1 結城が土井に呼ばれたのは、 あくる日の二時ごろであった。 ちょうど、 ビルの事務所にいたとき、 電話がかかってきた。 「結城さまでいらっしゃいますか?」 最初は、 女の声だった。 そうだ、 と言うと、 「少々お待ちくださいまし」 今度は太い声に変わった。 「土井だ。 昨夜はどうも」 と、 先方で言った。 「失礼しました」 最初に、 結城が感じたことは、 土井がどこかの家から電話していることだった。 はじめに出た女の声の感じで分かる。 それは当たっていた。 「急に、 きみに連絡したいことがある。 電話ではちょっと言えないことでね。 悪いが、 すぐに来てくれないだろうか?」 「どちらです?」 土井は、 ここで築地《つきじ》のある待合の名前をあげた。 「分かりました」 「すぐ来てもらえるかね?」 土井は急いでいた。 結城が知っている土井としては、 珍しいことだった。 「すぐうかがいます」 電話を切って、 結城は煙草を取りだした。 なんの用事で呼びつけるのであろう。 最初、 頭にきたのは、 例の事件のことだった。 突発的なことが起こったのかと思った。 それ以外には、 土井があんなに急いで呼ぶ理由がない。 ふと、 結城は土井の女のことを考えた。 あの女は、 以前から、 結城にいろいろと誘いを向けている。 もと、 柳橋から出ていた妓《こ》で、 ある実業家の女だったが、 旦那が没落して別れ、 土井が拾ったのである。 もとから浮気の方面では慣れた女だし、 旦那の土井だけでは、 飽《あ》いてきているのであろう。 その女のことが頭をかすめたが、 まさか、 土井がそれで自分を呼びつけたわけではあるまい。 事務員が書類を持ってきた。 彼は、 内容をろくに見もせずに判コをおした。 どうせ、 今やっている表向きの商売はたいしたことはなかった。 儲かっても損をしても知れているのである。 ただ、 このビルに事務所を持つ必要上、 その営業の体裁にしていた。 結城は立ちあがった。 女の事務員がすぐにオーバーを取って、 後ろから着せた。 「出てくる」 結城は、 事務員たちに言った。 「あの、 今日、 お帰りになりますか?」 女の事務員が、 遠慮そうにきいた。 この女はまだ若かった。 「帰れないだろう」 結城は、 事務員たちがおじぎをする中を、 ドアをあおって廊下に出た。 エレベーターで下に降り、 賑やかな店舗の並んでいる間を外に出た。 昼でも電灯のついているビルから外に立つと、 陽がまぶしいくらい明るかった。 主人の姿を見て、 駐車している自動車《くるま》がすべってきた。 「築地」 結城は、 運転手に土井から聞いた待合の名前を言った。 そこは、 そのような構えの家ばかり並んでいる一郭だった。 人通りはあまりなく、 どの家の塀も昼間は妙にうらぶれて見えた。 結城は、 指定された家の玄関に立った。 昼間の待合というものは、 どこかはかなく、 白々《しらじら》としている。 奥から少女が出てきたが、 これも妙にだらしなく見えた。 結城の名前をきいて、 奥にはいったが、 「おかあさん」 と、 呼びたてる声が聞こえた。 女将《おかみ》がかわって出てきた。 この家は、 昨夜、 結城が土井と会ったところではない。 土井はあれからおそく場所を変えて、 この家に来たものらしい。 そのまま残っているのである。 「いらっしゃいまし」 太った女将がおじぎをした。 この世界特有の感じの女で、 精彩ある夜の顔とはまるで違う。 昼寝でもしていた後のような腫《は》れぼったい目つきだった。 「お待ちかねでございます」 結城は、 そのあとに従った。 昼下がりの待合の中ほど侘《わび》しいものはない。 埃《ほこり》を感じさせるくらいだった。 廊下を步いていて、 家の中も中庭も、 静かな廃墟といった感じだった。 奥まった部屋の前まできて、 女将が膝を突いた。 「お見えでございます」 おう、 という声があった。 結城は、 あの女もいっしょかと思っていたが、 障子をあけたとき、 土井が一人で酒をのんでいた。 客を迎える用意があったのは、 床柱の前をあけて座布団が敷いてあることだった。 間に炭火のおこった火鉢が置いてある。 土井も太った体に、 ちゃんと羽織をきている。 山がすわっている感じであった。 「さあ、 どうぞ」 土井は、 大きな掌《て》を出して、 客を請《しよう》じた。 「昨夜は失礼」 結城が席につくと、 「失礼。 わざわざ、 どうも」 と、 土井も彼を呼びつけた詫《わ》びを言った。 女将が障子を閉めて廊下を去ると、 「電話よりも」 土井が話しだした。 「やはり直接に会って話したほうがいいと思ってね」 土井は、 まず結城に杯を持たせた。 自分で酌《しやく》をしてやってから、 結城のほうにかがみこんだ。 「実はね、 少しまずいことになった。 いや、 例のことだがね」 頭の禿げたボスは、 低い声になった。 「R省の××課から、 とうとう検察庁にひっぱられる奴が出てきたのだ」 「誰です?」 結城は、 目を大きな男の顔に据えた。 「いや、 今のところたいした者じゃない。 係長が一人だがね。 まだ逮捕にはなっていないらしい。 任意出頭の形だがね、 だが、 これはすぐに逮捕状が出るだろう」 土井は、 悠々と話した。 「その係長は誰です?」 結城は名前をたずねた。 「中島《なかじま》だ。 ほれ、 きみも知ってるだろう?」 結城はうなずいた。 「ああ、 あの男ですか」 「たいした人物ではないがね。 しかし、 検察陣の狙いは、 そういうところから、 上に傍証《ぼうしよう》を固めようとしてるわけだな。 次は、 杉浦《すぎうら》だろうね」 土井は、 課長補佐の名を言った。 その次には、 課長、 部長の名前を並べた。 「検察庁の狙いは、 この辺から局長の田沢におよぼうとしている。 まあ、 ここのところが向こう側の本命だろうな」 「田沢局長までいくと、 これは、 えらいことになりますね?」 「そうだ。 たいへんなことになる。 ここまで来ると政界に飛火していく。 大臣だって危ないぜ」 「そのほうの手当は、 あれから出ているんですか?」 「きみが知っていることよりも、 はるかに大きい。 