1 結城は、 検察庁の構内にある公衆電話で弁護士の家を呼びだした。 かねてから知っている林秀夫《はやしひでお》という弁護士だった。 「結城ですが、 先生をお願いします」 書生が、 すぐに林弁護士を出した。 「しばらく。 えらく早いですな」 林弁護士は、 のんびりした朝の挨拶をした。 「実は、 いま、 検察庁に来ているんです」 「検察庁?」 弁護士は、 びっくりした声を出した。 「どうしたんですか?」 「事情はお会いしてくわしくお話ししたいと思います。 とにかく、 今朝、 寝込みを襲われましてね、 こちらにやってきてるわけです。 すぐに事件をお願いしたいのですが」 「分かりました。 それで、 もう逮捕状は出ているのですか?」 弁護士はきいた。 事件の性質を察したらしかった。 「いや、 まだ逮捕状まで出ていません。 現在のところ、 任意出頭という形です。 でも、 いつ逮捕状にきりかえられるか分かりませんよ」 「本格的な取調べは、 まだですか?」 「まだです。 逮捕状が出ない前に、 いろいろと先生と打合わせしたいのですが」 「分かりました。 では、 すぐそちらに行きます。 ところで、 係りの検事さんは、 だれですか?」 「山本芳生という若い検事です」 「ああ、 山本さんですか?」 弁護士は、 さすがにその名前も人物も知っているようだった。 「では、 そちらにすぐにまいります」 電話を切って、 結城はもとの部屋に帰った。 そこに検察事務官の一人が待っていた。 結城を連行したなかの一人である。 「やあ、 お待たせしました」 事務官は言った。 「これから、 山本検事がお話ししたいそうですから、 すぐ検事の部屋に行っていただきましょうか」 結城は時計を見た。 もう十時に近かった。 朝、 検事一行と、 ここに着いたのが八時前である。 二時間も待たされたわけだった。 「では、 お供します」 結城は言った。 弱みも恐怖も見せてはならなかった。 彼は平気な足どりで事務官の後ろに従った。 廊下を步いて、 右側の部屋にはいった。 ドアをあけると、 すぐ、 暖かい空気が結城の頬に流れてきた。 室内にはストーブが燃えている。 狭い部屋で、 机が二人ぶんぐらいしかなかった。 鉤《かぎ》の手になっているそのまん中の机に、 けさ、 結城を連れてきた山本検事が煙草をすって腰かけていた。 「やあ、 どうもご苦労さまです」 山本検事は、 椅子から立ちあがって結城に笑いかけた。 「寒かったでしょう。 どうもお待たせしました。 さあ、 どうぞこちらへ」 検事は、 自分の前の椅子を示した。 ちょうど向かいあってすわった恰好になった。 結城は、 ポケットから煙草を出した。 検事が素早く手もとのライターを取りあげて、 火をともした。 「ありがとう」 結城は、 検事の火をかりた。 検察事務官がはいってきた。 これからの取調べを記録する係りだった。 一方の机の前に黙って腰をおろした。 いかにも寒そうな顔をしていて、 両手をすりあわせた。 「朝早くご足労願ってすみません。 ええと、 結城さんは」 と、 検事は書類を取りだして開いた。 「本籍は、 ××県××市××番地でしたね?」 「そうです」 「出生年月日や卒業学校などの履歴は、 このとおりに間違いありませんか?」 検事は、 ひととおり書類を読み下した。 「そのとおりです」 結城は耳を傾けた末に言った。 「どうぞ、 お楽にしてください」 検事は書類から顔をあげて、 結城に言った。 何か世間話を始めるような気楽な顔だった。 「ここにご足労願ったのは、 ほかでもありませんがね、 結城さんは、 土井孝太郎という人をご存じですね」 「知っています。 ぼくの友だちですからね」 「そうだそうですね」 検事は、 さりげなく相槌《あいづち》を打った。 「実は、 土井さんは四、 五日前からこちらに来ていただいているんです。 結城さんは、 土井さんが××企業組合の幹部と昵懇《じつこん》で、 その輸入原料割当てについて、 R省と交渉の仲介をやっていた、 という事実をご存じですか?」 「そうですね」 結城は、 煙草の煙を吐いた。 事務官は筆記を始めていた。 「それは返事しなければいけませんか?」 「ご返事願いたいですな。 じつは、 土井さんは、 あなたのことについて自供しているのです。 あなたにとって困ったことですが、 われわれとしては、 一応、 真偽をあなたにきかなければいけません。 でも、 断わっておきますが」 と、 山本検事は雑談のように言った。 「あなたがこれに答えたくなければ、 それでもいいんですよ。 まだ逮捕状も出ていないことだし、 なおさらです。 われわれとしては、 ご当人に不利な自供を強《し》いようとは考えていません。 どうか、 その辺のところをよく考えて、 お答え願いたいんです」 「分かりました」 「で、 どうなんですか、 いま、 わたしが言ったことに心当たりはありませんか?」 「そうですね、 実は、 土井とはたしかに知りあいですが、 その件は、 わたしは何も知らないのですよ」 「ははあ、 なるほどね」 検事はうなずいた。 「それでは、 古川平六《ふるかわへいろく》という人をご存じですか?」 検事は、 すぐ別の人名を出した。 「ああ、 それは企業団体の役員ですね。 名前は聞いたことがあります。 しかし、 当人とは交際がないから知りません」 「しかし、 土井さんの話では、 あなたは古川さんと、 ある席で会ったと言っていますがね。 土井さんは、 あなたを古川さんに紹介したそうじゃありませんか?」 結城は目を迷わせた。 「さあ、 よくおぼえていません」 山本検事のところに、 別な検察事務官がはいってきて耳打ちした。 検事はうなずいていた。 「結城さん、 林秀夫弁護士が見えたそうです」 検事は伝えた。 「そうですか」 結城は、 思わずほっとした顔になった。 検事は、 その顔をじろりと見た。 「林さんが、 あなたの弁護士ですか?」 「そうです。 もし、 わたしが逮捕されたら公判まで、 ずっと林さんに頼もうと思っています」 「なるほど」 検事は、 湯呑み茶碗を抱えて飲んだ。 