前に帰ってくる。
日ごろにないことなので、
女中は、
何が起こったのか、
といったような顔をしていた。
靴を脱いで、
結城は、
むっつりと上にあがった。


女中の知らせで、
頼子が奥から出てきた。
茶っぽい着物で立っていたが、
白い顔が浮きたっていた。


「お帰んなさい」

頼子は、
言った。
少しも笑っていない顔だった。


結城は、
むっつりとして、
奥の部屋にはいった。


女のところから家に帰るまで、
四十分とはかかっていない。
自動車の中で、
結城はすこし寒いが窓をあけ、
風を迎えて、
移り香を消していた。
ほかの女に接したあと、

和服の場合だと、

家にはいる時、
裸になって着物をはたきかねない男である。
図太そうな見かけの割合に、
神経質なところがあった。


彼は部屋にはいった。
妻は、
そこまで来て、
和服の着替えを手伝ってやった。


「お食事は?」

きくまでもないことだった。
夫の返事は、
はたして、
「すんだ」

という言葉であった。


結城は、
洋服でも和服でもよく似合った。
背が高いので恰好がいい。
整った顔立ちなので、
着流しになると、

芸者たちにほめられた。


結城は、
そのまま火鉢の傍にすわった。
頼子に別に話しかけるでもない。


今朝早く戻った時に、
口笛を吹いて眺めた芝生は、
闇の中に沈んでいる。


頼子は、
黙って部屋を出ていった。
結城は、
別にそれを咎《とが》めるでもなかった。
煙草を出し、
ひとりでぼんやりと、

すわっている。


この部屋に紫檀《したん》の机はあったが、
本が一冊、
置いてあるではなかった。
そういえば、
本箱がないのである。
結城は、
あまり本を読まない男だった。
ただ、
床の間の隅に雑誌だけは積んである。
それも、
株式の業界誌みたいなものだった。
彼は普通の本を読むのが面倒な男だった。


結城は、
煙草をすって、
ぼんやりした目つきをしていた。
妻は、
彼が早く帰ってきても、
別に喜ぶわけではなく、
四、
五日、
黙って外泊して帰ってきても、
咎めるでもなかった。
淡い、
水のような態度だった。


結城は、
それに慣れていた。
いや、
それを妻に慣れさせたのは、
彼のほうかもしれない。
しかし、
今は、
彼のほうが妻の習慣にならされているといってもよかった。
そこまでには、
長い時間がはさまっていた。


頼子がはいってきたとき、
結城は、
コートのポケットから丸めた雑誌を出して見ていた。
赤い鉛筆を握っている。
雑誌でも手にするのは、
珍しいことのようだが、
これは、
株式の予想表に赤い線を引いているのだ。
頼子がすわっても、
顔も上げない。


目で株式の銘柄と値段を拾ってみては、
損得を計算していた。


が、
結城は、
いつものようにそれに没頭できない何かを感じていた。
何かが、
彼のいつもの太平楽な気持をさまたげている。


それは、
いわば、
妻の雰囲気からくる予感のようなものだった。
その予感がかすかに結城を動揺させていた。


「あなた」

頼子が、
火鉢の向こうで言った。
すわっている二人の間の距離は遠かった。


結城が雑誌から目を上げたとき、
頼子はきちんとすわっていた。


頼子の目に、
いつになく表情があった。
ふだんは、
結城を見ていても、
石のように何も表情がなかった。


が、
いまは、
ある表情が出ていた。
それも強いものだったし、
結城に向ける見つめ方も、
異常だった。


結城は、
雑誌の上に目を戻して、
相変わらず株の上がり下がりを見ている。


自分で注意の個所には、
赤鉛筆で線を引いていた。


「なんだ?」

と言ったのは、
しばらくしてからだった。
頼子を見ていなかった。


「こちらを向いてください。
まじめに聞いていただきたい話なんです」

頼子が言った。


「そこで言ったらいいだろう。
なんの話だ?」

頼子は、
そういう夫を見た。


結城は、
やはり雑誌を見ていた。
その横顔を頼子は見つめた。
瞳をいっぱいに開いていた。


「お別れしたいわ」

──普通の声であった。


が、
頼子の膝の上に組みあわされた指がふるえていた。
そのつもりではないのに、
涙が溢れそうになった。
夫へ向けている激しい感情ではなかった。


頼子は小野木のことを考えていた。


小野木には、
この夫への申し出を言っていなかった。
小野木さん、
いま、
わたし、
こう言ってるのよ、
と心が呼びかけている。
涙が出そうになったのは、
その感情がかよったからだった。


