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17局 長 の 家


辺見は、
田沢家を訪れた。


玄関に女中が出たが、
これはすぐに引っこんで、
輪香子とかわった。


「あら、
いらっしゃい」

輪香子は、
冴えた青色のブラウスを着ていたが、
それが少女らしい清純さに映った。


「こんにちは」

辺見は包みを差しだした。


「あら、
クッキー」

輪香子は笑いだした。


「どうもありがとう」

辺見が靴を脱ぐ間、
輪香子は奥に走った。
母は居間にいた。


「お母さま、
クッキーよ、
ほら」

辺見からもらったばかりの包みを、
母の前につりあげて見せた。


だが、
母は、
いつものようには、
笑わなかった。


「そう。
すぐ、
こちらにお通しして」

そのとき、
母の顔は妙に真剣だった。


辺見を迎えるときの、
いつもの、
いそいそとした様子はなかった。


そのことは、
辺見が廊下を步いて部屋にはいってからも同じだった。


辺見は、
敷居ぎわに膝を突いた。


「こんにちは」

辺見はいつも几帳面《きちようめん》に挨拶する習慣だった。
母は、
丁寧にそれに答えた。


「どうぞ、
こちらへ」

辺見を座敷の中に招いた。


「輪香ちゃん」
と、

母はすぐに言った。


「コーヒーでもいれてきてちょうだい」

「はい」

輪香子は台所に行き、
支度にかかった。


昨日、
挽《ひ》かせたばかりのコーヒーがあった。
それを漉《こ》すまでに、
たっぷりと十分はかかった。


輪香子がコーヒーを持って母の居間にもどったとき、
それまで何か話していた二人の話が急にやんだ。


だが、
話を中止したというのは、
輪香子が実際に見たのではない。
襖《ふすま》をあけたとき、
すぐ、
そう感じたのだ。
そのように感じさせるだけの緊張した雰囲気が、
母と辺見の向かいあった姿にあった。


辺見は輪香子にすぐに笑いかけたが、
母の顔はこわばったままだった。


「ありがとう」

辺見が礼を言った。


「輪香子」

輪香子がそこにすわろうとしたときに、
母は急いで言った。


「ちょっと、

辺見さんとお話がありますからね。
あなたはあとで来てちょうだい」

これまでに、
あまりなかったことだった。


母はどちらかというと、

辺見が来ると、

つとめて輪香子を呼ぶようにしている。
その習慣で、
輪香子がそこにすわるつもりだったのを、
今日の母は拒《こば》んだのである。


「はい」

すぐに立ったが、
輪香子は、
軽い胸騒ぎがした。


辺見と母とは、
何か自分に知られてはならない話をしているのだ。
それが父のことだと直感した。
新聞には、
父の勤めているR省の××局の汚職が、
連日のように出ている。
辺見がその情勢を母に知らせに来たのだ、
と察した。


母は、
近ごろ、
ずっと沈んだ顔色でいる。
父が、
やはりおそく自動車《くるま》で帰ることには変わりないが、
どこか、
その動作はあわただしかった。


たしかに、
以前の父の鷹揚さは、
その動作から失われていた。


それに、
輪香子が居間に引きとってからも、
父と母とは、
おそくまで話しあっているのだった。


輪香子は、
母にそれをきいたことがある。


「心配しないでいいのよ。
お父さまには関係のないことだから」
と、

母はそのたびに言った。


「それは部下のかたの不始末だから、
責任問題が起こるかもしれないがね、
お父さまがどうということはないのよ」

だが、
それにしては母の顔色は悪かった。
輪香子といっしょにいると、

どちらかといえば、
娘に合わせるように若やいでくる母が、
なるべくひとりで引きこもっているようになった。


たしかに、
母の態度は以前と違ってきていた。
輪香子には、
母が急に自分から遠ざかったような気がした。


母がひとりで遠ざかるという意味は、
輪香子に秘密をつくっているということになる。
大人の世界だし、
娘には知られてはならない用事を、
母の方で一方的につくっているという感じだった。


それが、
今、
世間に騒がれている汚職に関係していることは間違いなかった。
これは直接、
父に関係した問題だ。
だが、
事件の性質からいって、
輪香子は直接に、
父にもきくことができなかった。


母にそれ以上追及することも、
どこかで迷うのである。
つまり、
父が刑事上の罪を得るかもしれない、
という意識が、
娘として一步そこでためらわせるのであった。


それにしても辺見は、
何を告げに、
母のところに来たのであろう。
母が何かを彼に依頼していることは、
その真剣な話し方で分かる。
辺見は母の頼みを聞いて、
その返事を持ってきたのに違いない。


いつも、
輪香子がそこにすわるのをすすめていたはずの母が、
追いやるように中座をさせたのも、
話の重大さを思わせた。


辺見は輪香子への思いやりからか、
つとめて平気な顔つきをしている。
だが、
母の顔色は正直にそれを語っていた。


輪香子は、
自分の部屋に籠《こも》ったが、
落ちつかなかった。
この問題が起こってから、
彼女は、
よほど小野木をたずねようかと思った。
だがこの事件に検事として彼が関係していると聞いて、
それもできなかった。
小野木とも長い間、
会っていない。
和子にでも呼びださせて、
彼と話をしたかったが、
その自由を失っていた。
父が事件に関係していることが羞恥《しゆうち》を起こさせていたし、
小野木に会うのが急に肩身が狭くなっていた。


「弁護士さんが、
そうおっしゃったんですか?」

部屋で輪香子の母が、
目を沈めて考えていた。


「どういうことなのでしょう?」

「内容のことは」
と、

辺見は静かに言っていた。


「何も言いませんがね。
とにかく、
自信たっぷりでした。
検察陣は、
自分のその発表でひとたまりもない、
というんです。
あの顔つきからすると、

まんざらハッタリとは思いませんでしたね」

「なんでしょう?」

「さあ」

辺見も思案していた。


「ぼくにも見当がつかないのです。
まあ、
弁護士というのは、
その方面の専門家ですからね。
正式な防御でなく、
いろいろとからめ手からの防御もやるのだと思います。
いずれにしても、
弁護士が検察陣を攪乱《かくらん》すれば、
この事件は、
当然、
有利になると思いますね」