これは例のほうから金を集めさせて撒いているがね」 「検察陣はどこまでつかんでいるんでしょう?」 「この辺までは知っているだろうな。 なんといっても、 敵方の密告が詳しく内報しているにちがいない」 「弱ったですな」 結城は目を遠くの方にやった。 床には、 山水を描いた掛軸がかかっている。 南画めいた奇怪な山岳の形を、 彼はぼんやり見つめていた。 「検事連中のほうはどうなんです?」 結城は目を土井の上に返した。 「うん、 そのことだ。 なかなか強硬らしい。 それで、 あんたに来てもらったわけだが、 まず、 これを見てもらおうか」 土井は、 ふくれたふところから紙を出した。 それはリストになっていた。 石井芳夫《いしいよしお》昭和十八年、 高文合格。 二十年、 検事任官。 名古屋地検所属。 二十三年、 岐阜地検。 二十五年、 富山地検。 二十八年、 新潟地検。 三十年、 津地検。 三十一年、 東京地検。 横田忠一《よこたただいち》昭和二十七年、 司法官試験合格。 二十九年、 浦和地検。 三十二年、 熊本地検。 三十四年、 東京地検。 小野木喬夫《おのぎたかお》昭和三十二年、 司法官試験合格。 三十四年、 東京地検。 「東京地検特捜班の連中さ」 土井は注釈をつけた。 「まず、 敵を知っておく必要があるからね」 「なるほど」 結城は、 紙に書かれた名前を自分の手帳に写した。 石井、 横田、 小野木としるして、 メモのとおりにその略歴を書いた。 石井も小野木も前に聞いた名前である。 「この石井という主任が、 なかなかの硬骨漢でね。 いったい、 その履歴でも分かるとおり、 今までの步いたコースがわりと不遇だったわけだ。 そういう連中は、 何かと肩肘張って融通が利かない。 今までの不遇のせいで、 妙に根性が反抗的なのだ。 だから、 今度の事件もひどく強腰になっている」 土井は説明した。 「次に、 横田という男だがね。 こいつもだいたい、 石井と似たりよったりさ。 久しぶりに東京に帰ってきたんでひどく張りきっている。 第一線の現役としては、 脂《あぶら》の乗った盛りだ。 こういう手合いが、 いちばん危ない」 土井は、 最後に言った。 「小野木という男だがね、 これは、 まあ、 新米だし、 すべて二人の上司の指揮を仰いで捜査に当たる、 というところだろう。 まあ、 たいしたことはない。 だいたい、 ぼくが調べさしたのはこの程度だ。 現在、 この連中の趣味というか性格というか、 そういうものを、 調べさしている。 まもなく分かるはずだ。 分かったら、 きみにすぐ連絡するよ」 「分かりました」 結城は答えた。 これまで、 土井のやり方として、 相手方の性質に応じて手を打ってきたことを知っている。 「それはそれとして、 これは事前に、 なんとかしなければいかん」 ボスは言った。 「ぼくは、 この人にすぐに当たりをつけるつもりだ」 土井は、 紙の端に鉛筆で名前を書いた。 それは、 ある政党の実力者の数人だった。 「しかし、 彼らだけではちょっと心細い。 そこで、 きみのほうもひとつ工作してほしいのだ。 例の人とはやはり連絡があるかね?」 「やってみます」 と言ったのは、 結城が常に何かとコネをつけている、 ある代議士だった。 「ぜひ、 そうしてくれたまえ」 ボスは言った。 「まあ、 われわれが、 心配するほどのことはなかろう。 ことに、 ぼくのほうが頼んでいる人は、 検察庁にも、 抑えの利く男だからね」 「それは分かります」 結城は同意した。 「が、 それだけでは手薄だ。 とにかく、 これが綻《ほころ》びると、 えらいことになりそうだ。 いや、 あの連中がひっぱられたり、 監獄にはいるのはかまわないがね、 こちらの商売ができなくなるのが困る。 万全の手を打つのに越したことはない」 土井は、 厚い唇をあけて笑った。 「そこで、 きみにもぜひ、 工作を頼みたい」 「分かりました。 できるだけやってみます」 「ぜひ、 頼みます」 話は、 そこですんだ。 が、 思いだしたように、 ボスはつけ加えた。 「そうだ、 検察庁の方の調査が届いたら、 すぐにきみのほうに回すことにする。 そのときは使いを出すよ」 「いつごろになるでしょう?」 と、 結城が言ったのは、 自分がいつも事務所に不在であることだった。 「そうだね、 明日の午後は確実だろう」 結城は事務所で待つ、 と言った。 「ところで、 土井さん。 なんです? 今ごろから」 結城は、 土井がこの家に昼間から停頓《ていとん》している意味をきいた。 「なあに、 少々、 都合があってね」 土井はいった。 「あいつが」 と言ったのは、 自分の女のことである。 「放さないのでね、 とうとう、 この始末だ。 もっとも今夜はまた、 別な人間を呼ぶことにしている」 翌日、 結城庸雄が、 土井から連絡を受けたのは、 彼が予告したとおりだった。 隣の低い屋根のうえに落ちているビルの影が長くなりかけた二時過ぎだった。 「社長、 岩村さまからでございます」 女事務員が取りついだ。 結城が受話器をとると、 「結城さん」 と若やいだ女の声が聞こえた。 「あたし。 分かるでしょ?」 結城は、 土井の女とすぐに知った。 「分かります」 「一昨夜《おととい》は、 うれしかったわ。 今、 このビルの下にいますのよ。 土井が手紙を届けてくれって言ったので、 あたし、 使いにきたの」 女の声は弾《はず》んでいた。 「すぐ降ります。 そこに喫茶店があるから、 待っててください」 結城は抑揚《よくよう》のない声で答えた。 「そう。 早く降りてね」 結城は、 帰り支度をさっそく始めたが、 思いなおして、 そのまま廊下に出た。 外出着だと、 あの女にからまれそうだった。 喫茶店は、 ビルの地下室にあった。 結城がはいっていくと、 客はまばらだった。 場所柄ふだんからあまり繁昌《はや》らない店である。 土井の女は、 彼がはいってくるのをすぐに見つけやすい場所にすわっていた。 入口に真向かいなのである。 今日の彼女は盛装で来ていた。 白っぽい地の着物に派手な柄が、 裾からはいあがっていた。 帯も華美なものである。 