が、
頼子は、
夫との話が決まるまで、
小野木には話さない決心だった。
これは、
小野木の負担する問題ではなかった。


頼子自身が、
夫の前から身を退かなければならない闘いだった。


「ほう」
と、

結城は言った。
電機のA社株が二十円上がっている。
その驚きの声のようでもあった。


「あなたが」

と頼子は、
赤鉛筆をかまえて、
雑誌を見ている夫に言った。


「外で何をなさろうとかまいませんわ。
わたくし、
それでお別れしたいと言っているんじゃありませんわ」

「じゃ、
なんだ?」

夫は、
横を向いてすわったまま、
雑誌のページを繰った。


「お互いの性格が、
どうしても合わないようですわ」

結城は、
はじめて薄ら笑いをした。


「前に何回か聞いたな、
そういうことを」

「そのつど、
あなたにとめられましたわ。
前にあったこと、

言うのは厭ですが」

結城は、
黙って雑誌を投げだした。


雑誌は結城の膝の前に落ちた。


彼は、
煙草をとりだしてすった。


「おれのやり方を」

結城は煙を吐いてはじめて言った。


「また非難してるんだね?」

「いいえ」

頼子は首を振った。


「あなたが、
わたくしに約束してくださったこと、

お破りになったことを申しあげてるんじゃありません。
あなたも、
わたくしも、
不幸な夫婦だったと思うんです」

頼子は、
うつむいて言った。


「いま、
あなたが、
どんなことをなすってらっしゃるか、
わたくし、
もう何も申しませんわ。
でも、
あなたの生き方って、
とても、
わたくし、
悲しいんです。
こういっても、
あなたは、
これが、
おれの生きる方法だとおっしゃるでしょう?」

そのとおりだ、
というような顔を結城はした。
やはり、
煙草をすっていて、
それに返事を与えなかった。


が、
膝をくずして、
手を畳に支え、
天井を向いた。
煙を上に吹きつけた。


「その話は分かった」
と、

結城は煩《わずら》わしそうな顔をした。


「いま少々、
面倒くさいことを考えている。
いずれ、
そのうちに聞くよ」

「考えていただけますのね?」

頼子は、
夫の顔に視線をまっすぐに当てた。


「きみが希望ならね」
と、

結城は呟くように言った。


そのあとで、
低く何か言っているようだったので、
聞いていると、

それは小唄を口にしているのだった。


頼子が、
座敷を出ようとすると、

「きみは」

と結城が、
不意に声を出して呼びとめた。


「今朝、
早く人を送りに行ったんだって?」

頼子は足が動かなかった。


「ええ」

と返事してから、
動悸が激しくうった。
女中から、
今朝、
夫が早く帰って頼子の留守のことをきいていたことは知らされたが、
やはり声をのむ思いだった。


「誰だね?」

夫はきいた。


さすがに、
嘘の名前は言えなかった。


「友だちなんです」

名前をきかれるのを覚悟していた。
断わるつもりだった。


「そうか」

結城は追わなかった。


「ひどく、
早い汽車で行ったものだね」

頼子は、
自分の居間で本を読んでいた。
文章が少しも頭にはいらなかった。


目が活字の上を空《くう》になでているだけであった。


時計は十二時に近かった。


結城は、
自分の部屋にいるが、
何をしているのか声が聞こえなかった。
女中は寝かせてある。
頼子が、
さっきコーヒーを運んだとき、
結城は、
何を考えたのか、
頼子の肩を押えたものだった。


