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15ニューグランド.ホテル


小野木は、
地下鉄を神宮前《じんぐうまえ》駅で降りた。


夕方なので、
混んだ電車から降りると、

体が急に軽くなったような気がした。


階段を上がって道路に出ると、

たそがれの街には灯がはいっていた。


小野木は、
電車をやりすごし、
自動車の列の切れるのを待って、
道を向かい側に渡った。


頼子は、
表参道を少しはいったところの並木の下に立っていた。
夕暮れの中に佇んでいる彼女は、
今日は黒っぽいコートを着ている。


葉を落とした並木の梢の片側には、
窓だけが明るいアパートがつづいていた。


中央の道は、
神宮までずっと延び、
自動車《くるま》の往来が激しい。
人目から避けるようにして立っている頼子の姿は、
小野木に妙に寂しそうに見えた。


「お待たせしました」

頼子は黙って会釈《えしやく》した。
薄暗い中に、
彼女の白い顔がほのかに浮いていた。


「お忙しかったんでしょ?」

頼子は、
步きだした小野木の横に寄りそった。


「このごろ、
急に忙しくなったのです。
自分の時間が自由にとれないくらいです」

小野木は、
ここに来るまで、
特捜部の連中と会議に出ていた。
朝から一日じゅうぶっ通しでつづいたのである。
疲れていた。


「すみません。
そんなにお忙しいところに電話をかけちゃったりして」

頼子が詫びた。
二人は、
爪先を遊ばせるようにして步いた。


「いや、
ぼくも、
あなたに会いたかったのです」

小野木が言うと、

頼子は黙っていた。
それなりに二人は步きつづけた。


「あら、
どこに行きますの?」

頼子が気づいたように立ちどまった。


「さあ、
どこに行こうかな?」

ただ自然に步きだしたので、
まだ方向はきまらなかった。


遠近法の透視図を見るように、
道も、
並木も、
家も、
はるか彼方《かなた》の一点に集中し、
その先には黒い杜《もり》がのぞいていた。
その上を暮れ方の雲が残光をひいてはってゆく。


「わたし、
海が見たいわ」

頼子が言った。


「海?」

「もう、
ずっと見てないんです。
なんだか無性《むしよう》に見たくなりましたわ」

「海だと……」

小野木は言った。


「東京湾ですね」

「いいえ。
それよりも、
いつかごいっしょしていただいた、
横浜の海を見たくなりました。
あなた、
よかったら、
行きません?」

小野木は、
頼子が自分との最初の記憶をもう一度目によみがえらすのだ、
と思った。


「いいでしょう」

小野木は外国人の乗った車を見ながら言った。


「うれしいわ。
思いたってよかったわ」

頼子が、
走ってきたタクシーを止めた。


「どちらへ?」

運転手は背中できいた。


「横浜へ行ってください」

「ヘい」

運転手は、
長距離なので喜んだ。


付近に駐車していた車が、
二人の乗ったタクシーのあとから走りだした。


タクシーは、
渋谷から五反田《ごたんだ》に回り、
京浜国道に出た。


「ずいぶん会いませんでしたね?」

小野木は、
横の頼子に言った。


「ちょうど二週間ですわ」

「そうなりますかね」

小野木は、
その間、
何度か頼子から電話をもらっている。
が、
今、
かかっている事件が複雑で大きいので、
たいてい帰るときが夜十一時ごろになった。


そのつど断わってきたものだった。


「そう、
電話でちょっと聞きましたね。
何か特別に話があるということでしたが」

それには、
頼子は黙っていた。
小野木が見て、
その顔がいつもと違って感じられた。
しばらく会わなかったせいかと思ったが、
どこか表情がかたいのである。


急に海を見たいと言いだしたのも、
頼子の心の何かが言わせているのではないか。
顔色もふだんより蒼い。
最初見たとき、
それを暮れる空の色のせいだと考えていたのである。


車は速力を増した。
繁華な通りを抜けてようやく郊外に出ていた。
街の灯りも次第に少なくなって行く。


「何かあったのですか?」

小野木の手は頼子の膝の上で、
彼女の両手に包みこまれていた。


いつものしぐさではあった。
だが、
頼子の手の中にある小野木の掌《て》は、
それがつねより堅く押えられているのを感じた。


頼子の手が冷たかった。


車は長い橋を渡った。
川の暗い水に工場の灯りが映っている。


「ねえ、
小野木さん」

彼女は呟くように言った。


「わたしは、
結城の家を出ますわ」

小野木が思わず見た頼子の横顔は、
唇をかんでいるようにかたかった。


「いいえ、
これは、
あなたには関係ないことですわ。
わたくしが勝手に、
そう決心したんです。
心配なさらないでください」

「どういうのです。
何かあったんですね?」

「そうではないと、

申しあげていますわ」

車は、
川崎《かわさき》の寂しい街を抜けていた。


左の方に、
工場の黒い煙突が、
夜空にうすく見えていた。


「急だと思いますが」

「いいえ」

頼子は、
普通の声で言った。


「もう、
前から、
その決心だったんです。
わたし、
近いうちに、
郷里《くに》に帰りますわ。
そして、
正式に結城と別れます。
離婚の手続きがすむまで、
田舎《いなか》にのんびりしているつもりですわ」

小野木は、
やはり結城と頼子の間に何かあったのだと思った。


利口な女《ひと》だから、
詳しい説明をしない。
これはきいてもむだだ、
と悟った。


小野木は、
その瞬間から新しい世界がくるのを感じた。
暗鬱な長いトンネルを通りぬけそうな思いだった。


「分かりますよ」

小野木は、
それだけ言った。


「そうなったとき、
ぼくはきっと、

あなたを迎えに行きます」

頼子の手が、
前よりももっと強く彼の掌を締めつけた。


「本当に来てくださるのね?」

頼子が叫ぶように抑えた声で言った。


「行きますとも。
実を言うと、

ぼくは、
あなたがそれを言いだすのを待っていたんです。
ぼくはあなたのご主人を知らないし、
あなたの生活のことも知識にありません……」

「ごめんなさい」

頼子はさえぎってあやまった。


「どうしても言えなかったのですわ。
そのことを言うと、

あなたを、
苦しめそうでした」

「分かっています。
ぼくは、
それを少しも責める気はありません。
最後までうかがわないことにします。
ただ、
ぼくは、
あなたというひとりの人間だけあればいいのです。
その背景も、
つながりも知る必要はありません」

「しあわせだわ」

小さな声だったが、
急に濡れたものに変わっていた。


タクシーは鶴見《つるみ》の街にはいっていた。


頼子は小野木に言えないことがある。


結城が、
自分たちのことを気づいているらしい様子をである。


この間、
結城は旅行から帰って、
頼子にスーツケースを整理させた。
それも、
すぐ片づけろ、
というのであった。
珍しいことで、
今までわざわざ命じたことはなかった。


顔色を変えたのは、
そのスーツケースの中から、
S温泉の旅館のタオルと土産の包みが出たことだった。
それを発見したとき、
呼吸《いき》が止まりそうだった。
顔から血がひいた。


夫が、
湯から上がってくるまでが耐えられなかった。
自分の部屋にも帰れず、
家を出て近くの暗い通りを彷徨《ほうこう》したものだった。


結城は知っている。
たしかに、
知ってのうえのやり方なのだ。


すぐに、
別れなければならないと決心した。


前にも、
夫には別れる話を相談したことがある。
夫は意地悪く相手にしなかった。


頼子は、
それを切りだす機会を待っていた。
夫は頼子のそのような様子を察して避けるようにしている。
ずっと口をきかないし、
何日もつづけて外に泊まって平気である。
頼子は夫と落ちついて話しあうときを失い、
それを待っていた。


それが、
このような形できたのである。
S温泉じるしのタオルと土産の包みを見せつけたのは、
夫がわざと言葉でなく、
証拠で詰問をしているのだった。


その後の夫の表情にも態度にも、
特別に変化はない。
頼子は覚悟をしていたのだが、
夫は何も言わなかった。


そして、
翌日から出かけたまま帰らない。


彼女が結婚の失敗を悟ったのは、
挙式のすぐあとだった。
このとき、
決断しなかったことが、
今は罪の意識となって、
彼女を罰した。


はっきり家を出ることに決めたのは四、
五日前からである。
最初、
小野木には黙ってそれを実行するつもりだった。
この離婚は、
小野木とは関係がなかった。
自分だけが解決することだった。


