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18落 下


その不安の前兆《ぜんちよう》はあった。


新聞社からの電話を、
女中が取りついだのだ。


「断わってください」

頼子は、
女中にそう言った。


「短い時間でいいそうでございます」

女中は困った顔をして帰ってきた。


「とにかく、
何もお話することはありませんと言って」

そのような電話は方々からあった。
新聞社だけでなく、
雑誌社の名前もあった。


のみならず、
玄関に直接くる記者もいた。


「ただいま留守にしております」

女中にそう言わせた。


「いつごろお帰りになりますか?」

「さあ、
分かりません」

「お待ちしてもいいんですが」

先方は強引だった。


なぜ、
そう自分がねらわれるのか、
頼子には分かっているつもりだった。


それはつまり、
彼女が結城庸雄の妻ということだ。
汚職事件が、
いま最高潮に向かって進行中だし、
結城のことが話題となっていた。


だが、
実はそうではなかった。


それが分かったのは、
頼子がその翌朝の新聞を見てであった。


社会面のトップにそれが大きく出ていた。
新聞を開いて見て、
目をむくような扱いだった。


突然、
小野木検事が休職になっていた。
このことについて、
検察側に暗い翳《かげ》を投げている、
といった意味の標題だった。
当の小野木の写真も出ていた。


頼子は息もつかずに記事を読んだ。


「今度のR省汚職事件は、
地検がいま捜査摘発に全力をあげているが、
そのさ中に、
小野木喬夫検事が、
数日前、
突然、
特捜部の所属からはずされた。


さらに、
×日付で、
同検事はあらためて休職となった。
この裏面には、
同検事と、

この事件の被疑者になっている某氏(特に名を秘す)の妻との間に、
かなり親密な関係があったことが、
弁護団側より暴露され、
地検でも狼狽《ろうばい》して、
とりあえず、
この処分となったものである。


地検では、
ことの重大さに驚き、
同検事について事情をくわしく聞いている。
もし、
弁護団のいうとおりの事実があれば、
同検事には追って断固たる処分をする模様である。
検察側では、
もし、
同検事に、
弁護団側の言うような事実がたとえあったとしても、
事件捜査の本質とは関係がないとして、
あくまで所期の方針に邁進《まいしん》する、
と言明している。


が、
いずれにしても、
この事実がそのとおりだと分かれば、
検察側に大きな暗い影を投げかけたことになり、
目下の汚職事件捜査そのものの前途にも、
影響は免《まぬが》れないだろう、
と見られている。


林弁護士談──某被疑者の妻女と小野木検事とが親密な交際をつづけていたことは、
当方では確証を握っている。
被疑者の妻と、

取調べ担当検事とが、
このような関係にある事実は、
検察側にとっては一大|不祥事《ふしようじ》であろう。
このようなことでは、
とても公正な取調べが行なわれるとは思われない。
われわれは、
たとえ事件が有利に運ばれる予想があるとしても、
この検事と被疑者の妻との関係を、
法の威信のために絶対に黙視することはできない。
小野木検事はもとより、
あえてその上司に当たる検察幹部の責任を追及するつもりだ。


石井特捜部長検事談──今のところなんとも言えない。
弁護人側から、
そのような事実指摘の申し入れがあったことは否定しない。
しかし、
たとえ噂だけとしても、
法の威信の上から捨てておけないので、
とりあえず小野木検事は休職処分にした。
事実の有無は、
これから同検事について事情を聴取し、
調査するつもりだ。
もし、
それが事実となったあかつきは、
どのような処分になるか、
今のところ、
決めていないし、
もちろん、
責任上のことも考えていない。
現在の段階では、
この問題と事件摘発のこととは、
もちろん別個と考え、
あくまでも既定方針による捜査に全力を尽くすつもりだ。


なお、
このことは、
某弁護人から某氏を通じて、
検察側に打診があったが、
われわれとしては不明朗な印象を国民に与えたくない建前から、
断固としてそれを拒絶し、
小野木検事の休職処分をとりあえず発表した次第だ。