「いやです」

頼子は、
肩を振って夫の手から離れた。


結城は、
妻を睨んでいたが、
「そうか」

と言った。
頼子が夫を拒絶して、
もう二年になっていた。
夫が別な家を外に持ってから、
それが始まった。


夫が、
その動作を見せたのは、
久しぶりだった。
頼子は、
今夜の夫の意識に何かある、
と思った。


夫と別れなければならぬ気持が、
もっと強くなった。


廊下で、
襖《ふすま》の開く音がした。
それが夫の部屋であった。
この部屋に来るか、
と思って体を堅くしていると、

はたして、
こちらの襖の外で足音がとまった。


「出る」

夫の声は大きかった。
襖をあけて覗きはしなかった。


頼子が立って、
廊下に出ると、

電灯を暗くした玄関に、
彼の姿はコートを着て立っていた。


頼子は、
ポケットに手を入れて立っている夫の前にしゃがんで靴を揃《そろ》えた。
彼は足を突っこみ、
片手を出し、
靴脱ぎの石の上で、
長い靴べらを使った。
横着をしている動作であった。


「車、
通ってますかしら?」

時刻を考えて頼子は言った。


「大通りに出たら拾える」

夫は言った。


夫は行先を言わなかったし、
頼子もきかなかった。
そういうしきたりが、
長くつづいていた。


夫は、
高い背を暗い外灯の輪の中に見せて、
家の前の石段をおりた。
靴音が、
夜の冷えた感じで石を踏んでいた。


頼子は、
ひとりで寝る支度をした。
夫は、
これで三、
四日は帰らぬだろうと思った。
遠くで、
自動車がとまる音がし、
すぐに走りだす音がつづいたが、
夫が乗ったのかもしれなかった。


頼子は、
故郷《くに》の山を思いだしていた。


山峡《やまかい》を二筋の川が流れ、
頼子の生まれた盆地の市街で合流していた。
山も穏やかな稜線だったし、
川もやさしかった。
京都も、
奈良も近かった。


結城庸雄は、
その県の県会議長の息子だったが、
頼子とは見合結婚だった。


死んだ父が、
彼の父親と親しかったので話をすすめたが、
一年もたたぬうちに、
父は嵯嘆《さたん》した。


「庸雄は、
だめだな。
親父《おやじ》はいいが、
息子は屑だった」

頼子のほうは、
父よりも、
もっと前から夫に失望していた。


結城は、
地味な職業につこうとする気がなかった。
県会議長の父親が、
地方政治運動で金を使いはたして実家が没落すると、

よけい彼のその性格はひどくなった。


人に使われるのは嫌いだというのが結城の信条らしかったが、
それでいて正面から困難に対決して努力しようとする気がなかった。
ギャンブルが好きだったが、
高級な賭《か》けごとでも、
賭けには違いない。


東京に出ても、
父親の議長時代の友人の間を立ちまわる、
妙な政治ブローカー的な才能だけが、
彼を伸ばしていた。


「その気持になったら、
いつでも、
家に帰ってこい。
おまえを結城に与えたのは、
おれの責任だ。
詫びることはない。
おれのほうがあやまるのだ」

父は、
よくそう言っていた。
結城と、

むろん合うはずがなかった。
結城は、
父が死ぬまで、
頼子に、
その悪口を言った。


頼子は、
それでも、
結城のために努力してきた。
いやな顔をする父親に頼んで、
かなりな金を、
何度も出してもらった。


しかし、
結城の生活の成功は、
頼子とは別なところを走った。


頼子は、
結城がどのようなことをしているか知っている。
頼子は、
死んだ父の言うとおり、
結城から、
もっと早い時期に別れるべきだと悟ったが、
もう、
その機会がおそくなっていた。



結城庸雄は、
窓から射す秋の陽を浴びて、
椅子に背中をもたせていた。


机の前には、
一冊の帳簿も、
一枚の書類もひろげていない。
封を切った手紙の束がぞんざいに一方に積んであるだけだった。
事務員二人は、
しきりと帳簿をつけている。
女の子は、
後ろむきになって伝票を書いていた。


結城は、
退屈そうにぼんやりとしていた。
彼は、
事務所に出てきても、
これという仕事をしなかった。
それも、
ここに姿を現わすのが珍しいくらいである。


彼は一日じゅう、
外ばかり步いていた。
連絡はかならずしてくるが、
事務員には彼の行先は知らされなかった。
いつも、
彼からの一方的な連絡だけであった。


彼のビジネスは、
帳簿よりも小型手帳に頼っていた。
手帳には小文字が書きこまれている。
事務所に来て、
メモを書きこんだり、
眺めたりするのが、
彼の大半の仕事のようである。