局長の妻は、
溜息をついた。


「ほんとに、
そうなるとよろしいんですがね。
主人のことが気にかかって、
ここんとこ、
眠れないんですのよ」

「局長は大丈夫と思います。
それに、
弁護士が何を考えてるか分かりませんが、
その言葉のとおりに成功すると、

これは事件そのものが消える可能性も出てきますね」

「ほんとにそうなると、

どんなに安心だか分かりませんわ」

その表情を、
辺見はちらりと見た。
新聞記者の目になって観察的だった。


「奥さん」
と、

辺見はそれまでと違った声で言った。


「ざっくばらんにおたずねしたいのですが、
何か局長のほうにご心配になるような様子があるのですか? いや、
これは無遠慮かも分かりませんが、
こういう状態になると、

ぼくもご相談に預かりたいと思います」

局長の妻は黙った。
すぐに返事はしなかった。
顔色の悪くなったことで、
質問者はその返事を聞いたと思った。


「実は、
心配なことが一つあります」

彼女は、
やっと低い声で言った。


「ほんとにお恥ずかしいことですけれど」

「いや、
なんでもおっしゃってください。
このさい、
奥さんひとりが胸に納められてすむことではありません。
いちばんいい方法を考えなければならないのです。
そのためには、
奥さんにも、
勇気を持っていただかなければなりません」

辺見は励ました。


「ご心配ごとというのは、
なんでしょうか?」

彼は、
のぞきこんだ。


「いや、
ぼくなら誰にも言いません。
それは絶対に安心してください。
全部、
お話しになってください。
最善の方法を、
およばずながら、
ぼくもいっしょに考えたいと思います」

「ありがとう」

妻は言った。
それから間《ま》をおいて言いだした。


「実を言いますと、

田沢が、
わたくしにと言って、
ある晚、
ミンクのコートを持って帰ったのです。
とても立派なものでしたわ。
田沢は局長ですけれど、
お給料といってはそれほどではないのです。
そんな、
ミンクのコートなど、
買えるはずがありませんわ。
どこかでいただいたものに違いありませんが、
いただきものにしては、
ケタはずれに豪華なんです。
わたくしは、
どこからいただいたのか、
すぐに見当がついたので、
さっそく返すように、
田沢に言ったのです」

局長の妻は告白した。


「ところが、
田沢はあんな性格ですから、
そのままにしておいて、
しまいには、
輪香子にでもやれ、
と言いだしました。
わたくしだって、
輪香子にそんなものを着せたくありません。
それで、
なんとなく返さない状態で、
ずるずるしてるうちに、
わたくしはもう一度、
返すように田沢に催促しますと、

おまえたちが着ないなら、
親戚の者にでもやれ、
と田沢は言うのです」

「そして、
そのミンクのコートは、
そのとおり、
親戚のかたにお譲りになったのですか?」

「ええ。
親戚の中で、
ちょうど、
それを着てもいい人間がいましたので、
その者にやってしまいました。
それが気にかかるのです」

「そうですか」

新聞記者は、
顔をくもらせた。


「そりゃ、
やむをえませんね。
きっと、

奥さんのご推察なさったように、
そのコートは、
業者からの贈りものに違いありません。
お返しにならなかったのは、
ちょっと残念でしたね」

「ねえ、
辺見さん」

局長の妻は、
真剣な顔色になった。


「あのミンクのコートが問題になるでしょうか?」

それは、
無論、
問題になる、
と辺見は答えたかったが、
さすがにすぐには言えなかった。


「親戚のかたには、
こちらからお譲りした品でない、
ということをよく言っておくことですね。
万一の時のことを考えての処置です」

辺見の言葉は、
しかし、
弱いものになった。


座敷には薄い陽が当たっている。
この部屋の沈んだ空気の中に、
どこか隙間があって、
そこから冷たい風が吹いてきているような感じだった。


「奥さん」

辺見は念を押した。


「もう、
そのほかにはないでしょうね。
ほかに、
業者が持ってきた品物はありませんか?」

局長の妻は、
言葉に出さないで、
うなずいただけだった。


しかし、
彼女にも辺見には言えないことがあった。
もらったのは、
ミンクのコートだけではない。
新聞紙包みの札束の秘密がある。
玄関の下駄箱の上に勝手に置いて逃げ帰った土井という男の残したものだった。


その新聞紙包みの中身は、
意志に反して、
彼女が半分以上減らしていた。


田沢隆義は、
十二時近くになって、
役所の自動車《くるま》で帰ってきた。


妻が玄関まで来て、
戸をあけた。


「お帰んなさい」

田沢は黙って家の中にはいった。
酒の匂いがした。
輪香子も女中も寝ていた。
家の中は廊下だけに電灯がついていた。


居間にはいって、
上着を脱いでいるところに、
戸締まりをした妻がはいってきた。


「あなた」

妻は夫を呼んだ。


「今日、
辺見さんが見えましたよ」

夫は黙って洋服のまま、
じだらくにすわった。
酒の匂いは強かった。


「宴会ですか?」

それには返事もせずに、
夫は、
水をくれ、
と言った。


妻が運んで来ると、

うまそうに咽喉《のど》を動かして飲んだ。


「辺見さんの話を申しましょうか?」

「なんだと言ったのだ?」

夫は、
唇についた雫《しずく》をきれいなハンカチで拭った。


「弁護士さんの家《うち》に行って、
検察側の動きを聞いていらしったそうです。
その時の弁護士さんの話では、
なんだか、
こちらに検察側を突きくずすような決め手がある、
と話していらしたそうです」

「そりゃ弁護士のハッタリだ」

夫は初めから乗らなかった。


「いいえ、
そうでもないそうですよ。
辺見さんがそう言ってらしたのです。


ほかのかたと違い、
辺見さんの言葉ですから、
信用できそうです」

「辺見が言っても当てにならない」
と、

夫は気のない言い方をした。


「何か具体的なことを言ったのかい?」

「それはおっしゃいませんでした。
でも、
弁護士はひどく自信のあるようなことを言っていたそうです。
検察側は自分の出方で崩壊《ほうかい》する、
と弁護士は言ったそうです」

