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11影


輪香子に電話がかかってきた。


取りついだのは女中だったが、
新聞社の辺見さんからでございます、
と聞いたとき、
輪香子は、
いつぞや頼んだ返事を、
辺見が持ってきてくれるのだと思った。
電話口に出ると、

「辺見です、
しばらくでした」
と、

彼の声は、
少し早口に聞こえた。


「どうも、
失礼しました。
あれから、
お見えにならないので、
どうなさっているかと思っていましたわ」

「いやあ、
ご無沙汰いたしました」

辺見は言った。


「輪香子さんから、
この間、
頼まれたことがありましたね。
そのこともあるし、
ちょっとお目にかかりたいんですが」

辺見が、
やはり、
その返事をくれるのだと分かって、
輪香子は胸がはずんだ。


「すぐ、
お目にかかりたいわ」

「どうです?」

と辺見は、
少しためらいがちに言った。


「お宅に、
うかがってもいいですが、
局長も、
今はお留守だろうし、
散步がてら、
こちらの方に出ていらっしゃいませんか?」

辺見としては、
珍しい誘いである。


「今、
どこにいらっしゃいますの?」

「有楽町《ゆうらくちよう》です。
でも、
途中まで、
お迎えに行ってもかまいませんよ」

「たいへんですわ」

「いや、
社の車で行きますから、
すぐですよ」

しかし、
輪香子は、
それを辞退した。


「いえ、
わたしが、
そちらにまいります。
ちょっと、

買物もありますし、
そのほうが都合がいいんです」

「そうですか」

辺見は、
それ以上にすすめなかった。


「では、
有楽町駅のそばに『チロール』という喫茶店があります。
ご存じですね、
そこの二階でお待ちしていましょう。
あと一時間ぐらいでいいでしょうか?」

「結構ですわ」

「それじゃあ」

辺見の声はいきいきとしていた。


輪香子は電話を切った。
銀座に出るのもしばらくぶりだったし、
何よりも、
辺見に頼んだ返事が聞きたかった。


母がいたので、
居間に行き、
辺見に会ってくることを話した。


「そう、
行ってらっしゃい」

母は気軽く言った。
むしろ、
辺見に輪香子が会うのを喜ぶふうだった。


「どのお洋服を着ていくの?」

そんな心づかいまでした。
輪香子は、
母が、
そのように気を使うのがいやだった。


「ふだん着のままで行くわ」

「それじゃあ、
あんまりよ」

母は顔をしかめた。


「この間、
つくったのがあるじゃないの。
あれ、
着ていったらどう?」

母の気持では、
輪香子が外で辺見と会うとき、
少し着飾ったほうがいいとすすめたいらしかった。
が、
その心づかいは、
輪香子には、
かえって憂鬱《ゆううつ》である。


「いやだわ、
おニューを着て銀座を步くなんて。
なんでもないときに変よ」

輪香子は、
自分の部屋に帰って、
いつも友だちと会うとき着ていく服に着替えた。
母は、
輪香子を玄関まで見送って、
「変なひとね、
あれを着ればいいのに」
と、

まだ未練らしく言っていた。


母は、
単純に、
輪香子が辺見と会うのを歓迎しているらしい。
輪香子が出かけるときも、
「辺見さんによろしくね、
ゆっくりしてきていいわ」

と言ったくらいである。
輪香子は、
反発をおこした。


「すぐ、
帰ってきます」

『チロール』という喫茶店の二階に行くと、

辺見が、
窓際にすわっていた。


「やあ、
よく、
いらっしゃいました」

辺見は勢いよく立って輪香子に挨拶した。
顔いっぱいに、
うれしそうな笑いがひろがっていた。


「どうぞ」
と、

輪香子を目の前の席に請《しよう》じて、
すぐコーヒーを言いつけた。


「ご無沙汰していますが、
お変わりありませんか?」

辺見は、
輪香子に向かいあい、
家に遊びに来るときとは別人のようにしかつめらしい挨拶をした。
輪香子は、
すこし、
おかしくなった。


「いいえ、
変わりありませんわ。
辺見さん、
あんまり、
いらっしゃらないので、
家じゅうで、
お噂してましたの」

実際、
母は、
辺見が来ないことを、
この間から言っていたのだ。
辺見は頭をかいた。


「新聞社の仕事をしていると、

勝手な時間がありませんので。
休みも、
不規則なんです」

彼は言いわけのように言った。


「結構ですわ。
やっぱり、
お仕事が第一ですもの」

「電話で呼びだしたりしてすみませんでした」

辺見は詫びて、
性急に話しだした。


「この間から輪香子さんに頼まれていたこと、

どうにか調べましたよ」

さりげない顔をしていたが、
輪香子の胸はときめいた。


「お忙しいところ、
すみませんでしたわ」

「いや、
それが、
あんまり、
お礼を言われるほどの成果をあげませんでしたよ」

辺見は、
少し、
体裁の悪そうな顔をした。


「何しろ、
ぼくと畑違いの分野なんで、
自分で調べるわけにはゆかず、
知ったやつに頼んだせいもあって、
十分とはいきませんでした。
が、
まあ、
だいたいのアウトラインだけは、
どうにか分かったようです」

「そう。
早く、
うかがいたいわ」

輪香子は、
半分は、
どこかで、
その話を聞くのを恐れるような気持だった。


「『津ノ川』というのはですね」

辺見は、
話しだした。


「いろいろ、
世間の噂にのぼっているように、
代議士たちの談合場所なんです。
赤坂では一流の料亭ですよ。
そこに出入りするのは、
かなりな人物ばかりです。
むろん、
フリの客なんか、
寄りつけるところではありません」

辺見は、
手帳を出して開いた。


「お話の結城さんという人を当たってもらいましたがね、
なかなか、
複雑な人らしいですよ。
ぼくの知っている男も、
結城さんの正体は、
はっきり分からないと言うんです。
政治家よりも、
官庁に顔の利く人らしいですがね、
まあ、
一種の情報ブローカーといったところが、
定説のようですね」

辺見は、
そういう言い方をした。


「情報ブローカーって、
なんですの?」

輪香子は、
よく分からなかったのできいた。


「いわば、
官界や政界のいろいろな情報を基《もと》にして、
それを、
あちこちに売りこむ商売ですよ。
それも、
ピンからキリまであって一概には言えませんが『津ノ川』に出入りするだけに、
結城という人は、
ピンのほうでしょうね」