「では、 ちょっと休みましょう。 せっかく弁護士さんも見えたことだし、 お会いになったらいかがですか?」 「ありがとう」 結城は軽く頭をさげた。 彼は検事の視線を後ろに感じながら、 その部屋を出た。 林弁護士は待合室にいた。 太《ふと》って血色のいい男である。 結城を見ると、 椅子から体を起こした。 暗い廊下に、 結城と弁護士とはならんで出た。 廊下のすみに弁護士は結城と立ちどまった。 「どうしたんですか? いったい」 弁護士は、 窓から射してくる光線で眼鏡を光らせた。 「今朝、 急に、 寝込みを襲われましてね、 六時ごろでしたか。 予感はあったが、 やっぱり不意を打たれたという感じですね」 結城は言った。 弁護士には、 事件の内容が聞かないでも分かっている。 「捜索《ガサ》は?」 「やられました。 実は」 と、 結城は、 ちょっと苦い顔になった。 「自宅の方もやられていると思います」 「おや、 あなたは、 自宅《うち》にいらしたんではなかったんですか?」 「世話をしている女がありましてね、 そこを襲われたのです」 「そりゃあ……」 と、 弁護士は言ったが、 「奥さんのほうには連絡がついていますか?」 「まだ電話していません」 弁護士はうなずいた。 「それは、 わたしのほうでやりましょう。 ところで、 逮捕状は、 まだ出ていないのですね?」 「出ていません。 だが、 今の取調べの様子から見ると、 今日じゅうにも出るかも分かりませんな」 「取調べた検事は?」 「山本芳生という人です」 「ああそうそう、 あの若い人?」 弁護士は合点合点をした。 「この事件は、 主任が石井検事で、 特捜部の部長です。 その下に、 ベテランが一人と若手が三人かかっています。 あなたのほうは、 その若手の一人の山本検事が担当したわけですね」 若手の検事三人というのが、 結城の目をきらりと光らせた。 「その若手のなかに、 小野木検事というのがいましたね?」 「ええ、 います。 何か?」 弁護士は結城を見た。 「ふむ」 結城は口をつぐんだ。 黙ったまま、 しばらく足踏みするようにしていた。 ふだんから苦味のある顔で、 そこが玄人《くろうと》の女たちに好かれるのだが、 その表情がいっそう深くなった。 「林さん」 と急に、 結城は弁護士の正面に立ちふさがった。 何か重大なことをうち明けるような、 きびしい顔つきになっていた。 「小野木検事を少し調べてくれませんか」 「それは、 どういう意味ですか?」 弁護士は騒がなかった。 どこまでも事務的な顔つきをしている。 「少しおかしなことがあるんです」 「へえ、 どんな?」 「恥を言わなければなりません」 結城はうつむいた。 一言、 いっただけで、 弁護士の顔色が初めて動いた。 血色のいい顔だし、 愛嬌のある象のような目をしていたが、 それが急に鋭くなった。 「確証はつかめませんが、 実は」 結城は弁護士の耳にささやきをつづけた。 弁護士の顔が緊張した。 あきらかに驚愕《きようがく》の表情が、 その童顔にひろがっていった。 「そりゃ」 と言ったまま、 結城を見つめて絶句した。 「……結城さん、 そりゃ本当ですか?」 「いま、 言ったとおりです。 わたしは、 S温泉に行ったときの、 宿帳の男の筆跡を写真にとっています」 弁護士の顔色の方が少し蒼くなったくらいである。 「重大だ」 弁護士は叫んだ。 「あなたは、 奥さんにそれを言いましたか?」 「言いません」 結城は、 ぼそりと答えた。 弁護士は、 何か抗議したそうにしていたが思いかえして黙った。 「あなたのお気持はよく分かります。 よろしい、 わたしのほうで調べてみましょう」 「秘密に願いたいものです」 結城は、 興奮した弁護士を、 かえって押さえるように言った。 「このまま、 わたしには逮捕状が出るかも分からないので、 その写真のあり場所を教えておきます」 結城は、 手帳を出して、 万年筆で書きつけ、 それを渡した。 弁護士は、 眼鏡のふちを少しずりあげて、 それを読んだ。 「確かに」 と、 大事そうにポケットに納めた。 「もちろん、 だれにも知られぬように調べます。 今後、 小野木検事には、 わたしのほうの事務所の者を監視させておくことにします。 なに、 ご心配いりません。 そういうところは慣れた連中ばかりですから」 話が終わった。 廊下を人影がさして步いてきた。 「もう、 お話はすみましたか?」 ふりむくと、 山本検事の部屋にいた検察事務官だった。 「山本検事が呼んでおられます」 会議は、 午後三時からつづけられた。 石井主任検事以下が集まった。 その席上で、 山本検事が結城を調べた経過を中間報告していた。 会議の課題は、 このまま結城に逮捕状を出すかどうかにかかっていた。 山本検事は、 結城の容疑内容が濃厚だから、 このまま逮捕したほうがいい、 という意見だった。 彼を外に出すと、 証拠湮滅のおそれがある。 この事件では重要な役割を持った人物だし、 帰さずにそのまま収容したらいい、 という意向だった。 小野木はうつむいてそれを聞いていた。 今朝からの動揺が、 彼にまだつづいていた。 それは最初の驚きから移行した虚脱だった。 同僚の山本検事の述べている話に考える力を失っていた。 もはや思考も、 体全体も麻痺していた。 自分の重心が、 ないみたいだった。 小野木検事、 顔色が悪い、 と石井主任検事から注意されたくらいだった。 風邪《かぜ》を引いたんです、 と、 その場をとりつくろったが、 実際、 頭に熱があるようだった。 体が熱いのに、 皮膚が冷たい汗をかいていた。 「小野木検事」 と、 石井主任検事は呼んだ。 気づいてみると、 山本検事の意見が終わったところだった。 「きみはどう思う? 結城に逮捕状を出したものかね?」 石井主任検事の意味は、 小野木が土井孝太郎を取り調べているので、 それと不可分な関係にある、 結城の処置をきいたのだった。 小野木は頭を上げ、 前から考えていたようにすぐに言った。 実は準備も何もなかった。 「結城の逮捕はまだ早いと思います。 