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14黒 い 山


結城が行ったのは、
線路を渡って、
川の近くにある温泉宿だった。
この近くでは大きい旅館である。


そこは広い庭園を持っていた。
庭は自然のままを多少加工しているにすぎない。
それでも、
川が近いので、
かえって野趣があった。
建物は、
その川のすぐそばにある。
結城が行ってみて、
これでは洪水のときに避難するのも当たりまえだ、
と思った。


「いらっしゃいませ」

番頭が迎えたが、
結城の恰好が、
別の宿の丹前なので、
泊まり客のところへ遊びにきたものと思ったらしい。


「ご主人はいないかね?」

結城はきいた。


「へえ」

番頭は怪訝《けげん》な顔をした。


「少しおたずねしたいことがあるので、
わずかな時間でいいが、
お目にかかりたい。
ぼくはこういう者です」

結城は、
用意してきた一枚の名刺を渡した。


番頭は、
それを持って奥にはいった。
結城は玄関につっ立ったままである。


丹前の肩にカメラを掛けていた。


出てきたのは、
この宿のおかみらしく、
中年の女だった。


「わたしは、
このうちの者ですが、
どういうご用件でございましょう?」

客扱いに慣れているので、
言葉も物腰も丁寧だった。
結城の名刺を片手に持っていた。


「名刺のとおりの者です」

結城は言った。


「東京から来たのですが、
簡単に言うと、

人を尋ねているのです。
ちょうど、
お宅に厄介になったと思われる形跡があるので、
おうかがいしたいのですが」

おかみは眉《まゆ》を寄せた。


「どうぞ、
こちらにお通りください」

面倒な話と思ったらしい。
結城を上に請《しよう》じて、
帳場の横につづいている応接間に通した。
茶を出させたあと、

結城と向かいあったおかみは、
もの静かな調子できいた。


「どういうご用件か、
ゆっくりうかがわせていただきます」

「恥を申しあげるようで恐縮なんですが」

結城は、
前置きをした。


「実は、
ぼくの親戚の者が家出をいたしましてね。
従妹《いとこ》なんですが、
愛人ができて、
婚家を出奔《しゆつぽん》したのです。
いや、
どうも恥ずかしい次第です」

「いいえ、
どうぞ。
そういうことは、
こういう商売をしておりますので、
よく承ります」

おかみはかえって同情を見せた。


「このS温泉の近くから葉書を出しているのです。
それによると、

どうやらその日は、
こちらに台風が襲ってきたときに当たるのです」

「あの時は、
こちらも相当ひどい被害を受けました」

「婚家でも実家でも、
その対策に非常に困っているんです。
本人たちもまだ帰っていません。
もしも妙な結果になっては、
と、

みんなで心配しているわけですが、
こちらに確かに泊まったという形跡があれば、
また探しようがあるわけです」

「それはご心配でございますね」

「それで、
台風の夜、
泊まったお客さんの中に、
これからぼくが申しあげる特徴の人間はいなかったか、
どうか教えていただきたいのです」

「ああ、
台風の晚でしたら、
わたしの旅館がちょうど、
ごらんのように川のそばなので、
危険になりました。
それで、
お客さまがたは、
この上の旅館組合に避難していただいたのです。
そんな具合で、
その中にそのようなお客さまがあったら、
女中がきっとおぼえていると思います」

「それはありがたいですね」

結城は落ちついて言った。


「では、
従妹の特徴を申します。
それと、

そのとき着て出た服装もいっしょに言います」

結城は、
頼子の顔だちや背の恰好、
服装などを、
ここで話した。
しかし、
連れの男は分からない。
彼はこう言った。


「その連れのほうも様子が分かっていますが、
問題は、
従妹のほうなんです。


そういう女が泊まっていたかどうか、
まず、
教えていただきたいのです」

「分かりました」

大きくうなずいた。


「しばらくお待ちください。
心あたりの番頭か女中にきいてまいります」

おかみは、
座を一度はずした。


しばらくして、
番頭と女中とが、
おかみの後ろからはいってきた。


「確かに、
そのお客さまは、
わたしのほうにお泊まりでございました」

結城は、
おかみとならんで立っている番頭と女中を見つめた。


「話をうかがわせてください」

おかみにも促《うなが》されて、
女中のほうが、
まず口を切った。


「おっしゃるとおりのおかたでございました。
とても、
もの静かな美しいかたでしたが。
そうですね、
お二人は、
夕方、
こちらにお着きでございました。


そのころから、
空模様が怪しく、
風が強く吹いていたんでございます。
わたしが桔梗《ききよう》の間《ま》にご案内いたしました」

「様子はどうでした?」

結城は、
落ちついた声できいた。


「とてもお二人ともお睦まじいようでございました。
ちょうど、
台風がひどくなりかけで、
電気が消えましたので、
わたしがお部屋に蝋燭を持ってまいりました。
その時、
こう申しあげてはなんですが、
暗い部屋の中で、
お二人が寄りそうようにすわっていらっしゃいました」

結城は身じろぎもしなかった。
三人の前で眉一つ動かさないのである。


「それから、
どうしました?」

「台風がひどくなって、
いよいよ危険だというので、
ほかのお客さまがたとごいっしょに、
この上の旅館組合の事務所に避難していただいたんです。
その時は、
もう、
たいへんな暴風雨で、
ひとり步きができないくらいでした」

「それからは、
手前がその下まで、
ほかのお客さまがたとごいっしょにご案内しましたがね」

と番頭がかわった。


「男のかたは、
そのご婦人をしっかりと抱きかかえるようにして、
ごいっしょにお步きでした。
いや、
あの時はひどい荒れようなので、
わたくしも心配しましたが、
その中でも、
お二人の様子を見ると、

その仲のいいことは、
そう言ってはなんですが、
お羨しいくらいでございましたよ」

「ありがとう」

結城は冷静に礼を言った。


「それで、
だいたい分かりました。
申しかねますが、
もう一度、
本人かどうかを確かめたいんです。
その時、
宿帳をつけているはずと思いますが、
それを見せていただけませんか。
むろん、
偽名だとは思いますが、
筆跡を見たいのです」