夫はちょっと目を動かしたが、
また元の表情にかえった。


「そんなことを真《ま》に受けたってしようがない。
おまえ、
いちいち、
辺見に何かきいているのかい?」

「いいえ、
別にきいてるわけじゃございませんが、
やはり新聞を見ると、

心配なものですから」

「よけいな心配しなくていいよ。
おれのほうで何もかも分かっている。
大丈夫だ」

「あなた」

妻は声を改めた。


「ミンクのコートのことを、
辺見さんに言いました」

「バカな奴だ」

夫は顔をしかめた。


「あれは親戚の恭子《きようこ》さんに上げたのですが、
もらった人に早く事情をふくんでおいてもらうよう言った方がいい、
とすすめていましたわ」

「辺見の奴、
何か言ってやしなかったか?」

「別に」

妻はやはり顔をこわばらせていた。


「でも、
ミンクのコートは打ち明けられましたけれど、
土井さんからいただいた、
あの新聞包みのお金のことは、
わたしも辺見さんに言いだす勇気がありませんでした」

夫は黙っていた。


「ねえ、
あなた。
あのお金のことは、
どう始末しましょう」

「いくら使ったのだ?」

夫は、
間《ま》をおいて、
ぼそりときいた。


「いろいろ出費が重なりましたので、
つい手をつけてしまいました。
初めからあんなものを置いていただかなかったほうが、
どんなによかったかしれません。
わたしも、
タンスの底にしまって、
絶対に手をつけないでお返しするつもりでしたけれど、
つい……」

妻はさしうつむいた。


「だから、
いくら使ったか、
ときいている」

「半分ぐらいになっていると思います。
田舎の家の新築に手伝いを頼まれたので、
それに出したし、
わたしの実家の妹が結婚したので、
そのほうも負担したし、
いろいろとありました」

「二十万ぐらいか」

夫は憂鬱な顔をした。


「局長と言っても体面ばかりで、
あなたのお給料は世間の人の想像よりずっと少ないし、
ほんとにつろうございました。
お断わりしたのに、
ああいうお金を下駄箱の上に置いて、
逃げるように帰られた土井さんを恨みとうございますわ。
今度、
挙げられて、
そのことも検察庁で自供なさるに違いありません」

「いや、
まだ自供は始まっていないそうだ」

「いいえ、
いずれはそれが出ますわ。
今さらお返しすることもできなくなったし、
どうしたらいいでしょう? あなた、
家宅捜索はないでしょうか?」

「そうだな」

夫は弱気になった。


「今のうちに、
その金をしかるべく処分したほうがいいだろう」

「処分といいますと?」

「残ってる三十万円を友人の大木《おおき》君にでも渡して、
あと二十万をこちらで補填《ほてん》し、
ぼくの方から預けたかたちにしておくのだ。
万一、
土井がその金のことをしゃべっても、
受けとれないからと言ってその金を友だちに預け、
土井に返すように頼んでおいた、
と言えばいい。
つまり、
おれのほうでは、
そんな性質の金だから、
あとで友人を通じて返すつもりで預かってもらっていたというかたちにするんだ。
万一、
家宅捜索のときに、
その三十万円の現金がこの家で見つかってはまずいことになる。
始末を早くするんだな」

「情けないことになりました」
と、

妻は嘆いた。


「これが引っかかって、
あなたの位置が揺らぐと、

あとはどうなることでしょう?」

妻は涙を流した。


「まあ、
そう心配することはないよ。
おれの聞いてる情報では、
せいぜい、
課長あたりで止まるらしいという話だ。
それに、
おれを引っぱってみろ、
たいへんなことになる。
その気配を察して、
代議士連中が検察庁の方にも運動していると聞いた。
大臣だってずいぶん心配しているからな」

「ほんとに大丈夫でしょうか?」

「安心したほうがいい、
と言っている。
だからおれもこうして、
のんびりと宴会などに顔を出して、
酒をのんで帰っているのだ。
その危険がおれに迫っていてみろ、
おれだって、
こうしておちおちと宴会などには出やあしない」

夫は太っていた。
カラーのボタンをはずし、
ネクタイをゆるめた。


「おまえが、
そう、
くよくよしたって、
どうなるものでもない。
まあ、
おれに任して安心していることだな。
ところで、
輪香子には、
このことは話さないだろうね?」

「輪香子には、
とても言えませんわ」

妻はまだハンカチを顔に当てていた。



会議が終わったのはおそかった。


小野木は、
役所を出た。
外は夜になっていた。
この付近は暗かったが、
銀座方面の空が、
オーロラのように明るかった。


ほかの同僚たちは、
バスを待ったり、
都電の停留所や、
地下鉄の方に行った。
小野木も、
いつもは地下鉄を利用するが、
その組にはいらなかった。
用事があると断わって、
一人で日比谷《ひびや》公園に向かった。


暗い森の向こうの空に、
ネオンの色が映っていた。


小野木は、
ひとりで步きたかった。
步いて考えたかった。
今日も取調べをしたが、
結城庸雄には会わなかった。
係りが違うだけではなく、
彼に会うのを自分から避けた。
とても、
結城の顔が見られなかった。
彼の供述の必要なところは、
調書の上でまにあわせたり、
担当検事から話を聞いたりした。


奇妙なもので、
結城が取り調べられているその部屋の前の廊下を通るのに怯《おび》えた。


結城庸雄を小野木は軽蔑している。
頼子を不幸に陥《おとしい》れた男に怒りを覚えている。
しかし、
その男に会うのが恐ろしかった。


それは、
相手が頼子の夫という理由からくるだけであろうか。
頼子を愛する権利は、
結城などよりはずっと自分のほうにあるのだ。
結城は頼子の生命をむしばんだだけである。
ただの世間的な夫婦関係というだけで、
こうも自分が結城に会うのをこわがらねばならぬ理由が納得できなかった。


法律的にはどうなる。
小野木は今まで調べた事件で随分、
法律の解釈が現実のものと遊離していることを、
しばしば感じてきた。
だが、
法律はあくまでも常識の上に組み立てられていた。
常識を一つの強権の中に規定したのが法律であろう。
しかし、
常識は、
より公約数的なものであり、
普遍《ふへん》的なものである。


