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12上野駅の青年


結城庸雄は、
妻のことを吉岡に質問して、
グラスの酒をなめ、
彼を下から見上げた。


吉岡の返事はすぐになかった。
心でとまどっている。


今ごろになって結城が、
不意にその話を持ちだそうとは思わなかったのだ。


彼は結城の表情をうかがうようにしていた。
直接《じか》に彼の顔を見なくても、
結城がどのような目をして自分を見ているか分かっていた。


結城の声は、
あまり抑揚がなかった。
吉岡にしたその質問が、
まるで世間話でもしているようだった。
しかし、
吉岡は、
結城がそのような声を出したときの気持を知っていた。
結城がその調子の声を出すときは、
感情の緊張を現わしている。
これまでの取引のときがそれなのだ。
吉岡は、
自分の経験から、
結城のいまの心を測量していた。


「そうだった」

吉岡は、
間をおいて答えた。
自分でも思いだしたという恰好だった。


「奥さんは、
上野駅に誰かを迎えにいっていたっけ」

「ふむ」

結城は、
相変わらず感情のない声を鼻の先で出した。


それが、
少し吉岡の気にさわったので、
「ずいぶん早い汽車だったよ」
と、

彼は初めて積極的に話した。


「あれは、
ぼくが仙台に行く時間だから、
その時刻に到着の列車といえば、
福井から来た急行だけだ。
奥さんが駅に迎えたのは、
北陸方面から来た人だね」

結城は、
ちょっと黙った。
それは、
グラスを傾けて、
一口、
酒をのむためだった。


「誰だろうな?」

結城は、
小首をかしげた。


「若い男だったよ」

吉岡は、
多少意地悪い言い方をした。


「ふん幾つぐらいかな」

やはり結城は首を傾けたままである。


それが、
本気に考えているのかどうか、
すぐには分からないくらい、
ぼんやりした顔だった。


きみでも女房のことは気にかかるのか、
と吉岡は言ってやりたいくらいだった。
勝手なことばかりをしている結城が、
そんなことをわざわざきくのがふしぎだった。


吉岡は、
結城の妻の頼子に興味を持っていた。
結城のような男には過ぎた女房だ、
といつも考えていた。
これは、
吉岡が頼子にひそかに惹《ひ》かれていたからである。
だから、
上野駅でふと頼子と若い男とが步いているのを見た時、
わざわざ後ろから尾《つ》けていったくらいだ。
彼は発車までの時間があまりないのに、
この二人の後を追って、
わざわざ駅前をはいった路地にある飲食店まで行っている。


「そうだな、
二十六、
七かな。
背の高い青年だったが」

吉岡は、
飲食店にはいって観察した、
頼子の相手の描写をした。


結城は、
また、
グラスに唇をつけている。
話を聞いても、
様子に、
あまり変化がなかった。
この男の表情はいつも同じである。


「女房はどうしていた?」

結城は、
ぼそりと言った。


「二人で近くの飲食店にはいったよ。
奥さんは親しそうに話していたがね」

吉岡は、
もっと意地悪になろうとした。
結城の反応を試《ため》したかったのである。


「ほう、
きみは飲食店に一緒にはいったのか」

結城が突然きいたので、
吉岡は狼狽した。


「いや、
そうではない。
步いているところを見ただけだ」

彼は急いで弁解した。


「ああ、
あれはおれの親戚だ」

結城は、
突然、
大きな声で言った。


「え、
親戚?」

「従兄弟《いとこ》なんだよ。
思いだした」

結城は、
平気だった。


吉岡があきれて、
彼の顔を見つめた。


結城は、
グラスのかわりを命じた。
表情が同じであった。


「従兄弟が金沢《かなざわ》にいてね」

結城は、
ぽつりと言った。


「出張で上京してきたのだ。
女房が迎えにいった話を思いだしたよ」

「そりゃ、
よかった」

吉岡は、
相槌を打った。
何がよかったのか彼自身にも分からない。


「女たちを呼ぼうか」

結城が言った。


「いいな」

と吉岡も、
少し救われたような顔をして、
賛成した。


女たちが、
またテーブルに戻されて集まった。


「何を話してらしたの?」

結城のそばにきた女が、
彼の顔を覗きこむようにして言った。


「大事な話さ」

結城は、
薄ら笑いして答えた。


「ビジネスの話なのね」
と、

別な女が言った。


「男のかたって、
お仕事のことが、
こんなところに見えても忘れられないのね」

「忘れられないことは、
ほかにもあるさ」

結城は、
ふだんの口調で言った。


「仕事だけのことではないさ」

吉岡がそれを聞いて、
目をあげた。
が、
結城は平静な表情で、
横の女の子にささやきかけた。
曲がちょうど変わったところで、
まわりのテーブルから踊りに立っていく者がある。


「まあ、
うれしい」

女は、
すぐに応じた。


結城が、
女を先に立てて踊り場に行くのを、
吉岡はテーブルにすわり、
首を立てて見送っていた。


結城は、
曲に合わせて踊った。
じょうずな踊りだ、
と誰もが彼をほめるのである。


「ねえ、
結城さん」

女は、
結城の胸の中で揺れながら、
顔を仰向けて小さい声で言った。


「今夜、
ここがすんでから、
どこかに連れてってくださらない?」

結城は、
生返事しただけだった。
目を遠いところに向けて、
体を動かしていた。


結城はテーブルに戻ると、

「帰ろうか」
と、

突然、
吉岡に言った。


「あら、
まだ早いじゃありませんか?」

横の女が、
声をあげた。


「用事があるんでね」

結城は、
吉岡のほうを見た。


吉岡も出していた煙草をポケットにしまった。


勘定を払って、
二人が立つと、

四、
五人の女たちは、
入口まで二人を見送った。


支配人が、
靴音を忍ばせて近づき、
「ありがとうございました」
と、

結城に頭をさげた。


「もうお帰りでございますか?」

「うん、
別なところをまわるんでね」

結城は、
ボーイに後ろからオーバーをかけさせながら目で笑った。


「はあ、
さようでございますか」

この店では結城はいい客である。
支配人の愛想はよかった。


「また、
お近いうちに、
どうぞ」

支配人は、
結城というこの客の名前だけを知っていて、
その正体が分からなかった。
職業も、
実業家のように聞いているが、
ついぞそれらしい社員を連れてきたことがない。
そのくせ、
ここに結城が連れてくるのは上等の客が多かった。