横の椅子の上には、 脱いだピンクのモヘアのショールがふくらんでうずくまっていた。 結城が女の前の椅子に腰をおろすと、 彼女はうれしそうに笑った。 「一昨夜はどうも」 女は、 軽く頭をさげて、 にっと笑った。 「いや、 こちらこそ」 結城は、 わざと女の顔を正面から見て、 感嘆してみせた。 今日は特別の念入りで、 厚い化粧に強いアイシャドーさえ、 まぶたに塗っていた。 昼間から、 まるで夜会にでも行くような恰好は、 この女の教養の程度をむきだしにしていた。 ただ、 面会に来ただけの用事なのである。 「ずいぶん、 きれいですね」 これを皮肉とは取らないで、 女は正直に媚《こび》のある笑いを顔にひろげた。 見せた白い歯に口紅が薄くにじんでいる。 髪も美容院から出たばかりのようだった。 「似合うかしらね、 これ?」 女は着物のことを言った。 「よく似合いますよ。 それで一段と美しい。 土井さんがご満悦でしょう」 「いやあだ」 女は、 大仰《おおぎよう》に顔をしかめた。 「パパなんかに見せたくないわ」 「だって、 みんな土井さんのお見立てでしょう?」 「ううん、 パパなんかには分からないわ。 全部あたしが選んだの」 女は、 自分の趣味をひけらかした。 「でも、 結城さんにほめていただいて、 うれしいわ」 彼女は、 上目づかいに結城に瞳を据えた。 「いや、 ぼくにもよく分かりませんよ」 「あんなこと言って。 女のことはなんでも知ってらっしゃるくせに」 「そうでもありませんよ、 近ごろは」 結城は苦笑した。 「信用できませんわ。 ずいぶん、 お噂を聞くんですもの」 「デマですよ。 それを信用されては困りますね」 「かまいませんわ」 女はさばさばと言った。 「殿方は、 やっぱり外でモテないとだめですわ。 あたしなんか、 好きな人が、 外でもモテないとつまんないの」 やはりこの女の性格だった。 それで土井が、 彼女に目を細めている気持が分かるのである。 「ところで」 結城はいいかげんなところで切りだした。 「土井さんの手紙をいただきましょうか?」 結城は、 わざと手を出した。 「あら、 すみません」 女は、 ハンドバッグを寄せた。 これも彼女の趣味らしく、 派手なものである。 しゃれた留め金をあけて、 封筒を出した。 「どうも」 結城は、 手紙を受けとり、 封を切った。 中を出した。 それには、 三人の検事の性格や趣味がいっぱい書きこまれてある。 土井は、 かなりな情報網を持っていた。 これだけのことがすぐ分かるのも、 そのネットの広さを思わせた。 結城は、 ざっと目を通しただけで、 いずれ後でゆっくり読むつもりだった。 この女の前で熟読するのは都合が悪い。 彼は、 それを封筒に元どおりにした。 「確かにいただきましたと、 土井さんに言ってください」 結城が、 女の顔に目をもどしたとき、 彼女は、 じっと彼を見つめているところだった。 この凝視は、 結城が手紙を読んでいるときからつづいていたのだ。 「ねえ、 結城さん」 彼女は言った。 「まだお仕事、 おすみにならないの?」 「ええ、 少し残っています」 結城は、 外出支度で来なくてよかった、 と思った。 「すぐ出かけられませんの? 少しの時間だったらお待ちしますわ」 「どうするんです?」 「ごいっしょにその辺を步きません? あたし、 半分はそれが楽しみで来たんです。 残念だわ」 結城は、 丁寧に断わった。 「仕事が残っていますのでね。 この次に」 女の顔に、 あきらかに失望が浮かんだ。 「つまらないわ。 がっかりね」 女はしょげたが、 すぐに顔を上げた。 「ねえ、 結城さん」 と言ったのは、 ささやくような声だった。 「ほんとは、 結城さんに、 あたし、 どこか遠いところに、 連れてっていただきたいの。 パパのほうは、 なんとかあたしが言いくるめるわ」 うるんだ、 あかいような目で、 女は結城をまた見つめた。 2 結城は、 その晚八時ごろ、 自分の家に帰った。 近ごろは、 帰りがときどき早くなる。 自分でそれに気づいたものだ。 もとは、 早くても午後十二時すぎだった。 十時前の帰宅というのはめったにない。 それが、 このごろ、 八時に帰ることになったのだ。 結城が自分で変化に気づいて、 その原因が分からなかった。 「お帰りあそばせ」 玄関に女中が迎えた。 頼子の姿はなかった。 黙って靴を脱ぎ、 むずかしい顔をして奥へ通るのは、 いつもの癖である。 女中が、 後ろからついてきたことで、 頼子がいないことが分かった。 「あの、 お召しかえなさいますか」 女中が居間にはいって遠慮そうにたずねた。 「うん」 むっつりして考えていたが、 「いや、 これでいい」 不機嫌に答えた。 「留守かね」 と言ったのは、 頼子のことである。 「はい」 女中が、 少しうつむいて、 「奥さまは、 六時ごろからお出かけでございます」 と、 小さな声で答えた。 これは、 主人の不機嫌が、 妻の不在に関係がありそうに思えたからである。 「どこに行くと言っていた?」 結城は、 女中の方を見ないできいた。 「学校のお友だちの会があって、 そこに出ると、 おっしゃっていました」 「行先は?」 珍しいことである。 これまで、 結城は妻の行方を、 これほど執拗《しつよう》に女中にたずねたことはなかった。 「品川の方面だとは、 おっしゃっていましたが、 お出かけ先のことは承っておりません」 そうか、 と言ったのは、 口の中である。 ポケットをさぐって、 煙草をすった。 青い煙をゆっくりと吐いた。 そばの女中は、 まだ、 もじもじと立ち去りかねていた。 「よろしい」 結城は女中を退らせた。 彼は、 広縁にある籐椅子の上に腰をおろした。 ガラス窓の外から、 夜の屋根が黒く沈んで見える。 場所が高台なので、 付近一帯を見おろせる位置にあった。 風があるらしく、 黒い木の茂みが動いていた。 女中が静かにはいってきて、 紅茶を運んだ。 結城が動かないですわっている前に、 恐れるように茶碗を置いて退ろうとした。 「おい」 結城は女中をとめた。 「はい」 女中は、 そこに膝をついた。 「奥さんは、 近ごろ、 よく外に出るかい?」 