だが、
普遍的なものは、
個々の場合には適用されないことが多い。
かえって普遍的なものに従うほうが、
不自然なのである。
現実の解釈を、
もっとも常識的な法律で決めることの不当さを、
何度か痛感してきた。


頼子の場合がそうだった。
頼子は結城から早く離れたがっていた。
結城はそれを許していなかった。
この夫婦が、
それぞれ別個の存在に乖離《かいり》していた。


頼子の感情が、
もっとも結びついているのは、
小野木は自分だと思っていたが、
現在のかたちでは、
小野木の頼子への行動は許されていない。
世間的にも非難されることだったし、
戦前には、
そのための法律さえあったくらいである。


結城庸雄が普通の人間ならそれでいいのだ。
だが、
彼は小野木がいちばん嫌悪《けんお》しているタイプの人間だった。
どのような点からみても、
結城庸雄は陋劣《ろうれつ》な人格だった。


その結城をこれほど自分が恐れなければならぬ理由に、
自分自身で腹がたった。


小野木は道を步いている。


公園の中の道は曲がっていた。
外灯の灯が步いている人たちをうつしだしていた。
場所がら、
若い男女が多かった。
誰もがたのしそうに話して、
小野木とすれ違うのである。


だれか声をかけたようだった。


気にとめながらも、
そのまま步いていると、

「小野木検事さん」
と、

はっきり聞こえた。
これは、
後ろを追ってくる靴音といっしょだった。


ふりむくと、

地検づめの或る社の新聞記者だった。
小野木はその男の顔をよく知っている。


「たいへんですね、
小野木さん」

小太りのずんぐりした男だが、
日ごろから愛想がよかった。


「やあ」

小野木はぼそりと言った。


その新聞記者は、
小野木の横にならんだ。
自然にそばに来たというのではなく、
あきらかに意識しての行動だった。


新聞記者が步きながら煙草をくわえた。


「検事さん、
事件は山を越しましたか?」

なんでもないような口調の質問だった。


「さあね、
ぼくにはよく分からないよ。
もっと上の方にきいてもらわないとね」

小野木は答えた。


「しかし、
捜査は相当進展してるんでしょう。
どうです、
R省の田沢局長までいきますか?」

「さあ、
知らんね」

二人は雑談のような恰好で步いていた。


「しかし、
某方面では、
局長の召喚《しようかん》が必至だ、
と言って騒いでいますよ」

「そうかね。
ぼくには何も分からんよ」

「だが、
現在の段階では、
当然、
そこまでいくでしょう。
検察庁がそこまで伸ばさないと、

第一、
国民がこの事件を見つめているので、
納得しないと思いますがね」

新聞記者はくいさがった。
小野木は返事をしなかった。


「疑獄事件は、
いつも捜査が中途半端になるのが常識になっています。
このさい、
今度こそしっかりやっていただきたいですね。
これは国民の声です。


ねえ、
小野木さん、
そうじゃありませんか?」

小野木は、
それにもまた返事をしなかった。


小野木の目には、
輪香子が浮かんでいる。
この新聞記者の言う田沢局長の娘だった。


初夏の輝くような麦畑の中だった。
そこにたったひとり少女が立っていた。


──輪香子のことを考えると、

いつもその場面が目に浮かぶ。


青い麦畑と、

青い湖面と、

白いカリンの花と、

ゆるやかな塩尻峠あたりの山脈《やまなみ》と。
──その中に立った少女の姿は、
小野木が目をみはるくらい清純だった。


そのときの印象は、
あとで輪香子に会ってもくずれなかった。
それだけの純真さが、
この少女期から大人に移ろうとする彼女の体にあった。
いい家庭に育った躾《しつけ》が、
自然とそのおおらかな態度に出ていた。


その彼女を悲しませたくなかった。
田沢局長のことを考えるとこのことがいちばん苦痛だった。
今度の事件は、
ことごとくが小野木の周囲に暗い翳《かげ》をおいている。


いつのまにか、
横を步いていた新聞記者がいなくなった。


小野木の傍を離れた記者は、
公園を反対側に步いて、
タクシーをとめた。


行先は近かった。
銀座の喫茶店の前で降りた記者は、
ドアを肩で押してあおった。


彼は入口に立って店内をひと眺めしていたが、
すぐに二階へ上がった。


「待たせたね」

記者が近づいていったのは、
そこに待っていた辺見だった。


「ご苦労だったね」

辺見は笑顔で友人を迎えた。


「会えたかい?」

さっそくだった。


「帰りをねらったのだ。
うまく会えたよ」

彼は、
蒸しタオルで顔をごしごし拭《ふ》いた。


「すまなかったね」

辺見は、
友だちのために女の子に注文した。


「で、
どうだった?」

辺見は、
友人の顔を見つめた。


「いっさい、
ノー.コメントだ」

彼は答えた。


「しかし、
それは初めから分かっている。
ぼくは顔色で判断するつもりだったがね」

「田沢さんの名前を出してきいたのかい?」

「きいた。
むろん、
そうしなくては話にならん」

彼はうなずいた。


「ところが、
それにはいっさい分からないという返事だった。
もっとも、
若手の検事だから、
上の方の方針は分からない、
というのは常識的なところだろうが、
ここまで捜査が進んでいるのだから、
あのクラスでも、
もう事情は分かるはずだ」

「どういう反応だったね?」

辺見は熱心だった。


「あれは田沢局長までいくよ」

友人は、
実になんでもなく答えた。


だが、
辺見のほうでは、
それを聞いて深刻な顔つきになった。


「やっぱりいくのかい?」

「いくだろうね、
あの顔色では」

彼は言った。


「ぼくはそう判断した。
田沢さんの話をもちかけたとき、
別に否定はしなかったからね。
若いだけに、
そこは正直さ。
すぐ顔色に出る。
きみ、
これは田沢局長までかならず手が伸びると思うね。
第一、
現在の客観的な情勢判断からしても、
それが常識だろうな」