真偽はとにかくとして、
このような問題が起こったのは、
遺憾《いかん》である。


小野木検事談──何も言いたくない。
すべては上司に任せてある」──頼子は、
それを最初読んだとき、
活字がすぐに目にはいらなかった。
ところどころ、
断片的にしか読めなかった。
感情が視覚を混乱させた。


ようやく記事の全部の意味が分かったのは、
三度ぐらいくりかえして読んでからだった。
目に新聞の紙までくろずんだ。


頼子は、
新聞を落とした。
そのまま、
自分で立てなかった。
動悸《どうき》が激しく打ち、
目にうつる物が傾いていた。


頼子は叫びたくなった。


何か自分の胸の中に生物がいて、
それがひとりで喚《わめ》きだしそうな感じだった。


顔から血が引いているのが自分で分かった。
指の先までしびれた。


急いで、
することがあるような気がして、
立ちあがったが、
膝頭《ひざがしら》に力がなく、
体がガクガクと揺れた。


電話機に向かってダイヤルを回したが、
指が言うことをきかず、
三度もやりなおした。
出たのは小野木のアパートだったが、
「小野木さんは、
今朝《けさ》早くお出かけになったままです」

という返事だった。


念のために、
地検に電話した。


「小野木検事は、
今日は休みです」

頼子は、
送受器を取りおとしそうになった。
彼女は部屋にもどり、
顔をおおってうずくまった。


胸の動悸は静まらなかった。
かなしいくらいに、
心臓がひとりで激しく鼓動をつづけていた。


現実の出来事とは思えなかった。
思いたくなかった。


ずっと前に見た厭な夢のつづきのように考えたかった。
悪い予感は、
この一週間ぐらい前から彼女をたびたび襲っていたが、
この結果になろうとは思わなかった。


頼子は何かによりすがりたくなった。
自分の体が虚脱に陥り、
精いっぱいにそれを支えてくれるものがほしかった。


頼子は、
結城と別れる手続きを決心していた。
それは五日前からだった。


そのためには、
法律的な手続きを聞きに、
家庭裁判所に行ったりした。


それでも、
拘置所の結城には差し入れの準備もした。
別れる夫だが、
それは妻としての最後のつとめだった。
愛情からではなかった。


だが、
それも途中でやめなければならなかった。
結城には、
ほかに差し入れに来る女性が二人もいることが分かった。


頼子の知らない女である。


結城が何日も家に帰らなかったり、
外で遊んでいる証拠を見つけたりしたが、
何年もの間、
頼子には動揺がなかった。
結城が何をしても無関心だったのである。


二人の女性が、
夫に熱心に差し入れに来ていると知っても、
感情の波は起こらなかった。


頼子は、
はじめて、
自分が去っても、
結城に世話をする女がいることを確かめ得て、
かえって安心だった。
結城に尽くした一時期を遠い過去として、
他人《ひと》事のように眺めることができた。


だが、
小野木に関しての新聞記事は、
頼子を錯乱に陥れた。


小野木の姿を想像して、
自分の足もとから転落してゆく石を、
断崖の上で見つめている気持だった。
石は急斜面を転回しながら下降してゆく。
それにつれて、
足もとのほかの石も土も、
煙をあげ、
音を響かせて崩れ落ちるようだった。
土は頼子をのんで崩壊してゆく。
──落下してゆくときの途中に、
回想が起こるように、
頼子には自分の郷里《くに》の景色が目に浮かんでいた。
現在とはまったく関係のないことだったが、
ふしぎに、
それだけは色彩をもっていた。
乾いた赤土の罅《ひび》のはいった土塀、
トカゲの這う石垣、
崩れかけた門、
誰も通っていない道。
──この風景が、
幼いときの友だちや、
母や、
死んだ兄の顔を切れぎれの場面につながらせた。