女中がかわった。


「宿帳は、
男のお連れさまがお書きになりましたが」

「結構です」

平気で答えた。


「その従妹といっしょだった男も、
念のため確かめたいんです。
いや、
これは、
あとあと問題になった時の参考なので、
けっしてお宅にはご迷惑はかけません。
拝見するだけで結構です」

おかみは少し迷ったような表情をしていたが、
結局、
結城の要求に従った。


女中は、
いったん、
そこを去ったが、
やがて宿帳を持ってきた。


「これでございます」

開いたところを見せた。


青山隆一郎《あおやまりゆういちろう》二十七歳会社員東京都杉並区××町××番地同 京子《きようこ》二十六歳男の筆跡だった。


結城が宿に帰ると、

てる子は待ちくたびれた恰好で、
部屋にすわっていた。


黙って座敷にはいってきた結城を見上げると、

「あなた、
どこへ行ってらしたの?」
と、

女は拗《す》ねた顔でなじった。


「黙ってあたしを放っておいて、
ひどいわ」

結城は、
肩からカメラをおろして、
そこに投げだした。


「ね、
どこへ行ってたのよ。
カメラなんか持って」

結城は、
縁側の籐椅子に腰をおろして、
女の方を見向きもしなかった。
煙草をくわえた。


「ね、
どうして、
あたしに黙って一人で出かけたのよ?」

女は結城のそばに来た。


座敷と縁側とは、
障子で仕切られている。
薄い電灯の明りが縁側にもれていた。


女は、
間の障子に背中をもたせて立っていた。
椅子に掛けている結城を見おろしたままである。


「せっかく、
たのしみに温泉に来たのに、
お風呂にもいっしょにはいらず、
たった一人で出ていくなんて、
ひどいじゃない」

結城は煙を吐き、
目を外に向けたままである。
すぐ下を川が流れ、
奔流《ほんりゆう》の音が高かった。
向かいは断崖で、
宿の灯がほのかに岩肌に映えている。


「どうしたの?」

女は、
少し大きい声を出した。


「どうもしない」

結城は、
ぼそりと答えた。


やはり、
顔を外に向けたままである。
体も動かなかった。


「いやに不機嫌なのね、
あたしとこんなところに来たのを、
後悔してらっしゃるの?」

「別に」

結城は簡単に返事した。


「そんなら、
もっと話してよ。
土井に気がねなさるんでしたら無用よ。
あたしが、
なんとでも言いくるめるから」

女は、
そこで甘えた声になった。
障子のそばに立っていたのを、
結城の後ろにまわり、
その肩に手を置いた。


「あなたが、
だまって出かけた間、
あたし、
どんなに怒ってたかしれないわ。


だって、
こんなところに、
あたしだけを置いてけぼりにするんですもの。
でも、
今はいいの。
あなたの顔を見て安心したわ。
あたし、
もう、
気持がなおったの。
それで、
うれしくて浮き浮きしているの」

女は、
急に饒舌《じようぜつ》になった。
声もはずんでいる。


結城は、
相変わらず石のように、
椅子によったままだった。


「ねえ」

女は男の肩を動かした。


「ラジオでもかけて、
ダンスしません? つまんないわ、
こんなところ。
どうせこんな宿には、
ホールなんかないでしょう?」

結城は返事をした。


「いやだね」

低い声である。


「まあ、
ご挨拶ね、
お疲れになったの、
外を步いて」

女の声は媚《こ》びたが、
それにも返事はしなかった。


「だったら、
ひと風呂浴びてらっしゃらない? この温泉は温度が低いんだけど、
ちゃんと、

沸かしてあるわ」

「それも、
あとにしよう」

結城は短く言った。


「なんだか変ね。
いつもの結城さんらしくないわ。
なに、
考えていらっしゃるの、
山ばかり見て。
いやに寂しいとこね」

女は、
結城に甘えるつもりで、
体を寄せて、
いっしょに外をのぞいた。


「あたし、
こんなところに一晚泊まったら、
飽き飽きするわ。
やっぱり、
東京の賑やかなのが性《しよう》に合っているのね」

「帰ったらいいだろう」

結城は、
ゆっくりと言った。


「え、
なんなのよ?」

女は笑いだした。


「いやだわ。
あたし、
あなたとだったら、
本当は何日でも平気なのよ。
どんな山の中でも退屈しないわ」

「いや、
帰ってもらったほうがいいんだ」

女は冗談と思っていた。
まだ笑っている。


「意地悪ばかり言うのね、
何か気に入らないことを思い出したの? いやね、
あたしにそんな八ツ当たりして」

「八ツ当たりじゃないよ。
きみに言ってるのだ」

結城は、
体を起こした。
くわえた煙草を、
灰皿に捨てた。


「すまないが帰ってもらおう」

今度は強い声だった。


「まだ、
あんなことを言って」

女は初めて顔色を少し変えた。
だが、
まだ半分笑いを残していた。


「結城さんて、
ずいぶん、
意地悪いのね。
そんなことを言わないで、
早くお寝《やす》みになったら。
お留守に、
あちらに女中にお支度をさせてありますわ」

結城が突然立ったのは、
それを聞いてからである。


「ぼくは、
本気で言っているんだよ」

結城は顔を女に初めて向けた。
微塵《みじん》も微笑のない、
かたい顔だった。


まっすぐに向けている目の表情も真剣なのである。


「悪いが帰ってもらおう」

女の顔から血の気が引いた。


「冗談?」
と、

それでもやっと踏みとどまってきいた。


「冗談ではない。
とにかく、
おれは一人で今夜は寝たいんだ」

結城は突き放した。


「結城さん」

女は叫んだ。


結城は、
かまわず床の間の送受器を取った。


「お客さまが一人帰る。
今度の上りは、
何時だね?……そう」

結城は聞いて送受器をおいた。


「三十分後に汽車が来る。
今から支度すればまにあうよ」

てる子は、
蒼くなってつっ立っていた。
目がぎらぎらと光って、
結城を見据えた。


「結城さん」

唇をゆがめて鋭い声で言った。


「ひどいことをするのね。
まるであなたは鬼だわ」

その顔がゆがんで、
女は声を放って泣きだした。


障子の外に足音がした。


「お呼びでいらっしゃいますか?」

女中は遠慮そうに外から言った。


「はいってくれ。
次の汽車にまにあうように、
東京に帰る客がある」

汽車が遠方から来る音がした。
夜だから長いことその音はつづいた。
すぐ近くが線路だし、
汽車の通過が、
はっきりと部屋にいて分かった。


列車は駅にとまった。
機関車から蒸気を吐く音がする。
駅員が駅名を連呼していた。


それらの音を、
結城は籐椅子にすわって聞いていた。
このときも体を動かさなかった。
目を真向かいの暗い断崖に向けたままである。
川の音を聞いているだけのようだった。