辺見のほうは黙った。
彼は運ばれてきた二度目のコーヒーをスプーンでかきまぜている。


「どうかしたのか?」

友人のほうからきいた。


「いや、
どうもしないがね」

「なぜ、
そんなことをぼくに頼むんだ。
田沢局長と何か関係があるのか?」

そこまで言ったが、
友人のほうで早く気がついた。


「忘れていた。
きみは田沢局長とよかったんだな」

「そうでもないが、
取材の上でいろいろ便宜をはかってもらっている」

「それで心配だったんだね。
分かるよ、
きみの気持は。
だが、
どうもいけないね、
今度は」

「だめか」

辺見が友人に調子を合わせた。
輪香子のことは悟られないですんだ。


「どうもありがとう」

辺見は礼を言った。


「さっそくだが、
急に用事を思いだしたので、
これで失敬するよ」

友人の新聞記者が呆れた。


「ひどく急ぐんだね」

「失敬。
ほんとにすまん。
だが、
この時間に会わなければならぬ人を思いだしたんだ。
時間がない」

わざと腕時計をめくった。


「やれやれ」

「この次、
埋めあわせするよ」

辺見は、
わざと軽く笑って椅子を立った。
友人も諦めて、
つづいて立った。


「失敬」

辺見が喫茶店を出て、
友人の肩を叩いた。


だが、
步きだした辺見の顔は憂鬱だった。
今の話をどう輪香子に伝えるべきかである。
正直に話すのは苦痛だった。
だが、
気休めも言えなかった。
そのことで辺見の足は重かった。


彼の周囲に人が大勢流れている。
その中で辺見は砂漠の中をひとりで步いているような感じがした。


時計を見た。
輪香子が待っている。


公衆電話ボックスの中にはいった。


「辺見ですが」

と言うと、

電話口に出てきたのは、
和子だった。


「あら」
と、

若やいだ声で言った。


「ワカちゃんでしょ」

「そうです」

「お待ちかねよ。
ちょっと待ってくださいね、
今、
かわりますから」

辺見は、
今度だけは輪香子の声が聞こえないほうがいいと思った。
受話器の奥に廊下を步く音が聞こえた。
先方で受話器を取る音が耳に響いた。


「辺見さんですか、
輪香子です」

輪香子の声だった。
あまり弾《はず》んでいなかった。
が、
一刻も早く辺見の話を聞きたい様子が目に見えるようだった。


「分かりましたかしら?」

「だいたい、
話を聞きました。
今、
友人の男が担当検事に会ったのです。
その報告を受けました」

「そうですか」

輪香子の声は、
ちょっと上ずってきた。


「電話ではちょっと言えません。
今、
銀座にいますから、
こちらまで来てくれますか?」

「すぐ行きますわ。
銀座は、
どちらでしょう?」

辺見は、
現在位置を告げた。


「すみません。
では、
すぐ車で行きますから」

辺見は、
受話器をおいた。


相変わらず人の流れが多い。
たのしそうに若い男女が肩をならべていた。


辺見は、
これから会う輪香子が、
今度ばかりは苦痛だった。


ある料亭の一室に、
中年の男と老人が向かいあっていた。


中年の男は肥《こ》え、
老人は鶴のように痩せていた。
あいだにはさんだテーブルには、
灰皿と湯呑みがのっているだけである。
だれもほかにいなかった。


料亭のその部屋は、
庭に向かっていたが、
障子はガラスのところまで桟《さん》をおろしていた。


庭はこの料亭の自慢のものだったが、
密談は他人に二人の姿をのぞかれないくらいの配慮を要した。


中年の男は、
弁護士だった。
これは結城庸雄と打合わせをした弁護士である。
鞄がおいてある。
弁護士は、
その鞄から大きな封筒を取りだしていた。


「こういう内容ですがね」

弁護士が取りだして見せたのは、
数枚の写真であった。


「ふむ」

痩せた老人は、
手に取って眺めていた。


「これは」

肥えた弁護士は、
少し背伸びして、
相手の眺めている写真に、
手を突きだして指を当てた。


「横浜のニューグランド.ホテルで、
二人で食事してるところです」

老人は、
それに見入っていた。


「先生、
これは、
深大寺というところで、
二人で步いてる場面です。
暗いので、
はっきりは写りませんが、
それでも当人だということは分かります」

弁護士に先生と呼ばれた老人は、
かつて検察庁に勤めていた人だった。
退官してからは弁護士になっているが、
未だに、
検察方面には顔が利いていると言われていた。


その元検事正は、
もう一枚をめくった。


「これも同じです」
と、

弁護士は多少得意そうだった。


「いろいろな角度から撮っております。
この少し先へ行ったところで、
二人は抱擁したそうです」

老人は謹厳だったので、
笑わなかった。


次をめくった。
文字だけを拡大したものだった。


「これはですな」

弁護士はつづけた。


「これはS温泉、
ご存じでしょうね。
山梨県にあります。
ひなびたところですがね。
ここで結城君の奥さんと小野木検事とがいっしょに泊まったのです。


あとで、
宿帳を結城君が写真に撮ってきたのですがね。
筆跡は小野木検事のものです」

弁護士は、
老人の顔を上目で、
ときどき見ながら説明した。


「ぼくも小野木検事の筆跡を調べましたが、
この写真に、
まさにぴたりですよ」

老人は渋い顔をして写真をおいた。


「説明しますと」

弁護士のほうは絶えず微笑をつづけていた。


「小野木検事と結城君の奥さんとは、
この温泉に行っているんです。
当日は台風がやってきました。
そこで、
この泊まっている旅館から別の旅館に避難したそうです。
この筆跡は、
到着と同時に女中に差しだしたものですがね。


結城君があとで調べたそうです。
その話を聞いたので、
ぼくもまさかと思ってびっくりしました。
結城君の話だけではなんとも言えないので、
事務所の者を調査にやらせました。
ところが、
先生、
結城君の言うとおりでした。
しかもですな」

弁護士は勢いづいていた。


「二人は、
翌朝、
雨がまだおさまらないうちに步いて出発したそうです。
というのは、
あの線が、
台風のために途中で土砂くずれがあり、
汽車が不通になったからです。
それで、
富士宮駅の近くまで山沿いに步いたのです。
だが、
その日にはとても着きません。
二人は、
途中のどこかで一夜を共にしています。
つまり、
温泉宿が一泊と、