それも、
ひどく金放れのいい連中ばかりである。
支配人は、
正体は分からなくても、
結城を疎略にしなかった。


玄関に出ると、

ボーイが結城の顔を見て、
暗いところに駐車している車に走った。


「失敬するよ」

車の来るのを待ちながら、
結城は突っ立って、
突然、
吉岡に言った。
平気でそういうことが言える男なのである。


「そうか」

吉岡も、
少しむっとしたらしい。
しかし、
彼もすなおに結城の前から離れた。


「じゃ、
また、
いずれ」

車が結城の前に滑って着いた。
ボーイがドアをあける。
吉岡は、
車の中にはいっていく結城の姿を見たが、
走りだす瞬間に目にはいった結城の横顔は、
いつもの不遜《ふそん》な彼の顔つきに似ず、
どこか寂しそうだった。
これは吉岡が、
おや、
と思ったことである。


ドアを開く役目の、
外国の兵士みたいな服をきたボーイが、
寒そうに肩をすくめていた。
──結城が着いたのは、
銀座でも高級で知られたあるバーの前だった。
運転手には帰るように言った。


バーの中は、
ほとんど満員だった。
はやる店なのである。
客の誰も、
彼を知った者はないが、
結城のほうでは、
客に知った顔がある。
これは親しいからではなく、
新聞の写真などで見かける有名な実業家や文化人だった。
この店は、
そういう高級めいた雰囲気を持っていた。


結城がはいってきたのを見て、
女給の一人が、
受持ちのテーブルからわざわざ離れて、
彼の傍に寄ってきた。


「いらっしゃいまし」

結城は、
ゆっくりオーバーを取らせて、
女の案内に従った。
彼は、
背が高いので目立った。
テーブルで酒を飲んでいる客が、
結城の步く姿を注目したほどである。


奥まったテーブルに彼はついた。


「まあ、
お久しぶりでございますね」

その女給は、
この店での古顔だった。


「あれからずっとお見えになりませんでしたわ。
もう一月《ひとつき》ぐらいになりますかしら?」

「そうだな」

結城は、
かすかに笑みを浮かべた。


「忙しいんでね」

「そうだと思っていましたわ」

女は微笑してうなずいた。


「何になさいます?」

「ハイボール」

女は、
結城の傍にそっと寄り、
ささやいた。


「すぐに、
ママを呼んできます」

結城は、
顔色を動かさなかった。
女はカウンターに客の注文をとおし、
そのまま二階に急いで上がった。


しばらくして、
二階からこの店のマダムがおりてきた。
すんなりとした姿は、
洋装がよく似合った。
それもはなやかなデザインで、
派手な顔によく似合った。


「ママ」

と呼ぶ声が、
客のテーブルの方々から起こった。
マダムは、
それに背をかがめ、
笑顔を向けて步いた。
その微笑にも步き方にも多少の気取りがある。


彼女は、
声をかけた客の前に、
時々立ちどまり、
愛嬌を振りまいていたが、
そこにはすわらなかった。


「いらっしゃいませ」

と挨拶して、
腰を落ちつけたのが、
結城の前だった。


「しばらくお見えになりませんでしたわね」

マダムは、
笑っている目を結城に向けた。
客に見せている空疎《くうそ》な愛嬌ではなかった。


「そう」

結城は黙りがちにグラスをなめている。


「お忙しかったんですか?」

「まあね」

「お電話ぐらいいただけるかと思って、
待ってましたわ」

マダムは、
黒い大きな瞳《め》で、
じっと結城の顔を見つめた。


「仕事に追われてね」

結城は、
ぼそりと言った。


「そうだとは思うてましたけれど、
やはりお待ちしてましたわ」

彼女は、
ボーイを呼んで、
自分の酒を命じた。


他の席では、
男と女の笑声が絶えない。
近くのテーブルでは、
マダムを呼べ、
という声がしきりにしていた。


「今夜はどこからのお帰りですか?」

結城がむっつりした顔をしているので、
マダムは、
機嫌をとるように、
笑い声できいた。


「Xだ」

結城はキャバレーの名を言った。


「そう。
あちらへは、
やはりいらしてますの?」

「時々だがね」

結城は短く答えた。
やはり同じ表情で、
煙草をくわえた。
マダムは、
マッチを擦って火をさしだしながら、
「なんだか今夜、
ご機嫌がお悪いようね?」
と、

彼の顔をのぞいた。


「そう見えるのか?」

「ええ。
いつも、
あなたはお静かなんだけど、
今夜は、
なんだか寂しそうだわ」

結城は、
初めて目を動かした。
青い煙を吐いて、
膝を組みかえた。


「なにか、
お気に染まぬことがありましたの?」

マダムは、
まだ見つめていた。


「お酒の召しあがり方もまずそう」

結城は、
鼻先でわらった。


「ねえ、
結城さん」

彼女は、
急に上体を寄せ、
小さな声を出した。


「気の浮かぬことって誰にもあることですわ。
わたしもいまがそうなの」

結城は、
瞳をあげてマダムを見た。
彼女の顔は、
熱い視線を彼に据えて、
笑っていた。


店が終わらないうちにマダムは抜けた。


結城が、
三十分ほどして外に出て、
戸をおろしているレストランの前に步いてくると、

暗いところに、
自動車が灯を消して待っていた。


「会いたかったわ」

マダムは結城の手をとって、
自分の背中にまわさせ、
体をもたれかけた。


酒の匂いがした。


「だって、
長かったんですもの」

いつもの行先であった。
車で、
銀座から四十分かかった。
マダムが電話をかけておいたらしく、
待合の女中が、
車のとまる音を聞いて、
門の外にすぐに出て迎えた。


「お久しぶりでございますわ」

離れに通して、
女中はマダムに挨拶していた。
彼女も、
愛嬌で女中と話している。


「ね、
女中さんも、
そう言ったでしょ?」

二人になって、
マダムは結城を睨むようにした。


酒を運ばせた。


「珍しいのね」
と、

マダムが言ったのは、
その酒が長かったことである。
結城はいつまでも腰をあげなかった。


「何かあったのね?」

これは、
結城がようやく横になってから、
マダムの言ったことである。


「何もないさ」

結城は、
仰向けになって、
煙草をすい、
煙を上に吹きあげていた。
ほの暗い明りのなかに、
結城の横顔が浮いていた。
いつも感じることだが、
整っているだけに冷たくみえるのである。