発車のベルがすぐに鳴った。
汽車が動きだす音がする。
てる子がその汽車に乗っているのだ。


女中の手前も考えずに、
半泣きにわめきちらしたすえに、
てる子はスーツケースを持って出ていった。
結城は、
その間、
ほかのことを考えていた。


汽車はレールの上に音をたてて遠くに行った。
山峡《やまかい》なので、
いつまでもその音が消えなかった。
このあたりも静かなのである。


結城は、
いつまでもそこから動かなかった。
煙草をすっていたが、
灰が胸に落ちるのが分からなかった。
この男に似げなく肩のあたりが寂しかった。


急に立ちあがった。


着物をぬいで、
洋服に着替えた。
オーバーをその上から着て、
ひとりで部屋を出ていった。


階段を鳴らして下におりると、

宿の者が驚いた顔をしていた。


「あれ、
お客さまもお帰りですか?」

結城はうすい微笑をした。


「いや、
ぼくは散步だ。
靴を出してくれ」

女中がうろたえて、
下駄箱から靴を探した。


宿の者は、
てる子が泣きながらそこを去ったことを知っている。
結城の顔を、
それとなく興味ありげに見ていた。


結城にはそれが分かっていた。
黙って靴をはくと、

玄関を出ていった。


「行ってらっしゃいませ」

後ろから番頭が声をかけた。


宿の前は坂道になっている。
結城は、
そこを下っていった。
並んでいる旅館のほとんどがガラス戸を閉めていた。
道を步いている泊まり客の姿もない。


結城は、
坂をおりきって踏切にかかった。
左右を見たが、
線路の先は暗かった。
近くの駅のホームに、
孤独に灯が明るいだけだった。


結城は、
線路を渡って、
別の道を下った。
その道はしばらく線路についていたが、
やがて、
それとも別れた。


暗い畑と、

その先に迫っている黒い山があるだけだった。


山の裾に農家の灯がぽつんとともっていた。
この道は誰も步いていない。


川は左側に高い音をたてていた。


風がある。
結城は襟を立てた。
両手をオーバーのポケットにつっこんだままである。
川音が始終聞こえていた。


結城は、
ただその道を步いた。
宿からは遠くなるばかりである。
前方には、
両方の山がせばまり、
道がその先で暗く消えていた。


道端に一軒の百姓家があった。
薄暗い灯が障子に映っている。
誰か外に立っているらしく、
彼の方をうかがうように見ていた。


結城は、
その方に步みよった。


「この道はどこに行くんでしょう?」

きかれたほうは、
老人のようだったが、
のどの奥で驚いたような声を出した。


「へえ、
この道はまっすぐ行くと、

身延山《みのぶさん》に行きますだ」

「そう」

結城は立ち去りかけたが、
思いだしたようにきいた。


「その辺に梨畑がありますか?」

「梨畑」

きかれたほうは、
ちょっと声を跡切《とぎ》らせてから答えた。


「そりゃ幾つもありますだ。
この先の山の裾は、
梨畑ばかりですよ」

老人は、
暗い中から黒い山の方角をさした。


「ありがとう」

結城はその山を見て步きだした。


たった一人である。
黒い山裾が塊のようにせまっていた。
闇の中に道だけがほの白く一筋つづいていた。


結城の顔がゆがんでいた。



結城は、
七時半に東京駅に着いた。


乗車口の方へ出て、
タクシーを拾った。
行先をまっすぐ自分の家に命じた。


「旦那」

運転手は、
背中越しにきいた。


「今、
急行が着いたんですか?」

結城が、
そうだ、
と言うと、

「大阪からですね。
旦那も関西からいらしたんですか?」
と、

きく。


話し好きの運転手とみえて、
走ってる間でも、
始終、
話しかけた。


結城は、
富士駅から乗ったのだ。
ちょうど、
頼子が帰ったと思われるとおりのコースを、
彼は回ってきたのだ。


結城は、
流れる街の灯をぼんやり眺めている。
三時間前に富士山を見た。


赤い雲が頂上のあたりにかかっていたのが、
まだ目に残っている。
S温泉から、
東海道線に出る途中、
富士が車窓にゆっくりと回ったものだった。


今、
眺めている東京の夜の景色が、
嘘みたいだった。
これまで結城は、
何度も旅行したことがある。
もっと長い期間、
東京を見なかったこともあった。


しかし、
ただの一晚だけだったが、
S温泉のことは、
長い滞在をしたような充実感を持たせた。
東京の灯が、
変わって眺められたくらいである。


いつもの道である。
結城は、
その景色までがどこか変化しているように見えた。


「どの辺でしょうか?」

運転手が、
またきいた。


結城は方向を教えた。
道はそこから勾配《こうばい》になっている。
賑やかな灯が消えて、
寂しい屋敷町だった。


結城は、
ここまで来て、
自分の気持が落ちついていないのを知った。


これまで、
めったになかったことである。
彼はもっと長い間を、
女と旅行したことがあった。
その時でも、
これほどの不安定な気持にはならなかった。


このまま自分の家にはいるのが、
自分で不安になってきた。
彼は、
いま、
頼子と向かいあう準備ができていないことを知った。
まっすぐに家の中にはいるのが、
いかにも不用意のようだった。
そのうちにも家が近づいてきた。