輪香子は、
いつか見た結城の顔や姿を思いだした。
背が高く、
顔はどこか頽廃的な冷たさがあった。
陽の当たっている結城の家の前や、
車で走っていく瞬間に見た印象である。


当然、
輪香子は、
結城の横に、
頼子を置いて考えている。
深大寺で会ったときもそうだったが、
あの高台の家に佇んでいた頼子の姿には、
孤独な憂愁さが感じとれた。


「結城さんってかた」

輪香子はきいた。


「どこかに事務所がございます?」

「あります」

辺見は手帳を見て言った。


「表向きの名前、
と言っていいかどうか、
とにかく、
本職はあるんですよ。


朝陽商事株式会社と言っています。
事務所はLビルで、
つい近くですね」

近い、
と言った辺見の言葉が、
輪香子を動かした。
そこに行ってみたい衝動が彼女に起こったのである。


「その、
結城さんってかたの事務所、
眺めてみたいわ」

驚いた顔を上げて、
辺見が輪香子を見た。
彼女がとっぴな申し出をしたと思ったのである。


「そんなところへいらして、
どうなさるんです?」

「ただ、
外から見るだけですわ」

輪香子は、
上べはいたずらっぽい目で重ねて言った。


「おもしろそうなところだわ。
ねえ、
辺見さん、
わたし、
そういうところを步いてみたいの。
連れていってくださらない?」

輪香子と辺見とは、
Lビルの前に着いた。


このビルは、
下が商店街になっていた。
しゃれた店が多い。
外人向きのスーベニールを売る店があるくらいだから、
すべてがはなやかである。
洋服商も、
化粧品屋も、
銀座の一流店の出店のようだった。
二階まで吹き抜けた天井は高い。
大理石のフロアを步くと、

古めかしいがはなやかな意匠の建物が、
異国的でさえあった。


二人は、
幅広い階段をあがった。


この建物は、
戦前からのもので贅沢な建て方をしていた。
床は大理石でできている。
二階にも事務所があったが、
これは、
下の商店街がまん中を空洞のようにあけているので、
上から見おろして、
舞台をのぞくように見事であった。


「きれい」
と、

思わず輪香子が呟いたくらいだった。


三階に上がった。
完全に、
貸事務所ばかりの廊下であった。
その両側に沿って、
几帳面《きちようめん》に仕切られた事務所が並んでいる。
入口のドアのひとつひとつに、
会社の名前が、
金色や黒い文字ではいっていた。


二人は、
どこかの事務所を訪ねていくような恰好で、
四階に上がった。
ここも、
三階と変わりはなかった。
朝陽商事株式会社というのは、
その四階の突きあたりにある。


二人は、
步きながら、
絶えず、
両側を見た。
事務所のドアを開閉して、
社員や女の事務員たちが出入りしている。


輪香子がここで気づいたことだが、
このたくさんの事務所のどれ一つとして、
彼女の知らない社名ばかりだった。
まだ、
結城の事務所が見当たらない前なので、
輪香子は、
入念に、
それぞれの社名を読んで步いたのである。


朝陽商事というのは、
その四階の廊下を突きあたり、
さらに、
鉤《かぎ》の手になって引っこんだところにあった。
ほかの事務所よりは、
ずっと狭かった。


たぶん、
この貸事務所は、
二部屋を持っている事務所と、

一部屋の事務所に分かれているに違いない。
朝陽商事は、
その一部屋だけの方を使用していた。


輪香子は、
その前に立った。
別に用事もないので、
中にはいるわけにはいかないし、
その勇気もなかった。
なんとなく、
朝陽商事株式会社と書かれた磨ガラスのドアを眺めるだけである。


が、
今にも、
そのドアをあおって、
結城の姿が現われるような気がして落ちつかなかった。
真正面からぶっつかった時の瞬間を思うと、

早く、
ここを立ち去りたい気持だった。
むろん、
結城のほうでは、
輪香子の顔を知らないはずである。
が、
見知らぬ人間がそこに立っていれば、
当然、
結城の注意が彼女に向けられるわけである。


輪香子は、
心の中で、
漠然と、

自分がいつか、
結城と直接会う時が来るような気がした。
その前に、
輪香子が彼の事務所の前に佇んでいた記憶が結城にあっては、
都合が悪いのである。


「帰りましょう」

輪香子は、
低い声で辺見に言った。


ちょうど、
そのとき、
ドアの磨ガラスに、
内側から人影がさしたせいでもあった。
輪香子は、
急いで辺見の腕をつついた。


二人は、
長い廊下をもとの方に步いた。


途中で気になって、
輪香子がふりかえると、

二十《はたち》ばかりの女事務員が朝陽商事の内から出てきて、
二人の後ろ姿を見送っているところだった。


輪香子は、
その視線に追われるような思いで、
中央のエレベーターの場所に行った。


いっしょに乗りあわせた若い社員たちは、
辺見と見くらべて、
輪香子をじろじろと見た。
恋人同士ぐらいに思っているらしかった。


輪香子は、
この建物の中で、
ぱったりと結城に会いそうな気がした。
先方では、
輪香子の顔を知らないから平気のようだが、
この内で会うのは、
やはり気おくれがする。