「うそ」

女は言った。


「何かあったのよ。
お店で、
あなたの顔を見たときから、
そう思ったわ。
何かに気をとられてらっしゃる感じ。
そして、
いらいらしてらっしゃる感じだわ」

結城は、
また煙を網代《あじろ》に組んだ天井に向けて吐いた。


「そう思うか?」

「思うわ」

「違うな。
おれは、
いつも、
こんな顔をしている」

「分かるのよ」

マダムは声に笑いをまじえた。


「わたし、
たくさん、
男の人を見ているから。
今晚の結城さん、
いつものように落ちついてないわ。
それを、
ご自分でごまかそうとして、
こんなところに、
わたしといっしょに来たのね?」

「そんなことはない。
おれは、
いつも同じさ。
きみの勘違いだね」

結城は、
煙草の残りを、
枕もとの灰皿に投げ入れた。


「そう。
そんならいいけど」

マダムは、
別な笑い方をし、
手を伸ばして、
結城の肩に触れた。


「酔った」
と、

結城は言い、
背中を女に見せた。
──一時間ばかりたって、
結城は広い座敷にすわっていた。


卓の上には、
前に飲んだ銚子がならんでいる。
結城は、
そこでも、
ひとりで煙草をすっていた。


「結城さん」

隣からマダムが声をかけた。


「何をしてらっしゃるの?」

「何もしていない。
煙草をのんでいる。
なんだ、
きみは睡《ね》てないのか?」

「眠れる道理はないでしょう?」

床を起きてくる気配がした。


「きみ」
と、

結城は不意に隣に言った。


「きみは、
どこの生まれだね?」

「あら、
へんだわ」

女は、
起きて支度をしているようだった。


「なによ、
急に?」
と、

声だけが返った。


「北陸地方ではなかったのか?」

「あいにくね。
これでも京橋の区役所に戸籍があるわ」

マダムは、
半纏《はんてん》を羽織って、
結城の座敷に出てきた。
化粧を落としたせいか、
顔が神経質そうになっていた。


「汽車の時刻表を持っていないか?」

結城は、
その顔に尋ねた。


「そんなもの、
あるわけないわ。
旅行でもなさるの?」

「この家《うち》にはあるだろう?」

結城は答えずに言った。


「そりゃ、
あるでしょう。
だけど、
もう夜中の三時よ、
誰も起きてやしないわ」

「女中の一人ぐらいは起きているだろう、
電話をかけて、
持って来させてくれ」

「まあ、
およしなさいよ」

マダムは、
結城の非常識を非難した。


「じゃ、
おれが電話する」

結城は違い棚の受話器をはずした。


長いこと、

耳に当てていたが、
先方の声が聞こえたので、
時刻表を持ってくるように言いつけた。


「そんなに、
急なの?」

女は、
結城にきいたが、
彼の返事はなかった。


女中が、
廊下にすわって、
時刻表を畳の端に置くのをすぐにとった。


結城は、
それを開いた。
最初にしたのは、
巻頭にたたんである地図をひろげたことである。


結城は、
それを見つめていた。
それが北陸地方だった。
一つ一つの駅名が、
鉄道線路にうるさく書きこんである。
結城の目つきは、
それを調べていた。


それから、
時刻のページをめくって、
北陸本線.上野着の細かな数字を眺めていた。


「結城さん、
あなた、
ひどいかたね」

忘れられたマダムが、
うらんで言った。



結城庸雄は、
夜九時ごろ、
自分の家に帰った。


石段を上がるとき、
玄関だけに明りがあった。
この時刻に帰ることは珍しい。
日ごろ、
たいてい帰宅が、
夜中の一時か二時だった。
しかし、
彼は、
昨夜、
外に泊まっている。


玄関にあかりがあるのは、
まだ戸締まりのしていないためだった。
高いところにあるこの家の、
そこだけぽつんと明るい。
近所は、
外灯を残して、
ことごとく暗かった。


結城は、
玄関の戸を音たててあけた。


靴を脱いでいるときに、
女中が出てきた。


「お帰りなさいませ」

結城は、
一方の靴を脱いで、
片方の靴の紐《ひも》を解いていた。


「玄関を閉めなさい」

結城は、
うつむいたまま言った。


「はい」

女中は、
この主人におどおどしている。
めったに家に早く帰る主人ではなかった。
いつもむっつりとして口数をきかない。
とりつきにくいのだ。
結城の顔にも体にもそれを感じさせた。
気むずかしい主人だと、

女中は恐れている。


結城が上にあがったとき、
廊下に白っぽいものが動いてきた。
それが妻の頼子だと知った。


「お帰りあそばせ」

結城は、
返事をしなかった。


頼子は、
まだ着替えていなかった。


「いいのよ」

という声を、
結城は背中で聞いた。
頼子が女中を部屋に休ませる声だった。


結城が居間にはいると、

すぐあとから頼子がはいってきた。
彼が乱暴に脱いだオーバーを取りあげて、
洋服箪笥の中にしまっていた。


次に、
着物を持ってきて、
彼の着替えを待っていた。
笑顔ひとつ見せない妻だった。
きちんとした服装のままなのである。


結城は黙ってワイシャツを脱いだ。
その後ろから、
妻は着物を着せた。
たがいに口をきかなかった。


結城は、
昨夜、
外泊している。
妻はそのことをきこうともしなかった。
むろん、
彼も言う気がない。
この習慣は、
二人の間に長いこと続けられてきている。
結城が一週間ぐらいつづけて外に泊まってきても、
何も言わない妻だった。
表情ひとつ変えなかった。
彼女の顔には、
水のような淡泊さがあるだけだった。


頼子は、
結城の脱いだズボンをたたんでいる。
上着も片づけられた。
洋服から女性の香水の匂いのするハンカチが出てきても、
どこかの待合のマッチが出てきても、
いっこうに平気な妻だった。