結城は、
突然、
停止を命じた。


「ここですか?」

運転手は、
車をとめて、
横をのぞいた。
長い塀をつらねた他人の家である。


「このまま、
車をもとの方角へ回してくれ」

結城は言った。


「は?」

運転手は、
のみこめない顔をしていた。


「いや、
用事を思いだしたのだ。
銀座に回ってほしい」

「これからですか?」

「そうだ」

「惜しいですね。
せっかくここまで来て」

運転手は、
そう言いながら、
車をゆっくりと転回させた。


「悪いな」

結城が言うと、

「どういたしまして。
どうせ帰りは、
お客さんを、
拾えるかどうか分からないんですから、
わたしはありがたいですよ。
でも、
旦那がずいぶん損をなさいますな」

運転手は喜んでいた。


車はそのまま元の道に返った。
賑やかな街にもどったとき、
結城は、
気持のどこかで安心を覚えた。


彼は、
二、
三の女を頭にうかべた。
その女たちのどの家にでも、
結城は泊まれるのだ。


結城は、
これまで、
一週間や十日、
外に泊まっても平気だった。
今夜は、
その女たちのところに行くのが、
砂を噛むように味けなく思えた。
自分の空虚さが、
よけいに広がりそうだった。


銀座の横町に車をとめた。
時計を見ると九時過ぎだった。
結城は、
スーツケースを持っている。


結城は、
狭い路地をはいった。
バーの看板がごてごてと並んでいる。
路地はまた奥でわかれた。
ある建物の狭い階段を上がった。


ドアを押すと、

内にこもった煙草の煙が灯を靄《もや》のように包んでいる。
黒い影が乱雑に動いていた。


「あら、
いらっしゃい」

結城を見て、
女たちの声がきた。


「ずいぶん、
お久しぶりね」

女の一人が、
結城のスーツケースを取り、
オーバーも脱がした。


「あら、
ご旅行なの?」

結城は、
そうだ、
と言った。


「これからですか? それともお帰り?」

「これからだ」

結城は、
カウンターの方に近づいた。


「あら、
ボックスが空《あ》いてますわよ」

ドレスの女が言ったが、
結城は黙ってスタンドの椅子にすわった。


「今夜は、
こっちのほうがいい」

バーテンがシェーカーを振りながら、
結城におじぎをした。


「まあ、
しばらく、
結城さん」

このバーのマダムだった。


「ずいぶんお久しぶりね。
何カ月ぶりかしら?」

マダムは、
結城の横にすりよった。


「今夜はスタンドなの? 珍しいわね」

「こっちのほうがいいんですって」

ドレスの女が笑った。


「結城さん、
ご旅行ですってよ」

スーツケースを受けとった女が步いてきて、
マダムに告げた。


「あら、
そう。
今夜お発《た》ちになるんですか?」

「まあね」

結城は、
スコッチの水割りを注文した。


結城は、
今夜はボックスなどにすわりたくなかった。
できれば、
自分一人がカウンターに肘《ひじ》をついて、
酒をたてつづけに飲みたかった。
この気持も初めての経験である。


「ご旅行は、
どちらへいらっしゃいますの?」

マダムが、
結城の顔をのぞいて、
きいた。


「九州だ」

結城はすぐに答えた。
実際、
九州に行きたい、
という衝動も、
心の隅にないではなかった。


女たちは、
ボックスのお客にほとんどついていたが、
結城の横には、
マダムが残っていた。
久しぶりだったし、
マダムも結城を大事にしていた。


「九州なんて嘘でしょう?」

マダムが、
目を笑わせてきいた。


「どこかに、
いい人とごいっしょに逃避行じゃないんですか?」

「悪いけど、
今度はそうではない」

結城は調子を合わせて笑ったが、
酒を飲んでも、
それほど気分は引きたたなかった。


「結城さん、
ご無沙汰なわけよ。
ずいぶん、
よそでお噂を聞くんですもの」

いつもの結城だったら、
その話に取りあうのだったが、
その気持もまだ起こらなかった。


「お疲れになっているみたいね」

マダムは、
結城の顔をのぞきこんだ。


「これから、
旅行にお出かけじゃなくて、
お帰りなんでしょう。
どこにいってらしたの?」

「商用で関西に行ってきた」

「そう、
おいそがしいのね。
近ごろ、
結城さんがいらっしゃらないので、
寂しいわ」

結城は、
この店に、
土井と何度か来たことがある。
もとは、
土井が知った店《うち》なのである。


結城は、
ふと彼のことを思いだした。


S温泉から追い返した、
土井の女の連想とも言えた。


「土井はくるかい?」

結城はきいた。


「ここんところ、
ちっとも、
お顔をお見せにならないわ。
みなさん、
おいそがしいのね。
でもたまには、
結城さんだけでもいらしてよ」

マダムは結城と並んで、
ハイボールをのんでいたが、
思いだしたように、
「そう言えば、
今日の夕方、
土井さんを探して、
お二人お見えになりましたわ」

と言った。


「へえ、
どんな人だね?」

「何だか、
あまり風采《ふうさい》のよくない人でしたわ」

結城は、
誰だろう、
と思った。
土井は、
さまざまなつきあいをもっている。


みんな彼の商売に関係したことだが、
結城とは性の合わない方面にも彼は筋を持っている。
いま、
風采のあがらない男たちが、
土井を尋ねてきたとマダムに聞いて、
初めは気にもとめなかったが、
結城の頭をかすめたのは、
それが別な種類の人間ではないかという疑念である。


「なにか、
土井のことをきいていたかね?」

彼は、
マダムにたずねた。


「ええ、
土井さんの行きつけのところはどこか、
と、

しつこく訊くので、
わたし、
ぜんぜん、
知りませんと言っておきました。
ちょっと、

妙な感じのする人たちでした」

マダムは、
妙な感じという言葉をつかった。
それも結城の予感に合致する。


「土井の家に電話してくれないか?」

結城は手帳を見たが、
土井の自宅よりも、
てる子の家にかけさせたほうが早いと思った。
その番号を、
そこに来た女の子に言いつけた。


「ママさん、
きみが代わってくれないか」

彼は頼んだ。


「土井がいたら、
ぼくが出るがね。
留守だったら、
女の人が出るはずだ。
そのときは土井の行先を尋ねてくれればいい。
こちらの名前は、
岡田《おかだ》の代理だと言ってくれ」