小野木と結婚できなくても、
彼女は諦めるつもりだった。


これは、
夫には告白もできなかった。
小野木に迷惑がかかるのである。


普通の職業ではなかった。
検事という小野木の地位が、
そのために奪われ、
彼の一生を泥土《でいど》の中に埋没させそうであった。
夫には、
そのようなことに持っていきそうな性格があった。
それが恐ろしかった。


小野木に心配させないためもあったが、
決心の事情を言えないのは、
夫のことがあるからである。


もともと、

これまで、
小野木に、
夫の結城のことが打ち明けられなかったのは、
その暗い職業が、
頼子にひけ目を負わせていたからだった。


家は、
明日にでも出たかった。
夫と、

落ちついて離婚を相談するのは不可能と悟った。
自分と別れても、
夫は困ることはないはずである。
ただ、
その決心になると、

やはり小野木に一目でも会いたかった。


この間から電話したが、
小野木は忙しがっていた。
今夜がその機会だった。


タクシーが横浜の街にはいった。
桜木町《さくらぎちよう》への高架線がながながとつづいた。


頼子が見て、
小野木の顔は明るかった。
頼子が離婚の決心をしたと聞いて喜んでいた。


「この前、
ここに来たときは春でしたね」

小野木は、
窓の外を見て言った。


タクシーが、
公園の暗い木立の見えるところに来ていた。


「おぼえていますか?」

頼子は、
かすかにうなずいた。


「降りますか?」

彼がきくと、

「ニューグランドから、
港一帯が見えますわ。
一ばん上が食堂になっているんです。
そこからゆっくりと海を眺めてみたいわ」

「いいでしょう」

車は、
ニューグランド.ホテルの賑やかな明るい灯りを、
前方に見せていた。


「きみ」

小野木は、
運転手の背中に言った。


「ホテルの前でとめてくれたまえ」

この車がホテルの玄関にすべりこむと同じくらいに、
後ろから来ていた車が、
少し過ぎたところにとまった。


降りた男はまだ若かった。
彼は急いでホテルの玄関の回転ドアの中に身をはさんだ。


その男は、
大勢の外人たちが、
ゆっくりと階段を降りている間をすりぬけて、
二階のエレベーターの前に走った。


が、
エレベーターの上の針が、
七階の数字のところで止まるのを見ると、

その男は、
安心したような顔をした。


食堂は七階にあった。


クロークで、
頼子が黒いコートをぬぐと白っぽい着物が現われた。
この急な変化が眺めている者に目がさめるようだった。


ボーイが先に立って、
窓際のいい席をとってくれた。


「きれいだわ」

頼子がすわる前に言ったのは、
その窓全体に横浜の夜景が広がっているからだった。


暗い海に、
外国船の灯がかたまって落ちている。
大きな船は三隻だったが、
それぞれ夜の城みたいだった。
その背景に、
鶴見あたりの灯がつらなっていた。


船のマストの赤い灯が、
小さくかわいかった。


窓の下の隅に、
手前の山下公園の木立が、
半分のぞいていた。
街灯の灯が黒い樹木の間に、
まばらに光っている。


頼子がそれをじっと見ている。
この前、
小野木とここに来たときのことを思いうかべているのだろうか。
そのあたりが、
今も暗い塊《かたまり》になっている。


彼には、
頼子が向けている視線の意味が分かっていた。


ボーイが注文《オーダー》をとりにきた。


小野木は、
生《なま》のオイスターを注文しておいて、
「少しのみますか?」
と、

頼子に笑いかけてきた。


「ええ、
いただきますわ」

小野木は、
彼女のために軽いジンフィーズを頼んだ。


あたりの白いテーブルは、
ほとんどが外人客だった。
声をひそめて話しあう行儀のいい食事である。
片側で、
楽団が静かな室内楽をやっていた。
たえず木琴が鳴っている。


頼子は外ばかりながめていた。
小さなランチが細い灯をひいて、
暗い海を流れていた。


「どうして、
急に海が見たくなったのですか?」

小野木がきくと、

頼子は白い顔をこちらに戻した。


「なんとなく見たくなったのです。
でも、
よかったわ、
ここに、
連れてきていただいて」

ジンフィーズがきた。
二人はグラスを合わせた。


「珍しいですね」

小野木は笑いかけた。


「これ」

頼子は指で握っているグラスを見た。


「今夜は、
なんだかいただきたくなったんですの」

その気持は小野木に伝わった。
彼は言葉がすぐに出なかった。


「今夜、
こういうところに来ようとは思いませんでしたね。
ぼくがあなたに会うまでは、
夢にも考えていなかったんです」

小野木は、
正直に感想を言った。


「人間は、
どんなきっかけで思わぬ行動をするか分かりませんのね。
わたくしも、
ただ、
海が見たいと思っていただけなんです。
ふしぎだわ。
こうして、
あなたと、

この場所にいっしょにいることが」

頼子の言葉は、
これから先の自分の運命の方向を言っているみたいだった。


小野木は、
なるべくその話から避けるようにした。
これは、
その問題を、
彼なりにもっと深く考えてみたかったからである。
頼子の気持も分からないではないが、
やはりこの場所でなく、
頼子と二人だけの世界で話したかった。


「頼子さんの郷里《くに》には、
海がないんですか?」

小野木はきいた。


「そりゃ遠いんですの。
ですから、
小さいとき、
とても海にあこがれていました。
山に囲まれた町ですわ」

頼子は、
追想するような瞳《め》になった。


「静かな町ですわ。
小さなお大名の城下なんです。
まだ崩《くず》れかけた土塀のつづく武家屋敷が残っていました」

彼女は話した。


「白い土蔵や藁《わら》屋根が幾つもあるんです。
士族屋敷の黒い小さな門に、
蔦《つた》かずらなどが下がっているんです。
子供のときは、
随分きたないおうちだ、
と思っていましたが、
今、
考えると、

落ちついた通りですわ。


道に立っていても、
しばらくしないと人が通りかからないんです」

その古い城下町に、
頼子はすぐに帰ることになるかもしれないのだ。


彼女の生《お》い立ちは、
いつぞや、
小野木が大体を聞いた。
古い町の古い名家の育ちである。


今の夫はどういう職業の人か、
小野木には分からない。
頼子がそれを言いたがらないのは、
何か事情がありげだった。
いや、
小野木への複雑な遠慮からではなく、
何か暗いものを感じさせるのである。


その暗さが頼子の生活に出ている。
むろん、
小野木は彼女の家を知らないから、
その生活が分かろうはずがない。
だが、
彼女の肩や体全体に、
その暗い影が落ちていた。
それが彼女の生活といったものだった。


「そのような町に、
ぼくも一度行ってみたいな」

小野木は、
山に囲まれた小さな盆地を想像した。
眠ったような町で、
人々がひっそりと生活しているのである。


「お迎えにきてくださる約束だったわ」

頼子が初めて微笑を見せた。
それは、
ジンフィーズの効果だけではなく、
彼女が、
そのときのたのしさを思い浮かべているからであろう。


「そうでした」

小野木も明るい声になった。


「そりゃぜひ行きます。
頼子さんがどんなところで生まれたか、
ぼくもその町を見たいのです」

「退屈な町。
びっくりなさるわ」

「驚きませんよ。
そういうところで暮らしてもいいと思ってるくらいです」

頼子は、
そのままの目で小野木の顔を見つめていた。


エレベーターをあとから上がった男が、
東京に電話していた。


「今、
食事をなさっています。
……ええ、
ホテルの七階です。
……すぐ、
こちらにいらっしゃいますか?」

男は送受器を指で囲い、
自分の声が他人《ひと》にもれぬようにしていた。


皮ジャンパーに黒色のズボンという、
このホテルに来る客にしてはそぐわぬ身なりであった。



食事が終わった。


ボーイが来て、
デザートをきいた。
頼子はフルーツを頼んだ。


「あら」

窓の外を見て、
彼女は小さく叫んだ。


「お船の灯が消えていますわ」

小野木は目を移した。
先ほどまで、
お城のように灯を輝かしていた外国船が、
暗くなっている。
前に見たときのほとんど半分になっていた。


そういえば、
その背景に流れている鶴見の街の灯も暗くなっていた。


こうして食事をしている間にも夜がふけて、
街や船の灯が次第に消えてゆくのである。


「わたしのいるところは、
高台でしょ」

彼女は話した。
先ほど、
車の中で見せた憂鬱《ゆううつ》はとれて明るかった。


「外を眺めると屋根がいっぱいに海のようにひろがっているんです。
夜がおそくなるにつれて、
その灯がだんだん消えてゆくんです。
ネオンもなくなりますわ。
ほんとにそれは、
夜がふけるのが目に見えるようですわ」