あまりなかった質問だったので、 女中のほうでうろたえていた。 「いいえ」 と返事して、 どぎまぎしていた。 結城は、 それきり黙った。 女中は迷っていたが、 主人の言葉がないので、 そのまま、 足音をしのばせて退った。 結城が考えているのは、 女中が言った言葉だった。 頼子は、 友だちとの会合に行っているという。 これは、 いつか、 頼子が話したことだが、 上野駅に朝早く行ったのも、 友だちを送るためだという。 しかし、 それが、 嘘だと分かってからは、 結城は心の平静さを失っている。 相手の男は誰か、 という謎《なぞ》である。 前に一度、 結城は、 朝五時ごろ上野駅到着の列車を推測して、 北陸方面の時刻表を調べたことがある。 頼子が本当は迎えた人物が、 その方面の人間かと思ってのことだったが、 今、 ふと、 思いついたのは、 頼子が、 自分の留守に二日ほど家をあけた事実だった。 ──どこへ行っていたのか?結城の性格として、 妻にそのような質問のできない男だった。 いつも、 妻には弱みをみせない夫だったのだ。 何かと自分が冷然と妻にかまえる姿勢をとっている。 妻に直接、 どこに行っていたのか、 なぜ、 一日予定を遅らせたのか、 というような詰問めいたことは言えないのである。 これまでの仕方がそうだった。 結城は、 頼子が、 自分から離れていることを知っている。 妻に自分が卑屈になることを、 極度に警戒した。 日ごろから、 妻に取りあわない自分を保っている夫であった。 椅子によったまま、 結城は考えている。 頼子は、 あのとき一泊の予定で家を出た。 その泊まりが二日になっている。 予定より延びた一夜を、 彼女はどこで過ごしたか? いや、 過ごさねばならない事情は、 なんであったか?結城は、 女中から、 頼子が帰ったときに、 スーツケースの中の衣類が、 雨にうたれて濡れていたという話を、 前に聞いた。 それを思いだしている。 頼子は、 旅行先で雨に濡れたのだ。 では、 雨が彼女を引きとめたのか。 それも普通の雨ではない。 風雨の中を彼女が步いたのである。 あのときは、 台風がきたときだった。 結城は、 彼女が留守の間、 いくらか気分が楽になって、 女のところに泊まったことを覚えている。 頼子は、 あの台風に、 どこかで遭《あ》ったのだろう。 そうだ、 頼子が、 帰る予定を一日延ばしたのは、 台風のためである。 なぜ、 その台風が、 彼女を予定より一日延ばさせたか。 頼子の性格として、 一日の予定を二日に延ばす女ではなかった。 台風の中だって帰れる。 それができなかったのは、 つまり、 不可抗力がそれをさせたのだろう。 「不可抗力か」 結城は呟いた。 当時、 台風が鉄道に被害を与えたことを思いだしたのだ。 そうだ、 彼女の帰京が遅れたのは、 汽車の不通が原因だったからだ。 結城は新しい煙草に火をつけた。 疲れたように籐椅子によりかかり、 額に指を当てている。 あの時の台風は、 かなり被害を与えて去った。 東京方面も、 その余波でひどく荒れたが、 電車がとまるほどではなかった。 結城は、 当時の新聞記事を思いだそうとした。 鉄道が台風のため、 どこで切れたかである。 あの台風は、 潮《しお》ノ岬《みさき》の沖合から、 北々東に進路をとり、 相模灘《さがみなだ》から、 東海道《とうかいどう》を横断して、 甲州へ抜け、 東北寄りの日本海に抜けた。 一番、 被害が大きかったのが、 山梨、 長野の両県だった。 確か、 中央線と信越線とが寸断されたはずである。 では、 頼子は、 その方面を旅していたのか。 ここで、 結城は頼子が上野駅で迎えたという北陸方面の「客」のことを考えた。 だが、 北陸では、 少し遠すぎる。 頼子は一泊の旅行で出かけたのだ。 信州や北陸だったら、 一泊で帰れるわけはない。 もっと近いところだ。 鉄道が寸断されて、 しかも、 一泊で東京に帰れる場所というと、 どこだろう。 結城の頭には、 関東一帯の地図が描かれた。 一泊旅行とすると、 田舎だし、 何にも縁故がないところに、 彼女が泊まるわけはない。 普通の都会人のように、 温泉のある土地ではあるまいか。 頼子一人ではないはずだ。 結城はその地図の中に、 温泉地を探した。 東京から一泊で帰れる温泉地。 中央線なら、 甲府の湯村、 諏訪、 松本の浅間温泉などがあるが、 浅間は、 ちと遠かろう。 甲府から分かれる身延線には、 西山《にしやま》、 下部《しもべ》がある。 上越線は伊香保《いかほ》、 四万《しま》、 水上《みなかみ》がある。 そのほか、 鬼怒川《きぬがわ》、 塩原《しおばら》、 福島県の飯坂《いいざか》などがあるが、 東北方面は台風の被害をあまりうけていないので、 線路の切断は、 なかったはずである。 これらは、 一つ一つ結城に思い出のある温泉ばかりだった。 つまりこれまで、 女と行って遊んだ土地ばかりだ。 しかし、 彼の知らない温泉は、 そのほか幾つもあるはずである。 むろん、 小さな温泉地までは知識がない。 結城は、 中央線と信越線に、 一応しぼってみたが、 これという推定はできなかった。 何か、 それらしい手がかりはないか。 結城は、 現在、 いろいろな屈託があるはずだった。 土井から、 ささやかれた例の事件もそうである。 もし、 これが大きくなれば、 彼自身の体は、 危険にさらされることになる。 しかし、 その屈託が遠のくほど、 彼は頼子の足跡に心を奪われていた。 何か、 今の推定の材料になるものはないか。 ──結城は、 体を起こすと、 女中を呼んだ。 「御用でございますか?」 女中は、 古くからいるほうだった。 いつも頼子の身辺を世話している。 その女中は、 普通の用事かと思ってきたのだが、 いつになく結城が微笑を見せた。 「まあ、 そこにおすわり」 と、 畳の上を指さした。 「はい」 女中は、 とまどっている。 こういう言葉を、 今まで、 結城から言われたことがなかった。 「いいから、 そこにおすわり」 結城はすすめた。 自分でも目もとを笑わせている。 日ごろ、 冷たい顔だけ見せる主人だったが、 このときは、 妙に人なつこい表情を向けたのである。 