何をやっているのか、
正直のところ、
事務員たちにも分からなかった。
ひととおりの仕事はあるが、
それは、
朝陽商事会社の表向きの事務だった。
それも、
あまり景気のいい内容ではなかった。
朝陽商事というのは、
帳簿の上では、
たいそう不活発な会社である。


事務員たちも、
それが、
社長の結城の表向きの商売であると察していた。


結城は、
悠々《ゆうゆう》としている。
貧弱な営業内容にもかかわらず、
相当に、
経済的には余裕がありそうだった。
それが、
どこからはいる収入なのか、
使用人たちには、
まるで見当がつかなかった。


そういえば、
このビル全体に軒をならべている会社が、
何か、
一癖ありそうだった。
磨ガラス戸の看板は、
ちゃんとした会社名や商会名が掲げられてあるが、
普通の実業界では聞いたこともない名前が多かった。


オフィスで働いている事務員たちも、
明るいところがない。
この建物と同じように、
みなの顔が暗かった。


結城が思いだしたように机の引出しから小唄の本を出して、
最初を口ずさんだときであった。
結城の前の電話が鳴った。


電話といえば、
事務員のほうにかかってくる電話と、

結城の前の電話とは区別されている。
つまり、
朝陽商事としての電話機は、
事務員の机にあるのである。
電話帳の登録にもそうなっていた。
だから、
結城の机の上の電話は、
電話帳には別の名義であった。