もう少し、 傍証を固めてからやったほうがいいと思います」 山本検事が、 じろりと小野木の顔を眺めた。 ふしぎなことを言うと言わんばかりの顔だった。 「傍証か。 それは十分だと思うね」 と、 石井主任検事は言った。 「現在の段階でも、 彼の公訴維持は十分できると思う。 このうえ、 傍証を固めたいというのは、 具体的には、 どういう点を言うのかね?」 小野木には、 自分でもわけが分からなかった。 ただ、 すぐ結城を逮捕するのに反対したかった。 「結城は、 もう少しそのままにしたほうがいいと思います。 これは土井の口から、 まだ贈収賄《ぞうしゆうわい》の事実関係が自供されつつありますので、 結城とのつながりが、 もっと新しく出てきそうな気がします。 それからでも彼の逮捕はおそくないと思います」 「土井は、 そんなにべらべら言ってるのかね?」 「非常に渋りながらですが、 だんだん自供内容をふやしています」 「ふむ」 石井主任検事は、 首を傾けて考える表情をした。 「小野木検事の意見ですが」 と、 山本検事は反駁《はんばく》した。 「ぼくは、 結城をそのままにしておくと、 どうもこれから逮捕すべき人間と通謀して、 証拠湮滅をやる恐れがあるように思います。 土井の線から新しい内容が自供されていると、 小野木検事は言いますが、 結城を逮捕しておいても結果は同じことです。 それに、 彼には逃走の恐れがあるかも分かりません」 「結城に逃走の恐れがある、 という山本検事の意見には、 ぼくは反対です」 と、 小野木は言ったが、 別に確信があって発言しているわけではなかった。 「結城には、 そのような恐れはないと思います」 小野木は、 山本検事の顔を見ないで述べた。 石井主任検事も、 先輩検事も黙って聞いていたが、 その先輩検事の一人が、 「R省の役人連中に手をつけるためにも、 この際、 留《と》めておいたほうがいいんじゃないですかな」 と、 意見を言った。 「よろしい」 石井主任検事が断を下すように言った。 「山本検事。 結城に、 逮捕状を取ってくれたまえ」 「分かりました」 山本検事が声をはずませて答えた。 その声が、 小野木の耳には、 空洞の中で反響するように聞こえた。 小野木は初めて、 頼子の家の電話番号にダイヤルを回した。 新しい家に電話をかけているようだった。 出てきたのは女中だった。 「奥さんはいらっしゃいますか?」 女中は、 はい、 と答えた。 「すみませんが、 電話口までお願いします」 「どちらさまでございましょうか?」 「すみませんが、 奥さまに出ていただいたら分かります」 「はあ」 女中の声は怪訝《けげん》そうだった。 それでも、 頼子に取りつぐために引っこんだ。 かなりな時間がかかった。 その待っている間、 頼子の家の様子が小野木の目に浮かぶ。 今朝、 初めて見た彼女の家だった。 廊下、 応接間、 玄関、 そこに飾ってある調度、 朝の冷えた空気。 頼子の家の空気。 ──頼子が廊下を步いて電話のあるところに来る姿が目に見えるようだった。 送受器をとる音がした。 「結城でございますが」 頼子の声だった。 「小野木です」 頼子の返事はなかった。 沈黙がつづいた。 「今朝は失礼しました」 「………」 「ご主人は逮捕に決まりました」 「知っています。 いま、 弁護士さんから電話をいただきました」 頼子は、 小さいが、 あんがい、 普通の声だった。 「それで」 と、 小野木は息を吸いこんだ。 「ちょっとお目にかかりたいのです。 いろいろとたいへんだと思いますが、 会っていただけませんか?」 また長い沈黙がつづいた。 「分かりました」 と、 頼子は嗄《か》れたような声で答えた。 が、 その次に言った彼女の言葉は、 小野木に思いがけないことだった。 「あなたからのお電話をお待ちしていましたわ。 わたしも、 ぜひ、 お目にかかりたいと思っています。 すぐにまいりますわ。 場所と時間を指定してください」 2 小野木は、 タクシーを走らせ、 S駅の前で降りた。 夕方の時間で、 駅は混雑していた。 小野木が目で探すと、 頼子は売店の前に立っていた。 人混みの中の彼女の姿は、 孤独で寂しげだった。 人の目から隠れるように遠慮そうに佇《たたず》んでいた。 小野木が近づくと、 彼女は顔を上げた。 複雑な表情だったし、 小野木がこれまで感じなかったものが、 彼女の姿全体に出ていた。 二人とも言葉が出なかった。 黙ったまま、 無意味に駅の中にはいった。 それも意識せずに、 自動車の駐車している表口から避ける行動になっていた。 せまい構内は混雑している。 その流れについていると、 改札口が近くなったことに気づいた。 行先に当てはなかった。 ゆっくりと步いている小野木と頼子の肩を押して、 人の群れが先に進んだ。 「どこに行きます?」 小野木は、 はじめて口をきいた。 「どこへでも」 頼子は低い声で答えた。 小野木は、 行先を思いつかなかった。 改札口へ向かっている流れから、 ようやくわきに離れた。 「海でも見に行きますか?」 小野木はきいた。 「そうね」 頼子はうつむいていたが、 「前に小野木さんと行ったお寺ね、 あそこを步いてみたいわ」 もう暗くなりかけていて、 構内にもホームにも灯が輝いていた。 小野木は、 深大寺に到着する時間を考えた。 「おそくなってもいいわ」 二人は、 表口の方にもどった。 タクシーに乗った。 行先を運転手に言うと、 「深大寺ですか?」 と、 ちょっと驚いたようにききなおした。 タクシーは甲州街道に出て走った。 賑かな灯が流れ去り、 寂しい町なみがしばらくつづいた。 小野木は、 頼子の手を握っていた。 冷たい手だった。 その瞬間、 頼子が大きな息をした。 頼子は、 ショールをはずして、 ふわりとその上にかけた。 二人の手がいつまでも離れなかった。 月があがった。 それに気づいたのは、 車の窓が田圃《たんぼ》を見せはじめてからである。 町の灯が少なくなると、 夜の空が冴《さ》えてきた。 遠くの黒い森の下に白い靄《もや》が張っていた。 「旦那」 運転手はふりかえった。 「深大寺に何かあるんですか?」 