昼でも、
明るい電灯のついているこのビルから出ると、

外の空気が頬に当たった。
その感触が輪香子を救った。


「しかし」

辺見が、
横で步きながらきいた。


「輪香子さんは、
どうして結城という人に興味を持つんです?」

何も知らない辺見としては、
当然の質問だった。


「すこし、
友だちから頼まれたことがあるんです」

輪香子は、
先ごろ辺見に言った理由を、
もう一度言った。


「ご縁談に関係したことなの。
結城さんてかたが、
先方のご兄弟だというんですけれど」

輪香子は、
辺見を納得させるために、
苦しい嘘を言った。


「そうですか」

辺見は、
傍で靴音をさせて、
步いていたが、
その言葉で下を向いた。


輪香子は辺見に、
欺瞞《ぎまん》を見抜かれたような気がした。


が、
辺見は、
それきりそれに触れないで、
立ちどまると、

「これから、
どうします?」
と、

顔を上げて、
輪香子を見た。


いつのまにか、
二人は日劇前に来ていた。
人と自動車とが流れあっていた。


輪香子は迷ったが、
これ以上、
辺見を束縛《そくばく》したくなかった。


土曜の午後だったけれど、
新聞社のことである。


「お友だちのところを訪ねてみますわ」

輪香子は、
とっさに佐々木和子を思いだした。


「すみませんでした。
辺見さん、
どうもありがとう。
また、
家にお遊びにきてくださいな」

彼女は礼を言った。


「うかがいます」

辺見は直立して言ったが、
残り惜しそうな表情をした。
その顔に半分、
明るい陽が射していた。


輪香子は赤電話で、
佐々木和子の家にかけた。
和子がもう帰ってきているかどうかを、
確かめるつもりだったが、
女中は輪香子の名前を聞いて、
すぐに和子を出した。


「あら、
どこにいるの?」

和子は、
はずんだ声できいた。


「有楽町よ。
あなたがいたら、
外にひっぱりだそうと思ったの」

輪香子が言うと、

「それよりも、
うちにいらっしゃいよ。
そっちに出かけて行ってもつまらないわ」
と、

和子は答えた。
京橋に住んでいる彼女は、
なるほど銀座へ出ても仕方がなさそうだった。


輪香子はタクシーで和子の家に行った。
呉服店の横に、
格子戸の普通の入口がある。
そこをはいると、

玄関にも紺《こん》の暖簾《のれん》が見えたりして、
いかにも下町の造りの家であった。


和子が、
その玄関に待っていた。


「はやかったわね。
さあ、
どうぞ」

和子は輪香子を見て、
顔いっぱいに笑い、
二階に上げた。
階段の裏側には、
呉服物を詰める屋号の印のついた箱がいっぱいに積まれてあった。


その呉服物の箱は、
二階の廊下にも置かれてあった。


「お店が、
だんだんこっちにも侵入してくるのよ。
商売人の家は、
これだからいやだわ」

和子はこぼした。
商家にいる彼女は、
輪香子の家のような住居を羨しがっている。


和子の部屋は八畳だった。
床には琴と三味線が、
花模様の布に包んで置いてあるし、
違い棚には、
京人形が集められていた。
やはり、
下町の娘の部屋だった。


「お店がだんだん狭くなってきてね、
商品をこの部屋まで置くというので、
あたし、
精いっぱい抵抗しているのよ」

和子は笑っていた。


「珍しいわね、
ワカちゃんが一人で銀座に出るなんて」

向かいあってすわってから、
佐々木和子は言った。


「どこかへ行っての帰りなの?」

輪香子は首を振った。


「ううん。
ちょっと買物に出ただけなの。
すぐ失礼するわ」

しかし、
それは輪香子がここに来て、
急に変えた返事であった。


実際は、
彼女が和子に会いたかったのは、
別な目的だった。


深大寺で見た女性の夫のことが分かったので、
それを知らせるつもりだった。
本当は、
それは小野木に知らせたかったのだ。
が、
ひとりでは小野木に告げる勇気はなかった。
それだけの|悪い《ヽヽ》内容を、
あの女性に輪香子は漠然と感じている。


ひとりでは小野木に言えなかった。


その勇気を、
和子と共同になることで得ようとしたのだが、
和子の顔を見ると、

その話さえできなかった。
小野木に、
自分が背信してゆくような気になったのである。


上諏訪の駅のホームを寂しそうに步いていった小野木の姿を、
これ以上、
理由なしに寂しくさせたくなかった。


輪香子が和子を訪ねた目的は、
不意に曖昧となった。



輪香子はここに来た目的を失った。
自然に、
佐々木和子との会話は、
彼女の気持の外側を流れた。


ここに来るまでは、
和子に、
深大寺で小野木と一緒にいた女性のことを話すつもりだったが、
彼女のその勇気を、
小野木の影が奪ってしまった。
話は、
だから、
普通のとりとめのない話題を、
和子との間にひろげたにすぎなかった。


「ワカちゃん、
今日、
元気がないのね」

和子が、
輪香子の表情を見て言った。


会話の流れに、
ともすると、

輪香子は乗っていけなくなる。
時々、
和子の話に返事が合わなくなったりした。


「心、
ここにない、
という顔だわ」

和子がじっと目をすえて言った。


「何か、
あるのね?」

「ううん、
そうじゃないわ」

輪香子は否定したが、
いつものように溌刺《はつらつ》とした話し方にならない。


「あなた、
買物にきた、
と言ったわね。
それ、
まだ、
すんでないんでしょう?」

和子は、
輪香子の表情を、
そのほうに解釈してくれた。


「それが、
気がかりなんじゃない?」

輪香子にとって、
和子の解釈は好都合だった。
小野木のことを言いそびれた今、
うつろな話題をごまかすには、
それを承認するのが適当だった。


「そう、
まだ、
何にも買ってないの」

輪香子は合わせた。


「じゃあ、
早く、
お買いなさいよ。
なんだかあなたの顔、
落ちつかないみたいだわ」

「そうかしら」

輪香子は腕の小さな時計を見た。
和子の家に寄ってから一時間近くたっている。


「なんだったら、
あたしも一緒に行ってあげるわ」

和子が申しでた。


「そうね」

この場合、
今の落ちつかない気持のままに帰るよりも、
和子と、

もう少ししゃべりながら街を步いたほうが、
気がまぎれそうであった。


「よかったら、
お願いしたいわ」

輪香子は答えた。


「よし」
と、

和子はかけ声をかけて、
勢いよく立ちあがった。
次の間にはいって、
もう支度を始めていた。


和子と一緒に外に出ると、

また、
自分のここに来た目的が途中で話せそうな期待が輪香子にあった。
何かのはずみに、
ふと、

自然にそれが出るかも分からない。
和子ならきっと、

本気になってその話題に身を入れてくれるに違いない。
ただ、
輪香子が恐れるのは、
その場合に、
和子が、
小野木に非難の言葉を向けそうなことであった。


小野木がその女性とどのような交際をしているのか、
輪香子には、
まだはっきり分からない。
が、
二人きりで、
あの深大寺の杜《もり》を步いていたところを見ると、

友人以上の関係らしいのである。
その相手の女性に、
正体の知れない結城という夫のあることを小野木は知っているであろうか。


小野木の姿に、
なんとなく寂しい翳《かげ》が見えるのは、
輪香子は、
そのせいだと思っている。
もし小野木が、
その女性に夫のあるのを知っていても、
たぶん、
その夫の素性までは、
小野木には分かっていないのではあるまいか。
いや、
あるいは知っているのかもしれない。
そうだったら、
今ごろ、
彼女が小野木に忠告するのも、
かえって妙な具合である。