小野木は、
頼子が、
帰らぬ夫の家から、
しょんぼりと外を眺めている姿を想像した。


頼子はボーイが運んできたイチゴを、
白いミルクの中に浸《ひた》していた。


「十一時ごろになると、

宵の灯が半分になるでしょうね?」

「そうなんです。
見てて、
そりゃ寂しい気持」

小野木は、
頼子の話で、
灯の消えた暗い街の上にひろがる星の位置まで目に浮かぶようだった。


「小野木さん、
夜は、
やっぱりおそいんですか?」

彼女はきいた。


「ええ、
近ごろ、
投所でおそくなるんです。
帰ると、

たいてい十二時になりますね」

「まあ、
そんなに」

頼子は目を大きくして、
小野木の顔を見た。


「ここんところ、
ずっとなんでしょ? 体をこわさないでね」

「いや、
かえって、
なんだか張り切ってますよ。
明日なんか、
五時に起きなければならないんです」

「五時?」

「いや、
これは明日だけですがね。
今、
かかってる事件のことです」

「お忙しいんですのね」

彼女は、
小野木にやさしいまなざしを投げた。


小野木の仕事は特殊だし、
これは内容を頼子がきくのを遠慮しなければならなかった。
小野木もあまり話したがらない。


頼子は暗い風のようなものを感じた。


夫の結城が持っている明るくない職業が、
小野木の言葉に思いあわされた。


小野木の仕事は夫と対立的だし、
彼の中に、
夫のような職業がいつも対象になっているのを考える。


「どうかしましたか?」

小野木が頼子をのぞいた。


「いいえ」

頼子は笑って首を振った。


「ほんとうに、
今晚は思いがけなかったわ」

ナプキンをたたみ、
窓の外を眺めた。


「あなたには会えたし、
わたしの言いたいことも、
お伝えしたし、
それに、
こういう気持の晴れるところに連れてきていただいたし、
本当にうれしかったわ」

「そんなにあなたが、
喜んでくれるとは思わなかった」

小野木自身が、
頼子以上にたのしい表情だった。


「帰りましょうか?」

小野木が時計を見ると、

九時を過ぎていた。


このグリルに着いたときいっぱいだったテーブルも、
半分に人が減っていた。
楽団も、
いつのまにか引きあげている。


小野木は、
ボーイを呼んで、
会計をすませた。


頼子はもう一度窓を眺めた。


「東京から、
たった一時間だけど、
まるで旅に出たみたい」
と、

小さく笑った。


「いつも、
うちにいるでしょ。
ですから、
こんなところに来ると、

そんな錯覚をするんです」

小野木は、
ひとりで家の中に暮らしている彼女のことを考えた。


「郷里《くに》に帰っても、
当分は寂しいでしょうね?」

低い声だった。


「ううん」

頼子はかすかに首を振った。


「わたしには、
刺激の多い東京も、
退屈な田舎も、
どっちだって、
おんなじだわ。
ただ、
田舎だと、

いろいろ人目が多いんです。
わたしが帰っている間が長くなると、

すぐにいろんなことを言われそうなの。
でも、
かまわないわ、
小さくなっていますから」

「あなたが車の中で話したこと、

なるべく早く実行してください。
すぐに迎えにいきます。
そう長くあなたを放っておけないんです」

「ありがとう」

頼子は見つめて言った。


「お願いしますわ。
そのときを考えて、
わたし、
どんな辛抱でもするわ」

小野木は、
彼女の瞳《め》がうるんでいるのを知った。


二人はテーブルを離れた。
赤い絨毯《じゆうたん》を踏んでグリルを出ると、

エレベーターの前に立った。
上の針が一階に回ったばかりだった。
ボーイが走ってきて、
ボタンを押した。


待っているうちに、
外人の夫婦が小さい男の子を連れていっしょになった。


子供の世話をほとんど父親がしていた。


エレベーターが昇ってきた。
外人たちは途中の四階に降りた。
若い父親だったが、
むずかる子供の面倒をみて出ていく。
ドアが閉まり、
一階に降りるまで、
頼子にはそれが妙に印象に残った。


結城が、
車でニューグランド.ホテルの前に着いたとき、
待っていたように一人の男が近づいた。
ボーイではなく、
ジャンパーをきた男である。


「早かったですね」

男は、
車を降りた結城に向かった。


「今、
食事がすんで、
二階におられるところです。
どうします?」

近いホテルの玄関の光の中に浮かんだ結城の顔は、
複雑だった。
すぐには返事をせず、
考えているようだった。


結城は、
オーバーの襟を立てている。
その肩に光をあてて自動車が通りすぎた。


「はいろう」

結城が言った。


若い男は黙って先に立った。
回転ドアを押すと、

装飾のついた広い階段が見え、
その二階正面にエレベーターの金属扉が光っていた。
まだ誰もおりては来なかった。


階段も廊下も緋絨毯を敷きつめてある。
階下は、
観光外人向きのスーベニールの売場になっていた。


「こっちだ」

階段を上がりかけた男に、
後ろから結城は止めた。


売場は広い。
大きなケースが幾つもならんでいた。
陶器の皿や壺などをならべた棚の前に、
結城は立った。
ジャンパーの男も結城の真似をして、
品物を鑑賞しているような恰好をした。


階段の上から人影が動いた。
横にいる男が見上げて結城に注意した。


「おりてらっしゃいます」

結城はケースを離れて位置を変えた。
そこから、
ガラス棚を越してまっすぐ階段の側面が見とおせた。


頼子が男と並んでおりていた。
黒いコートの隣にいる男は、
グレイのオーバーだった。
背の高い男である。
若い、
というのが結城に与えた最初の印象だった。


十七世紀王朝ふうの大きなシャンデリアの光線が、
男の横顔をはっきりと見せた。


これは結城が見る初めての顔だった。


頼子に何か話しかけながら降りるので、
結城の位置から見て真正面だった。


広い額の、
若い瞳の男だった。
どこかで前に見たような気もしたが、
錯覚かも分からなかった。


頼子が男の話に答えて、
微笑を浮かべている。
それが実に緩慢《かんまん》に、
結城の視界を横切っていったのである。


結城は、
胸に苦しいくらい鼓動が打った。
めったにないことだ。
小指の先がふるえた。


横の男は、
結城の顔をうかがうように見た。
結城がポケットを探ったので、
隣の男はぎょっとしたような目つきをした。
だが、
これは煙草を取りだしたのである。


ゆっくりと、

口にくわえた煙草の白さが目に強かった。
ライターを鳴らして火をつけたが、
炎がふるえていた。


やがて玄関の方角に、
車のドアの閉まる音を耳にした。


結城が階段を見つめてからその音を聞くまで、
全く長い時間だった。
心とは反対に自分の動作も悠長だった。
煙草を肺まですい、
味わうように煙を吐いたものである。
男が怪訝《けげん》な顔をした。


陳列の陶器は、
冷たい色で電灯の光をとめていた。
美しい模様である。


外国人の好みのような派手な意匠が、
白い肌に施されてあった。
ロココふうのものもあれば、
シナの山水画のようなものもあった。
統一がないのは当たりまえで、
買い手の好みはばらばらである。