山を步いている途中どこかで一泊と、

都合二泊しているわけです」

弁護士は、
唇を舌でなめた。


「結城君にきくと、

奥さんはある口実を設けて出たそうですが、
その予定は一泊だったそうです。
ぼくの推定によると、

小野木検事も結城君の奥さんも、
一泊の予定で帰るつもりだったところ、
あの事故にあって、
二泊になったわけですな。
いわば不可抗力だったわけです」

元検事正の老人は、
腕組みした。


「どうです、
先生、
小野木検事は今度の疑獄の担当検事ですよ。
結城君は被告です。
担当検事が被告の妻と通じている。
こういうことは前代|未聞《みもん》ですよ。
検察庁にとっても一大汚点です。
ぼくはね」

弁護士は、
卓上の写真を取りあげて、
顔の上にかざすようにした。


「この写真と、

ぼくのほうで調査した事実とを場合によっては公表するつもりです。
そして検察当局の責任を追及しますよ。
いや、
今度の疑獄だってそうです。
あきらかに策謀があります。
しかも、
その中にこのような腐敗検事がいるということは、
法の精神からいって、
まったく不埒《ふらち》千万です。
先生、
どうです、
お考えは?」

老人は、
しばらく目をつむって考えていた。


廊下に客が来たとみえて、
話しながら通る声がした。


襖があいた。
これは女中が顔を出したのだが、
部屋の用談がまだすまないと思ったか、
こっそり、
襖をまた閉めた。


「林君」

老人が初めて顔を上げて呼びかけた。


「どういうのだね、
きみの気持は?」

老人の目が、
じっと弁護士の顔に注がれたが、
さすがに鋭いものだった。


「は? どういうつもりかといいますと……」

「林君」

老人はふたたび呼んだ。


「きみは、
これで検察側と事件の取引をしようというつもりだね。
ね、
そうだろう、
きみ?」


地検特捜部では、
毎日、
取調べがつづいていた。


新聞はその捜査の進展を報道した。
どの新聞社の観測記事でも、
事件は発展する公算が大きい、
と出ていた。


被疑者は、
毎日、
S拘置所から検察庁に運ばれてきた。
取調べがすむと、

また拘置所に帰っていく。


取調べを受ける被疑者たちは、
検事の出勤より早く来て待っているので、
小野木が護送車を見るのは、
夕方、
彼らが帰っていくときだけだった。
護送の車は小型のバスのようなかたちをし、
緑色に塗られていた。


小野木は、
それを窓から見ては憂鬱になった。
車の内には結城庸雄がすわっている。
検察庁の赤い塀をぬい、
緑色の車が道に走っているのを眺めて、
頼子のことを考えた。
あの車には彼女の夫が乗っている。


直接に、
結城を調べる担当ではなかったが、
それでも、
その護送車を見るのはやりきれなかった。


取調べは、
分担した各検事たちによって進行した。
調書が次第に厚みを重ねてゆく。
会議が毎日持たれた。


各自の取調べ状況を総合して、
主任検事が方針を指示してゆくのである。


事件は、
意外にひろい幅を持っていた。
官庁側は末端から上層に伸びようとしている。
贈賄側は単純な単位から複雑化してゆく。
また、
収賄側にしても、
官庁とは別に政党方面にも関係者があった。
代議士のなかには、
自分の過去の経験や顔にものを言わせて官僚に圧力をかける者がいる。


法律的に言えば、
「斡旋収賄」という厄介で抜け道の多い罪名に当たるのだ。


これまで、
このような政治的な汚職事件となると、

たいてい途中でつぶれてしまう。
そうでなかったら、
ほとんど核心にはいらないまま、
お茶を濁されることが多かった。


現に、
この事件がはじまって、
新聞記者たちは、
検事たちにいちいちつきまとっていたが、
彼らもそれを、
一様に検事たちに言っていた。


「今度は大丈夫でしょうね? 今までのように、
変なところから圧力があって、
ポシャってしまうことはないでしょうね。
何しろ、
国民の期待は大きいですからね」

しかし、
石井検事は黙っていた。
が、
彼の意志の強いことはだれにでも分かった。
それがはっきりと読みとれるのは、
会議の席上だった。
柔和な顔をしている石井検事がいちばん強硬なのである。


しかし、
或る変化が起こった。
その特捜部の空気が、
二日前ごろから妙に変わってきたのである。
おりから、
事件はヤマにさしかかろうとしているときだった。


妙な空気というのは石井部長をはじめ検事正や副部長などの上層部が、
頻繁《ひんぱん》に会議をはじめだしたことである。
それが事件の技術的な方針に関係があるのだったら、
会議をおえて石井検事は、
すぐに係り検事を集めて詳細な討議をするはずだった。


だが、
そのことがないのである。
石井検事は、
幹部たちと会議をしきりと開くわりあいに、
部下の検事たちとは会議を開かなくなった。
風がやんだように、
それがないのだった。


この空気は、
一方では緊張しているようだが、
一方では弛緩《しかん》しているような印象だった。
いわば、
緊張と弛緩とが、
妙にからみあっているような、
割りきれない雰囲気であった。


このような空気は、
当然、
敏感に部下の検事たちに伝わった。


だれもが、
何かあると感じたのだった。


その影響は、
いきおい検事たちの取調べの意欲にも影響した。
首脳部の方針に変化がきたことが明瞭だった。


石井検事は、
そのことを何も説明しない。
気のせいか、
その顔まで気むずかしく、
うっとうしそうだった。
不安が、
部下の検事たちにきざした。
得体《えたい》の知れないものが上層部を支配しはじめている。