が、
そう思う一方、
また、
小野木が何にも知らないのではないか、
とも考えられるのである。
それなら、
小野木のために、
その女性のことをはっきり言ってやりたい。
それが、
小野木にも、
その女性にも、
幸《しあわ》せな結果になりそうな気がした。


その判断が、
輪香子には、
どちらともつきかねるのである。
和子にそれを言うと、

彼女は、
簡単に、
そのどちらかを決めそうであった。
目を輝かせ、
すぐに、
何かとっぴな提案をしそうな気がした。
それが輪香子に躊躇《ちゆうちよ》を起こさせている。


しかし、
やはり、
このままでは、
なんとしても落ちつかない。
和子との会話が、
いつもの輪香子らしい精彩がなく、
話題が彼女の心の外側を流れるのも、
そのためであった。
街に出ると、

もっと自然に、
もっとうまい話し方がありそうな気がした。


その期待で、
輪香子は、
和子の支度のできるのを待った。


「お待ちどおさま」

和子は和服を洋服に着替えて出てきた。


「何を買うの?」

和子は、
無邪気にきく。


買物にきたというのも、
まんざら、
輪香子の心にないことではなかった。


「セーターよ」

輪香子が言うと、

それなら、
銀座のこの店がいいと、

和子はすぐに名前をあげた。


二人は外に出た。
いつのまにか陽が曇っている。
空は晴れているのだが、
赤っぽい霧が一面にかかっていた。
太陽がぼんやりと光の輪をにじませて濁っている。
遠くのビルも影のようにぼやけていた。


このごろの東京には、
時おり、
こういう日があった。
陽はかっと照っているのだが、
霧の中を通した光線は弱く、
一帯に赤っぽい膜がかかったようにはっきりとせず、
どんよりとしていた。


二人は、
銀座四丁目から電車通りの裏側の通りにはいった。
そこは、
銀座でも一流の店が軒を並べていた。
ここの品物は、
高価なだけに趣味もよく、
高級なものが多い。


このあたりも、
どんよりとした陽が照っている。
何もかもはっきりと形が見えないで、
步道に落ちた人の影まで淡《あわ》かった。


二人は、
ある角の店にはいった。
この店では和子は常連らしく、
店員も、
彼女には親しげな挨拶をしていた。


「あたしが、
見てあげる」

和子は、
先に立って、
陳列棚に飾ってあるのや、
店員がとりだす品物を選んだ。


今年の流行は、
模様の極端に派手なものと、

一方、
ひどく単純で、
色だけで見せるものとに分かれているらしい。
派手なのは、
まるで、
スキーのセーターみたいに賑やかな模様だった。


「こんなのは、
ワカちゃんに似合わないわ」

和子は、
いっぺんに言った。


輪香子の性格として、
もっと単純で、
おとなしい色を、
和子は目標においた。
このごろの流行で、
チャコールグレイとベージュが圧倒的に多く、
型も、
どちらかというと、

ゆったりしたものが多かった。


ようやく、
その一枚を選んだ。


そのときだった。
今まで、
店内の中央にあるケースにさまたげられて見えなかったが、
和服を着た一人の女性が、
陳列窓に向かって立っていた。
こちらからは、
その後ろ姿しか見えない。
店員が品物を包装している間のことだったが、
輪香子は、
敏感にその姿を見てとった。
着物の柄にも帯にも見覚えはないが、
髪のかたちとすんなりした高い姿勢は、
確かに、
今まで、
彼女の心を占めていた|あの女性《ヽヽヽヽ》であった。


輪香子は、
急に胸が鳴った。
少し、
自分の体の位置を動かして確かめてみると、

やや横向きに、
その女性の頬のあたりが見えた。
間違いなく、
深大寺で、
小野木の横に步いていた女性であった。


輪香子の視線に気づいたのか、
和子も顔をふり向けてその女性を見た。
彼女のほうが輪香子よりも先に、
小さな声を出した。


「あの女《ひと》だわ」

和子は、
低いが声を弾《はず》ませて言った。


二人は、
それから、
黙って相手の女性を凝視《ぎようし》したが、
なんとなく、
息をのむ思いだった。


その女性は、
こちらから見られていることを知らないで、
ひとところに立ちどまって、
陳列ケースの中の品物に見入っている。
そこには、
ハンドバッグや婦人用の手袋、
装身具などがきれいに飾られていた。
が、
一方、
男もののネクタイやマフラーも並んでいた。
その女性の視線は、
位置からいってネクタイに注がれているらしかった。