結城は、
帯を巻きつけながら妻の姿を眺めていた。
膝を突いてズボンをたたんでいる妻を、
自然に結城が見おろす位置になっていた。
そこからは傾いた妻の背中と、

かがみこんだ腰の線があった。


結城は、
妻のその姿を凝視していた。


自分では分からなかったが、
自然にその目つきになったのである。


彼は、
頼子の姿勢を眺めていた。
それは観察するような目だった。
自分の妻を眺める目ではない。


彼の観察は、
頼子のかがんでいる腰部の線から、
ある意味を読みとろうとしていた。
自然に目つきは穿鑿《せんさく》的になった。


彼女は、
ズボンをたたみ、
二つに折って、
掛けた。
立ちあがって、
洋服箪笥にしまう。
そのいちいちの動作のたびに、
体の線が変化する。


結城は、
帯を巻きながら、
それをさりげない顔で見つめていた。


吉岡から聞いた話が、
彼の頭に残っていた。
が、
それを口に出す男ではない。
顔色にも出さなかった。


いまの彼は、
眼前の妻の外形を懸命に穿鑿しているだけであった。


「お食事は、
どうなさいます?」

頼子が顔を向けたので、
夫は目を別なところに走らせた。


「すんだ」

ぼそりと言った。


「はい」

頼子は、
洋服箪笥の戸を閉めた。


普通の夫婦だった。
夫が外から帰ってくる。
出迎える。
ふだん着に着替えるのを手伝う。
脱いだ物を片づける。
そと目には、
少しも変わっていなかった。
が、
この妻は、
日常のそれだけの奉仕しか夫に与えていなかった。
あるいは、
それだけは守っているという印象だった。


「お風呂が沸いておりますが」

頼子が静かな声で言った。
これも結城の耳にはたいそう事務的に聞こえる。


「すんだ」

結城は短く答えた。


すんだ、
という言葉に意味を伝えたつもりだった。
実際、
昨夜も今朝も、
彼はよその風呂にはいっている。
頼子にその意味が分からぬはずはなかった。


しかし、
彼女の表情はやはり変化を起こさなかった。


この妻は、
嫉妬《しつと》を知らなかった。


彼が得体《えたい》の知れぬ外泊を何日間続けようとも、
また、
女と一緒にいた証拠を、
彼の洋服のポケットの中から発見しようとも、
他人事《ひとごと》のように知らぬ顔をしていた。
長い間そうなのである。


結城のほうが、
その場合、
いつもある焦燥《しようそう》と、

圧迫と暴力とを、
自分の意識の中に起こすのであった。


「それでは、
わたしがいただきます」

風呂のことであった。


結城は、
やはり、
返事をしない。
頼子が部屋を去ってゆくのを、
彼は襖《ふすま》や廊下の音で知った。


結城は、
自分の机の前にすわった。
何をするでもない。
煙草を出して、
なんとなくすってみた。


彼は、
漫然と北陸のことを考えていた。
汽車の時間表で知った、
北陸地方の駅名の一つ一つが浮かんでくる。
そこから走ってくる汽車も、
彼の目にあった。
吉岡が話したことである。
若い男だということだった。
頼子がその男を迎えて、
飲食店にはいり、
話しこんでいたと聞いた。


吉岡は、
その目撃した情景を彼に伝えた。
そのとき、
結城は、
吉岡にわざと細かい質問はしなかった。
ただ話を聞いているというだけだったが、
頭の中で、
その話に自分が勝手に質問していたのである。
そして、
彼の想像が、
それに答えていた。
吉岡の前だったので、
いつも他人に見せる結城の習慣として、
さりげない顔で聞いたものだった。


朝の五時すぎという早い時刻である。


普通の交際の儀礼でないことが、
それでも分かった。
相手の男の風貌《ふうぼう》も、
およそのことは吉岡が説明した。
どのような人種かと考えたが、
結城に見当がつかなかった。


妻の一面に、
知らなかった発見だった。


それと、

さっき見たばかりの彼女の体の線を、
結城は考えあわせている。


他人の女を見て、
分析するような観察だった。


それには、
吉岡が話してくれた北陸からきた男の姿が、
彼女の体の線の変化と結合していた。


結城は、
まだ煙草をすっていた。


机の上には、
一冊の本も置いてなかった。
元来、
読書の嫌いな男である。


それで、
彼の視線は、
薄暗い障子のガラスに向けられていた。


彼はある「時間」を考えていた。
それは、
自分の知っていない妻の「時間」

だった。
一週間のうち、
この家に帰って来るのは三日とない彼にとって、
妻がその男と持ちそうな時間はあまりに多すぎた。
結城には、
見当がつかない。


しかし、
ふと、

彼は思いあたった。
彼は頬に指を当てた。
あれはいつのことだったか。
そうだ、
台風のときだ。
たしか、
夏だったように思う。
調べれば分かることだ。


頼子が友だちと一緒に、
一泊旅行でどこかへ出かけると言っていた。
当時、
それは結城も聞いている。
実際、
いつも妻の存在を無視するようにしてはいても、
頼子が二日でも家をあけて行くことは、
彼に解放感を与えた。
彼は彼なりに、
四、
五日、
別な女と暮らしたものだった。


帰宅した時には、
頼子は帰っていた。
当たりまえの話である。
一泊だから、
彼以上に家をあけることはなかったわけだ。


しかし、
あのとき、
頼子は本当に一泊だったのだろうか。
いま、
ふと、

結城の頭にもたげたある疑念は、
これだった。


記憶がある。
結城が、
別の女と一緒にいた夜、
ひどい暴風雨だった。
横にいる女が、
ひどい風と雨の音をこわがったものだ。
あくる日の新聞には、
その台風の被害のひどかったことが出ていた。


その晚、
結城は、
女を抱きながら嵐の音を聞き、
頼子がどこかで困っているのを想像したものだった。
別に気にかけたわけではない。
ただ嵐の音に、
ふと、

旅先にいる頼子のことを瞬間的に考えただけだった。
行先は頼子も別に言わないし、
彼もきこうともしなかった。


結城は、
ここまで考えて、
煙草を灰皿に捨てて、
呼鈴《ベル》を押した。


女中が来た。


「紅茶を入れてくれないか」

その注文した茶が来たとき、
結城は、
女中をすぐに退《さ》がらせなかった。


「おまえ、
覚えてるだろう?」

結城は女中に話しかけた。


「いつか、
奥さんが、
旅行に出かけたことがあったね。
この夏の末ごろだったと思うが、
ほら、
台風が来た時さ」

女中は、
三十ぢかい女だった。
結城の前にたえずおどおどしている女である。
このときも、
あかい顔をして下を向いた。
考えているのか、
すくんでいるのか分からなかった。