結城は、
目の前の受話器をとりあげた。


「こちらは、
吉岡産業でございますが、
社長さんいらっしゃいますか?」

先方の女事務員らしい声がした。


「私です」

「恐れ入ります。
社長からでございますが」

電話は、
そこで吉岡の声にかわった。


「結城さんかい? ぼくだが」

吉岡の太い声は言った。


「この前、
電話をもらったそうですが」

「ああ、
ちょっと、

用事があってね。
きみがちょうど、
出張した日だった」

「それは失敬。
仙台に行っていてね、
今朝、
帰ったばかりなんです」

「忙しいんだね」
と、

結城は言った。


「いやに、
朝の早い汽車で、
行ったそうだが」

「ああ、
これで、
なかなか、
貧乏|暇《ひま》なしで。
あんたは、
いつも、
悠々としているが」

吉岡は、
低く笑った。
それから、
ちょっと、

何か言いたそうな声をしたが、
思いかえしたように、
「それで、
用事は?」

ときいた。


「うん、
きみが今日帰ってきたのは、
ちょうどよかった。
今夜、
いよいよ……」

言いかけて、
結城は声を低めた。


「西村《にしむら》さんを、
局長に紹介しようと思っている」

「局長? 田沢さんか?」

電話の相手の声は、
少し驚いていた。


「田沢さんが、
出てきますか?」

信じられない、
というような声だった。


「来るという話を、
山田《やまだ》から連絡をもらった。
山田のことだから、
嘘はないだろう」

「どこで?」

「とりあえず『菊芳《きくよし》』に決めた。
まあ、
最初だから、
そう派手にしなくてもいいだろう」

「来るかなあ?」

吉岡の声は、
まだ、
半信半疑だった。


「とにかく、
約束は今夜ということになっているから、
きみも、
いっしょに行ってみないか?」

「それは、
ぜひ、
参加させてもらいたいものですね」

「じゃあ、
そういうことにしよう。
六時に会場に来てくれ」

「ありがとう。
『菊芳』ですね?」

「そう。
きみ、
西村さんに会ったことがあるかい?」

「いや、
名前だけで、
まだ一度も」

「ちょうどよかった。
じゃ、
会ってから」

結城は電話を切った。


ゆっくり煙草をとりだす。
ライターを鳴らした。
それから、
青い煙を肩に流しながら窓の方へ行った。
暖かい陽に当たりながら、
外を見物するつもりであった。


電話が鳴った。
今度も、
結城の机の上であった。
彼は戻り、
面倒くさそうに受話器を耳に当てた。


「なんだ、
おまえか」

結城は聞きながら、
煙草を灰皿に突っこんだ。


「だめだよ。
当分、
そっちへ行けない」

甲高い女の声が受話器からもれている。
結城は途中で勝手に受話器をおいたが、
すぐにその電話のベルが鳴った。


「きみ」

と結城は、
事務員を呼んだ。


「おれは、
いま、
出かけたと言ってくれ」

結城が『菊芳』の玄関に着いたとき、
庭石に打った水に灯が映っていた。


「あら、
いらっしゃい」

玄関にすわっている女中が三人、
笑顔で彼を迎えた。


「もう、
来ているかい?」

結城は、
靴を脱ぎながらきいた。


「ええ。
吉岡さんと、

もうお一方《ひとかた》お見えになっていらっしゃいます」

「そう」

結城は、
くわえ煙草で、
上にあがった。


太った女将《おかみ》が横から出てきて、
「毎度」

と頭をさげた。


「ユウさん、
ここんところ、
お久しぶりですね」

「ああ、
つい、
ご無沙汰した」

「お珍しいわ」

と言ったのは、
結城の後ろからついてくる年増の女中だった。
結城の背中に手を、
そっとそえていた。


長い廊下を步き、
拭《ふ》きこんで光っている階段をのぼった。


「吉岡は?」

結城は、
女中をふりかえった。


「控え室のほうにいらっしゃいます。
すぐ、
お座敷においでになりますか?」

「うん、
そうだな、
お客さんが見えていなければ、
ぼくも、
吉岡のところにいっしょになろう」

控え室は、
広い応接間みたいな構えになっていた。
床は良質の桜材で、
ガラスのように磨《みが》きこみ、
ダンスでもできそうに滑りがよかった。


「やあ」

吉岡は、
クッションから半身を起こした。


「早かったね」

結城は、
吉岡の傍に腰をおろした。


「お客さんは?」

結城は小さい声できいた。


「すぐ戻ってくる」

客は、
手洗いにでも立っているらしい。


「誰かな?」

「例の西村と言う人だったが」

先着の吉岡が、
西村とは初対面で、
結城は遅れてきている。


「すまん。
ぼくが紹介するところだったが、
おそくなって悪かった。
西村さんというのはね」

結城が、
途中まで説明しかけると、

「いや、
分かっている」

吉岡のほうが、
さえぎるようにして、
合点した。
おりからそこに、
女中がお絞りとお茶を運んできたせいもあった。


「局長のほうは、
どうなっている?」

吉岡が体を結城に寄せてきいた。


「今、
山田が迎えにいっているはずだ。
もうすぐ、
着くころだろう」

結城は時計を見て答えた。


「しかし、
よく、
ひっぱりだせたな。
あの局長は、
なかなか、
気軽に出てこない人だと聞いたぜ」

「山田が、
この間から、
いろいろ工作している。
それで、
どうにか、
田沢さんを動かすことができたらしい。
その辺のところは彼の腕だな」