「いや、 別に何もないだろう。 なぜだね?」 「いえね」 運転手は、 そのまま、 しばらくハンドルを動かしていた。 絶えず自動車の流れとすれ違った。 後部からもヘッドライトが射して、 車の中を明るくした。 「いいえね」 と運転手は言いだした。 「あっしは、 また、 だるま市かと思いましたよ。 ちょうどいまごろですからね」 「祭りかね」 「そうなんです。 あっしは、 下町の者ですがね、 子供のころに、 おふくろに連れられて、 一度だけ深大寺のだるま市に行ったことがありましたよ。 それを覚えているんです。 まだ寒いときでしたから、 ちょうど今ごろではないかと思ったんです」 運転手の話が、 気持に軽い和《なご》やかさを与えた。 頼子は黙っていた。 目を伏せて、 外も見なかった。 小野木には彼女の気持がよく分かっていた。 だから、 わざと話しかけなかった。 街道は時々、 町なみを見せた。 まだ農家のまじっている寂しい町である。 野面《のづら》の遠いところにアパートの灯があったりした。 森があり、 木立の茂った斜面があったりしたが、 すべて濃い黒い部分だった。 やがて、 道は途中でわかれた。 そのあたりから家がなくなった。 林が急に近いところに迫ってきた。 百姓家が一軒あったが、 とまった水車が見えた。 ヘッドライトの光は、 道と、 枯れた草とを白く掃《は》いて進んだ。 田舎の子供が一人、 車を避けて道の端に立っていた。 タクシーは道をいくども曲がった。 そのたびに、 森の深みが濃くなってきた。 星がはっきりと見えた。 木の間から強い光がもれてきた。 それが寺の外灯だったことは、 その前に車が来たときに分かった。 「旦那、 着きました」 運転手はとめた。 ただ一つの外灯の光に、 山門の古い屋根と石段が照らしだされていた。 人影はまったくなかった。 四角いかたちの門の中が、 吸いこまれそうなくらい暗かった。 「ここで、 待ってくれたまえ」 地面に降りてから、 小野木は運転手に言った。 「どのくらいです?」 運転手はききかえした。 「四十分ぐらいだ、 そのぶんは払う」 「いいでしょう」 運転手は腕時計を灯に透《す》かしていた。 茶屋の灯は消えていた。 閉めた表戸の隙間に、 内側の明りが薄くもれていた。 「ここで、 お待ちしています」 運転手は自分の車の中にはいった。 ひと寝入するつもりらしかった。 小野木は、 石段に向かった。 頼子がすぐあとについてきた。 まだ、 黙っていた。 やはり人のいないことは、 山門を潜《くぐ》って境内《けいだい》にはいっても同じだった。 ここにも一つだけ外灯がついていたが、 人のいないベンチを荒涼《こうりよう》と照らしていた。 境内は暗かった。 外灯が、 眩しいくらい強いのである。 近いところは、 葉のない梢を光線が白く描いていた。 本堂も横の弁天堂も、 遠い光で淡い影になって沈んでいた。 小野木も頼子も、 まだ言葉が出ないままだった。 感情がせまって、 すぐに言葉にならなかった。 水音のする方へ步いていた。 鐘の音が聞こえた。 不意だったし、 はじめ、 寺のどこかだと思ったが、 音色が違っていた。 澄んだ音が揺れていた。 近くに、 教会があるらしかった。 この辺は森で分からなかった。 音は黒い林の中から流れてきているみたいだった。 「どこへ行きます?」 小野木は言った。 二人は、 離れて步いていた。 境内は深い木立に囲まれていたが、 その片側を小野木は見た。 暗い中から、 水のような淡い光がもれていた。 月が思いがけない方向に上がっていた。 「こちらへ」 頼子は言った。 森の下は暗かった。 境内をはずれてから道は湿《しめ》っていた。 湧き水がたえず道をぬらしているのだった。 水の音がいたるところで聞こえた。 葦簀《よしず》をおおって閉めた小さな茶店の前を通った。 ここにもすぐ足もとで水のこぼれる音がした。 林はくらかったが、 月の光が斑《ふ》を径《みち》に落としていた。 小野木の少し先を步いている頼子の背中にも、 梢の影が動いた。 半月だったが、 灯のないところでは、 意外に明るかった。 たまったまま、 冬を越した落葉が光っていた。 遠い道を走る自動車のヘッドライトの光が、 木の間を点滅させて動いていた。 ここに近づいてくるらしかった。 頼子がそれを見ていた。 「こんな寂しいところでも、 車は通りますのね」 小野木も光の行方をながめていた。 その灯は近くの民家の影の間に消えた。 「ごめんなさいね」 頼子が言った。 その小さな声が、 はじめて小野木に呼びかけたのだった。 「わたし、 あなたをだましたみたいだわ」 小野木は頼子のそばに寄った。 「そんなことはないです。 ぼくはあなたにだまされたなどとは思っていません」 小野木は言った。 「結果的にはそうでしたわ」 頼子は動かないで言った。 「わたしは、 夫のことも、 家庭のことも、 あなたに言いませんでした。 こういう結果になったのは、 その罰ですわ」 「頼子さん」 小野木は激しい声になった。 「あなたの気持はよく分かります。 あなたが自分だけを信じてくれ、 ほかのことはきかないで、 自分というひとりの女だけを信じてくれ、 と前に言ったのが、 今度よく分かりました。 ぼくは、 最初、 それをあなたから聞いたとき、 分かりました、 と答えたはずです」 小野木は、 頼子の指を求めた。 それは、 車の中で握ったときよりも、 もっと冷たくなっていた。 「今でも、 それは変わりありません。 あなただけを信じています。 ただ、 あなたのご主人に、 今度のような知り方をしたのが不幸でした。 いや、 それよりも、 このようなことで、 あなたをもっと不幸な気持におとしいれたのではないか、 と心配なんです」 頼子は返事をしなかった。 黙って小野木の指をとくと、 そのそばから離れた。 彼女の踏む落葉の音が聞こえた。 蒼白な月光と、 枝の黒い影とが交差しながら、 彼女の姿を次第に淡くした。 ほの白い煙が動いているようだった。 頼子は立ちどまり、 そこにうずくまった。 そのかたちだけがおぼろに見えた。 遠くで、 電車が鉄橋でも渡るような音をたてていた。 