結城が頼子の目の前に姿を出さなかったのも、
彼の好みである。
妻と青年の乗った自動車が走りでる音を耳に確かめてから、
彼はその場所を出た。


「あとを」
と、

ジャンパーの男が急いで言った。


「追いましょうか?」

結城は黙って、
上着のポケットに手を入れた。
財布から何枚かの札をいいかげんに数え、
それを手の中にたたみ、
若い男に突きつけるように出した。


「ご苦労だった」

男は意外そうな顔で結城を見上げた。


「では、
これでもう」

結城はうなずいた。


「どうも」

秘密探偵社の男は、
軽いおじぎをして結城から離れた。
結城に投げた彼の目に、
軽蔑《けいべつ》の色があった。


結城は玄関に步いた。
回転ドアがまだ風車のように回っている。
今の男がとびだして行った余勢である。
結城はことさらに力を入れてそれを回した。


外に出ると、

寒い風が吹いていた。
その中にロシアの将校のようないかめしい恰好のドアマンが足踏みして立っていた。


「お供は?」

将校は、
ホテルから出て来た客に問いかけた。


「ない」

結城は短く答えた。


「タクシーを」

彼は風に吹かれて言った。


「かしこまりました」

道路に向きなおり、
金モールをのせた肩章の片腕を高々とあげた。


タクシーがとまった。


結城は、
銀貨を二つ男の掌《て》に与えて車に乗った。


「東京だ」

運転手の背中に命じた。


走り出す車に、
大きな帽子のロシア将校がうやうやしく敬礼した。


片側に黒い木立がつづく。
公園の中には街灯がまばらに立っていた。
木立の隙間に暗い海が見え、
船の灯がともっていた。


結城は、
暗い自動車の中で煙草をすいつづけていた。


まだ九時過ぎだから自動車の多い時刻である。
結城は、
フロント.ガラスに見えるほかの自動車の赤いテールを眺めていた。


そのたくさんな灯の一つに、
頼子とその連れとが乗っているような気がする。
前の車がとまると、

横を通りぬけるとき、
結城は思わず客をのぞきこむようになった。


横浜から都内にはいるまで、
結城は考えこんでいた。
気むずかしい客と思ったのか、
運転手は話しかけない。
事実、
結城は一言《ひとこと》も口をきかないのである。


五反田の駅が見えたころ、
初めて運転手はきいた。


「どちらへまいります?」

結城に当てはなかった。
今夜、
自分の家に帰る気がしなかった。
頼子の顔を見るのが、
彼自身を怯《ひる》ませた。


結城は、
杉並のある町を指定した。


結城は、
今夜泊まるところをいろいろ考えた。
それには不自由をしない。


が、
そこに行くと、

何か別な自分になりそうだった。
杉並の女の家を指定したのは、
そこが、
いちばん現在の彼の気持を弛緩《しかん》させる場所だったからである。


結城は、
耳に物音を聞いた。


最初は分からなかった。
けだるい夢の中の音のような気がしていた。


寝ている場所が自分の家でないことだけは分かっている。
昨夜、
おそくまで、
ここで酒をのんだ。
それは女があわてるくらいに乱暴な飲み方だった。


その酔いが頭にうずきを与えている。


物音で薄く目をあけたが、
部屋は暗かった。
横に寝ていた女が起きあがりかけているのを、
薄い意識の中でとらえた。


「ごめんください」

襖《ふすま》の向こうで小さい声がした。
女中が遠慮そうに起こしているのである。


「なによ」

女は身支度をしながらきいていた。


「あの、
お客さまでございます」

「こんなに早く?」

女の声が呆《あき》れていた。


「いま、
何時?」

「はい、
六時でございます」

「そんなに早く、
いったい、
誰かしら?」

「旦那さまを訪ねていらっしゃいましたが」

「誰だろうね、
いやだわ」

女は、
結城の友だちが夜遊びのあげく、
押しかけてきたものと早合点したらしい。


「お名前をうかがったの?」

「はい、
名刺をいただきました」

名刺という言葉が女を驚かせた。
結城の友だちなら、
わざわざ名刺を出すことはない。


「あなた」

女は、
結城を起こした。


結城もその話し声ではっきり目をさましていた。


「誰でしょうね、
名刺を持ってきたんですって」

少し心配そうだった。


結城にも心当たりはなかった。
しかも、
この「西岡《にしおか》」の家に結城がいることを知っている客である。


「とにかく、
その名刺を見せて」

支度をすませた女が襖をあけた。


まだ夜の世界で、
電灯が赤々とついていた。
女中はエプロン掛けで襖のそばにかしこまっている。


「どれ、
お見せよ」

女は女中から名刺を取った。
まず、
自分で電灯にかざしていたが、
「あ」
と、

短く叫んで、
寝ている結城のそばにすわった。


「あなた、
検察庁からよ」

結城は、
急に肩を起こした。
名刺には「東京地方検察庁検事山本|芳生《よしお》」の文字が刷られている。
結城は、
しばらく呼吸《いき》を詰めていた。


「何人で来たのかね?」
と、

女中に問うまで、
しばらく間があった。


「はい、
五人さまでございます」

結城は、
名刺を女に戻した。


「その辺を片づけて、
上げなさい」

「はい」

女中は玄関へ去った。


「あなた、
どうしたのでしょう?」

女はうろたえていた。


「おれを引っぱりにきたんだろうね」

結城は、
床から起きて、
丹前に着替えていた。


「まあ」

女は、
結城を見つめて蒼い顔になっていた。


「上にあげたかい?」
と、

結城がきいたのは、
戻ってきた女中にだった。


「はい、
あちらでお待ちになっていらっしゃいます」

「あなた」

女が結城の後ろから心配そうについてきた。


「大丈夫? 心配だわ」

結城は黙っていた。


土井が留置されたときから、
このことはいずれあるものと覚悟していた。


そのために、
幾つかの書類は処分していた。
が、
彼の自信は、
自分のところに来るにはまだ間があると思っていた。
手は打ったつもりである。
そのことを頼んだ代議士も、
情勢の好転を伝えて、
安心するがいい、
と言ってくれたばかりなのである。


結城は、
顔を洗った。
ゆっくりと歯を磨きながら、
検事の前で言う答えを考えていた。


女は顔色を失って、
結城の周囲をうろうろしていた。


襖をあけた。


背広の男が五人、
寒そうにすわっていた。
結城が見て、
少しも威圧を感じない連中である。
どの男の背広も古く、
肩が白くなっている。


五人はいっせいに結城を見上げた。


「結城です。
ご苦労さまです」

結城は膝を折った。


「名刺はさしあげておきました」

その中の若い男が、
訪問の挨拶をした。


ふところから書類を出した。
四つにたたんだ細長いものである。


「念のためにおうかがいしますが、
結城庸雄さんですね?」

貧弱な男だったが、
目だけは鋭い。


「そうです。
結城です」

「これから検察庁にご足労していただきたいんです。
任意出頭という形になっておりますから」

結城はうなずいた。


「承知しました。
お供します」

「これは」

検事は紙をポケットから出した。


「捜索差押え令状です」

「分かりました。
家宅捜索ですね」

結城は言ってから問いかえした。


「では、
自宅のほうも?」

「そうです。
ご自宅のほうは、
別な人間がうかがってるはずです。
結城さんがどちらにいらっしゃるか分かりませんのでね」

「しかし、
よくここが分かりましたね。
さすがですな」

「いや、
やはり商売ですよ」

五人は声を合わせて笑った。


結城は、
別間に立って、
洋服に着替えた。
女は、
その手伝いにもあわてていた。


「あなた、
すぐ帰られるんでしょ?」

「まあね」

曖昧《あいまい》に答えた。
このまま留置されるかも分からない、
と思った。


今ごろは、
自分の家でも家宅捜索は行なわれているであろう。
それを眺めている頼子の顔を、
結城は想像した。


「弁護士さんへの連絡は、
向こうに着いてから、
してください」

検事が、
ぼそりと言った。



その朝、
小野木は、
五時過ぎに家を出た。


寒い朝で、
たまった水が道に薄く凍っていた。


地検にはいると、

検察事務官たちが小野木を待っていた。
すぐ、
そこを出るので、
ストーブに火を入れてなかった。


「ご苦労さま」

小野木は一同に言った。
四人ばかりがオーバーのまま椅子にかけてかたまっていたが、
小野木を見て一時に立ちあがった。


小野木は、
家宅捜索令状を広げた。


自動車《くるま》が二台用意された。
五人ではぜいたくだが、
帰りに押収書類を載《の》せてくるためだった。


人の見えない通りを走った。
蒼白い朝靄が籠《こ》めて、
建物の窓の灯がにじんでいた。
車はまばらな通りを、
かなりな速度で走った。


車内では、
事務官たちが雑談をしていた。


現在の用事と縁のない話である。
一人が酒の話をし、
一人がマージャンの話をしている。
小野木は笑って聞いていた。
が、
その無駄話の中には、
当人たちの緊張が感じられた。