「ワカちゃん」

和子は耳もとでささやいた。


「ちょうど、
いいチャンスじゃない? 何か、
お近づきにご挨拶したらどう?」

「困るわ」

輪香子には、
とても、
その勇気がなかった。


「かまわないじゃないの、
あなた、
言いなさいよ」

「だって」

輪香子は、
和子をつついた。


「あなたなら、
言えるでしょう。
あなたがいいわ」

「でも、
小野木さんと知りあったのは、
あなたが先でしょう。
だから、
あなたが先に言いだすのが本当よ」

「いやだわ」

二人は、
互いにつつきあった。
和子のほうはクックッと笑っていた。


「毎度、
ありがとうございます」

店員が、
輪香子の買物を包装にして大声を出した。


向こうの女性が、
ふと、

こちらを向いた。
店員の声に、
店の奥を覗いたという恰好だった。


これは、
若い娘が二人立って見つめている視線と、

正面から合ったものである。
見るうちに、
その女性の顔に、
軽い驚きが起こり、
つぎに微笑がひろがった。


その表情に、
こちらの若い二人は、
思わずおじぎをしてしまった。
先方から静かに步いてきた。


「いつか、
深大寺でお目にかかったかたでしたわね?」

目もとの微笑のなかで、
婦人は、
少し顔を傾《かし》げて言った。


「こんにちは」

と言ったのは、
やはり、
和子が先であった。
輪香子は、
黙って和子の傍に寄った。


「お買物ですの?」

輪香子の提げている包みを一瞥《いちべつ》して、
婦人はきいた。


「はい」

輪香子は、
なんとなくあかくなって下を向いた。
今日、
和子に話したい当の女性が不意に目の前に現われたのである。
婦人のほうは、
若い二人を穏やかに眺めている。


「偶然ですわね」

彼女は和子と輪香子とを見比べて言った。


「お急ぎでなかったら、
そこらで、
お茶でもご一緒しません?」

「ありがとう」

これも、
和子の活発な返事だった。
あまり人見知りしない性質である。


「ご馳走になります」

「あなたも」
と、

これは黙っている輪香子に言ったものだった。


「ご都合は、
よろしいんでしょう?」

「はい」

婦人は、
自分の買物を中止したらしかった。
二人の来るのをゆったりと待ち、
少し先に步いて店を出た。


「どこか、
お好きな店、
ありますの?」

通りに出て、
婦人はきいた。


「いいえ、
別にないんです」

和子が答えた。


「そう」

婦人は、
ちょっと考えるふうだったが、
「近いから、
そこにしましょうね」
と、

自分のほうで決めた。


喫茶店ではなく、
レストランだった。
この店は、
中二階みたいに広い二階がついていた。
婦人は、
その方に自分で先に上がっていった。
落ちついた店で、
客も静かに食事をとっていた。


卓を決めてすわると、

「偶然に、
妙なところでお会いしましたわね」
と、

婦人のほうから誘うように笑いかけた。


輪香子は、
あのときの記憶が残っている。
湧き水の流れている小川のほとりだった。
ちょうど、
虹鱒《にじます》を料理しているのを見物しているとき、
小径《こみち》の上の笹を分けて、
小野木の洋服姿が現われた。
その後ろに、
この婦人が従っていたのだ。
その白い着物が目ににじんだ印象が、
まだ残っている。


「深大寺には、
よくいらっしゃいます?」

婦人のほうから二人に質問した。
この女性は、
自分たちが小野木のことを、
これほど知っているとは気づかないきき方であった。


「いいえ、
あの時がはじめてでした」

輪香子が答えると、

和子がそれを引きとった。


「あたしが、
ワカちゃんを誘ったんです」

和子の快活な答えを、
婦人は、
やはり、
きれいな目もとで笑って受けた。


「そう」

その視線を輪香子に向けて、
「ワカちゃんて、
おっしゃるのね?」

ときいた。
輪香子は、
まだ自分の名前を言っていないのに気づいた。


「わたくし、
田沢輪香子と言います」

彼女は、
腰をかけたまま、
姿勢をあらためておじぎをした。


「佐々木和子と言います」

和子も、
輪香子に続いて名乗った。


「申しおくれましたわ。
わたし、
結城頼子です」

夫人のほうも軽く頭をさげた。


結城頼子──はじめて、
名前を聞いたのである。
結城という姓で、
やはり、
この夫人があの男性の妻であることを、
はっきりと知った。
今まで、
こちらの推定として、
想像はついていたが、
当人に名乗られて明確になったのである。


「大学で、
ご同級なの?」

頼子は、
少し親しそうに言った。


「はい、
もう卒業しましたけれど」

和子が答えた。


「そう、
じゃ、
これからですわねえ」

頼子の言い方には、
多少の羨望があったように、
輪香子には受けとれた。


「これから」という彼女の言葉の中に、
若い輪香子たちの青春の行動と、

未来の結婚とが予想としてふくまれていた。
実際、
この二人を見る頼子の表情には、
年上の鷹揚な寛容さと落着きとがあった。


「ワカコさんは、
小野木さんと、

上諏訪でご一緒だったんですって?」

頼子は、
やはり、
和子に目を向けたまま、
微笑を続けていた。


この質問を受けて、
輪香子はうなずいたが、
彼女の脳裏には、
たちまち、
深大寺の檪林《くぬぎばやし》を步いている小野木と、

頼子の静かな会話が流れた。
あのとき、
輪香子に会った後の小野木は、
頼子と步きながら、
輪香子のことを彼女に話したに違いない。


どのような話し方をしたか、
輪香子にはそれが想像できる。
たぶん、
信州の古代遺跡で、
一人の若い東京の娘と出会った顛末《てんまつ》を、
紹介的に話したことであろう。


明るい光の満ちた空と、

青麦のひろがっている畑と、

カリンの白い花と、

蒼い湖の見える小径を步いたことまでは、
小野木の口からは話されなかったに違いない。
その情景は、
輪香子だけの記憶に納めていることである。
また、
こちらの見ているのを気づかない、
ホームを步いていた小野木の孤独な姿も、
むろん、
当人の知らないことだった。


「あちらの方には、
よく、
いらっしゃいますの?」

コーヒーをときどき口に運びながら、
頼子はきいた。


「いいえ、
あの時がはじめてなんです」

「あら」

夫人は、
軽い驚きを見せた。


「わたし、
そんな場所にいらしったと聞いて、
ワカコさんも、
そんなご趣味があるのかと思いましたわ」

頼子は、
小野木の趣味を知っている。
出会った場所も、
小野木から聞いているのである。


「あのときは、
木曾路をまわって上諏訪の宿に着いたんです。
女中さんから古代遺跡の場所を聞いて、
もの好きに覗きにいっただけですわ」

「そう」

夫人は、
年上らしくうなずいた。


「時々、
おひとりで、
そういう旅をなさるの?」

「いいえ、
めったにまいりませんわ」

「ワカちゃんは」
と、

和子が、
横から頼子に言った。


「そういう性質ではないんです。
お家《うち》が、
かたいお役人ですから」

輪香子は、
和子が、
よけいなことを言うと思った。
家庭の環境は、
自分の性質を支配していないと思っている。
が、
和子のほうでは、
いつもそう思いこんでいた。


「お父さまは、
お役人ですか」

頼子は、
それから何かをききたそうにしたが、
遠慮したように黙った。


この様子から見ると、

小野木は、
輪香子の父に、
友だちの結婚披露の席で会ったことを、
頼子に話していないらしかった。
すると、

小野木が、
輪香子のことを頼子に話したのは、
深大寺で出会ったとき、
紹介的に伝えただけにすぎないらしい。
これはつまり、
輪香子の存在を、
小野木と頼子の間では、
それほど重要に考えていないしるしのようだった。