岡田は、
土井の商売仲間である。


女給がマダムに送受器を渡した。


「土井さん、
いらっしゃいますか?」

マダムは、
結城が言ったとおりにきいた。


結城はグラスを持ちながら、
その方に聞き耳を立てていた。
留守だという返事らしく、
マダムは、
行先をたずねていた。


それも分からないという答えらしい。
彼女は、
いつお帰りなのかときいていた。


送受器を置いて、
マダムは結城のそばにもどった。


「土井さんはいらっしゃいませんでしたよ。
どこにいらしたか、
行先もよく分からないとおっしゃってました。
女のかたでしたが、
なんだか不機嫌そうな声でしたわ」

てる子だと結城は思った。


「いつお帰りになるか、
予定も分からないんだそうです」

「ありがとう」

結城は、
グラスを傾けていた。
浮かんだ氷が彼の歯に当たった。


「結城さん、
踊りません?」

酔った女給が、
結城の背中から抱きついた。


「そうだな」

結城が生返事をしていると、

「あら、
しばらくじゃないの、
踊りましょうよ」

襟《えり》をひろげた着物の女が、
結城の手をひっぱった。


結城は仕方なしに一曲踊った。
酔った女は、
結城の顔に頬をすりつけてきた。


「結城さん、
ほんとに久しぶりね。
近ごろ、
どの方面ですの?」

結城は、
ただ足を動かしていた。
少しも気持が浮いてこなかった。
踊っていることで、
かえって沈みそうになった。


土井を探しにきたという妙な男のことが、
頭から離れない。
懸念《けねん》するだけの徴候はあった。
土井自身が、
この前会ったときにもらしたことである。


今夜の土井が、
行先が分からないことも、
その気持をひきずった。


もう一曲踊ろうというのを、
結城は断わって、
スタンドにもどった。
三杯目の水割りを注文して、
しばらく飲んでいた。


マダムは結城が踊っている間に、
よそのボックスにすわっている。


他の客が電話を使っていた。
結城の心が動いた。
その電話が空くのを待って、
彼はダイヤルを回した。
自分の家にである。


しばらく、
信号が鳴っていた。
結城は、
電話のベルが響いている夜の自分の家の中を想像した。


「はい」

出てきたのは頼子の声だった。
結城の心が緊張した。


「ぼくだ」
と、

彼は告げた。


「はい」

平静な声である。
これは少しの感情もなかった。


「留守に変わったことはなかったか?」

これまで、
めったにしたことのない電話である。


「いいえ、
別に、
何もございません」

頼子の顔が目に見えるようだった。
水のように淡い表情である。


結城は頼子と向かいあっている気持になった。
汽車に乗っている間から、
考えていたことだが、
それを急に思いついたのは、
妻の落ちついた声を聞いてからだった。


「今夜、
風呂にはいる、
これから用意しておいてくれ」

それにも、
静かな答えがあった。


「かしこまりました」

結城は電話を切った。


カウンターにもどって、
残りの水割りを一気にのどに流した。


「勘定」

結城はカウンターに叫んだ。


声を聞いてマダムが急いできた。


「あら、
もうお帰り? せっかく、
いらしたんですもの、
もう少しお残りになりません?」

マダムは、
目に意味をふくませていた。


結城は首を振った。


「今夜は、
急ぐのでね」

横顔は冷たかった。
彼の特徴だったし、
その表情を女たちは喜んでいた。


結城はスーツケースをさげて、
一人で急な階段をおりた。


結城が帰ったのは、
十一時を過ぎていた。


頼子が出迎えた。


「お帰りなさい」

結城は、
わざと頼子の顔を見ないようにした。
スーツケースを渡して、
一人で先に部屋の方へ步いた。
女中たちは寝ていて、
家の中は音もなかった。


結城は部屋にはいって、
そのまましばらくつったっていた。


頼子は、
スーツケースを手にさげて、
あとからきた。


「お風呂の支度はできております。
すぐにおはいりになりますか?」

着物をきちんときたままで、
様子も、
結城が、
一日の外出から帰ってきたのを迎えたみたいだった。


この妻はいつもそうだった。
結城が十日間も黙って外泊して帰っても、
同じ態度である。
行先もきかない。
何をしていたかともたずねなかった。


これまで、
仕事でなく、
女と遊び步いた証拠を見せたことはたびたびだが、
それにも彼女は平気だった。
頭からそのようなことを無視していた。
結城が勝手なことをしているのを、
一度も、
口にも顔色にも出したことはなかった。


妻は、
夫の性格と職業とを嫌悪《けんお》している。


いまもそうだった。


頼子は、
着替えの着物を持ってきた。
オーバーを取り、
洋服を脱がせて、
それをてきぱきと始末しはじめた。
夫への義務的な世話は、
少しも怠っていないのだ。


他人の目があったら、
かいがいしい妻に見えるのである。


結城は、
着物を着た。
妻は、
脱いだワイシャツを片づけている。
スーツケースがそのまま畳の上に置かれていた。


結城は、
妻の姿を、
立ったまま上から見おろした。
彼はもがいている自身を感じていた。


頼子が、
スーツケースをそのままにしているのを見ると、

結城は言った。


「ぼくが風呂にはいっている間に、
そのスーツケースの中を整理しておいてくれ」

脱いだ物を片づけている頼子の手が、
瞬間に止まったようだった。
これまで、
結城が言ったことのない言葉である。


もう何年も前の話だった。
スーツケースから他の女の持ちものが現われて以来、
頼子は、
夫の持って帰ったスーツケースには手を触れないことにしていた。


結城もそれを命じたことがない。
が、
今夜は違っていた。
わざわざ、
入浴の間に片づけておけ、
と言ったのである。


結城は、
タオルを持って浴室にいった。


夜ふけの浴槽《ゆぶね》の中に身を浸《つ》けた。


ガラスの向こうから妻の声がした。


「お湯かげんはいかがですか?」

結城はそれに、
いい、
と答えた。
足音は去った。


結城は、
ゆっくりと体を洗った。


こうしている間にも、
頼子はスーツケースを開いて、
中の物をとりだしていると思う。
いや、
彼女は、
その中から出たある品を見て、
立ちすくんでいるにちがいなかった。