令状のあて先の家は、
車で三十分ぐらいかかる高台の方面にあった。
この辺まで来ても、
やはり、
車も人も通っていない。


遠くに見える雑木林に、
濃い靄がかかっていた。
空が明るくなった。


車は石垣と、

長い塀の多い通りにはいった。
その番地が近づくにつれて、
車の速度が落ち、
運転手は首を左右に振って探す目になった。


「ここですね」

と言ったのは、
門標の「結城」の文字を見たからである。


一行は、
車から降りた。


あたりには人の影もない。
その家は、
石段を登らねばならなかった。
刈られた芝生のある斜面の上に、
垣根の上部が見えていた。


小野木が先頭になって石段を登った。


みんな黙っている。


黒いオーバーに身を包んだ五人が、
白い息を吐きながら足早に登っているのは、
早い朝だし、
普通ではない風景だった。


玄関の前に立った。


「いい家《うち》ですね」

一人の事務官がそこを離れて、
家の具合を見るように横に回った。
出入り口を確かめている。
ここから見ると、

下町一帯は屋根を重ねて下に広がっていた。


遠くにまだ靄がはっていたが、
陽の光がそれに射しはじめた。
屋根の下に、
褪《あ》せた電灯の光が残っていた。


一人が玄関のベルを押した。


そこで、
かなり長いこと待たされた。
家の者が起きてくる時間をはかって、
五人はそこにたたずんでいた。
一人が小さく足踏みをしていた。


玄関の扉があいた。
女中らしく、
赤いセーターの若い女だったが、
起きぬけらしく、
髪の手入れがまだできていなかった。
彼女は、
大勢で洋服の男が立っているので、
びっくりしたような顔をしていた。


「ご主人はいますか?」

小野木がきいた。


女中はただごとではないと直感したのか、
目がおびえていた。


「いいえ、
旦那さまはいらっしゃいません」

小野木の後ろにいる男たちが顔を見合わせた。


「そうですか、
ご旅行ですか?」

「さあ」

女中は返事に詰まっていた。


「いや、
それならよろしい。
奥さんはいらっしゃいますか?」

小野木は名刺を出した。


「こういう者です。
朝早くからうかがって、
恐縮ですが、
ぜひ、
お目にかかりたい、
と言ってください」

女中は名刺を受けとり、
おじぎをして引っこんだ。


「旅行に行ったのかな?」

事務官たちが小声で話した。


「あちらの方は」
と、

一人が言っていた。


「もう連中が着いているころだね。
向こうで押えたかもしれない」

結城という人物のことだった。
別の場所に結城の妾宅《しようたく》がある。
同じ時刻に、
二カ所を捜索する手はずになっている。
小野木は自宅の方を受けもったのだった。


だれかが咳をつづけてした。
その声が朝の澄んだ空気の中に小さな響きを持った。


──家の中で、
頼子は起きる支度をしていた。


玄関のブザーが鳴ったとき、
最初は、
夫が帰宅したのかと思った。
これまでにないことだったが、
まさか、
こんなに早く来る訪問客があるとは思えなかった。


女中が出ていったようである。
ここまで話し声が聞こえないが、
夫でないことは確かだった。
夫だったら、
すぐに廊下にその足音がするはずだ。


頼子がそれとなく耳をすましていると、

女中が隣の部屋から声をかけた。


「奥さま、
奥さま」

頼子は返事をした。


「どうぞ」

女中は襖をあけた。


「あの、
旦那さまに、
ご面会のかたがいらっしゃいました」

名刺を持っていた。


時計を思わず見たものである。
六時を少しすぎている。


「どなたかしら?」

「あの、
大勢さまでございます」

胸がさわいだ。


「こういう名刺をいただきました」

頼子は手に取った。


活字を見た瞬間に、
目に刺されたような衝撃を受けた。


──東京地方検察庁検事小野木喬夫。


体の血が凍りそうだった。
一瞬に目のまえが暗くなった。


女中の手前、
取り乱してはいけない。
心のどこかで叫んでいた。
持った名刺がゆらいだのは、
指のふるえだった。


「応接間にお通しして」

ちゃんと言うつもりだったが、
声がかすれた。


「はい」

女中は襖をしめた。


玄関に大勢で靴を脱ぐ音がする。
女中に案内されて、
廊下を踏む足音がつづいていた。


頼子は、
それをすわったまま聞いた。
体がそのままくずれそうだった。
胸には激しい動悸が打った。
自分で顔から血の気が引いているのが分かった。


肩で荒い呼吸をした。


こういう時がいつかくる、
という漠然とした予感はあった。
それが今きたのだ。


頼子は体から力を失い、
ゆらぐように立ちあがった。
鏡台に向かって顔をなおしていたが、
あたりがくろずんだ。
妙に指の先に力がなく、
顔の皮膚にも感覚がなかった。


激しい感情が今にも発作《ほつさ》となって起こりそうな一方、
冷静にも似た絶望感が彼女を無感動に引きずりおろしていた。
その妙な違和感が彼女をぼんやりとさせていた。


小野木たちは、
女中に案内されて応接間に通った。


十畳ぐらいの広さである。
落ちついた色彩で統一されていた。
この家の主人の趣味か妻の趣味か分からない。
壁に掛けた絵の傾向からみても趣味のよさがうかがえた。


女中はガスストーブに火を入れた。


「いらっしゃいませ」

あらためて挨拶して、
「奥さまは、
まもなくお見えになります」

「すみません。
朝早くから来て。
できるだけ早く、
奥さんにお目にかかりたいと、

言ってください」

小野木が言った。


五人の男たちは、
少し、
手持ちぶさたで待っていた。
だれの目も、
見るともなく青白い炎を上げているガスに向けられていた。
そのかすかな音が、
静かなこの部屋に聞こえていた。


女中が、
カーテンをあけておいたので、
窓から明るい陽が射しはじめていた。
一人がその窓から外をながめた。
下に広く沈んでいる屋根の上の空が、
光をふくんでいた。


「おそいな」

一人が呟いた。


それはみんなの気持を言っていた。
朝が早いので、
家の者の身支度に手間どっているとは思ったが、
それにしても時間がかかった。
みなは壁の絵にも、
窓の外にも飽いていた。


「何かやっているのかな」

一人が呟いた。


これは、
検事の一行が家宅捜索に来たので、
家人のだれかが、
証拠|湮滅《いんめつ》をやっているのではないかという危惧である。
事務官たちは緊張した顔になった。


「検事さん」
と、

一人が言った。


「もう一度、
だれかを呼んで、
それで出てこなかったら勝手にやりましょうか?」

みなが勢いこんでいた。
朝早く起きてきたことの余勢もあった。


「まあ、
もう少し待ちましょう」

小野木は、
穏やかに微笑した。


しかし、
おそい。
何をしているのか。


事務官の一人が椅子から立って、
応接間を往復していた。
苛立ちがようやくみなの間に起こっていた。


そのとき、
廊下を踏むスリッパの音が、
しのびやかに聞こえた。


こちらが顔を見合わせたとき、
入口のドアがあいた。


小野木がすぐに見たのは、
髪の形と白っぽい着物だった。


それが、
最初の印象だったが、
むろん、
それまでは平気だった。


が、
彼女のうつむきかげんの顔を見たとき、
小野木は自分の目を疑った。


確かに頼子だと知ったとき、
小野木は体が凍った。
目が、
彼の意志でなく彼女から離れなかった。


小野木の凝視の前に、
頼子は步いた。


やはり顔をあげなかった。


落ちついた動作だし、
つつましげに離れたところでみなに挨拶した。


「いらっしゃいませ。
わたくしが結城の家内でございます。
ご苦労さまでございます」

小野木の耳に、
それが遠雷のように響いた。
頼子が、
はっきりと結城の家内だと言ったのである。


小野木の後ろにいる事務官たちは沈黙していた。
頼子に説明する立場が小野木なのである。


小野木はあたりが傾くのを覚えた。
すべての色彩が失《う》せ、
立っている自分の場所がゆらぎ、
見ている視角から遠近感がなくなった。
小野木は蒼くなっていた。


「検事さん」

横の事務官が、
かすかに突っついた。


小野木は、
やっと内ポケットから折りたたんだ令状を出した。


この動作の間にも、
頼子はきちんと立っていた。
かえって、
小野木が威圧されそうなくらいだった。


頼子は知っているのだ。
名刺を渡したことだし、
ここに来るのが手間どったのも、
小野木に対決する用意だと分かった。
瞳《め》を伏せて小野木の視線と合わないようにしているのも、
彼女が小野木をつらくさせないためのようだった。
両手を前に組みあわせているが、
注意して見ると、