「あなたのお家も、
どこか、
お勤めのご家庭ですか?」

頼子は、
和子に顔を向けた。


「いいえ、
そうじゃありません。
商人なんです」

「そう」

それも、
それ以上の質問を、
結城頼子は遠慮したようにみえたので、
今度は、
輪香子が取りついだ。


「和子さんのお家は、
京橋の呉服屋さんで、
芳見屋っていうんです」

「あら」
と、

低い声で言ったのは、
頼子がその店の名前を知っていたからである。


「そうでしたか」

輪香子も和子も、
頼子の夫が、
別な女性を連れて、
和子の店に買物にきたことを知っている。
のみならず、
和子がその女性の家の偵察に訪問したことまでも、
輪香子は聞いている。
しかし、
頼子の目には、
ただその店の名前を知っているというだけの表情で、
特別な変化は現われなかった。


明らかに、
結城頼子は、
その夫の所業を知っていないようにみえた。


輪香子は、
何となく息をつめるような思いで、
頼子を見た。


が、
頼子のほうでは平静であった。


「お聞きしたいんですけれど」

頼子が、
明るい顔で、
輪香子にきいた。


「ワカコさんとうかがったけれど、
文字は、
どう書きますの、
若いという字を書きますの?」

「いいえ」

輪香子は首を振った。


「ワは、
三輪山《みわやま》の輪です。
カは、
香久山《かぐやま》の香です」

「あら」

頼子は目をみはって、
すてきだと言った。


「万葉に|ゆかり《ヽヽヽ》のあるお名前ね。
お母さまがおつけになりましたのね? きっと」

「いいえ、
父です。
父が奈良《なら》県で役人をしていたときに、
わたくしが生まれたんです」

「そう」

頼子が目を伏せた。



三人はお茶をすませた。


輪香子と和子とは、
そっと目を見合わせ、
椅子から立ちあがる時期を確かめあった。


「どうも、
ご馳走になりました」

和子の方が、
先に口を切っておじぎをした。
輪香子も頭をさげた。


「そうですか」

頼子は、
小さな腕時計を眺めた。


「お引きとめして、
すみませんでしたわね。
たのしかったわ」

若い二人を見る目に、
微笑があった。
輪香子はここで立つのが、
まだ心残りであった。
もっと、

たくさん頼子と話したかった。
別に、
これという話題は心にないが、
今のままの状態を、
もっと続けたかった。


「これから、
ときどき、
お目にかかりたいわ」

頼子のほうから言った。


「ぜひ、
お願いします」

和子は、
頭を下げた。


「今度は、
どこかちがったところで、
お食事をごいっしょしましょうね」

頼子は、
誘うように、
前の二人を見た。


「はい。
ゆっくりお話ししたいんです」

これも和子が答えた返事だった。


輪香子は、
和子も、
やはり、
自分と同じような気持だと思った。


はじめて、
わずかな時間を過ごしただけで、
若い二人は頼子に魅《み》せられてしまった。


「わたしの家、
お教えしましょうね」

頼子は、
ハンドバッグをあけて、
小さなメモを出した。


住所と電話番号を先に書き、
親切に簡単な略図をそえて書いた。
和子と輪香子とはうつむいて図面を書いている頼子に分からないように、
顔を見合わせた。
反対側から見て、
書かれている地図は、
いつぞや二人が見た、
あの高台の家であった。


頼子は書き終わって、
そのメモをはずした。


「あら」

小さな声で、
気づいたように、
「一枚しか、
書かなかったわ、
もう一枚、
書きましょうか?」
と、

二人を見くらべた。


「いいんです。
あたしがいただいておきます」

和子が言った。


「輪香ちゃんとは、
始終、
連絡があるんです。
一枚いただいておけば両方で共通になりますわ」

「仲がいいのね」

頼子は笑って、
それを和子に渡した。


「お電話をかけてくだされば、
なるべく、
時間の都合をつけて、
ごいっしょしますわ。
家のほうにも、
ときどき、
お遊びにいらしてくださいな」

「うれしい」

和子が言った。


「お邪魔しても、
よろしいんですか?」

「結構よ、
歓迎しますわ。
お若いかたにいらしていただくと、

わたしもたのしみですもの」

「お小さいかた、
いらっしゃいません?」

と言ったのは、
やはり和子である。
この質問は、
輪香子に思わず頼子を見つめさせた。


「いいえ」

頼子は弱い返事をした。


「昼間は、
わたし、
ひとりなんです。
ですから、
ぜひ、
どうぞ」

「電話をかけて、
おうかがいします」

和子は明日にでも遊びに行くような口吻《くちぶり》だった。


「そうしてくださいな。
そう、
いらっしゃる前に、
お電話をいただいたほうがありがたいわね。
わたし、
時々、
用事があって出かけるものですから」

輪香子は、
頼子が出かけるという先を、
瞬時に、
なんとなく空想した。
彼女の目には、
深大寺を步いている小野木と頼子の姿が、
ふたたびよみがえった。


「どうも」

頼子が椅子をすべらすと、

若い二人も、
勢いよく立ちあがった。


カウンターに向かって、
先に步いていく頼子のかたちのいい姿は、
あたりの婦人客を見劣りさせた。
実際、
テーブルを囲んでいる客たちの目が、
それとなく、
頼子を追っているのである。


ドアから外に出ると、

頼子が立ちどまった。


「失礼しました」
と、

やはり軽い微笑で若い二人に挨拶した。


「いいえ、
わたくしたちこそ、
失礼しました。
あの、
本当に、
おうかがいしてもよろしいんでしょうか?」

和子は、
追うように念を押した。


「どうぞ」

頼子は、
瞳《め》でうなずいた。


「さようなら」

輪香子は、
和子とならんで、
おじぎをした。


「さようなら、
またね」

頼子の姿は、
車が列をつくって駐車しているところに步いていた。
通りがかりの男たちの中に、
やはり、
頼子に無遠慮な目を向ける者がいた。


頼子の後ろ姿は、
輪香子に、
今まで会った女のひとにない、
洗練された特別な雰囲気を感じさせた。


輪香子と和子とは、
步道を反対の方に步いた。
ショーウィンドーが次々と変わって移っていく。
自然と四つ角に来た。


二人は、
步く方向を失っていた。
その角を曲がって步くと、

輪香子には、
急に自分のそばから大きなものが去っていったような気持になった。
今まで、
満ちたりていた暖かいものが除《の》いて、
自分のそばに穴をあけたような感じだった。
肩にあたる風までが冷たかった。