五十ぐらいの、
太った男がはいってきたのは、
その話が切れたときだった。


あから顔で頭が禿《は》げあがっている。
金縁眼鏡の奥の細い目が結城に向かった。


「やあ、
どうも」

結城のほうで立ちあがって、
「今夜は、
どうも、
恐縮です。
われわれで勝手に会場を指定して」

「いや、
いや」

西村という太った紳士は、
薄い唇を笑わせて手を振った。


「まあ、
万事、
よろしくお願いしますよ」

西村は、
背の高い結城を見上げて、
おじぎをした。


「こうなると、

全部、
あなたがたにお任せしなければなりません。
失礼だが、
費用のほうは、
私が払わせていただきますよ」

「恐縮です」

結城は、
形だけ微笑して、
少し頭をさげた。
クッションには、
吉岡が二人を見くらべてすわっている。


「そうそう、
ぼくが遅れてきたので、
ご紹介もできなかったが、
これが、
吉岡産業の社長です。
私の友人ですから、
よろしく」

「いやあ、
さっき、
自己紹介をしあいましたよ」

西村は、
吉岡を向いて賑やかに笑った。


「なんだか、
私が、
途中から割りこんだような恰好で、
具合が悪いんですが」

吉岡が遠慮した顔で言った。


「いや、
いや、
けっしてそんなことはありません。
結城さんのご友人だったら、
私もぜひ、
お近づきになりたいです。
ちょうどいい機会でした」

「では、
そろそろ、
座敷のほうに移りましょうか」

「そうですな」

步きかけたときに、
女中がはいってきた。


「いま、
山田さまがいらっしゃいました」

「おお、
それは、
ちょうどいいところへ見えた」

吉岡は言ったが、
結城は、
「一人かい?」
と、

女中にきいた。


「はい、
お一人でございます」

結城の顔は曇った。
西村と顔を見合わせて、
「おかしい?」

と呟いた。
そこに、
老人が急いではいってきた。
痩《や》せた、
細い男で、
髪はまっ白だった。


「西村さんには申しわけないことになった」

山田という老人は、
結城の前にすぐ立って言った。


「どうしました? 来られなかったのですか?」

結城は、
山田の背後《うしろ》を見た。
誰もつづいて現われなかった。


「すまんことです。
田沢さんが、
どうしても今日は都合が悪い、
と言いだしたんですよ。
昼間は承知してもらったんですがね、
自動車を持って迎えにいくと、

この次にはかならず出るが、
どうしても手のはなせない会議が、
急にはじまりそうだから、
今日は勘弁してくれ、
と言うんです」

「どういうのだろう?」

結城は、
考える目をした。
西村が、
心配そうな顔をして、
結城と山田の顔を交互に見ている。


『菊芳』を出たのが、
九時半ごろで、
四人は自動車《くるま》二台で、
銀座に向かった。


「なにしろ、
彼は女の子に持てるんですよ」

と吉岡が、
前を行く車の赤い|尾灯《テールライト》を見ながら、
隣にすわっている西村に言った。


「つきあってて、
こっちが損をしますよ。
いまの料理屋の女中の一人だって、
見送りのとき、
怪しげな目つきを結城にしてたでしょう?」

「ああ、
彼女《あれ》?」

恰幅《かつぷく》のいい西村は、
金縁眼鏡に新橋《しんばし》あたりの走り去っていくネオンを映しながら、
ゆっくりと笑った。


「あの年増の女中ね。
あたしも気づいていましたよ。
座敷のときから妙だった。
あれは、
タダの間じゃありませんな。
二、
三度ぐらい、
何かあったんじゃないかな」

「西村さんは、
さすがに、
ひとめでお察しがいい」

吉岡が笑った。


「ぼくもそう睨んでます。
しかし、
あれは結城のほうが、
もう、
なんでもないんですね。
女のほうが未練たっぷりですよ」

「女も、
ちょっと年増の色気があっていいじゃないですか。
あたしは、
ああいう女が好きです」

「おやおや、
これは、
どうも」

「なるほど結城さんを見ていると、

いい顔をしていますね。
あれは玄人《くろうと》女が惚《ほ》れる顔です。
道楽をしてすいも甘いも噛みわけ、
しかも、
あっさりとしているが、
どこか深味のある……」

西村はそういう表現をして、
「結城さんは、
年増の女がお好きなのかな?」
と、

首を傾げた。


「いや、
そんなことはありません。
そら、
若い女にも騒がれますよ。
まあ、
これから行くキャバレーでもごらんになれます。
いや、
これは、
あなたの散財で申しわけありませんが」

吉岡は頭を動かした。


「いやいや。
それは、
どうぞ、
ご心配なく。
これからも結城さん同様におつきあい願わねばなりませんから」

西村は鷹揚に言った。


「しかし、
今夜は残念でしたね。
田沢局長が来られなくて」

吉岡が言った。


「ええ。
いや、
しかし、
この次ということがありますから。
そう、
一時にうまくゆくとは思いませんでした」

西村は答えたが、
やはり声が寂しかった。
吉岡がそれを察して、
「局長となると、

いろいろ大事をとりますからね。
そりゃ、
課長あたりと違って、
立場があります。
ことに、
田沢局長は慎重派でしてね。
ぼくは、
正直なところ、
田沢局長からその返事が来たと結城から聞いて、
びっくりしましたよ。
その接触ができただけでも大成功です。
田沢局長さえ動かしたら、
もう安心です。
ご承知のとおり、
省内切っての実力者ですからな」