その指が鬱血《うつけつ》するくらいの強さだった。


小野木から意識が遠のいた。
前後の順序も、
これから自分がどうすべきか、
という意志も動転の中に失っていた。


事務官たちは小野木がいつまでも黙っているので、
ふしぎそうな顔をした。


「朝早くからうかがって申しわけありません」

と言ったのは、
いちばん年輩の事務官だった。
小野木が口をあけないので、
彼が気をきかせてかわった。
捜査経験二十五年の男だった。


「ここにおられるのは、
小野木検事です。
ご主人はご不在ですか?」

「はい」
と、

頼子は答えた。


「ご旅行ですか?」

「いいえ」

頼子はうつむいて答えた。


「遠いところにいらしたわけではないですね。
では、
今夜はお帰りでしょうか?」

頼子は黙っていた。


「ある事件のことで、
ご主人に検察庁まで来ていただかなければなりません。


お帰りになったら、
そうお伝えください。
至急に小野木検事のところまで出頭なさるように」

「はい」

返事は、
はっきりしていたが、
顔はやはりあげなかった。
すんなりした恰好のいい形が、
事務官たちの目に印象的だった。


「検事さん」
と、

その男はまた小野木を小さく呼んだ。


小野木はほとんど無意識のうちに、
令状を出した。


「お宅にある書類を、
捜索させていただきます」

小野木はやっと言った。
声が自分のものではなかった。
何か空洞の中でものを言っているようで、
どこかで響いて返って聞こえそうな気持だった。


「ご書斎はどこでしょう?」
と、

慣れた事務官は言った。


「こちらでございます」

案内するように、
頼子はおじぎをした。
彼女は、
この間、
一度も小野木を見なかった。


小野木は呼吸《いき》がつまりそうだった。


彼は、
事務官たちが急にざわめいて動きはじめるのを、
遠いところの出来事のようにぼんやりと聞いていた。


頼子が部屋を出た。


家宅捜索が始まっていた。


小野木は、
事務官たちが書斎にはいって捜索しているのに立ちあうことができなかった。
頼子と顔を合わすのが耐えられない。


応接間も、
二人がかりで捜索をしていた。
書類を匿《かく》しているような場所を、
彼らの嗅覚《きゆうかく》で探している。


すべての状況が、
小野木に関係なしに行なわれているような気がした。


「ありませんね」
と、

立ちあがった事務官が、
小野木に言った。


「ここはこのくらいにして、
ぼくたちは別の方に行きます」

二人の事務官は出ていった。
その白くなった洋服の背中を、
小野木は立ったまま見送った。
だれもそこには残らなかった。


窓からの陽はもっと明るくなった。
気持のいい朝である。
光線が清潔だった。


小野木は結城庸雄が頼子の夫だ、
と初めて知った。


彼は頭が麻痺《まひ》していた。
何か紐のようなもので頭をくくられたみたいだった。


頼子が、
夫のことを小野木に決して告白しなかった理由が、
初めて分かった。
小野木に言えない職業を彼女の夫は持っていた。


名前も住所も教えない理由が、
小野木に初めて理解できた。


いつかは彼女の夫のことを知らされる、
とは覚悟していたが、
このようなかたちで、
それを知ろうとは思いもよらなかった。


現在の調べでは、
結城庸雄はこの事件に重要な役割をしている。
彼は業者と官庁の役人の間を斡旋《あつせん》し、
自分自身でも、
その仲間と結託して金を取っている。


業者の場合は、
自己の事業の便宜《べんぎ》を官庁にはかってもらうために、
役人に贈賄《ぞうわい》をするが、
結城たちのグループは、
官庁に顔を利かせている立場を利用し、
その両方の斡旋をしている。
いわば上前《うわまえ》をぴんはねしているといってもよい、
もっとも下劣な悪辣《あくらつ》なやり方だった。


小野木は、
このような人間を軽蔑している。
陋劣《ろうれつ》で卑怯《ひきよう》なのだ。
業者の弱点にのしかかり、
それを利用し、
私腹を肥やしている。
手段としても陋劣であった。


業者なら、
まだ自分の事業を大事にするという理由があった。
しかし、
結城たちのやり方には、
同情すべき動機はなかった。


ただ役人と業者の間に割りこんで、
金をタダ取りするにひとしい。


これまでの調べによると、

この事件は、
業者のある一団が、
管轄官庁に便宜をはかってもらうため相当な金を出した。
それを結城たちのグループが受けとり、
ほとんど半分に近い金を横領しているのである。


業者には、
全部を渡したと言って別に謝礼をもらっているから、
ひどい話だった。


もらった側の役人は、
わずかな金を受けとったにすぎない。


業者が役人に提供したものは金高がしれているが、
その業種を専門にするある委員会の代議士たちは、
もっと大きな金を業者からとっている。
それにも結城は関係しているのだった。


つまり、
このような汚職にかならずと言っていいほどついている寄生虫が、
結城庸雄のグループだった。
ことに、
結城という男は、
土井というその方面の常習者と組んで、
今度の汚職事件のブローカー的な立役者となっている。


小野木が自分の感覚からいって、
いちばん憎んでいるタイプだった。


それが頼子の夫だった。


この発見は、
小野木を自失させた。


小野木は蒼くなっていた。


事務官たちは、
よその部屋を捜索している。
検事として、
彼は立ちあわねばならなかった。
しかし、
足が動かない。
彼はそこに一人ですくんで立っていた。
このまま体がどこかに落ちていくようだった。


耳鳴りがした。
すべての思考が彼から失われ、
頭の中がぼやけた。


ドアがあいたので、
呼吸《いき》をつめていると、

それは事務官だった。


「小野木検事」

年老いた事務官は言った。


「書斎も居間も、
だいたい、
捜索は終わりました。
当人がいないので、
ここの奥さんに立会いを求めていますが、
奥さんは出てきません。
われわれでほかの部屋をやりたいのですが、
かまいませんか?」