横に步いている和子も、
何も言わなかった。
二人とも、
何か虚脱状態に似た気持になっていた。
目だけは、
習慣的に、
横のウィンドーに移っていく。


それも、
ただ、
きれいな品物を眺めて通りすぎるだけのことだった。
いまの気持がすぐに変わって、
陳列の中に向かうようなことはなかった。


「すてきなかたね」

和子が言った。


「あれほどの女《ひと》とは思わなかったわ」

それは和子が率直に表現しただけのことで、
輪香子も同じ感想であった。


これまで遠くから見ていたときの頼子のイメージは少しも崩れずに、
もっとそれを充実してくれた。
人に会ったあと、

そのようなことは、
めったにないのである。


「あの方に、
もっとお近づきになってみたいわ」

和子が呟くように言った。


自分たちの世代にないものが、
結城頼子の表情にも、
話し方にもあった。


頼子の知性が深い落ちつきの中に沈んでいた。


言葉は自然のままだが、
匂いがあった。


若い二人の気持に敏感なのも、
感受性の強いひとのようだった。


輪香子は、
頼子の横に立っている小野木が、
急に大きく感じられた。
自分の前にいる小野木と、

頼子の前にいる小野木とは、
別人にみえそうだった。


輪香子の心には、
小野木が、
はるかに成長した人間に感じられた。


カリンの花の咲く諏訪湖畔の畑に立った小野木の、
青年らしい明るい顔は、
頼子をそばに置いて、
たちまち、
輪香子の心に小野木を変化させた。
彼との間に、
ある距離を感じさせたのである。


二人は、
いつのまにか、
電車通りに出た。
それから先の方向も、
輪香子には決まっていなかった。
ただ、
和子について流れて步くような気持だった。


「ワカちゃん」

和子が、
輪香子の横顔を見て言った。


「どうしたの、
急にしょげたのね?」

通りには、
電車がゆるやかに走り、
自動車が流れている。
それが、
まるで現実でない景色のようだった。


「そうでもないわ」

輪香子は、
元気に首をふって見せたが、
「あなたも、
今の結城夫人に会ってから、
気をのまれたのね」
と、

和子が言いつづけた。


「あたし、
今、
いろんなことを考えてるの。
あの夫人といつも会っている小野木さんは、
いままでの小野木さんとは違うような気がするわ。
そら、
あの夫人の姿はいつか見たわ、
でも、
それは、
ただ見ただけだったの。
でも、
今、
話してみて、
小野木さんの感じまで違ってきたわ」

和子は、
足の向くまま、
交差点の方に、
步きながら言った。
輪香子は、
和子の言葉を聞いて、
彼女もやはり、
自分と同じ気持を持っているのだと思った。


和子自身が、
いつになく快活さを失っているのである。
この時ほど、
二人とも、
自分の若さに対してくやしさを持ったことはなかった。


「ワカちゃん」

和子が呼んだ。


「あなた、
小野木さんに、
好意を持っているんじゃない?」

何気ない言葉だったが、
輪香子の心を蒼ざめさせた。


「そんなこと、

ないわ」

言葉がうまく出なかった。
自分で顔が硬《こわ》ばるのが分かった。


「そう」

何か、
もっと和子に言われるかと思って輪香子は身がまえるような気持だったが、
和子は、
それきり黙った。


あとになっても、
輪香子は、
そのときの情景をおぼえている。
二人のすぐそばを若い男女が二組ほど通っていた。


その女性の持っている包み紙の模様までも、
鮮かに記憶したことであった。


結城庸雄は、
自動車に乗って、
外をぼんやり眺めていた。


車は銀座の広い通りを走っている。
彼は無関心な目を片側の通りに投げていた。
赤っぽくぼけたような空気の中で、
弱い秋の陽ざしが步道に当たっている。
通りは賑やかだが、
どの店も退屈そうだった。
ただ人間だけが、
大勢、
所在なさそうに步いている。


結城の目は、
感動も何もなかった。
この通りも、
事務所が近いので、
始終通っている町というだけであった。
彼には、
銀座も索漠《さくばく》たる場末の通りと変わらなかった。


通りを步いている通行人の中には、
二人の若い女性が肩を並べているのが見えた。


結城の視線は、
ふと、

それに注がれた。


これは、
彼女たちが若い女性で、
ほかの中年の男や女たちよりは、
結城にはなんとなく新鮮に映ったのである。


若い二人は、
まだ大学を出たばかりの年齢らしかった。
よい家の娘らしいことは、
その服装の様子でうかがえた。


しかし、
この二人は、
どことなく活気がなかった。
何かささやくようにして步いている。


通りすがりに見た一瞬の情景であるが、
結城はそれだけの観察をした。
車の位置から、
顔ははっきりとは分からなかったが、
彼女たちには、
結城がつきあっている女たちにない、
若い清潔さがあった。
これは、
やはり、
年齢のせいである。


しかし、
走っている車にいる彼の目は、
いつまでもそれに寄せられているわけではなかった。
ふたたび、
彼は退屈な目つきになって、
外にぼんやりと視線を投げている。
表情のない横顔である。


感動のない街の情景は、
彼を精神の弛緩《しかん》状態に誘った。
人間は、
こういうとき、
ふと、

思わぬことを想い起こすものである。
発明家なら、
偶然にアイディアを考えつくことであろう。
結城が思い当たったのは、
この前の晚、
吉岡に会って、
彼から聞いた言葉であった。


「きみの奥さんを、
朝早く、
上野駅で見かけたよ」という言葉だった。


それは、
確かに、
頼子から聞いた。
だから、
女房は友だちを送りにいったんだ、
と吉岡に答えたものだが、
そのとき、
吉岡が、
妙な顔をして急に黙ったことを、
結城は、
今、
思いだしたのである。


そのときもそれ以後も、
全然念頭になかったことが、
海面に魚が背中を見せたようにポカリと頭に浮かんだ。
まるで、
今の今まで考えてもいないことであった。


結城は、
窓から目を離して前を見た。
運転手の肩越しに前方の景色が迫って来る。
車は、
日比谷を過ぎて、
警視庁の建物をこちらに近づかせていた。


──なぜ、
あのとき、
吉岡が妙な顔をしたのか、
結城は考えている。
いつもの吉岡なら、
その話題についてもっと語るはずであった。
吉岡は、
頼子のことになると、

日ごろから妙に関心を示す。
吉岡が、
かねてから頼子に興味を持っていることを、
結城は知っていた。
それなのに、
あのときばかりは、
まるで自分で戸を閉めたように、
急に話をそらしたものであった。