スーツケースの中に、
彼は、
わざと二つの品を入れておいた。


一つは、
タオルである。
これはS温泉の旅館が出した物で、
包んだ紙にもタオルにも、
その旅館の名前がはいっていた。


一つは、
その温泉|土産《みやげ》の菓子だった。
これにも、
S温泉の名前が大きくレッテルについている。
女中にでも、
やるつもりだった。


頼子がこれを凝視《ぎようし》している顔を、
結城はひとりで想像した。


今まで、
ほとんどスーツケースの整理をさせたことがなかったのに、
急にそれを命じたのは、
二つの品を彼女に見せたいからだった。
S温泉に行ってきたという証拠をである。


座敷の方から声も聞こえない。
そこで呼吸《いき》をのんで、
S温泉の文字を見つめている妻の蒼い顔が、
結城には目に浮かぶようだった。


結城は、
風呂から上がった。
座敷にもどると、

頼子の姿はなかった。
スーツケースもそこに見えなかった。


結城は、
黙って庭の方を向いた。
ガラス戸越しに木の揺れるのが見えた。


薄い光が庭に当たっている。
猫がいそいで暗い地面をよぎった。


頼子は、
容易に座敷にもどらなかった。
結城は、
自分の効果を知った。


彼は、
よほど頼子の部屋に行ってみようかと思った。
が、
思いとどまった。


彼の想像は、
頼子が、
部屋でじっと佇《たたず》んでいる姿を描いていた。


結城は煙草を胸の奥まですいこんだ。


煙を吐き、
薄れてゆくのを見ていた。
驚くほど多い煙であった。



輪香子は、
父の帰る自動車《くるま》の音を聞いた。


部屋の中でピアノを弾いていたのだったが、
それをやめて、
すぐに立った。


自分の部屋を出たとき、
廊下を急ぎ足で来る母と行きあった。


「お父さま、
お帰りですのね?」

「そう」

母は短く言った。
輪香子は、
そのあとから従った。
父の帰りがおそいときは別として、
なるべく母といっしょに迎えに出るようにしていた。


玄関で、
父は靴を脱ぎかけていた。
腰をかがめて紐を解いている。


「お帰りなさい」

輪香子は母といっしょに挨拶した。


父は、
うん、
とかなんとか、
口の中で言って式台に上がった。
顔が赤いのは宴会の帰りにちがいなかったが、
まだ八時過ぎなので、
ずいぶん早い切りあげだ、
と思った。


その父の横顔は、
ひどく不機嫌そうだった。
もっとも、
外から帰ってくる父は、
いつもそれほど機嫌はよくない。


父は、
自分の居間にはいった。
母のあとについて輪香子も従ったが、
父は格別に輪香子には声をかけなかった。


時々、
父は輪香子に土産を持って帰ることがある。
そうでなくても、
かならず何か言ってくれた。
一人娘なので、
輪香子は、
時には母よりも父から甘やかされていた。


そのとき、
父は、
輪香子をちらりと見ただけだった。
やはり機嫌がよくない表情で、
母が気をつかっていることが分かった。


輪香子は、
それなりに部屋を出ていった。
子には、
両親の気まずさが分かるものである。
彼女は、
そこに長くいるのが悪い気がした。


帰ってから、
ピアノの続きをしようとも考えたが、
その気持が起こらなかった。
今日の父の様子は普通ではない。
単純な不機嫌さでなく、
もっと根のある複雑なものが原因していそうであった。


母は、
廊下に出なかった。


父の着替えの手伝いをすますと、

すぐに出てくるのが母の癖だった。
それがいつになく父の部屋に残っていることで、
彼女の予感は当たったような気がした。


この間から新聞には、
父の勤めている役所の汚職がしきりと出ていた。
まだ小さな記事で、
なんということもない。
係長クラスの人間が警視庁に留置された、
というのである。


輪香子は、
父に言えなかったので、
そのことで母にきいた。


「わたしも、
それを心配したのよ」

母は言って聞かせた。


「お父さまにうかがったら、
その課だけの小さな不都合だそうよ。
なんだか係りの人が業者から、
ケチな物をもらったことが引っかかっているので、
しようのない奴《やつ》らだ、
と言ってらしたわ」

「お父さまに責任がおよぶことはないでしょうか?」

輪香子はきいた。


「それはないっておっしゃったけれど。
課の下の人がしたことなので、
局長までは責任はいかなくてすむんだそうです」

「いろいろな人がいるので、
お父さまも厄介だわね」

輪香子は、
一応、
母の話で安心した。


それから新聞に気をつけて見るのだが、
記事はそれきりだった。
初めから小さな扱いなのである。


そのことがあって一週間以上たっている。
輪香子は、
いつかその記事のことを忘れかけていた。


今夜の父の不機嫌に出あうと、

思わずそれがまた心に浮かぶのである。
が、
あのことは、
それきりどの新聞にも出ないし、
父にもその気配がなかった。


何かあれば、
母がかならず言うはずである。


輪香子は、
ピアノの蓋をしめ、
本棚から読みかけの本を出した。


しかし、
一ページも進まなかった。
活字がただ目に映るだけで、
文章の中にはいれなかった。
耳の一方は、
父の部屋の方に気をとられているのである。


こういう時に、
和子から、
電話がかかればいいと思った。


むろん、
彼女の電話で輪香子が考えている心配が消えるわけではない。
しかし、
少なくとも今の気持が救えそうだった。


それは、
両親の争いの中から逃げていくような気持と似かよっていた。
自分だけの勝手な考えだが、
和子と電話で話すことで、
この重い気持がまぎれるのである。
しかし、
都合よく和子から電話がかかってくるはずはなく、
輪香子は、
自分のほうから電話をしようかと思った。