家宅捜索には家族の立会いが必要だった。
しかし、
当人の意志で、
立会わなくても公務は執行される。


「かまわないだろう」

小野木は言った。


その言い方が、
日ごろの調子と違い、
妙に聞こえたのか、
年輩の事務官は小野木の顔をのぞくように見た。


「小野木検事、
どうかなさいましたか? 顔色がたいそう悪いようですが」

実際、
小野木の顔色はなかった。


ものの言い方も力がなく、
熱があるときの声に近かった。
自分の耳にそれがうつろに聞こえるぐらいである。
はたの者が聞いて不審を起こすのは当然だった。


「別に」
と、

彼は答えた。


「気分は悪くない。
ぼくにかまわないで、
仕事をつづけてくれたまえ」

小野木は、
落ちつくために煙草をすったが、
指先がふるえた。


「そうします」

事務官は二度も小野木をふりかえって出た。


あとはやはり静かなものだった。
遠くで捜索している物音が聞こえる。


頼子はいつまでたっても姿を見せなかった。
小野木も奥に行こうとはせぬ。


この家全体が、
真空の中に存在しているみたいだった。



小野木は立ったままだった。
彼の耳には家の中で検察事務官たちが家探《やさが》ししている気配が伝わってくる。
それが遠い物音のように聞こえた。


空気に何か障害物があって、
それをへだてて、
聞いているような感じだった。


感覚に密度がないのである。


ドアがあいた。


それが頼子だった。


頼子は、
小野木に軽くおじぎをした。
それは小野木がいつも見ている彼女ではなかった。
この家の主婦としての頼子だった。


静かに小野木の前に立った。
前とは違い、
今度はまっすぐに小野木に視線を当てていた。
目が異様なくらい光っていた。


顔は蒼かった。
唇がかすかにふるえている。
だが、
立っている姿は毅然《きぜん》としていた。


これはかえって、
小野木の方が圧倒を覚えたくらいだった。
彼はまだ空虚なままだった。


「とうとう、
わたしの家《うち》にいらしたのね」

彼女は細い小さな声で言った。


「こんなふうにお目にかかろうとは思いませんでしたわ。
お驚きになったでしょう?」

小野木は、
頼子の顔を見返したまま声が出なかった。
頭の中がまだ真空だった。


「何もかもお分かりになりましたでしょ。
わたしが、
自分の夫のことも、
この家のことも、
あなたにお教えしたくなかったことが……」

頼子は、
少し目を伏せた。


「わたし、
一度でいいから、
あなたをご招待したかったわ、
こんなふうにでなく。
もう先《せん》に、
ちゃんとそれをしたかったのです。
でも、
どうしても、
できなかったのです」

検察事務官たちはまだ帰ってこなかった。
物を落とす音がどこかで聞こえた。


「意外でした」

小野木は、
やっと言った。


「ぼくには、
ただあなたが、
結城さんの奥さんだと知って、
どう、
今の気持を言っていいか分かりません」

頼子は、
その言葉を静かに受けとめた。


「ごもっともです。
許してください」

彼女は言った。


「こういうことになるかもしれない、
という予感はわたしに前からあったのです。
でも、
それをなんとか、
先に延ばせそうな気持もしていたのです。
わたしが悪かったのですわ」

頼子の責任ではない、
と小野木は心で叫んでいた。


自分がもっとも軽蔑していいと思っている男、
結城庸雄の妻が頼子だったのだ。
だが、
結城の妻であることと、

頼子という人間とはかかわりないのだ。


小野木は、
それを心でくりかえした。


「いつか、
あなたから聞きました」

小野木は細い声で言った。


「あなたは、
ぼくに、
自分だけを見つめてくれ、
自分の背後にあるものも、
自分につながってるほかのことも、
それはわたしには関係ないと、

何度もくりかえしましたね」

「あのときは、
そうでした」

頼子は急いで答えた。


「わたしがどのような環境の中にいる女か、
あなたはご存じなかったからです。
でも、
いまは違いますわ。
あなたが、
この家に訪ねてこられたいまの瞬間から、
その理由はなくなったのです。
あなたは、
わたしという者の背後を、
全部お知りになりました。
もうわたしは、
あなたにとって、
すべての線を切り離された個々の存在ではなくなりました」

「ぼくは」
と、

小野木は言った。


「いまの自分の考えを、
すぐにここで言いきることはできません。
正直に言って、
ぼくの現在は混乱しています。
何をどう言っていいか分からないのです」

「無理もないことですわ」

頼子は、
じっと顔を伏せた。


「わたしがわるかったのです。
ほんとに許してください」

「そんなことはないのです」
と、

小野木は首を振った。


「あなたに対するぼくの気持は変わりません。
これだけは確かに言いえます。


ただ、
あまりに突然に、
あなたが思いがけないところにいたので、
ぼくは考える力を奪われたのです。
これは、
あなたを許すとか許さぬとかいうことではないのです。
ぼくの気持を、
自分でどう説明していいか、
整理がつかないのです」