その音を聞いているように、 頼子はそのままの姿で動かなかった。 小野木が近づいて見て分かったのは、 彼女が涙を流していることだった。 小野木は、 頼子の肩に手をかけた。 梢の露が落ちて濡れでもしたように、 それは冷たかった。 彼女の髪も耳朶《みみ》も冷えていた。 小野木は、 彼女の手をとった。 素直に彼女は立ったが、 そのままに小野木の胸によりかかった。 耐えていたすすり泣きの声が唇からもれた。 小野木は、 その背中を抱き、 手に力を入れた。 彼は、 頼子の顔を指で仰向けさせた。 淡い光が彼女の顔を白い磁器のように浮かせた。 唇がまだ動いていた。 小野木は彼女の唇のふるえを自分のそれで押えつけた。 長い時間だった。 音も、 声も、 あたりにはなかった。 遠くで、 落葉を踏む音が一度だけ聞こえた。 が、 気のせいかも分からなかった。 あとは湧き水の音がこぼれるだけだった。 小野木は、 顔をはなした。 頼子の激しい息が、 自分のすぐ前にあった。 「頼子さん」 小野木は言った。 「ぼくには、 いま、 何を考えていいか分からない。 どうしていいか、 自分でも整理がつかないんです。 ですが、 これだけは言えます。 ぼくはあなたを放さない。 どんなことがあっても放しません。 あなたは今、 ぼくから離れそうなんだ。 放したら、 あなたはだめになりそうだ」 小野木の声が、 すぐ目の前にある頼子の唇にそのまま吹きこんだ。 彼女は目を閉じ、 唇を少しあけていた。 きれいにそろった睫毛《まつげ》だった。 のぞいた歯に月の光が当たっていた。 頼子はあえいだ。 彼女の鼻翼《こばな》がせわしなく呼吸《いき》をした。 「うれしいわ」 彼女は嗚咽《おえつ》の中で言った。 「ほんとに、 そう言ってくださるの?」 「本当です」 「わたしから離れないで」 と、 彼女はあえぎながらつづけた。 「放さないで。 わたしを放さないで。 あなたが放したらどこかに落ちていきそうだわ」 「放さない。 どんなことがあっても、 だれから非難されても、 ぼくはあなたを放しません。 一生、 あなたをつかまえておきます」 「ごめんなさいね。 わたし、 悪い女だわ」 「そうじゃない。 あなたが悪いんじゃない。 そう思ってはいけないんだ。 あなたが前に言ったとおり、 あなたは、 いま、 自分の環境からはなれた人なんです。 ただ、 一心に、 ぼくという人間を見つめていてくれたらいいんです」 頼子の方からもう一度、 かたちのいい顎をあげた。 白いのどに光が射した。 彼女の唇の冷たさが、 小野木の全身を燃えさせた。 二人は、 それから步きつづけた。 森を抜けると、 空が広くなった。 そこはゆるやかな上り坂だった。 切り通しのような場所で、 その先に明るい野面の一部が見えていた。 この切り通しにはおぼえがあった。 暗くて分からぬが、 樹木の根が、 簾《すだれ》のように斜面に露出しているはずだった。 この切り通しの坂道をのぼって、 長い道を、 天文台の方に步いた思い出がよみがえってきた。 頼子は、 小野木の腕によりかかって添っていた。 断崖の黒い遮蔽《しやへい》が、 互いの顔を見せなかった。 はっきりと姿が月の中に出たのは、 草原に出てからだった。 遠いところに白い霧がはい、 空にうすい星があった。 「あなたの苦しみは、 よく分かります」 小野木は、 步きながら言った。 「だから、 ぼくから言いますよ。 結城さんには逮捕状が出ました。 おそらく、 起訴は時間の問題だと思います」 頼子の足の運びが、 そのとき、 一瞬に止まった。 「これ以上のことは、 ぼくには言えません。 あなたも聞くのがつらいでしょう。 だが、 ぼくは、 こうなると自分が検事だったことを恨みたいくらいです」 小野木は、 野を横切り、 別な下り道にかかっていた。 「ぼくは役所に見えた結城さんの顔を、 どうしても見られませんでした。 幸いというか、 結城さんはぼくの友だちの担当になっています。 それで、 どうにか、 自分が、 現在は救われているのです」 「もうおっしゃらないで」 頼子は、 悲しそうにさえぎった。 「わたしにも、 解決のつかないことがいっぱいですわ。 それは前に何度か、 結城と別れようと思いましたわ。 そのたびに、 結城にそれを言ったのです。 でも、 結城は取りあってくれませんでした」 小さな声はつづいた。 「そのうち、 結城は、 わたしの様子に、 気づいたようですの」 「………」 「結城がS温泉に行ったのは、 意味があったと思いますの。 帰ってきた晚に、 スーツケースを整理させ、 その中からS温泉の土産物が出てきたんですもの。 でも、 結城は何も言いませんでしたわ。 わたしは、 そのときから、 結城のところから黙って去る決心をつけました」 「………」 「結城には、 わたしの気持が、 十分にわかっているんです。 だから、 わざと、 それきり家には帰りませんでした。 帰ったら、 わたし、 すぐに別れるつもりでしたの。 その間に、 不意に今度の事件が起こりました。 結城が検察庁のかたに会ったのは、 わたしの家ではありませんでしたわ」 「知っています」 「たった一つ、 結城に小野木さんだと分かっていないことが、 せめてもの、 わたしの気休めですわ。 あの人は、 そんなことを知ったら、 無事にしておく人ではありません。 こわい人です」 また、 径が林の中にはいった。 互いの姿が分からず、 ゆっくりと坂を寄りそっておりるだけだった。 「ぼくはかまいません。 責任をとります。 ですが、 そうなると……」 「いいえ、 いけません。 あなたのお名前を出しては、 絶対にいけません。 わたしはどうされてもかまわないんです。 でも、 あなたはいけませんわ。 これからのかたなんですもの」 頼子はつづけた。 「わたし、 結城が離婚を承諾しなくても、 自分の思うとおりにするつもりでしたわ」 小野木にはその意味が分かっていた。 頼子は、 彼に気を兼ねて言わないが、 頼子自身も、 人妻としての背信に苦しんでいるのだった。 