結城は、
できるだけ、
やさしい声を出した。


「思いだしただろう。
奥さんはめったに旅行などしない人だ。
おまえ、
留守を頼まれたはずだったね」

結城はその女中をのぞきこんだ。


「はい」

やっと返事が得られた。


「そうか。
思いだしたかい。
あの時は、
奥さんは一晚泊ったかね? 二晚だったかね?」

「二晚だったと思います」

これは女中が即座に答えた。


「そうか、
二晚だったか」

結城は、
表面、
満足そうな顔をした。


頼子は、
あの時、
確かに一泊旅行だと言った。
結城が帰宅した時も、
それは当たりまえのこととして、
何もきかなかったし、
頼子も報告をしなかった。


が、
今、
女中ははっきり二晚だと言うのである。


「間違いないだろうね?」

念を押した。


「はい」

女中は、
はっきりとうなずいた。


「そうか」

結城は、
新しい煙草を口にくわえ、
次の質問を考えた。


「奥さんが」

結城は、
煙を吐いて、
女中にきいた。


「うちに帰ってきた時は、
何時ごろだったかね」

「四時ごろだったと思います」

女中は考えた末に、
低い声で答えた。
やはり顔を伏せたままだった。


「そうか」

これほど女中に話しかけたことも珍しい。
結城は続けた。


「その時、
奥さんに何か変わったことはなかったかね? いや、
おまえの言うことをおれが聞いておくだけだ」

これは、
絶対妻には何にも話さないことを女中に約束したのであった。


「変わったことと申しますと?」

女中は、
細い声を出してききかえした。


「いや、
ふだんと変わったことという意味さ、
おまえ、
気づかなかったか?」

女中は、
いよいようつむいた。
考えているのだ。
いつも、
ぶっきらぼうな主人が、
意外にもやさしい声で話をしてくれるので、
とまどう一方、
ひどく心を動かされたふうだった。


「そうおっしゃいますと……」

女中は、
すこし顔をあげ、
思いだしたように言った。


「お帰りになった時に、
お召物がたいそう汚れておりました」

「ふむ?」

結城は、
煙を急いで吐きだした。


「どういうのだね?」

「お召替えのお洋服は、
別にスーツケースに入れて持ってらっしゃいましたが、
それが泥まみれになっていたんです。
そして、
ひどく雨に濡れていました。
あとでわたくしがざっと手入れして、
クリーニング屋に出した覚えがございますけれど」

結城の頭には、
たちまち台風のことが浮かんだ。
洋服が濡れたとすると、

戸外であろう。
傘はあっても役立たなかったはずだ。
そうか。
頼子は、
そのとき、
家の中にはいなかったのか。


すると、

それは人家のない場所に、
彼女がいたことになる。
しかも、
あの台風の通過した区域のどこかに、
頼子が彷徨《ほうこう》していたのである。


むろん、
一人ではないはずだ。


結城は、
雨の中、
彼女のそばに步いているもう一人の人物を想像した。
場所も人家のないところなのだ。


朝の五時すぎに、
頼子が上野駅に迎えにいった人物のことが、
すぐに胸にきた。


結城は、
女中を去らせた後も、
しばらく考えていた。


机の前から立ちあがったのは、
なんとなく落着きを失ったからである。


彼は廊下に出た。


どこかで、
かすかに水を動かす音が聞こえた。
浴室の方である。


結城は、
その方に步いた。
なぜ步いたか、
彼には分からなかった。
珍しいことだが、
この時、
結城の行動は、
自分の意思を決めていなかった。


浴室のドアには内側から灯が映《うつ》っている。


結城は、
それを押した。
洗面所と浴室の間には、
もう一枚のドアがあったが、
湯気の匂いがそこまでしている。


結城は黙って洗面所の水を出し、
コップに受けて飲んだ。


その時、
間のドアが開いた。
ドアのガラスは曇っていた。
明りが濡れている。
開いたドアの隙間から、
白い湯気が流れて出た。


手洗場は、
脱衣場と隣りあっていた。
頼子の着物が乱れ箱に脱がれている。


開いたドアから、
湯気と一緒に頼子が出てきた。
洗面所の電灯は、
結城の癖で、
わざとつけなかった。


頼子のほうでは、
水の流れる音を聞いたが、
これは女中と思ったらしい。


夫がそこにいるのを見て、
急に、
バスタオルを胸に当ててすくんだ。


湯気は光線を明るくふくんでいる。
曇り日の太陽のような光が、
頼子の背中から当たっていた。
白い湯気の靄《もや》の中にかがんだ彼女の体が、
にぶい光ににじんだ。


結城は、
手を洗い終わって、
妻を眺めた。
大胆な目が、
自分の妻の肩から下にすべった。
この時も夫の目ではない。
そこには、
一人の女を観察する男の凝視があった。