頼子は黙っていたが、
そのさしうつむいた姿に、
寂しさがあふれていた。


小野木に衝動が起こった。
頼子の体を引きよせ、
自分の腕の中に抱えこみたかった。


彼女の夫が結城庸雄と分かった今、
かえって彼女を、
そこから引きはがしたい急な感情がつきあげてきた。


「頼子さん」

小野木は彼女を見つめ、
前に進もうとした。


「いけませんわ」

頼子が声でさえぎった。


「あなたは、
あなたの任務でここに来られたのです。
それを立派に遂《と》げてください。
わたしは、
この家の家族として、
それをお受けしますわ」

この言葉が、
小野木に一つの不安を起こした。


「あなたは」

彼は言った。


「まさか、
ぼくの前から消えるのではないでしょうね?」

頼子は、
そのときだけ、
うつむいて答えた。


「そんなことはいたしません。
わたしは自分のしたことに責任を持ちますわ。


あなたの前から、
自分を黙って退《ひ》くなどという卑怯なことはしません。


小野木さん、
わたしはどんなことがあっても、
あなたとの約束は破りませんわ。
もし、
あなたから軽蔑されなかったら、
わたしにそれを許してください」

「ぼくの気持は変わりません。
ですが……」

このとき、
奥で捜索していた事務官の足音が近づく気配がした。
小野木は元の位置に体をもどした。
頼子がうなだれた。


ドアがあいて、
三人の事務官がもつれてもどってきた。


「小野木検事」

と言いかけて、
そこに頼子が佇んでいるのに気づき、
とっさに、
二人を見くらべた。


だが、
それは、
小野木が今まで彼女を尋問していたようにとったらしかった。


その三人の事務官の一人が、
経験の多い年輩の男だった。


彼は、
頼子をじろりと見て、
小野木の横に音を立てないで来た。


「捜索しましたが、
どうも、
これと思うものが出ません」

事務官はささやいた。


「ほかの部屋も、
今やっていますが、
どうやらここには何も残してないようです」

小野木はつらかった。
頼子の前で、
この報告を聞かねばならないのである。


事務官の方に遠慮はなかった。
美しい妻の前で、
その夫の摘発を進行させるのに、
多少、
興味を覚えているくらいにみえた。


だが、
声だけは頼子には遠慮していた。


「決め手となるような書類は、
ほかの家に匿しているのではないかと思いますがね。
向こうの方はどうでしょう?」

結城の妾宅の意味だった。


「そうですね」

小野木は、
事務官たちの口を封じたかった。
頼子の前で、
それを言わせたくなかった。


「わたくし」
と、

頼子が言った。


「失礼いたします」

頼子は目を伏せて、
小野木にも事務官たちにも、
目礼して部屋を出ていった。
それが落ちついていたし、
自然な動作だった。


小野木はうつろに見送った。


「あの奥さんを」
と、

年輩の事務官はきいた。


「尋問していらしたのですか?」

間《ま》をおいて小野木は答えた。


「いや、
そういうわけでもないが、
二、
三、
質問はしました」

これは事務官たちへの遠慮であった。


「で、
どう言うのです?」

経験の多い事務官は、
検事を追及した。
小野木には、
彼がわざとそれをきいているように思えた。


「いや、
いずれ詳細なことは、
本人を取り調べてのちにしたいと思いましてね。
いまは、
別に本格的なことはききませんでした」

事務官は少し不満げに黙った。
やはり新米の検事だという意識が、
その沈黙の中に出ているようであった。


別の事務官が一人で、
ぼそりとはいってきた。


「小野木検事。
ここには何もありませんよ」

彼は手ぶらだった。


「これくらい何もないのも珍しいですね」

事務官たちは顔を見合わせた。
暗黙の間だが、
これは大物だ、
という感じを言いあっていた。


「事務所のほうは、
九時からでしたね?」

これはビルの四階にある結城の事務所を言っているのだった。
その事務官は時計を見た。


「役所に帰ってすぐ、
ということになりますね」
と、

小野木に言いかけた。


「帰りましょうか?」

「本人のほうは」
と、

別な事務官が呟いた。


「向こうの方でつかまえたのかな?」

みなはそれに答えなかった。
これは、
結城が逃走していない確信があり、
どこかで彼を押えている、
という安心からだった。


「奥さんに」
と、

一人が言った。


「何か断わっておきましょうか?」

「ここに呼んだらどうだね」

と言ったのは、
年かさの事務官だった。


小野木は、
自分の意志でなく、
周囲の事務官たちが、
勝手に事を運んでいると感じた。


若い事務官が応接間を出てゆくと、

頼子が静かにはいってきた。
前と変わらない様子だったし、
落ちついて検事の話を聞く態度だった。


「奥さん」
と、

最初に言ったのも、
年輩の事務官である。
捜査経験の長い男だった。


「どうも朝からお騒がせしました。
だいたい、
用事がすんだようですから、
これで失礼させていただきます。
小野木検事がそう言っておられますので」

小野木は、
頼子を正視することができなかった。


「どうも失礼いたしました」

「ご苦労さまでした」

頼子が丁寧におじぎをした。


まだ早い朝なので空気が冷たい。
窓から朝の薄い陽が庭木に射しているのが見えた。


頼子は小野木たちを玄関まで見送った。
めいめいが靴をはいた。
雑然としたその動作を、
頼子は玄関に膝をつき、
動かないで見送っていた。


小野木は目をあげて彼女を見た。
光線の薄いところにすわっている彼女の姿は、
かえってしっかりとしていた。


「失礼しました」

小野木は低い声を出した。
それがみなの前でやっと言えた挨拶だった。


「たいへん、
失礼いたしました」

同じことを頼子は返した。
小野木よりずっと確かな口調であった。


小野木は、
表に出て、
石段をおりた。


朝の早い勤め人が、
ふしぎそうな顔をして、
見返りながら通りを行きすぎた。


自動車二台はこっそりと路地に隠れるように置いてあったが、
結局、
来たときのままで検察庁へ帰らねばならなかった。


訪問した家から、
引きあげてくる書類は一冊もなかった。


車の中では、
結城の噂を事務官たちがしていた。
したたか者だ、
というのが一致した意見である。
重要なメモは手帳にして、
いつも体からはなさないでいるのだ、
と主張する者がある。
その例が前に起こった大きな事件にあった、
と話していた。


聞いていると、

小野木がまだ大学時代の話である。
経験の多い事務官たちから見ると、

小野木はまだ「若僧」だった。


小野木は、
終始、
黙っていた。
それを無視したように、
車の中では、
先輩の事務官が一人でしゃべっていた。
彼は、
小野木がなぜ、
かたい表情になって沈黙しているのか、
探りを入れているようだった。


「あの奥さんはきれいだったね」
と、

彼は言っていた。


「なかなかのしっかり者だ。
顔はきれいだし、
落ちついているし、
なかなか魅力があるじゃないか」

その事務官は、
小野木の顔色をちらちらと見ながら、
大声で話していた。


彼は、
小野木の寡黙《かもく》の原因を、
その直感で察知しているみたいだった。


結城庸雄は検察庁にはいった。


事務官が彼を案内した。


「ここで、
しばらくお待ちください」

はいった部屋は狭い事務室のようなところだった。
だれも来ていない。
朝の冷たい空気が昨夜のままよどんでいた。


窓に薄い陽が射している。


火鉢もなかった。


結城は、
その粗末な椅子に腰をかけた。
案内した事務官は、
彼をそこに連れこんだだけで、
どこかに出て行き、
もどらなかった。


すぐにでも取り調べるかと思うと、

そうではなかった。
検事もここに来るまでは車の中でいっしょだったが、
それからどうしたのか、
いっこうに姿を見せない。


のみならず、
事務官のだれも来ないのだ。


結城は、
いかにもお役所らしい無粋な事務室をながめていた。
黒板があり、
月例行事が書きこまれていた。


○××日、
地方検事正会議○××日、
月例打合せ会○××日、
検事正出張○××日、
地検会議……。


椅子も粗末だが、
机も粗末だった。
大きな不細工なガラス戸棚の中に、
綴込書類が詰まっている。
それぞれに、
付箋が垂れているのもお役所式だった。


それらを結城は眺めていた。
だれも来ないのだ。


結城は煙草を取りだした。
不細工な灰皿がある。
ライターを鳴らして火をつけた。
寒い。
すわったままオーバーの襟を立てた。


このままドアをあけて門の外に出ても、
だれも追ってこないな、
と思った。


逃走する空想を結城は頭に描いていた。


実にたやすく逃げられそうな気がした。
まるで監視をされてなかった。
だが、
むろん、
そんなばかなことはしない。


結城は不服だった。


いかにも自分を、
小物扱いにした感じだった。
第一、
朝早く人の寝込みを襲ってきて、
この待遇はないのだ。
もっと丁寧に扱っていいはずだった。


三十分そうしていても、
相変わらず、
だれひとりとしてはいってこないのである。


庁内は森閑としていた。
時計は八時を過ぎている。
登庁時間に早いのか、
さっきからすわっていても、
廊下を步いていく靴音がしないのである。


火の気のないところに、
いつまでも人を置いているのが、
腹にすえかねた。


結城は席を立った。
床板が靴で鳴った。
埃《ほこり》っぽい庁舎である。
それに第一、
暗い。


結城は、
いまの自分が置かれている困難な立場を考えるまでにならなかった。
あまりに相手にされなすぎた。
事件のことを思索《しさく》するのに、
その実感がまだこなかった。
それよりも頼子のことを考えていた。


電車の音が近くに聞こえる。
その音響はここにいても朝の空気をふくんでいた。


やはりだれも来ない。


結城は咽喉《のど》が乾いた。
腹がへってきた。
考えてみると、

そのままここに連れてこられたのである。


家を出るとき、
確かに検事は言った。


「朝の食事がまだでしたら、
どうぞゆっくりとやってください。
われわれはお待ちしていますから」

その必要がない、
と言ったのは結城のほうだった。
第一、
女は狼狽《ろうばい》してうろうろしているばかりだった。
彼女に食事の支度を言いつけるのが面倒くさかった。
それでなくとも、
ふだんから、
おそく起きる習慣の女である。
ひどくだらしないところを検事たちに暴露するような気がしたのである。


飯を食べてないことが|てきめん《ヽヽヽヽ》だった。
ここにきて腹がすいた。
だが、
ふしぎと食欲はなかった。
やはり胸がつまって、
空腹は感じながらも、
食べる気がしないのである。


ただ、
咽喉だけは勝手に乾いていった。


結城は、
そこで小使いでも呼びたかったが、
どのような方法で呼んでいいのか分からなかった。
がらんとした部屋が、
結城に手も足も出させなかった。


結城は我慢ができず、
ドアを押した。
すぐ廊下だった。
長い廊下である。


同じような部屋が両側につづいていた。
部屋の上には、
黒い表示板に白い文字がいちいち書かれている。
すべてが冷たく規格に統率された景色だった。


廊下はいっそう暗い。
人影もなかった。
結城は、
水のあるところがすぐ近くにあるような気がした。
役所のことだし、
どうせ簡単な湯わかし場みたいなところがあると考えた。
結城は、
およその見当をつけてその方に步こうとした。
だれもいないのである。
まだ自由な身なのだ。
逮捕されているのではない。
これは大いばりだった。
とがめられる道理はない。


結城が二、
三步、
その方に步いているときだった。
遠くの方で靴音が聞こえた。


だれかが出勤してきたのか、
と思った。
彼は、
その方角に目を向けた。


うつむきかげんに、
廊下を人が步いてきていた。
背の高い男である。
コートに両手をつっこんでいた。
結城が自分の目を疑ったのは、
その若い男の顔だった。


とっさの間に、
彼は体を元の部屋にもどした。
それから、
自分の部屋の前を通りすぎていく靴音を、
じっと聞いた。
隙間をあけてのぞいた。


見まちがいはなかった。
男は、
昨夜、
見たばかりの人相である。
横浜のニューグランド.ホテルの階段を、
頼子といっしょに步いてきた男の横顔である。


結城は、
ドアをもっとあけて、
体を廊下に出した。
反対側に步いている男は、
しばらく背中を見せていたが、
角を曲がった。


結城が呆然《ぼうぜん》となっていると、

その反対側から事務官がやってきた。
これは結城を訪問した中の一人である。


結城は、
事務官に、
いま自分が見送った男の名前をきいた。
彼は、
たった今、
そこでその男にすれちがってきたはずである。


「ああ、
あの人かね」

事務官は、
横柄《おうへい》に答えた。


「あの人は、
小野木検事だよ」

事務官は、
結城の体を部屋に押しもどすようにしながら答えた。


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