結城自身が、 籐椅子から立って畳の上にあぐらをかいた。 これは、 女中を気楽な気持にさせるためである。 「おまえに話があるんだ。 まあ、 そこにすわれよ」 「はい」 女中は、 ようやくそこに行儀よくすわった。 三十近い女で、 額が狭く、 目の細い善良そうな女である。 「おまえだったね、 いつか、 奥さんが旅行から帰ったときに、 スーツケースの中の着物が濡れていたと言ったのは?」 結城はやさしい声を出した。 女中は何をきかれるかと思って、 ちらりと結城の顔をうかがうように見た。 「そうだったね?」 結城は重ねた。 「はい、 さようでございます」 女中は、 いくらか、 堅くなって答えた。 「ああ、 そうだった。 とにかくね、 そのときの着物は、 雨に濡れていたんだね。 それを、 おまえが手入れしたんだね?」 「はい」 「クリーニング屋に出す前に、 むろん、 おまえのほうで、 それを始末したんだろう。 誰がしたのかい?」 「わたくしでございます」 「そう」 結城は、 ここで、 しばらく黙った。 煙草に火をつけてすった。 「そのときおまえは、 何か、 その衣類に気づいたことはなかったかい?」 「え?」 女中のほうで怪訝《けげん》な目を向けた。 「いや、 変わったことといっても、 別にたいしたことではない。 ただ、 おまえが気づいたことはなかったかというのだよ。 たとえば、 その着物に泥がついて汚れていたとか、 何か、 違ったものが、 くっついていたとか、 そういうことだよ」 淡々とした言い方だった。 別に、 詰問でもなく、 また、 頼子に嫌疑的な考えを持っているとは、 思われない言い方だった。 その女中は、 黙っていた。 「なあに、 おまえから聞いたといっても、 別にたいしたことではない。 ちょっと、 心当たりがあってきくだけさ。 おまえが気づいたことがあったら、 なんでも言ってごらん」 あくまでもやさしい言葉なのである。 顔も、 これまで見せたことがないほど、 柔和だった。 「さようでございますね」 女中は考えていた。 そして、 ふと顔を上げたが、 すぐには言葉は出さなかった。 確かに、 その表情には、 迷いがあった。 「何も遠慮することはないよ。 ぼくが聞くだけだ。 いや、 聞き放しにするだけだよ」 「はあ」 女中は言ったが、 ようやく重い口を動かした。 「そうおっしゃいますと、 奥さまのスーツには、 葉っぱが、 くっついておりました。 濡れていたせいか、 それが、 お洋服の襟のところに隠れるように、 ついていたんでございます」 「ほう」 結城は目を輝かした。 「なんだい、 その葉っぱは?」 「梨の葉でございます」 「なに、 梨の葉?」 一枚の葉が梨かどうかは、 素人では分からないのが普通である。 女中に、 すぐにそれが鑑別できたのが、 ふしぎだった。 「おまえは、 その葉っぱが梨の葉だということが、 すぐ分かったかい? 奥さんがそう言ったのか?」 「はあ、 それは、 わたくしにはすぐに分かったのでございます」 「どうして、 分かった?」 「はい、 わたくしの郷里が、 静岡の在でございます。 ですから、 田舎には、 梨がありますので、 ふだんから見つけております」 「ああ、 なるほど」 それで合点がいった。 「そうか、 おまえは静岡だったね」 結城は、 また、 煙草をすった。 しばらく考えて、 その次に言った言葉は、 「分かったよ、 もう退っていい」 と、 女中を部屋から出したことだった。 結城は、 しばらく、 そこにすわっていた。 梨の葉のことが、 頭の中にひっかかってくる。 温泉と梨の葉、 台風の被害地、 この三つを彼は合わせようとしていた。 思考が、 それをいつまでもいじっていた。 ほとんど、 一時間あまりもそこにすわっていた。 目を宙にすえたままである。 煙草だけは、 何本もすった。 少しも味のない煙草である。 結城は立ちあがった。 自分でオーバーをひっかけ、 廊下を步いた。 その足音を聞いて、 女中が出てきた。 「あら、 お出かけでございますか?」 それには口の中で、 うん、 と返事をしただけである。 女中は、 小走りに先に走って、 玄関で靴を揃えた。 結城はそれに足をつっこんで、 黙ってヘラを使っている。 女中は膝をついて、 控え目にきいた。 「奥さまがお帰りになりましたら、 何か、 旦那さまのおことづけがございましょうか?」 結城はヘラを使いおわって、 丹念な動作で、 靴の紐を締めている。 「いいだろう」 ひとこと言っただけだった。 彼は、 女中があけてくれたドアの外に出た。 家の前の石段をおりて、 道路に立った。 用事がないものと思って、 運転手は帰してしまっている。 石垣の中が車庫《ガレージ》になっているが、 結城は、 ポケットから鍵を出して扉をあけ、 次の鍵で自動車《くるま》をあけた。 広い道路に出るまで、 結城は二台の自動車《くるま》に行きあった。 自分の乗った車の速力を落として、 それを見送った。 彼の目の前を過ぎた二台とも、 頼子は乗っていない。 なぜ、 今晚は頼子のことばかり気になるのか、 分からなかった。 車が大通りに出て、 交通の多い道路を走った。 ハンドルをまわしながら、 自分の行先を考えている。 女の顔が二、 三浮かんだが、 そのどれにも行きたくなかった。 走っていながら、 途中で電話ボックスを見つけた。 彼の頭に浮かんだのが、 昼間、 ビルの喫茶店で会った女の顔であった。 ボックスの横に車をよせて、 中にはいった。 手帳を出して電話番号を調べた。 受話器をとるときに、 ふと、 土井のことを考えたが、 今夜、 彼は、 その家《うち》にいないことを知っている。 ダイヤルをまわすと、 女の声が出た。 しかし、 これは、 あの女ではない。 「どちらさまでしょうか?」 女中らしい声がきいた。 「結城と伝えてください」 もし、 土井がその家にいたら、 そのときのことだったが、 ばたばたと走ってくる足音が、 女のもので、 それが、 受話器にも伝わってくる。 手にとるようだった。 がたりと音がして、 「もし、 もし」 と、 あの女のはずんだ声が聞こえた。 