「結城さんとの約束は約束で、
そのほかにお礼をしなくては……」

西村は呟いていたが、
「そう、
これは結城さんの奥さんにしたほうがいいかな。
吉岡さん、
結城さんの奥さんは、
どういうタイプのかたですか?」

と質問した。


「結城の女房ですか。
それは……」

吉岡は言いかけて、
すこし口ごもった。


「ま、
それは、
もう少しお待ちになったほうがいいでしょう。
まだ早いですよ。
それに、
結城の女房はそんなことをしてもらっても、
あまり喜ばんほうですからね」

「ははあ、
それは、
どういうわけですか?」

西村は複雑な事情を察したらしいが、
とぼけて吉岡にきいた。


「いや、
どういうわけということもないですが……」

吉岡は逃げた。
ちょうど、
具合よくキャバレーの前に自動車が到着した。


が、
吉岡の目が、
前の自動車から降りて明るい灯を浴びている結城の姿にとまった。
ふいとあることを思いだしたという目つきであった。


そのキャバレーで四人が遊んだ。
時間的にも、
ちょうど、
店が賑《にぎ》やかになっている最中であった。
女たちが、
十人ばかりも四人の席にはいってきた。
ほかの当番の席を空けて、
わざわざ割りこんでくる女もいた。


それが結城の傍にだけ集まり、
結城にだけ話しかけていた。


「これだから、
いやになる」

吉岡が舌打ちした。


「少しは、
こっちへ来いよ」

「はいはい。
すみません」

女たちは席を動くが、
しばらくすると、

この店で売れている女たちは結城の横に移動した。
結城は、
ものしずかにグラスをあげているだけだった。
店の内の照明がほの暗いから、
結城の彫りの深い顔は、
淡い光線を受けてやわらかく浮きでた。


「なるほど、
これはたいへんですね」

西村が吉岡に笑いかけた。


「でしょう? こっちは、
すっかり霞《かす》みますよ」

「あら、
吉岡さん、
なにをぼそぼそ言ってるの。
踊らない?」

女の一人が手を出した。


「だめだよ。
今ごろ、
そんな、
手遅れのお世辞を言ったって」

「あらあ、
ひがんでらっしゃるのね?」

「こちら、
今夜が初めてのお客さまだから、
サービスをたのむよ。
結城は始終くる奴だからな」

吉岡は西村をさした。


「そうね。
結城さんは内輪だから」

「こいつ」

女は笑いながら逃げて、
そのまま西村の手をとった。
西村と、

白髪の山田とは椅子から立って、
女といっしょにフロアヘ踊りに行った。


「結城」

吉岡が空いた席へ体を移して、
結城の横にすわった。


「この間、
きみの奥さんを見かけたよ。
上野駅でね。
そうだ。
おれが仙台へ行くときだから、
ずいぶん、
早い朝だった」

「ああ、
そんなことを言ってたな」

結城はグラスをなめ、
気のない答え方をした。


「誰か、
友だちを送りに行ったと言ってた」

「送りに?」

吉岡が目をむいた。


思わず表情を変えたものである。
彼は、
結城の横顔を黙って見つめた。
結城は、
平気でグラスをなめていた。


「どうしたのだ?」

不意に、
黙っている吉岡に、
結城が顔を向けた。


「いや……」

吉岡のほうが狼狽して、
「ちょうど、
見かけたものだから」
と、

言いわけのように呟いて目をそらし、
自分の酒をとった。


「結城さんの奥さま、
おきれいですってね」

女の一人が、
その話を受けて言った。


「そう。
噂でうかがったわ」

別の女が言って結城の顔をさしのぞいた。


「お仕合わせね。
羨しいわ」

結城が顔色を動かさないでいると、

「いや、
そんなお話。
結城さん踊ってよ」
と、

すぐそばの女が、
乱暴に結城の手をつかんだ。
この店のナンバーワンで、
信子《のぶこ》という女だった。


〈底本〉文春文庫昭和四十九年九月二十五日刊

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