「あちらにいらして」

頼子は、
いつになく佇んでいる夫に言った。


彼女の白い肌から、
湯気が炎のように光の中に揺れていた。
これはすべて逆光だから、
美しい立体感を目に与えた。


結城は、
黙って手を拭いた。


ドアを鳴らして廊下に出たのは、
その後である。
彼の目の中には、
白い肩と腕が残っていた。


部屋に戻った。
ズボンをたたむときの、
着物の上からの妻の腰部の線と、

今、
光線の中に白く浮いた彼女の肉体の線とを考えていた。


結城は、
妻の二泊の行動を思索している。
それと、

上野駅の男のことが、
頭の中で重なった。
その男が妻の体に与えた線の変化のことである。


結城は、
机の前で、
しばらく煙草をすった。
思考が、
ひとところに落ちつかなかった。
気持の動揺でもあった。


妻の体の線に変化があったか。
結城は、
自分の目の記憶の中で、
それを確かめている。


しかし、
彼は、
すぐにそれを妻に詰問する意思はなかった。
彼の考えは、
もっと別なところからそれを確認しようと計画している。


それから二時間後には、
結城は、
のっそりと步いて、
妻の部屋の前に立った。


ノックをした。


このようなことは、
二年間、
無かったことである。
隔絶された夫婦関係は、
結城をまったく別な女の部屋の前に立つ意識にさせた。


ノックを二回した。


妻が起きていることは分かっていた。
寝室で呼吸《いき》を詰めている様子がドアを越して感じられた。


返事があった時の用意が、
結城にあった。
物を忘れたから取りにきた、
という理由である。


しかし、
三度目に扉を叩いても、
妻の返事はなかった。


結城は、
廊下を帰った。
背が高いし、
いつも周囲を無視している男だったが、
彼は、
寒い風と、

蒼白い炎とを感じていた。


結城は、
この間、
頼子が別れたいと言いだしたことを思いだした。


これまで、
その話は、
頼子から何度か持ちだされた。
結城は、
そのたびに知らぬ顔をしていた。


自分のしていることを、
頼子が気に入らないのは承知だった。
結婚した当初に、
頼子がその失敗に気づいたことも、
結城には分かっていた。


結城が意地になったのは、
そのときからである。
妻に愛されもせず、
尊敬もされていないと分かると、

自分の気持の方向を失った。


勝手なことをしようと思いたったのは、
そのころからである。
女のことだけではない。
生活の方法も、
潔癖な頼子が嫌う、
暗いものだった。
わざと頼子が嫌うように、
自分で自分をしむけたともいえる。
性根《しようね》は、
頼子を愛していただけに、
これは空虚だった。
それを埋めているのが意地みたいなものと、

刹那《せつな》的な愉楽《ゆらく》であった。


頼子から、
別れたいという話があったのを、
横着に無視してきたのは、
彼女を放さないためだった。
頼子の中に、
古風な倫理のあるのを彼は知っていた。
夫が承知しないかぎり、
勝手に逃げることのできない女だと信じていた。


が、
今度は違っていた。


──そうか。
好きな男ができたのか。


結城は、
暗い空間を眺めてすわっていた。



結城は、
ひる前に起きた。


「ずいぶん、
お寝坊ね」

女は、
トーストを焼いて、
ミルクをそえて持ってきた。


結城がこの家に来たのは、
昨夜、
おそかった。
飲みすぎて、
ついふらふらと、

自動車《くるま》で乗りつけたのである。
当分、
来ないつもりだったが、
酔ったあげくに迷いこんだようなものだった。


女は喜んでいた。
が、
結城は、
家にはいるなり、
そのまま丸太棒を転がしたように寝ころんでしまった。
布団の上で女がワイシャツやズボンを脱がしたのを、
かすかに覚えている。
目が覚めるまで何も知らなかった。
結城は、
不機嫌そうにトーストをかじった。


「今日は、
ごゆっくりでいいんでしょ?」

女は、
そばからさしのぞいた。
朝から濃い化粧をしているのは、
昨夜、
目も開けなかった結城に、
今朝、
顔を見てもらうためだった。
着物も派手なのに着替えている。