和子とは、
このごろ、
わりに多く会っていた。
話題はいつも同じところに落ちつく。
それが結城頼子や小野木のことだった。


和子のほうでは、
ときどき、
小野木に電話をしているらしい。


「小野木さん、
とっても忙しいらしいわよ」

彼女は輪香子に話した。


「いつお電話しても、
外に出て、
いらっしゃらないの。
ときたま居ると、

そのうちに時間ができたらうかがいます、
とおっしゃるだけだわ。
やっぱり新米のビリの検事だから、
いろいろとこき使われるのね」

和子は、
そんな言い方をした。


輪香子は、
和子のいつものやり方が羨しかった。
思うことをなんでもやってのける、
この友だちの人見知りしない性格が、
自分にもほしかった。


輪香子は、
小野木に会いたかった。


会って、
いろいろなことを話しあいたかった。
あの美しい夫人も、
口うるさい和子もいない場所でである。


輪香子の小野木へのイメージは、
いつも諏訪の青い麦畑の中である。
風が麦の穂を渡り、
カリンの白い花が、
木に星のように並んでいる、
蒼い湖面の見える場所だった。


古代遺跡の竪穴《たてあな》の中にむっくりと起きあがった小野木が、
輪香子には今でも忘れられない。
小野木のことを考えると、

いつもそれが目に浮かぶのである。


麦畑の中では、
農夫が一人|鍬《くわ》を振るっていた。
諏訪の町が段丘の下にひろがり、
蒼い水の向こうには、
なだらかな丘陵がかこんでいた。


あのくぼみのあるところが、
塩尻峠です、
と指をさして小野木が教えたものだった。


その横顔に明るい陽が当たっていた。
よごれた帽子も、
きたない鞄《かばん》も、
輪香子にだけ印象づけてくれた。


小野木が低い坂をおりていく。
麦笛でも作って吹きそうなたのしそうな足どりだった。
輪香子は、
もう一度カリンの花の咲く諏訪に、
小野木といっしょに行きたかった。
そこでいろいろなことをしゃべりたかった。


上諏訪の駅で、
プラットホームを步いている小野木の顔を見たのが二度目だったが、
そのときの彼は、
もうあの美しい夫人につながっている別な小野木だった。


こちらの汽車の窓で眺めているのを知らないで、
ホームを步いている小野木の顔が、
ちがったように寂しそうだった。
これから富山の方に行くのだ、
と言っていたが、
好きな旅をする人の顔ではなかった。
孤独げな姿が輪香子の心にすぐに映ったのだが、
それは結城頼子の翳《かげ》だとは、
近ごろ知ったのである。


輪香子は、
その苦しげな小野木と連れだって、
思いきり広い空の下を步きたかった。


田沢は妻に手伝わせて着替えていた。
帯を締めながら、
洋服を片づけている妻に、
不意に言ったものである。


「この間のミンクのコートだがね」

何気なさそうな声だった。


「あれは輪香子にやったのか?」

妻はちょっと手を止めたが、
夫のほうは見ないで返事した。


「いいえ、
あれっきりになっています」

「そうか」

夫は煙草に火をつけて、
しばらくそこに立っていた。


妻が妙だと考えたとき、
夫は少し言いにくそうに言った。


「きみは、
あのコートはいらないだろうね?」

「この前、
申しあげたとおりですわ」

妻は普通の口調で答えた。


夫は、
ちょっと黙っていたが、
「あれは、
家に置かないほうがいいだろうな。
誰か親戚《しんせき》でほしい者がいたら、
やったらどうだね?」

呟くようにぼそりと言った。
妻がはっとしたのは、
それを聞いてからだった。


「はい」

そう返事しただけで、
黙って片づけをつづけていた。


夫と妻の間には、
しばらく会話がとぎれた。
夫は煙草をのみ、
妻はたたんだものを洋服掛けにかけていた。


「あなた」

不意のように、
妻は、
夫に向かった。


「あのミンクのコートがどうかしたのでございますか?」

妻の目が夫の顔をまっすぐに見ていた。


夫のほうは目を逸《そ》らした。


「別に」
と、

煙といっしょに吐いた。


「どうもしないがね」

「でも、
急にそんなことをおっしゃって」

「しかし、
おまえも気に入らぬようだし、
輪香子にもやりたがらないようだから、
処分したらどうだね。
今、
思いついたから、
そう言ったのだ」

「いいえ、
そうじゃございませんわ。
他所《よそ》にあれをやったほうが、
ご都合がよろしいのではございません?」

「どういうのだね?」

夫は静かだった。


「わたくし、
初めから、
あれが気にかかっていました。
わたくしにはもったいのうございますわ。
あんまり立派すぎて」

「それは皮肉かな」

夫はじろりと妻をみた。


「いいえ、
そうじゃございません。
いただいては悪いような気がしたのです。


はっきりおっしゃっていただきたいわ。
この間のことを、
もう一度おききするようですが、
新聞に出ていることは、
本当に、
あなたには関係ないのでございましょうね?」

「もちろんだ。
そんな小さなことで、
いちいちおれが責任とれるか」

「それなら安心でございますわ」

しかし、
妻の顔は安心していなかった。


「やはり、
おっしゃるように、
ミンクのコートはさっそく、
わたくしが処分します。
ああいう物が家にあったら、
いいことはないと思いますわ」

妻は、
はっきりと言った。
夫は煙たそうな顔をしていた。


「でも、
わたくし、
とても心配でございます。
あなたのご様子が、
近ごろ、
少し変わったように思うんです」

「なんのことだね?」

夫は低くききかえした。


「ただなんとなく、
そう思うのですわ。
あなたは、
前からりっぱなかたでした。
前は、
貧乏でしたわ。
今だって、
そう自由とは思いませんが、
あのころからみると、

ずいぶん恵まれています。
輪香子も大きくなったし、
もうすぐどこかに嫁《や》らなければなりません。
大事なときですわ。
あなたに変なつまずきがあっては困るんですの」

夫は妻の顔を見ないでいた。


「なんのことか、
はっきり言ってみたらどうだな?」

「わたくしに、
何か隠していらっしゃるようなところが見えるんです。
役所の宴会が多いことは、
前から分かっていますけれども、
前になかったものが、
近ごろときどき、
わたくしの目に触れるのですわ」