「てる子さんかね?」 と、 結城は、 土井の女の名前を呼んだ。 「そうです。 あら、 結城さんね、 どうしたの? 今ごろ」 女の声は息をはずませていた。 「昼間は、 失敬しました」 結城は、 まず、 普通の挨拶から言った。 「いいえ、 でも、 うれしかったわ。 あなたに会えて」 やはり、 旦那の土井はいないらしい。 女は大きな声を出していた。 「きみ、 昼間、 言ったこと、 本当かい?」 結城は、 思わず、 ぞんざいな声になった。 女は、 もと芸者だったのである。 「ほんとうよ、 結城さん。 あたし、 嘘なんか言わないわ。 あなたがどこかに連れて行ってくださるなら、 喜んでついていくわ」 勘のいい女だった。 結城が電話をかけた意図を、 ちゃんと察している。 結城がちょっと黙ったものだから、 女のほうで、 催促した。 「もしもし、 結城さん?」 「うむ」 「あら、 いやだ、 聞いているの? 本当にどこかに連れていってくださるのね?」 「きみがその気ならと思って、 電話したのだけれども、 ちょっと、 土井さんに悪いよ」 「あら、 平気よ。 土井のほうは、 あたし、 なんとかするわ」 結城は、 また黙った。 「もしもし、 もしもし」 と、 女はつづけた。 「聞こえるよ」 彼は返事した。 「じゃあ、 この次、 電話する。 そのとき、 具体的なことを話すよ」 「そう、 きっとね、 嘘じゃないでしょ?」 女の声に喜びが出た。 「だいたい、 どの方面に、 連れていってくださるの?」 「中央線だよ。 そうだね、 甲州方面だ」 3 新宿発十二時二十五分長野行は、 白馬号という準急列車である。 結城が二等車の中にはいったとき、 女は座席からのびあがって入口の方を見つめていた。 結城の姿を見て、 ぱっと立ちあがった。 その様子で、 女が先ほどから苛々《いらいら》して待っているのが分かった。 「やっと駆けつけたのね。 結城さん、 まにあわないのかと思って、 あたし、 はらはらしたわ」 女は息を吐いて言った。 結城は、 ゆっくりと女の前にすわった。 窓際に席を取ってくれていて、 そこには白いしゃれたハンカチが広げてある。 結城は、 隣の人に会釈《えしやく》して、 そこにすわった。 「もうあと五分ぐらいで発車でしょ。 あたし、 何度、 プラットフォームに降りて、 あなたの来るのを待ったか分からないわ」 今日の女は、 髪のかたちを変えている。 いつもは、 ふくれあがった丸いかたちの髪だが、 今日は、 わざと素人くさい地味な形だった。 着物も、 ふだん好んで着るような派手なものでなく、 渋い好みだった。 「きみは、 よく早く起きられたね?」 結城は、 もの憂い口調できいた。 「あら、 昨夜《ゆうべ》、 眠られなかったくらいよ。 これで今朝《けさ》早く、 セットに行ったりして騒ぎだったの」 「そりゃ、 たいへんだったな」 「それでも、 あたし、 ちゃんと結城さんより先に来てたわ。 どう、 似合う?」 女は顔だけ横に向けた。 わざと地味な服装《なり》をしているが、 争えないもので、 着付けや帯は、 やはり彼女の粋《いき》な好みが出ていた。 それが着物の渋さと妙にちぐはぐだった。 「Sとおっしゃったわね。 むずかしい名前なので、 あなたの電話を聞くと、 切符を間違えないように紙に書いておいたんだけど。 向こうに着くまで、 何時間ぐらいかかるの?」 「三時間ぐらいだろう」 結城は、 ポケットからたたんだ新聞を出した。 「あら、 もう新聞、 読むの? せっかく気をもんで待ってたのに。 少しは話しなさいよ」 「うん」 結城は、 新聞をやめた。 「しかし、 きみ、 よく出られたね?」 女の顔を見た。 「あら、 平気よ。 なんでもないわ。 三、 四日ぐらい泊まったって大丈夫よ。 あたし、 そのつもりで来たんだから」 「そんな強気なことを言って、 土井さんのほうは大丈夫かい?」 「この間、 電話で申しあげたでしょ。 なんとでもなるのよ」 「分かったら、 たいへんだぞ」 「あら、 おどかすのね。 いいわ、 分かったって土井と別れるだけよ。 そのあと、 あなたも覚悟でしょうね?」 女は、 じっと結城を見つめた。 目のふちに薄いアイシャドーをつけている。 二十四、 五ぐらいの年齢だが、 やはり、 仕方のないもので、 まぶたには、 もう疲れたような小皺が見える。 結城は、 知らぬ顔をして窓を見た。 ちょうど、 列車が少しずつ動きだしはじめた。 「やっぱり旅はいいわ」 女はうきうきしていた。 窓外には、 街が消え、 雑木林の多い台地が広がってきた。 「結城さんといっしょに出かけるようになるなんて、 夢にも思わなかったわ。 それに、 こんな旅に出るのは何年ぶりかしら」 「その何年か前には、 誰と旅に行ったんだね?」 「結城さんの知らないひと」 彼女が笑いをふくんだ瞳《め》で結城を見た。 「妬《や》いてくれるの?」 「ぼくに関係のない話だからね」 「頼りないのね。 これが土井だったら、 大変だわ」 「へえ、 土井さん、 そんななのかい?」 「年寄りって、 みんな、 ああなのね。 あたしの前のことを、 根ほり葉ほり、 そりゃうるさくきくの」 結城は黙って、 煙草を窓ガラスに吹きつけた。 青い煙はガラスを伝わって上にもつれあがっていく。 結城のその顔を女は見まもって、 「こわくなった?」 と、 さすがに低い声で言った。 横の乗客二人が、 週刊誌を読んでいる。 が、 彼女と結城の会話にそれとなく耳を澄ませているらしいことは、 その様子で分かった。 「別に」 結城は怠惰《たいだ》に答えた。 「いい度胸だわ」 女はくすりと笑った。 甲府に着くまでの二時間余り、 女は何かと結城にサービスした。 まずウィスキーをスーツケースから出した。 「いかが?」 小さなグラスを渡した。 「ほほう。 こんなものを持ってきたのか?」 オールド.パーの黒い瓶《びん》を見た。 「ね、 気がきくでしょう。 あたしもいただくわ」 結城がのむと、 女も小さなグラスをなめた。 それまで用意してきている。 それがすむと、 果物や菓子などをやたらに出した。 「ずいぶん、 いろんな物を持ってきてるんだな」 「そうよ。 