「そうもしていられない」

結城は、
ぼそりと答えた。


「すぐ出かけるよ」

「あら」

女は睨んだ。


「では、
今夜のご都合は?」

「ここに寄らないだろうね」

女は、
はい、
と言って、
お絞りを渡した。


「近ごろ、
全然、
お見かぎりね?」

「そうでもない。
忙しいからな」

「昨夜、
どこで飲んでらしたの? まるで石を置いたみたい」

結城は返事をしなかった。
やはりむっつりとしている。
手をタオルで拭くと、

乱暴にそれを投げて、
立ちあがった。


「お出かけ?」

女は諦めた。
しゅんとした顔つきになったが、
結局、
男の支度を手伝った。


「はい」

きれいにたたんだ新しいハンカチを出して、
「おズボンのハンカチは、
洗濯しておきましたわ。
口紅がいっぱいよ。
どこでしたの? 昨夜は」

結城は表情も変えず、
返事もしない。
ネクタイの締め具合を、
鏡に向かって試していた。
冷たい表情なのである。
女は、
その顔を熱っぽい目で見つめた。


「わたしもごいっしょに行くわ」

返事がなかった。


「いいでしょ? 銀座まで」

結城は、
ああ、
と口の中で言った。


女は、
急いで、
支度をしなおし、
女中に言いつけて、
ハイヤーを呼ばせた。


結城はまだ蒼い顔をしている。
車の内でも、
顔をしかめて、
口をきかなかった。


「毒だわ」

女は、
彼の手を握って、
袂《たもと》の下に隠した。


「深酒、
もう、
およしなさいよ」

結城は、
女の手を振りほどいて、
ポケットから煙草を出した。
相変わらず、
機嫌がよくない。
青い煙を吐いて、
ぼんやりと、

流れていく景色を眺めている。


「会社にいらっしゃるの?」

「さあね」

初めての返事だった。


「どこに行こうかと考えている」

「いやアね、
昨夜の女のところ?」

結城に、
反応はなかった。
目も動かない。
女はじれたように、
結城の体に自分をすりよせると、

「ねえ」
と、

ささやいた。


「今夜、
来てくださるでしょ? つまんないわ。
だってずいぶん放っておかれてるんですもの」

結城は、
肘でそれを静かに押しかえした。


「だめだろうね。
遊びたかったら、
きみの自由にしていいよ」

女は指を伸ばして男の煙草を抜くと、

口にくわえ、
やけにマッチを擦った。


車は銀座の通りにはいった。


「お願い」

女は負けた。


「ごいっしょにお茶でも飲んで、
お別れしたいわ。
つきあってくださる?」

彼女は、
男の顔を下から媚《こ》びるように見上げた。


「うん」

仕方なさそうな返事だった。


車を降りると、

女が結城を誘って喫茶店にはいった。
十二時過ぎている。


「おコーヒーになさる? それともお紅茶?」

女は自分の気持を引き立たせていた。


「どっちでもいい」

結城の表情も声も鈍かった。
二、
三度、
欠伸《あくび》をした。
目がまだ冴えていなかった。


思いだしたように時計を見て、
店内で電話のある場所に立った。
かけた先は、
自分の事務所である。
出たのが女の声だった。


「ぼくだがね、
何かあったかい?」

「おはようございます」

女事務員は、
きれいな声で挨拶した。


「たった今、
岩村さまからお電話がございました。
至急にお話ししたい用件があるので、
ご連絡ねがいたい、
とのことでございましたが」

事務員は、
電話番号を言った。
その番号は、
結城も知っている家である。


「分かった。
それだけかね?」

「はい、
ただいまのところ、
それだけでございます」

一度、
切って、
結城は、
別なところにかけなおした。
今度も女の声だった。


「結城です。
奥さん、
いますか?」

「はい、
ただいま」

女中の声は、
別の女に変わった。
今度は、
少し嗄《しやが》れた声だった。


花柳界の女によくある、
あの咽喉《のど》のつぶれたような特徴のある声だった。


「あら、
結城さん? 待ってましたのよ」

女は、
いきなり言った。


「しばらくでした。
どうもすみません」

結城は答えた。


「ほんとにしばらくね。
どう、
相変わらずなの?」

「商売ですか?」

「バカね。
商売なんかあたしに分かんないわ。
あっちの方よ。
ご発展でしょ?」

「さっぱりですよ。
ところで、
土井《どい》さんはいま……?」

「たった今、
出かけたばかりなんです。
でも、
結城さんからお電話があったら申しあげてくれってことづかっていますわ。
今夜、
七時から赤坂の『梅川《うめかわ》』で、
ぜひお目にかかりたいんですって。
とても緊急な用事なので、
結城さんにぜひご都合つけていただくように言ってました」

「分かりました。
うかがいます」

「そう、
ありがたいわ。
ねえ。
結城さん。
あたしも土井といっしょにまいりますのよ」

「そうですか」

「結城さんの顔をしばらく見ないから、
たのしみだわ」

「ぼくも久しぶりですね。
では、
いずれ」

先方は、
まだ何か話したそうにしていたが、
結城のほうで先に切った。


卓に帰ると、

女は、
紅茶の茶碗を口から離してじろりと見上げた。
強い光がこもっていた。


「どこかの女のところに、
お電話なさったのね?」

結城は、
夜七時、
赤坂にいった。
料亭は静かな通りの中にあった。


女中の案内で、
奥まった部屋に行った。
襖の外に、
スリッパが二足、
きれいに揃えてある。


「どうぞ」

内にはいると、

床を背にして大きな男がすわっていた。


その横には、
細い女の顔がならんでいる。


男は、
頭が禿げていた。
ずんぐりしているから、
全体が大入道の感じだった。
これが、
すわったところから結城を見上げて、
大きな口で笑ったのである。


「ようこそ、
さあ」

結城の席がその横につくってあった。


「しばらくでした」

結城は、
その男に挨拶し、
横の女に目を移した。
和服の似合う女だったが、
着付が素人ふうではなかった。
白い細い顔で、
結城には目もとを笑わせて頭をさげた。


女中が二、
三人はいっている。
結城の来る前に、
先客と賑やかな話がかわされていたようだった。


男は、
血色のいいあから顔だった。
六十というのが本当の年齢だが、
三つは若く見える。
顔の皮膚に、
拭きこんだような艶があった。


「ご苦労でした」

先方は、
結城に会釈して、
杯を出した。


世間話が賑やかにしばらくつづく。
渋い和服を着た大きな男は、
場なれしていて、
女中たちにも如才がなかった。
太い声を出し、
笑うときは、
はじけるようにそれが高いのである。


その名前は、
土井|孝太郎《こうたろう》と言った。
弁護士という肩書が、
一応ついているが、
実際は、
官庁に自由に出入りの利く、
顔の広いボスだった。
つまり、
官庁関係と業者との間に介在している斡旋《あつせん》的な顔役なのだ。
どこの官庁にもかならず存在する人物なのである。
彼は大臣とも親しかった。
次官とも局長とも友だちのような口をきいた。
実力のある代議士連中に対してもそうなのである。


電話で名のった岩村は土井の変名である。


横の女は彼の愛人だった。
まだ二十四、
五の年恰好だったが、
細面で華奢《きやしや》な体つきをしている。
芸者をしていたのを、
土井が引かせて、
世話しているのだった。
彼女は、
細い目と小さな唇をしていた。
着ている着物も贅沢なもので、
女中連は話しながらも、
目が自然とそれに走るのである。


土井と結城との間に、
世なれた雑談がかわされた。
結城が杯を五、
六杯口に運んだころ、
土井が女中たちを笑いながら見まわした。


「少し内緒話があるんでね、
悪いが、
きみたち、
ちょっとはずしてくれないか」

女中たちはかしこまった。


「おまえも」
と、

土井は自分の女にも顔を向けた、
「どこかで遊んでいてくれ」

女は、
うなずき、
ちらりと、

結城を見た。


「はいはい、
分かりました」

女中もその女も去った。
あとには二人だけとなった。


「結城君」

土井のほうから大きな体を動かして、
結城のそばに寄ってきた。


「ちょっと困ったことができたのでね、
急にきみを呼ぶことにした」

今まで野放図に屈託のない笑いをつづけていた土井が、
むずかしい顔になり、
低い声で言いだした。


「なんですか?」

結城は杯をおいた。


「いや、
きみ、
吉岡が挙げられたんだよ」

「ええっ、
吉岡君がですか?」

「知らなかったんだね。
昨日だった。
地検の特捜部に任意出頭の形で呼ばれたが、
そのまま逮捕状を出されて、
留置された」

結城は目を据えた。


「本当ですか?」

「本当だとも。
実は、
ぼくも、
昨夜、
それを聞いたばかりだ」

「容疑はなんですか。
まさか……」

結城が言いかけたのを、
土井はうなずいて押えた。


「そうなんだ。
表向きは、
例のことではない。
逮捕状は、
一応、
詐欺《さぎ》の容疑になっている」

「詐欺?」

「むろん、
その体裁で引っぱったのさ。
地検の狙いは、
そんな小さなことではない。
名目だけのことでね。
本当のところは、
例の一件を吉岡の口から吐かせよう、
という魂胆《こんたん》らしい」