夫は声をのんだようだった。


「ご交際ですから、
それは仕方がありませんわ。
でも怖《こわ》いのは、
あなたの地位の利用をねらって業者のかたが運動していることです。
それは、
家《うち》は貧乏ですわ。
でも、
そう不自由とは思いません。
わたくし、
月々いただくものでありがたいと思っています。
今の生活が分相応なんです。
ですから、
ミンクのコートは、
せっかくですが、
初めから、
わたくし、
気にそまなかったんです」

妻は、
夫の顔を直視した。
その目は光っていた。


「本当になんでもないんですね? 本当に、
この間、
新聞に書いてあったことには関係ないんでしょうね?」

「この間、
言ったとおりだ」

夫は、
少しうるさそうに答えた。


「ぼくがそんな事件に、
かかわりあいがあると思っているのか」

「いいえ、
それは思いませんわ。
でも、
急にあのコートをどこかにさしあげたら、
とおっしゃるのを聞くと、

わたくし、
やっぱり、
気にかかるのです」

「安心してくれ。
そういうことは絶対にないよ。
ただ、
あの品物はちょっとまずいんだ。
いや、
別に、
おれがどうかしたという理由じゃなく、
あれは家《うち》に置きたくないのだ」

輪香子は、
辺見のいる新聞社に電話をかけた。


電話口に出た辺見に、
「すぐにお会いしたいんですけれど」

と言うと、

辺見のほうで驚いた声を出した。


「ほう、
珍しいですな」

しかし、
彼の声はいそいそとしていた。


「なんですか、
いったい?」

「お目にかかってお話ししますわ。
お忙しいかしら?」

輪香子はきいた。


「今ならちょうどいいです。
夕方から忙しくなりますが」

「それなら、
すぐうかがいますわ。
新聞社にうかがったらいいでしょうか?」

「そうですな。
社では落ちつくところがありませんから、
社の近くに小さな喫茶店があります。
あまり人の行かないところですから、
そこがいいでしょう」

辺見のほうでその名前を指定した。


家を出て、
電車に乗り、
輪香子がその店を探してはいると、

辺見はすみの方で新聞を読みながら待っていた。
彼は輪香子を見ると立ちあがり、
にこにこした。


「こんにちは。
いつぞやは失礼しました」

辺見はうれしそうだった。
忙しい仕事をしているせいか、
すぐ感情が素直に外に現われた。


「輪香子さんから来ていただくのは珍しいですね。
なんのご用件かと、

ここで待っている間にいろいろ考えていたとこです」

辺見の明るい言葉が、
輪香子には重くこたえた。


そこは、
静かな喫茶店で、
客があまりいなかった。
外は賑やかな人の流れだが、
店の中は、
ひっそりとしていた。
こういう話をするには、
辺見は、
はからずも適切な場所を選んでくれたものだった。


「お母さまはお元気ですか?」

辺見はきいた。


「ええ、
ありがとう。
元気ですわ」

「ここんところ、
ちょっとご無沙汰しています。
どうぞよろしくおっしゃってください」

「ええ」

輪香子は、
ちょっとさしうつむいたが、
「実は、
今日、
わたくし、
辺見さんに会うのは、
母には黙ってきたんです」

と言った。


「そりゃ、
いちいち、
お断わりになることはないでしょう。
もう大人《おとな》ですからな」

辺見は、
輪香子の面会をどこまでも軽く考えていた。


「いいえ、
そういう意味じゃないんです」

彼女は、
話すのが苦しかった。
思わず表情に出たものとみえ、
辺見が妙な顔つきをした。


「なんですか?」

彼の顔から微笑が消えた。


「実は、
お願いがあって来たのです。
近ごろの新聞に、
R省の汚職のことが出てるでしょ。
父の局なんです」

辺見の顔が、
その時に変化した。
目が急に当惑したようになった。


「そりゃ知ってます」

だが、
返事のほうは軽かった。


「新聞は、
毎日、
いやでも社で読まされてますからね。
そんなことを心配して、
輪香子さんは来たのですか?」

「いま言ったように、
父の局で起こったことです。
はっきり申しあげると、

父がどの程度これに関係があるのか、
教えていただきたいのです。
辺見さんは、
新聞社にいらっしゃるし、
父の役所の担当ですから、
誰よりもよくお分かりになると思って、
うかがいに上がったんです」

昨夜、
父と母とが何か争いをしていた。
輪香子が父の部屋を出たあとだった。


その場にはいなかったが、
それは様子で分かるのである。
父の部屋から母は容易に出てこなかった。
何かある、
と感じた直感には、
やはり間違いはなかった。


母にはあとで顔を合わせたが、
いつもの様子ではなかった。
これは輪香子のほうできいたが、
母は答えなかった。
輪香子に見せる態度が、
けっして、
変わったのではなかったが、
母の顔色から、
父との間に何かあったことはすぐに分かった。
母は気の浮かない表情をしていたし、
目つきが悲しそうだった。


それが新聞記事に関係しているのではないか。
母の不機嫌や心配の原因は、
父にその責任がおよびそうだと分かったからではないか。


母の返事が得られないとなると、

やはり辺見にきくほかはなかった。


辺見はR省関係方面を担当していて、
父には目をかけられている。
彼なら誰にきくよりも、
事情をよく承知しているし、
ありのままを言ってくれそうだった。


ところが、
辺見は、
初めから軽そうな口吻《くちぶり》だった。
輪香子には、
わざとなんでもないことのように言っているような気さえする。


「辺見さん、
わたくし、
たとえ父がどのような立場にいてもかまいませんわ。


正直に教えていただきたいんです。
心配で、
じっとしていられなくなったんです」

「ごもっともです」

辺見はうなずいた。


「でも、
輪香子さん、
実のところ、
ぼくもよく知らないんですよ。
いや、
これは体裁で言ってるんじゃありません。
今度、
別なある課の係長が逮捕されそうなんですが、
この事件は、
せいぜい課長補佐あたりで止まるのじゃないかと思っています。
お父さまのところまでは、
けっして責任がいかないと思いますよ」

辺見は、
やはり同じ調子で答えた。


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