女中から聞いたときも、
朝の五時に、
頼子が人を見送りに上野駅に行ったのを、
少し、
妙だとは思った。
これまでになかったことである。
あのときも、
心の隅で何か落ちつかないものを感じたが、
急に思いだした吉岡のあのときの表情は、
今、
それを拡大させるものがあった。


頼子は誰を見送りにいったのであろう。
友だちということは聞いたが、
名前は聞いていない。
が、
吉岡が妙な顔をしたのは、
自分が、
ああ、
あれは友だちを送りにいったんだよ、
と言ったときだった。
それも|送りに行った《ヽヽヽヽヽヽ》と説明したときに、
吉岡の目がふと怪訝《けげん》な表情になったことに思い当たった。


──そうか、
送りにいったのではなかったのか。


吉岡は、
ただ、
頼子を上野駅で見かけた、
とだけ言ったのである。
べつに、
送りにきていた、
とは言わなかった。
駅に友だちを送りにいった、
と言ったのは結城のほうである。
その言葉に、
吉岡が微妙な反応を示したのである。


すると、

駅に行く用事と言えば、
見送りでなかったら出迎えである。
そうか、
頼子は、
誰かを迎えにいったのか。


車の右側にお濠端《ほりばた》が続いていた。
皇居の石垣と櫓《やぐら》の白い壁が青い芝生に囲まれて、
どんよりした空気に煙っていた。


芝生は鈍い陽を受けて、
色が冴えない。


|千鳥ヶ淵《ちどりがふち》のあたりは、
恋人らしい男女がゆっくりと步いている。


「ちょっと、

とめてくれ」

結城は、
運転手に言った。
運転手が予定として聞いていた行先は、
番町《ばんちよう》のある代議士の家だった。


命令を受けて、
運転手は急いで車をとめた。
結城は自動車から降りた。
すぐそばに公衆電話のボックスがある。
彼は、
その中にはいった。
金を入れてダイヤルを回した。


「吉岡産業でございます」

耳に当てた受話器の中から、
女の声が聞こえた。


「社長は、
いるかね?」

「どちらさまでしょう?」

「結城だ」

「ああ、
さようでございますか、
ちょっとお待ちくださいまし」

吉岡はいるらしかった。


「やあ、
この間は」

吉岡の声が聞こえた。


「失敬した」

結城も答えた。


「きみに今夜会いたいんだが、
都合つけてくれるか?」

「なんだい? 例のことかい?」

吉岡は、
少し声を低くしてきいた。


「うん、
その報告もある。
しかし、
それはわざわざ会わなければならんほど、
まだ材料がそろっていない」

結城は正直に言った。


「ただ、
なんとなく、
きみと飲みたいんだ」

何か、
話があるらしいと、

相手は、
結城の気持を察したらしかった。


「いいよ、
都合をつけよう。
どこにするか?」

「Xがよかろう」

結城は、
キャバレーの名前を言った。


「八時だ、
いいね?」

いい、
という返事だった。
結城は、
ボックスを出て車に乗った。


結城は煙草をすった。
マッチを擦ったが火がうまくつかない。
二度目は、
力がはいりすぎて軸が折れた。
結城としては珍しいことである。


彼は、
目を相変わらず外に投げていた。
静かな邸町は、
彼の現在の思索には恰好な場所であった。
外国の大使館の前を過ぎた。
色の美しい車が、
ヒマラヤ杉の下に四、
五台置かれてあった。
そこを過ぎて、
車は閑静で贅沢な街に曲がった。


着いたのは、
ある代議士の家であった。


代議士は、
結城をすぐに通した。
来客があったが、
あとから来た結城が先に面会した。
和服の代議士は、
結城としばらく、
小声で話した。
その話が、
結城には遠い声のように残らなかった。
心はどこかにある。


話がすんで、
代議士はふところ手で玄関まで見送った。
靴をはいている結城に、
代議士は短い言葉で旅行の話などをした。


結城は、
いいかげんな相槌を打った。


夜になって結城はクラブ『X』に行った。


結城は、
ここでは顔である。


自動車を降りると、

ボーイが飛んできて、
お愛想を言った。
暗い通路にはいって、
ウェイトレスがオーバーを脱がせる。


その間に、
支配人が出てきて挨拶した。


「先ほどから、
吉岡さまがお待ちかねでございます」

結城は、
これに黙ってうなずいた。


支配人が目くばせすると、

ボーイが先に立って案内した。


音楽が鳴り、
客が踊っている。
テーブルには蝋燭《キヤンドル》が赤い筒の中で揺れていた。
ボーイが女たちの囲んでいる席に案内した。


吉岡は女たちを相手に無駄話をしていたが、
結城が来ると、

立ちあがって片手をあげた。


「やあ」

女の一人が、
椅子を後ろに引いた。
ここでも、
結城は女たちに人気があった。


彼がテーブルにつくと、

彼女たちは結城にいっせいに話しかけた。
酒を注文して、
結城は、
しばらく、
女たちの相手をしていた。


「少し、
吉岡と内緒話があるんだ。
ちょっとはずしてくれないか」
と、

女たちに言った。


「はい、
はい、
分かりました。
吉岡さんと内緒話がすんだら、
次は、
わたくしにね」

女の一人が、
笑いながら椅子から立ちあがった。


「あら、
ずるいわ、
わたしよ」

「おい、
おい、
結城にばかり内緒話を頼むなよ。
おれを忘れてやしないか?」

吉岡は、
傍から言った。


「あら、
吉岡さんは、
もうすんだじゃない? ゆうべ、
ちゃんとしてあげたわ」

女たちは笑っていた。


「調子のいいやつだ」

女たちが離れるのを見て、
吉岡は舌打ちした。
女たちののんだグラスだけが、
賑やかにあとに残っている。
椅子には、
結城と吉岡だけになった。
吉岡は、
話を聞く身がまえのように、
煙草に火をつけた。


「女房の話だがね」

結城が言った。


「きみは、
この前、
言っただろう? 朝早く上野の駅で、
女房を見かけたって」

吉岡のほうは、
どきりとしたように目を見張った。


「きみは、
見たんだね? はっきりと」

結城は、
他人の噂をするように抑揚《よくよう》のない調子で言った。


「ああ」

吉岡は、
瞳《め》を客の踊っている方に向けて答えた。


「その時、
女房は、
人を送りに行ったのではなく、
迎えにいったのだろう?相手の男はどんな奴だ?」

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