結城は黙って聞いていた。
眉の間に皺を立てている。
その表情を、
土井は見まもるように眺めていた。


「どこから、
もれたのでしょう?」

結城は、
息をつめてきいた。


「それは、
ぼくも、
それとなしに探っているがね」

あから顔の土井は、
しかし、
結城ほどに深刻な顔つきはしていなかった。


厚い唇のあたりには、
薄い笑いさえ出した。


「どうも密告らしい」

「密告? どの筋からです?」

結城は、
沈んだ瞳を動かした。


「ぼくの推定だがね、
余分な分けまえにありつけなかった連中からだ、
たぶんな」

ここで、
土井はある有力な代議士の名前をあげた。


「この辺の筋ではないだろうかな。
これは考えられるところだ」

「そうですか」

結城は、
呟くように答えた。


「前から、
ちょっとおかしな動きもあった」

土井は言った。


「やっぱり先生たちはやっていたのだな」

これは、
地検特捜部の検事たちのことを言っていた。


「吉岡は泥を吐くでしょうか?」

「そりゃ、
吐くだろう」

大入道は、
あっさりと答えた。


「吉岡は、
あれでもろいところがあるからね、
ある程度、
検事におどかされたら、
一部を吐くかもしれない」

「どうします?」

結城は、
土井の顔を正面から見た。


「こちらで手を打つだけのことさ。
検事の狙いは、
吉岡を突破口として、
こちらのほうを先口《せんくち》にやって、
次が、
お役人のほうに立ちむかうという寸法だ。
お役人となると、

これは吉岡あたりよりもっと弱いんでね」

「下のクラスは仕方がないが、
上の方までいきますかな?」

「そりゃ、
いくだろう」

ボスは断言した。


「ただ、
なんとか、
これを局長止まりぐらいにしたいものだね」

「局長といいますと?」

「田沢局長さ。
この線で食いとめたい。
あの男はわりと骨がある。
こいつが崩れると、

えらいところに広がりそうだからな」

「大丈夫でしょうか?」

「まず、
四分六分というとこだな。
検事がわりと強硬なんでね」

「なんという検事です?」

「主任は石井検事で、
その下に若い検事がついている。
待て待て、
確か、
名前を書きつけといたはずだ」

土井は、
腹の突き出たふところを探って、
手帳を出した。
ぎっしりと書きこんである黒皮の手帳で表紙がぼろぼろになっていた。
彼は眼鏡をだし、
鉛筆で書きつけて写した紙をくれた。
結城がそれを手に取ってみると、

文字は、
石井、
小野木、
と走り書きしてあった。


「ぼくは、
できるだけ手を打ってみる」

ボスはメモを眺めている結城の耳にささやいた。


「少々、
手づるもあるんでね。
ところで、
この石井のほうはだいたい分かっているが、
若いほうの検事は、
皆目《かいもく》、
どんな男か見当がつかない。
とにかく若い連中は先走りしすぎるんでね。
この小野木という検事を、
少し調査をしておいたほうがいいと思う」

結城は、
それにうなずいて、
メモを破り、
火鉢の中に入れた。
小野木、
と口の中で呟いて記憶に刻んだ。
紙は青い煙を立てていたが、
すぐに炎に変わった。
メモはよじれながら焦《こ》げた。


「だいたいのところは、
こういうことでね。
とにかく、
今のところ、
どういうことになるか、
ぼくにも様子が分からん。
まず、
今の情報だけ、
とりあえず、
きみに承知してもらったわけさ」

「わかりました」

結城はうなずき、
灰になった紙を火箸で崩した。


「女たちを呼ぼう」

土井は、
布袋《ほてい》のような体を後ろに反《そ》らせて、
ブザーを押した。


結城が手洗から出て、
廊下を通っていると、

急に、
曲がり角から女が出てきた。
土井の女である。
偶然に出会った恰好だった。
女はそこに立って、
步いてくる結城を迎えるふうだった。
細い顔なので、
豊かにふくらませた髪が重そうだった。
土井の好みか、
着物も帯も万事が派手である。
女は、
結城に笑いかけた。


結城は黙礼した。


「これ」

女は、
急に、
袂からハンカチを出した。
薄い桃色の縁のあるものだったが、
それをわざわざ広げて、
結城の手の上にのせるようにした。


「すみません」

結城は、
指を軽く拭いた。
強い香水の匂いが漂った。


「ありがとう」

返そうとした時、
女がつと寄って、
結城の小指を堅く握った。


結城は、
女の細く通った鼻筋を見つめた。
女は、
こぼれるように目で笑っている。


小指を握って放さない女の手は冷たかった。
ハンカチが、
からみあった指の上に蔽《おお》うようにかかったままである。


「土井さんが来ますよ」

結城は、
普通の声を出した。


「大丈夫よ」

女は、
紅い唇から歯をのぞかせた。


「ずいぶん、
お目にかかってないわ。
相変わらずなんでしょ?」

「何がです?」

「あちらのほうよ。
お噂、
聞きましたわ、
吉岡さんから」

「冗談でしょう」

「冗談なもんですか。
憎い人ね」

廊下には女中も通らなかった。
横が座敷になっているが、
客がいないのか、
障子は灯がなく暗かった。
一方がガラス戸になっていて、
この家の自慢の庭に、
蒼白い光の照明が当たっていた。
植込みも、
芝生も、
石も、
灯籠も青色ガラスをはめているようだった。
灯籠の笠の上に、
まくれた小さい葉が二、
三枚たまっている。


「土井さん、
どうですか?」

「いやあね。
そんなことをきいて」

女は、
肩をひねってみせた。
そんなところは彼女の前身がまるで出ていた。


結城は、
小指を彼女の手から抜いた。


「風邪《かぜ》を引きますよ」

彼は言った。


「部屋の話はすみました。
土井さんが呼んでいるはずです」

「結城さん」

步きかけた彼の後ろから、
女は呼んだ。


「今度、
一度っきりでも会ってくださらない? お話ししたいことがあるんです」

結城は、
女を見返した。
彼を見つめている目に光が点じていた。


「さあ」

結城は、
曖昧に答えた。


「土井さんに悪いでしょう」

「分からないようにするわ」

と言ったのは、
結城の腕のところにきて、
ささやいたのである。


「時間の都合は、
あたし、
結城さんに合わせますわ」

女が急いで離れかけたのは、
廊下に足音がしたからである。


「待っています」

これは、
女が最後に投げた言葉で、
そのまま豪華な帯を見せて反対の方に向かった。


結城が座に戻ったとき、
太ったボスは、
女中たちと、

賑やかに笑いを起こしていた。


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