「なんだろうな?」

検事たちは、
ささやきあった。


これまで、
皆が熱心になっていただけに、
このはっきりと分からない変化は落ちつかなかった。


「政党方面から圧力がかかったのかな?」

同僚の検事は、
小野木に言った。


それがいちばん考えられる筋だった。


これまでの経験で、
そのことは何度かくりかえされていたのである。


その晚、
小野木が検察庁から帰りかけると、

同僚検事が後から追いついてきて、
肩をならべた。


「どうも、
上層部に、
外の方から取引の申しこみがあったらしいよ」

彼は低い声で話した。


「取引? どういうのだろう?」

小野木は、
遠いところを見る目つきをした。


「それがはっきりわからない。
政党からだとぼくたちは考えていたが、
今度は、
そういう筋ではなさそうだ。
どうも弁護団あたりかららしい」

「弁護団が?」

「そう。
しかも先方は直接のかたちではなく、
元検事正をやっていた人を通しての話らしいのだ。
それで分かるだろう、
石井部長が憂鬱な顔をしてるのが」

「しかし」
と、

小野木は言った。


「考えられないね。
弁護団が何か有力な反証でも握ったとでも言うのだろうか?」

「それは分からない。
とにかく、
ぼくはそう観測している」

同僚検事は、
自分の直感を信じていた。


その検事と別れて、
小野木はひとりになった。


三月の末で、
日がだいぶ延びていた。
お濠端《ほりばた》の景色が、
蒼味のかかった半透明の中に沈んでいた。


小野木は、
日比谷の方に向かった。
並木のプラタナスに新芽が出ていた。


視角の具合で、
それが重なりあうと、

新しい緑色に彩《いろど》っていた。


小野木は步いているうちに予感がした。
今、
同僚検事が話した言葉が、
彼の胸に残っていた。
それが小野木の漠然とした不安をひきだしている。


弁護団が有力な反証を握って、
それを取引に使うというのだ。
仲介に立ったのは、
法曹界の元老だった。


話は真実性がありそうに思えた。


石井検事の顔色や、
上層部の妙な雰囲気が、
その裏づけになっていた。


弁護団が握ったという反証は何か。


同僚検事はそこまで知らないが、
小野木には、
予感のようなものがきていた。


その朝、
小野木は役所に出ると、

すぐに石井検事に呼ばれた。


石井検事は、
机の上の調書を見ていた。
小野木がはいってきて挨拶したが、
軽くうなずいただけで、
そのまま、
調書の山に取り組んでいた。


「そこにかけてください」

小野木は、
部屋のすみの長椅子にかけた。


石井はそのまま書類から顔を上げなかった。
時々、
付箋をつけたり、
メモをとったりしている。
小野木は、
その様子を眺めながら待っていた。


たっぷりと二十分はかかった。
石井検事は、
眼鏡をはずすと、

丁寧にサックに納めた。


「待たせました」

石井検事は、
自分の椅子から立って、
小野木の横に步いてきた。
長椅子に小野木とならんですわり、
煙草を取りだして、
ゆっくりと青い煙を吐いた。


窓の外から射す朝の光が、
その煙を光らせた。


「どうだね、
健康は?」

小野木の横にならんで石井検事はきいた。
顔を机の方に向けたままだった。


「大丈夫です。
別に悪いところはありません」

小野木は答えた。
そのときまでは、
石井検事が仕事の上での指示をしてくれるものと思っていた。


「忙しい仕事だからね、
時々、
健康を害する。
頑張るのもいいが、
適当な休養も必要だ」

石井検事は、
そんなことを言った。


「ぼくの知った者で、
優秀な連中が、
途中で何人も倒れている。
惜しいことだ。
病気になったら、
これは負けだからね」

なんの話か分からなかった。
小野木は、
曖昧な気持で聞いていた。


「いや、
これは体だけではない。
人間は気持の上で時々病気になることもある。
あまり仕事に追われると、

つい、
精神的にも平衡を失うのだな。
忙しい事件と取り組んで神経衰弱になった検事がいてね。
近ごろは、
ノイローゼと言うのかな、
ぼくも経験があるが、
どうもこいつは厄介だ」

世間話をつづけて、
容易に小野木を呼びつけた用事にはいらなかった。


「一度、
ぼくのうちに来ないか」

話は唐突だった。


「ほかに見せるものはないが、
景色だけは自慢だ。
近所はまだ、
あまり家も建てこんでいない。
雑木林もそのままだ。
これからは步いて気持のいい場所だよ」

石井検事の家は郊外だった。
だが、
この話も、
小野木を呼びつけた用事とは無関係だった。


「そのうち、
うかがいます」

それがいい、
と石井検事は言った。
やはり煙草をくゆらしている。
だが、
このとき、
小野木が気づいたのは、
石井検事が小野木の顔を見ていないことだった。
話は、
正面を向いたままで、
終始、
小野木には横顔を見せているのだった。
その話もとぎれた。


石井検事は、
煙草を灰皿にもみ消したり、
またすぐに新しい煙草を取りだそうとしたり、
普通の彼ではなかった。


「どうだね、
調べの方は相当進んでるかね?」

突然、
はじめて仕事の話だった。


「はあ。
だいたい本人の聞き取りは一段落ついたところです。
あとは、
関連した被疑者の調書と読みあわせて裏づけを取る段階になっています」

小野木は答えた。


「ふむ」

石井検事はうなずいた。


「はじめての事件で、
きみも疲れただろう」

「いいえ」

と言ったが、
小野木のほうで、
検事の横顔を見つめた。
はじめて胸さわぎがした。


「どうだね、
きみ。
少しこの辺で気分転換をやっては?」

石井検事は何気ないように言った。


「はあ?」

小野木は思わず拳《こぶし》を握った。


「いや、
これはきみにぜひすすめたい。
しばらく、
普通の事件の方に回ってみてはどうだな?」

「しかし、
石井検事」

小野木はすぐに言った。
言葉が自分でも強いのを意識した。


「事件はまだヤマが見えたばかりです。
このまま、
よその部署に移るのは不本意です。
健康も悪いところはありません。
そういうご心配でしたら、
このまま頑張らせていただきます」

石井検事は返事をしなかった。
黙って指を鳴らしていた。


「小野木検事」

低いが改まった声になった。


「ぼくの言い方が悪かったかもしれない。
だが、
きみにしばらく、
ぼくの部署から離れてもらいたいというのは、
実は、
もう決まったことなんだよ」

小野木は声をのんだ。
顔から血の気が引いた。
予感はあったが、
やはりそうかと思った。


昨日、
同僚検事が話した「取引」の言葉がすぐに胸にきた。
弁護団側が有力な反証を持っているといった予想の実体が、
なんであるかを悟った。


「いや、
気を悪くしないでくれ」

石井検事はやさしく言った。
前から小野木に目をかけてくれていた検事なのである。


「人生、
いろんなことがある。
それと同じように、
こういう勤めをしていると、

また思いがけないこともある。
いちいち、
それを気にかけていては敗北だ。
きみの気持もよく分かるが、
一口に言うと、

これは検事正からの話もあったことでね、
きみに、
普通の事件を受け持ってもらいたいという希望だった」

希望ではなかった。
あきらかに命令なのである。
自分の予感がはっきりと当たっただけに、
小野木は、
その理由を質問する勇気がなかった。


小野木の目には、
急に緑色の護送車が映った。


この部屋が、
にわかに遠近感を失った。
色彩までさめてきた。
小野木には、
あたりが黝《くろず》んで見えた。
隣にすわっている石井検事の姿まで、
遠のいて感じられた。