「実は、 横浜でお食事をしましたとき、 本当は、 あなたとの最後の晚にするつもりだったんですの」 「最後?」 「ええ。 あなたにも黙っていて、 落ちついた土地からお手紙をさしあげようと思っていたんです。 でも、 結城が帰らないままに朝になって、 こんなことになりました」 小野木は急に言った。 「結城さんは、 ほんとは、 あなたを愛していたんじゃないですか?」 頼子は黙っていた。 「ぼくはそんな気がするな。 前から考えていたんですが、 今のあなたの話を聞いて、 なんだかそれを確かめたような気がします。 結城さんはS温泉から帰って、 一度もあなたのそばにもどっていない。 それで分かるんです。 ぼくは結城さんの気持をはっきり知ったような気がします」 頼子は答えなかった。 小野木は步みをとめて、 頼子の肩に両手を置いて揺すった。 「ぼくの考えは間違っていないと思います。 どうです? ほんとは、 結城さんはあなたを愛していたのです。 結城さん自身は、 ご自分のなさっていることで、 あなたに劣等感を持っていたのではないですか」 木が茂って、 影が濃いかげりになった。 頼子の表情は分からなかった。 だが、 手を置いた彼女の肩がふるえていた。 「結城さんの心があなたから離れたのではない。 結城さんのほうで、 わざとあなたを遠くに置きたかったのでしょう。 あの人の暗い職業が、 その気持にさせたのです。 それは結城さんにはいろんな女がいた。 だが、 どれも結城さんの本心ではなかった。 実際は、 結城さんは、 心からあなたを愛していたと思います」 「もうおっしゃらないで」 頼子が泣きだしそうな声で言った。 「わたしにも、 やっと、 それが分かりかけましたわ。 それも近ごろなんです。 でも、 おそすぎましたわ。 わたしには小野木さんだけしか見えなくなりました。 もう先《せん》、 わたしが小野木さんに言ったこと、 わたしの後ろにあるもの、 わたしのぐるりにあるものは見ないで、 わたしだけを考えてくださいって。 今は反対ですわ。 わたし、 小野木さんだけしか心にないんです」 ようやく、 一部分だけ明るいところに来た。 だが、 また木の間にはいった。 「世間から、 わたしのしてることを非難されますわ。 わたしも、 実際、 結城には、 申しわけないと思っています。 でも、 ここで、 百万べんそれを言っても始まりません。 もう、 後ろはふり返らないことにします。 頼子は人間が変わったと、 自分で思いこむことにします」 暗い木の間から強い明りがもれてきた。 境内の外灯だった。 後ろから、 音をたてずに一人の男がゆっくりと道をおりていた。 3 自動車は、 にぎやかな灯の街にはいった。 頼子は、 窓の外に顔を向けたままだった。 手は小野木に預けていた。 「もうすぐですね」 小野木は、 頼子の家の近くだと分かった。 白い靄のかかっている早い朝、 役所の連中と行って見おぼえた道である。 これまで、 いつも頼子と別れる習慣だったのは、 ここからかなりの距離のある地点だった。 頼子の家を知って、 初めてその近くにきたのである。 小野木の記憶にある、 岐《わか》れ道が見えた。 頼子の手が力をこめて、 小野木の指を握りしめた。 「そこで降ろしていただきますわ」 小野木は黙っていた。 岐れるところが急速に迫ってくる。 角に見おぼえの高い建物があった。 「お電話、 いただけます?」 頼子はささやいた。 「します。 ずっといますか?」 小野木は言った。 「どこへも出ませんわ」 「二、 三日のうち、 きっとします」 「お待ちしていますわ」 頼子は最後に力を入れた。 小野木は返した。 車をとめた。 小野木は、 自分で先に降りて、 頼子を降ろした。 頼子は、 そのまま佇んでいた。 「では」 小野木は、 彼女を置いて車の中にはいった。 車が動きだしたとき、 頼子は道に立って、 頭をさげた。 小野木は手を振り、 後ろの窓に体を曲げた。 遠い外灯の明りを浴びて、 頼子が見送っていた。 風の中にやっと立っているような姿だった。 小野木は後ろに手を振った。 薄暗い光が彼女の輪郭を浮かせていた。 遠ざかりながら彼女も手を振っていた。 小野木はひとりになった。 彼の横が空いていた。 数秒前までそこにすわっていた頼子がすわっていない。 かき消えたみたいにいないのだ。 彼の横には声も聞こえなかった。 手を伸ばしても、 触れるものはなかった。 寂寥《せきりよう》だけが彼の横にうずまいていた。 その空虚さが耐えられなかった。 「とめてくれ」 小野木は命じた。 「ここでいいんですか?」 運転手は、 車をゆるめてふりかえった。 暗い塀がつづいている道路だった。 商店も何もないところである。 車の群れが傍を矢のように行き交《こ》うていた。 小野木は金を払った。 地面に降りると、 頼子と乗っていた車が、 尾灯をひいて走り去った。 あの車にそのまま乗りつづけているのが、 小野木に辛抱できなかった。 頼子を失った空虚な隣の席が彼を圧迫するのである。 自分が暗い穴にずり落ちそうだった。 車を変えることで、 それを救いたかった。 小野木は、 暗い道に立った。 誰も步いていなかった。 車の往来だけが忙しいのである。 小野木は、 道に取り残された自分に初めて安心した。 少し步いた。 灯が少ないせいか、 空が澄んで見えるのである。 月の位置が変わった方角にあった。 深大寺で見た森の中の月とは違って、 驚くほど俗になっていた。 空車が速度を落として、 步いている小野木の横にすべりよってきた。 小野木は、 運転手のあけたドアに身を入れた。 「どちらへ?」 運転手は走りだしてきいた。 「このままで、 しばらく走ってくれ」 帰りたくなかった。 この状態でどこへでも行きたかった。 行先の当てはなかった。 結城の家の中にもどっていく頼子を小野木は想像していた。 半分、 嘘のようだった。 ただ、 耐えられない寂しさだけは車を変えたことで救われた。 体の傾きそうな、 あの暗い墜落感はうすくなった。 ふしぎなもので、 頼子が初めから横にいない車だと納得すると、 座席の空虚が自分のものになった。 無意味に街の灯が流れた。 