だって、 汽車の中、 退屈なんですもの。 それに、 結城さんとこうしていろんなものを食べてるのが楽しいのよ」 女は好きな男のためには、 さまざまな食べものを奉仕するものらしい。 甲府から身延線に乗りかえた。 女はうれしそうに横についてくる。 結城が、 てる子という土井の女と、 思いきって行先をS温泉に選んだのは、 理由があった。 台風の日、 中央線も被害を受けて、 汽車がとまった。 そのほかにも、 この山梨県、 長野県を中心にして数カ所に線路の故障があったが、 結城は、 二つの理由からS温泉を決定した。 一つは、 頼子の最初の予定が一晚で帰れる地域であったということ。 一つは、 彼女の濡れたスーツについていたという梨の葉である。 結城は、 中央線を中心に、 近いところで梨の栽培地域を調べた。 すると、 可能性のあるのが、 甲府から身延に出るまでの沿線である。 これに温泉地を条件に入れると、 自然とS温泉がポイントになってくる。 この推定が当たるかどうか分からなかった。 もしはずれていたら、 もっと別なところを詳しく調べるつもりだった。 頼子のことで結城がこれほど打ちこんだことはない。 現在、 さまざまな面倒な事が起こっているが、 それを捨ててきたくらいである。 「まあ、 葡萄ばかりね」 中央線の塩山《えんざん》から甲府、 身延線の鰍沢口《かじかざわぐち》に至るまでは、 左右は葡萄畑の連続である。 この辺は初めてだというてる子は、 窓から珍しそうにのぞいている。 結城は、 梨畑を注目したが、 それはなかった。 御坂山塊《みさかさんかい》の上に、 八合目から上の富士が、 気味の悪いほどの近さでのっていた。 汽車が山峡《やまかい》にはいると、 やがてSの駅に着いた。 寂しい駅だ。 駅前には、 旅館の番頭が三、 四人出ていた。 「一番いい旅館にしてね」 てる子が、 結城の後ろから言った。 案内された旅館は、 なだらかな坂道の途中にあった。 この辺は旅館ばかりが並んでいる。 宿の裏が渓流になっていた。 その渓流に臨んだ座敷に二人は通された。 「宿はきたないけれど、 景色はいいのね」 てる子は、 川をのぞいて言った。 川をへだてたすぐ前が、 山の急な斜面になり、 断崖になっている。 「番頭さん」 てる子は荷物を運んできた番頭にふりむいて言った。 「ここが、 いちばんいいお部屋なの?」 「へえ、 どうも」 番頭は頭をかいた。 「この温泉は、 皆さま、 湯治でいらっしゃるかたが多いので、 まだこういう体裁でございます。 いずれそのうちに、 箱根に負けないような、 近代的な建物にしたいと思っております」 「そうしなさいよ。 部屋がきたないと、 いくら湯がよくっても、 東京のお客さん来ないわよ」 てる子はずけずけと言った。 番頭は苦笑して逃げた。 すでに、 あたりは暮れかけていた。 ほかの宿の灯が、 蒼白い靄《もや》の中にあたたかい色でにじんでいた。 女中が丹前を持ってきた。 「お風呂へご案内いたしますから、 どうぞ」 「そう」 てる子はすぐに立った。 「あなた、 お支度なさいよ」 結城は、 暮れかけた山を眺めて縁側の籐椅子によりかかっていた。 「ぼくは、 あとではいるよ」 「あら、 どうして?」 「今、 何だかはいりたくないよ。 きみ、 先にはいれよ」 「いやあね、 せっかく、 こんなところに来たんですもの、 二人ではいんなきゃつまんないわ」 女中は面倒な話になりそうなので、 廊下の外に出た。 「ねえ、 どうしておはいりにならないの?」 てる子は、 帯を解いた恰好で寄ってきた。 「疲れたんだ」 結城はまだ山の方を見ている。 体を椅子に沈ませて、 長々と足を出していた。 「疲れは風呂にはいるとなおるのよ。 ねえ、 早くはいりましょうよ」 てる子が、 結城の肩に手を当てた。 「いいから、 きみ、 はいりたまえ」 煙草をくわえて身じろぎもしない彼の肩は、 女には石のように冷たく見えた。 結城は、 てる子が風呂にはいったあと、 番頭を呼んだ。 「何か御用で?」 番頭は敷居際に膝をついた。 「いや、 ちょっと話したいことがある。 こっちに来てくれ」 「へえ」 番頭は怪訝《けげん》な顔で進んだ。 そして、 結城の掛けている椅子の横にうずくまった。 「そこでは話ができない。 まあ、 こっちにかけてくれ」 結城は向かいの椅子をさした。 番頭はもじもじしていたが、 結局、 結城の言うとおりになった。 セーターの上に宿の名前を入れた印半纏《しるしばんてん》を着ている三十恰好の男だった。 「ここは初めて来たが、 いいところだね」 結城は、 まずほめた。 「へえ、 ありがとうございます。 何しろ山奥ですから、 見るところもございませんが」 「いや、 いいところだ」 結城は、 煙草をすすめた。 「どうだね、 東京のお客さんも、 よくここに来るかい?」 番頭は、 世間話と思って、 顔色をゆるめた。 「へえ、 東京のお客さんは、 よくお見えになります」 「新聞で読んだが、 このへんは台風で荒らされたのだったね?」 結城は切りだした。 「へえへえ、 こちらもえらい騒ぎでございましたよ」 「この家も被害を受けたの?」 「いいえ、 手前どもはそれほどでもございません。 ごらんのように土地が高うございますから、 水に漬かることはございませんでした。 それでも、 この先に二軒、 大きな旅館がございまして、 そこは川のすぐそばでございますので、 土地が低いため、 お客さんをこちらに避難させました」 「ふむ」 結城は、 少し体を動かした。 「それで、 どうだった?」 「へえ、 あいにくと、 この辺一帯の旅館が団体のお客さまでいっぱいでございましたので、 とりあえず、 旅館組合の事務所の二階に、 一晚お泊めしました。 ああいう事故があると、 なにしろ宿の少ないところなので、 まったく不都合なことになります」 「その宿のお客さんは、 何人ほどあったの?」 「両方で十八人でございました。 いや、 もう、 めったにああいうことはございません。 手前も初めての経験でございます。 