林弁護士は、
元検事正の老人から返事を受けていた。


やはり前の座敷だった。
弁護士は肘を張り、
目をすえて、
一語も聞きもらすまい、
という恰好をしていた。


「まあ、
そういうことになった」

元検事正は、
結論を言った。


「分かりました」

弁護士の顔は興奮していた。
分かった、
と言ったときも、
太い息をはいた。


「いろいろありがとうございました」
と、

正面切って先輩に礼を言った。


「それでは、
間違わないように念のためにうかがいますが、
特捜部としては、
小野木検事を部からはずす、
ということになったわけでございますね?」

相手を見上げた目は、
じっと視線を当てて動かなかった。
かえって、
それでうろたえて見えたのが元検事正のほうだった。


「まあ、
そういうことだな。
どうだね、
林君。
きみのほうも気に入るまいが、
せっかく、
そういう処置をしたのだから」

「先生」

林弁護士は、
わざわざ煙草をすった。


「それ以上、
譲步はないわけですか?」

「譲步? 具体的に言うと、

きみのほうの要求はどういうことだね?」

元検事正は反問した。


「いや、
要求などはありません。
そう言っては、
いろいろ誤解を受けます。


ただ、
わたしのほうとしては、
検察側にそのような好ましくない人物がいる、
というのを言い立てたかったのです」

「だからさ、
林君。
その処置は取ると言ってるよ」

「しかし、
ですね。
ただ当の検事を、
特捜部からはずすということだけで、
始末がつくものでしょうかね?」

弁護士はねちねちと言いだした。


「それじゃ釈然とできません。
いいですか、
先生。
その担当検事はですよ、
被告の妻と通じているのです。
なるほど、
上司は分からなかったかもしれない。
しかし、
事実が分かった今では、
当の検事をはずすという処置だけで責任がすむものでしょうか?」

林弁護士の語気は自然と強くなっていた。


「責任問題となると、

まあ、
きみの言うとおりかもしれない。
しかし、
そう、
このさい、
荒らだてなくても、
検察側の誠意も認めてやってほしい」

老人は答えた。


「誠意、
とおっしゃいますが、
誠意があれば、
もうすこし先方も、
考慮があっていいようですがね?」

「考慮、
というとよく分からないが、
どういうことだな?」

元検事正はわざときいた。


「まあ、
いいですよ」

弁護士は、
急に笑いだした。
それから、
とってつけたように、
相手の杯に銚子《ちようし》を傾けた。


「とにかく、
こういうことは、
口では言えません。
いわば、
以心伝心でしてね。
わたしのほうだって、
こういう個人的なスキャンダルを、
公表したくありません。
だが、
ものは考えようでしてね。
検察のほうではその権力をどこまでも押しつける、
いわば、
重箱のすみをほじるようなやり方で出てこられると、

こちらも、
こういうことを言いたくなりますよ」

「林君」

元検事正は言った。


「どうすればいいんだね、
いったい? きみは不満のようだが、
きみの条件をはっきり言ってほしい」

「条件なんかありませんよ。
そんなことを言っては、
先生もわたしもあとで迷惑する。
条件ではないが、
やはりこちらの納得のいくようなやりかたをしてほしいものです」

「だから、
当の小野木という若い検事をはずす、
と言っている」

「当然ですよ、
そいつは」

林弁護士はあざけるように言った。


「そんなことは分かりきっています。
ただ、
わたしのほうとしては、
ことが重大なだけに、
この事実の発表を躊躇しているだけです。
これは正面から特捜部長にも詰めよりたいところですがね。
しかし、
それでは角《かど》が立つ、
わたしとしては、
穏便にやりたいのです。
事件の本筋とはなんらの関係のないことですからね。
しかし、
しかしですよ、
先生」
と、

彼はつづけた。


「検察のやり方が納得がゆかないと、

わたしのほうも、
自衛上、
何かしなければなりません。
そのための、
予備的な折衝をしているわけです。
すまなかった、
とだけでは、
すむ問題ではありませんよ」

元検事正は、
困ったように腕を組んだ。


「それ以上、
譲步がないとなると、

わたしもこれを発表したくなる。
そして、
堂々と戦いたくなります」

「まあ、
まあ、
林君」

元検事正は、
痩せた体を動かして止めた。


「それはちと早まりはしないかね。
きみも言うとおり、
こんなことは事件とは関係のない話だ。
きみも法律で長年飯を食っている人間だ。
お互い、
法の威信にかかわるようなことで争いたくない。
林君、
どうだね?」

「同感です」
と、

弁護士は言った。


「同感だからこそ、
ぼくは戦いたくなるんです。
先生もおっしゃったように、
法の威信に関係するから、
この事実を突きつけたくなるわけです。
被告の妻と通じている検事は、
おそらく検察庁のどこにもいないでしょう。
そして、
このようなケースは空前だと思います。
なるほど、
事件の本筋とは関係ないかもしれない。
しかしですよ、
こういう事実を隠して、
ただ法律上の条文ばかりで戦ったって仕方がありません。
根本問題は、
法の精神を持っていない検事が、
一人でも検察庁にいてはならないことです。
そのためには、
上層部も断固として処置すべきです。
ただ特捜部からはずすというような、
姑息《こそく》なゴマカシの処置だけでは、
われわれは納得できません」

「分かった」

痩せた老人は大きくうなずいた。


「仕方がない。
きみの希望するところがどの辺にあるのか、
ぼくには、
だいたい察しがつく。
しかし、
そんなことは、
ぼくは、
あちらのほうには取りつげないよ。
この話は、
妥協の余地がなかったことにしよう。
ね、
林君、
そうだろう?」

老人は、
弁護士の顔を睨むように見入った。


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