車は、 ただ道路を走った。 広い交差点に出た。 「どちらへ?」 運転手がきいた。 「このままでいい。 まっすぐに行ってくれ。 降りる場所にきたら、 そう言うからね」 運転手は不機嫌に黙って、 赤信号を待っていた。 小野木の意識が、 少しずつ自身を回復した。 そのとき、 彼に初めて〝仕事□がよみがえってきた。 だが、 この〝仕事□の思索は、 小野木に勇気を与えなかった。 苦痛だけだった。 今まで頼子がいたことで彼女にかよっていた彼の気持が、 ひとりになって内側へ閉鎖した。 男は単独になると〝仕事□を考えるものだが、 小野木の〝仕事□は彼を責めた。 (おまえは検事ではないか。 被告の妻と恋愛に陥《おちい》っている。 検事の職務が、 それで正当に勤まるか)(正当だ)小野木は叫びたかった。 頼子との恋愛は、 結城という人物の存在を知るずっと以前なのだ。 そのとき、 彼の前にいた頼子はひとりの女だった。 小野木は、 頼子という孤独な女だけを意識していた。 それ以外の何ものも知らなかった。 知ろうとはしなかった。 結城はそのあとから出てきたのだ。 頼子との恋愛に結城は何の関係もなかった。 結城の犯罪も、 結城の刑罰も、 頼子とは何のかかわりあいもない。 ──小野木は、 そう叫びたかった。 結城にむかっても、 そうだった。 結城の罪悪、 刑罰に対決する自分の意識には頼子は存在しなかった。 検事が被告にむかっているだけの話である。 あいだに、 頼子はいないのだ。 小野木は、 そう主張したかった。 しかし、 それはいかにも空疎なものだった。 はかなく空に消えていきそうな声だった。 世間が頼子とのことを知ったら、 それを平気で承知するか、 である。 非難は必至だった。 (検事は、 何ものにもとらわれず、 何びとをも憎まず、 何の主観をも持たず、 被告に対決すべきである)その声が小野木を揺すっていた。 小野木の主張が、 その強い風に徹《とお》る自信はなかった。 車はまだ走っていた。 実に無意味に走っていた。 林弁護士が事務所へ出ると、 二人の事務員が椅子から立って挨拶した。 「おはよう」 弁護士は、 自分の机の前にすわった。 窓から朝の明るい陽が射している。 弁護士が持参の手提鞄《てさげかばん》から書類を取りだしていると、 女事務員がそばにきた。 「立花《たちばな》さんがお待ちでございます」 「おう、 それは」 弁護士が目を輝かせて、 すぐに通せ、 と言った。 「おはようございます」 ベレー帽をかぶった男だった。 痩せた三十男である。 「昨夜《ゆうべ》のものを持ってまいりました」 「早いね」 弁護士は上機嫌だった。 「あれからすぐに現像して、 大急ぎで焼付けしました」 男は、 封筒を出した。 「それは気の毒だ。 おそくなっただろうな」 弁護士は封筒をあけながらいたわった。 とりだしたのは、 写真が五、 六枚だった。 弁護士は、 その一枚ずつを眺めた。 「なにしろフラッシュが使えないので、 あんまりよく撮《と》れていません」 痩せた男は、 ベレー帽に手をかけて、 「でも、 どうにか、 本人の特徴だけは出ていると思います」 「ふむ」 弁護士は、 一枚一枚、 熱心に繰った。 寺の境内である。 林の中に、 白っぽい着物を着た女と背の高い男とが寄りそって步いている後ろ姿だった。 遠くの灯が、 人物の片側を照らしている。 感度のいいフィルムを使ったのか、 光線のとぼしいなかではよく撮れていた。 「思ったよりいいね」 弁護士はほめた。 「そうですか」 「きみ、 当人たちには気づかれなかっただろうね?」 「それはむろんです。 いや、 しかし、 苦労しました。 ほかに人がいないので、 こちらの足音が向こうに聞こえやしないかと思って、 ひやひやしました」 男は苦心を報告して、 自分でその中の一枚を選んで見せた。 「これは望遠レンズを使ったのです。 これだと顔がよく分かるでしょう?」 「なるほど」 写真は、 小野木と頼子とが顔を寄せあうようにして話しあっているポーズになっていた。 「うまい。 これなら大丈夫だ」 二人の男女が逢いびきをしている組写真だった。 背景は夜の深い森である。 「きみ」 弁護士は、 仕事をしている若い事務員を呼んだ。 「こっちに来たまえ。 いいものを見せてやる」 事務員二人が寄ってきた。 「見たまえ」 弁護士は、 組写真を机の上に広げた。 「どうだね?」 「ははあ」 事務員二人は、 顔に薄ら笑いをうかべ、 丁寧に一枚一枚を点検した。 「ランデブーですか?」 事務員が言った。 「いいところですな。 どこの山の中ですか?」 事務員の一人が弁護士に顔を上げた。 「郊外だ」 「わざわざ、 そこまでお二人で行ったわけですね」 「隠し撮りですか?」 もう一人の事務員が、 写真をためつすがめつしながら男にきいた。 「そうです」 ベレー帽は、 ちょっと自慢そうだった。 「步いている写真ばかりですね。 キッスの場面は撮れなかったんですか?」 「いや、 それが」 男は額《ひたい》を掌《て》でたたいた。 「そこを撮ると、 効果百パーセントですがね、 なにしろ暗くて、 それだけは失敗でした」 「きみ」 弁護士はベレー帽にむかった。 「二人は、 確かにキッスしたんだろうね?」 「はあ、 そりゃもう、 見ててこちらが腹が立つくらいでした。 仕事だから我慢してましたがね、 口笛の一つも吹いてやりたいぐらいでしたよ」 「ふむ」 弁護士は、 ちょっと考えた。 それから事務員二人を彼らの席へ追っ払った。 「写真は上出来だ。 こんどは、 きみの話を聞こう。 順序どおり言ってくれたまえ」 「ぼくは、 結城さんの家の前に張りこんでいました。 すると奥さんが出てきたので、 あとをつけたのです。 奥さんは流しのタクシーを呼びとめて、 走りだしたので、 ぼくは置いてある車にすぐ飛びのり、 そのあとをつけていきました」 痩せた男は、 薄い唇をなめらかに動かして語った。 「車を降りたところが、 S駅の近くなんです。 奥さんのほうは、 駅の売店のところで男の人を待っていたんです。 二人は出会うと駅の中にはいって行ったので、 これは電車かなと、 と思っていると、 またこちらにもどってきました。 