おかげさまでお客さまがたには怪我人《けがにん》も出ないで、 ほっといたしました」 「その客を移した旅館は、 なんというのかね?」 「八代屋《やつしろや》と篠屋《しのや》というんでございますが、 両方ともわりと大きな旅館でございます」 「八代屋と篠屋」 結城は呟いた。 「すると、 駅から向こうだね」 「へえ、 さようでございます」 「線路といえば、 この辺はやはり汽車が不通になったんだろう」 「さようでございます。 この先にHという村がございまして、 ちょうど、 富士川が線路わきに流れるところでございます。 そこで川の水があふれまして、 地盤が崩れ、 線路が一部流されました」 「そりゃ困ったろう。 それで、 開通はその日にはできなかったんだろうな?」 「へえ、 やっぱり翌日の夕方になりました」 「お客さんは、 それまで全部足止めかね?」 「さようでございます。 ちょうど、 甲府の方では被害がございませんが、 なにしろ中央線がやはり寸断されましたので、 東京へお帰りになるお客さまも、 ここに罐詰状態になりました」 「そりゃ難儀だ」 結城は同情的に言った。 「帰りを急ぐお客さんだってあったろうにな?」 「へえ、 そりゃもう、 どなたもそうで。 なかには、 汽車の開通を待たずに出発された一組もあったくらいでございます」 「ほう」 と言ったのは、 結城が急に番頭の顔を見てからだった。 が、 すぐに目を伏せて、 新しい煙草に火をつけた。 「番頭さん、 そりゃどういうのだね?」 声も普通であった。 「台風の来た日の夕方、 いま申しあげた八代屋に着かれたかたでございますがね。 ご夫婦でございました。 男のかたは、 さよう、 二十七、 八ぐらい。 ご婦人は、 凄《すご》いくらいきれいなかたで、 やはり同じくらいでございましょうか、 そりゃ上品なかたでございました」 番頭は熱心に話した。 「背はどうだった? いや、 その女のほうだよ」 結城は椅子をきしらせた。 が、 番頭は、 結城がタダの興味からの質問だと思ったらしい。 「背はすらりと高いほうでございましてね、 なにしろ、 こういう辺鄙《へんぴ》な場所に見えるお客さまの中では、 めったに、 ああいうおかたはお見かけいたしません」 結城は、 ちょっと黙った。 「男は?」 「これもご立派なかたでございました。 まあ似合いのご夫婦と申しましょうか、 やはり背の高いおかたで、 いい顔をなさっていましたよ。 そのお二人がおそろいで、 山伝いに步いて行かれたのですから、 みんな驚きました。 せいぜいお止めしたのですがね、 よほど、 お急ぎとみえて、 それを振りきってご出発なさいました」 結城が体を動かした。 そのために籐椅子はまたきしった。 客がどんな表情をしているか、 むろん、 番頭の観察にはない。 「そりゃ、 どっちの方角だったね?」 「すぐその山伝いでございますよ」 番頭は後ろを向いて指さした。 「そこんとこをずっとまいりますと、 身延のほうに出ます。 道らしい道のないところですが、 あれじゃお二人ともご苦労なさったと思いますよ。 まだ雨が降っておりましたし、 風もおさまっておりません。 その中を山伝いですから、 こりゃ並大抵じゃございません。 ご本人たちは、 東海道線に出るところまで、 お步きになるつもりだったでしょうがね」 結城は、 また黙った。 「時に、 どうだね、 番頭さん、 その辺に梨畑はあるかね」 結城は、 平静な声できいた。 「梨畑? ええ、 そりゃございますとも」 番頭は即座に言った。 「この辺は果実が多うございましてね。 甲府はぶどうでございますが、 ここいら一帯は、 梨、 スモモ、 メロンなどをやっておりますんで」 「梨畑があるんだね?」 と、 結城はこだわった。 「へえ、 ございます。 ちょうど、 お二人の步かれた途中にもあるはずでございます」 「もう一度きくがね、 その二人は、 仲がよかったかね?」 「へえ、 そりゃもう。 手前どもは、 ご新婚からそうたっていないおかただと、 睨んでおりました。 八代屋さんからお迎えしたのは、 実は手前でございますがね。 そのときから、 旦那さんのほうは奥さまをかばうようにとても大事にしておられました。 ご出発の時でも、 はたの目で羨しいくらいに、 お仲が睦《むつ》まじゅうございました」 「そうか。 新婚からそうたっていなかったのか」 結城は、 ここで声を出して笑った。 「番頭さん、 最初の宿は八代屋というんだね?」 結城は、 その女性の服装を確かめたあとで、 念を押した。 てる子が湯からあがったとき、 結城の姿が見えなかった。 彼女は、 結城が手洗かと思って待っていたが、 容易に戻ってこない。 急に、 不安げな顔になった。 すばやく目を走らせたが、 スーツケースも彼女のそれと並んで置いてある。 洋服箪笥をあけたが、 そこにも結城の洋服が行儀よく掛かっていた。 てる子は、 鏡台の前にすわって、 化粧にかかった。 が、 それがすんでも、 結城は部屋に帰らなかった。 彼女は落ちつかない顔色になった。 ブザーを押した。 やがて足音がして女中が顔を出した。 「お呼びでいらっしゃいますか」 女中は、 襖を半開きにして、 外に膝をそろえた。 「あんた、 知らない? うちのひとが、 どこに行ったか」 「はあ」 女中は、 ぼんやりした顔をしていた。 「なんですか、 先ほど散步に出かけるとおっしゃって、 玄関からお出かけでございましたが」 「そう? どこに行ったか分かんないの?」 「はあ、 それは」 女中は、 てる子が険しい顔をしているので、 どもっていた。 「何もうかがいませんでした。 でも、 ここいらは狭うございますから、 すぐにお帰りになると思います」 「そう」 てる子は考えていたが、 「そんな時は、 ちゃんと行先をうかがっとくものよ」 「はい」 女中は去りかけて、 「あの、 お食事は、 旦那さまがお帰りになってから……」 「当たり前よ。 帰ってきたら、 すぐ出してちょうだい」 女中が逃げたあと、 てる子は川の方をのぞいた。 あいにくなことに、 川のふちには道路はなかった。 ただ、 向かい側の急な斜面に細い小径がついているが、 それも夜の暗い中に溶けこんでいた。 [#改ページ] |