それから駅前のタクシーに乗って、 甲州街道を走り、 深大寺に行ったわけです……」 弁護士は、 いちいちうなずきながら、 メモにつけていた。 「だいたい、 それで分かった」 話が終わって、 弁護士は言った。 「それから、 きみに使いを頼んだ、 例の秘密探偵社のほうはどうだった?」 「ああ、 それももらってきました」 男は、 また別のポケットから封筒を出した。 「これです」 弁護士は、 また袋の中をあけた。 写真が三枚出てきた。 「なるほど、 こりゃまた違ったところだね」 弁護士はたんねんに見入った。 それが横浜のニューグランド.ホテルの食堂だった。 深大寺の森を步いている男と女とが、 ここでは白いテーブルをはさんで、 たのしそうに食事をしている横顔だった。 それから一時間ばかりたった。 「こういうおかたがご面会でございます」 女事務員は名刺を運んだ。 弁護士がそれをのぞきこんだ。 「なんだ、 新聞記者か」 口先では言ったが、 満足そうな顔色だった。 新聞記者が訪ねてくることはめったになかった。 歓迎している証拠には、 女事務員に、 「応接間に通してくれ。 すぐ、 お茶と菓子を出すようにね」 と言ったものである。 弁護士はそれから書類の調べにかかったが落ちつかなかった。 わざと待たせるつもりだったのが、 自分のほうで辛抱できなかった。 「林です」 応接間にはいると、 客は二十七、 八の背の高い記者だった。 「お忙しいところを恐縮です」 新聞記者の辺見は、 弁護士に軽く頭をさげて言った。 「ご用件は?」 弁護士は口もとに鷹揚《おうよう》な微笑を見せた。 女事務員が命令どおり、 コーヒーと菓子を運んできた。 客に丁寧に挨拶をして退ったのも、 主人の言いつけどおりだった。 「どうも、 突然、 おうかがいするのですが」 辺見は林弁護士にきりだした。 「先生は、 今、 R省汚職で弁護を担当されているそうですが、 そのとおりでしょうか?」 林弁護士は、 太って二重にくくれた顎をひいてうなずいた。 機嫌がよかった。 「そうです。 こんど、 被告の一人に付くことになりました」 「はあ」 辺見は、 ポケットからメモ用紙を出した。 「先生が弁護をなされるかたはどなたですか?」 「結城です。 結城庸雄という人です」 「なるほど、 贈賄の仲介に立った人ですね」 「さあ、 贈賄といえるかどうかね」 弁護士は慎重だった。 「いや訂正します」 辺見は、 少し、 あわてた。 「業者と役人との間に立っている人ですね?」 「まあ、 そうです」 「この事件の見とおしは、 どうなんでしょう?」 「さあ、 まだよく分かりませんね。 なにしろ捜査もこれからというところらしいですからね」 弁護士は落ちついた微笑を見せた。 「事件が発展しそうかどうか、 あなたのほうがくわしいんじゃないですか?」 弁護士は反問した。 「いや、 われわれのところでは、 正直にいって、 よく分かりません。 なにしろ、 検察陣はひた隠しに隠していますからね。 それで先生のところにうかがうと、 だいたい、 情勢が分かるのではないかと思ったんです」 「さあ」 弁護士は、 曖昧に答えた。 「今のところ、 なんとも言えませんね」 「いや、 これは新聞にすぐ出すわけではありません。 先生のお名前も、 もちろん活字にしません。 ここだけの話として、 参考に承りたいんですが、 先生が結城さんの弁護をひきうけられてのご感想は、 どうなんでしょう? 結城さんは、 事件の一つの中心点だと思います」 「確かにおっしゃるとおりかもしれません」 と、 弁護士は答えた。 「だが、 わたしのほうもこれから調べるところで、 まだ何も分かっていません。 事件の見とおしを言え、 とおっしゃっても、 そんな具合ですから、 はっきり言えないわけです」 「結城さんは、 やはり業者と官庁との橋渡しをしていたと噂されてるんですが、 事実は、 どの程度まで認めているんですか?」 辺見はねばっていた。 「たとえば、 結城さんは、 業者の団体役員からR省の上層部に働きかけをひきうけたと言われていますね。 もうそれは結城さんの口から自供が始まっているのですか?」 「辺見さんと申されましたね?」 弁護士は、 客の名前を確かめた。 「あなたも誘導尋問がうまいですね。 このごろの新聞社のかたは油断がならない。 しかし、 いま言ったような具合で、 まだ資料も整っていないのです」 「しかし、 先生は」 と、 辺見はくいさがった。 「この事件については、 被告側に明るい見とおしをなさっているんでしょう?」 「もちろんです。 わたしは、 けっして悲観的には思っていません」 「ははあ、 それは、 どういう根拠で?」 「それも今は言えません。 だが、 わたしには確信があります」 「なるほど」 辺見は、 ちょっと黙った。 「結城さんの口から、 官庁方面の、 たとえば、 R省のどの辺まで自供されているのでしょう?」 「さあ、 よく分かりませんね」 弁護士は煙を吐いた。 「しかし、 ある一部では、 R省の田沢局長の身辺がとかく噂にのぼっていますが、 実際はどうでしょう?」 「そうですね」 弁護士は、 じらすようにあとを黙った。 「まあ、 それも、 今、 お話しする段階にはなっていませんね」 「結城さんが田沢局長のことを、 検事の前で言ったかどうか、 ということも分からないのですか?」 「さあ、 実は、 昨日《きのう》、 結城さんの弁護をひきうけたばかりで、 まだ本人との打合わせも十分にしていないのです。 その返事は勘弁してください」 弁護士は言ったが、 「しかし、 ぼくは、 いずれにせよ、 結城さんの罪状には非常に明るい希望を持っていますよ」 と、 意味ありげに笑った。 「といいますと?」 辺見は、 弁護士を見つめた。 「いや、 それは、 ここでは言えません。 しかし、 ぼくがこのことを発表すると、 現在の検察陣に大打撃となります。 その意味でこの事件は明るいと言っているんです」 林弁護士は、 さも腕利きのように自信たっぷりに言った。 [#改ページ] |