体がそのまま下に沈んでゆきそうだった。
さまざまな思考が頭に浮かぶが、
それが奇妙に、
現実の今の問題とはかかわりのないことばかりだった。


彼女の思考の方法と、

現実との間には大きな空隙《くうげき》があり、
空虚がはさまれていた。
──遠いところで声が聞こえた。


頼子は顔を上げた。
女中が襖《ふすま》のところにいた。


「奥さま、
お電話でございます」

返事をする気力がなかった。


「いかがいたしましょう? 小野木さまからですが」

女中は遠慮そうに言った。


頼子は自分にかえった。
電話口に行くのがほとんど無意識だった。


「小野木です」

耳のせいか、
小野木の声は嗄《か》れていた。


頼子はすぐに返事ができなかった。


胸が詰まって声にならなかった。


「聞こえますか?」

小野木はつづけた。


「……聞こえます」

彼女はやっと言った。


「新聞、
見ましたか?」

小野木はきいた。
抑揚のない声だった。


「読みました」

小野木はしばらく黙っていた。
頼子は、
大きな声で呼びかけたかったが、
何を叫んでいいか分からなかった。


「ぜひ、
お会いしたいのです。
出ていただけますか?」

「出ます」

わたしも、
ぜひ……と咽喉《のど》までこみあげてきたが、
何か言うと、

自分が先に喚きそうに思えた。


「ありがとう」

小野木は礼を言った。


「いつものところで待っています」

電話は、
それですんだ。


頼子は、
部屋にもどると、

支度にかかった。
何を選んで着ていいか、
自分でも狂っているのではないかと思われるほどあわてた。


彼女が支度をしているのを見て、
女中がいつものように手伝いにはいってきた。


「いいの」

けわしい拒絶で女中を退らせた。
今日だけはひとりになりたかった。


だれも自分の傍に置きたくなかった。


小野木に会うまで、
ただひとりになっていたかった。
支度が終わった。


部屋の中を改めて見まわした。


不意に、
自分の部屋ではないような気がした。
他人の部屋にはいって、
自分の用事をしているような錯覚だった。


遠くでベルが鳴った。
女中が聞いていたが、
やがて襖をあけて、
廊下から恐れるようにものを言った。


「林弁護士さんからお電話でございます」

「出かけたと言ってちょうだい」

声が鋭かったのを自分の耳がとらえた。


身支度が終わって、
廊下に出た。
自分の家だが、
どのような順序で玄関に降りたか分からなかった。


タクシーに乗って、
はじめて少し自分を取りかえした。


見なれた景色が流れてゆく。
步いている人も風景も、
自分とは別の世界になっていた。
新聞の活字だけが、
目の前にちらついた。


──小野木喬夫検事が、
数日前、
突然、
特捜部の所属からはずされた。
さらに、
×日付で、
同検事はあらためて休職となった。
この裏面には、
同検事と、

この事件の被疑者になっている某氏(特に名を秘す)の妻との間に、
かなり親密な関係があったことが、
弁護団側より暴露され、
地検でも狼狽して、
とりあえず、
この処分となったものである。
──新聞を実際に見たときよりも、
時間のたった今の記憶の方が、
奇妙に鮮明な活字だった。


「どちらへ着けますか?」

運転手がふりかえった。


頼子は教えた。
群衆が流れたり止まったりした。
その向こうの建物の下に、
小野木の姿が遠く見えた。


彼の立っている、
その小さな地点だけが、
頼子の目には、
ほかの景色と切り離れて島のように映った。


その新聞を読んだとき、
輪香子にすぐ浮かんだのは、
深大寺の森で会った頼子の姿だった。


ふしぎと、

それが強烈に心に残っているのである。
その後も、
その女を高台の家でも見かけたし、
銀座でも会い、
お茶をご馳走してもらったことがあった。


だが、
どの姿よりも、
深大寺の森を小野木と步いている頼子の方が、
彼女の心に鮮明だった。


小野木検事の休職を報じた記事を読むと、

輪香子はしばらくぼんやりした状態になった。
その状態のなかに、
頼子の姿が目に映ったのだった。


新聞記事の印象は、
しばらくたつと、

彼女の心からそれた。
小野木と頼子とがそうなっていたという事実を、
彼女は前から知っていたようにも思えたし、
かえって自分の心がそれで落ちつけた。


輪香子は、
また、
上諏訪の駅で、
たったひとり古びた鞄を肩にかけて步いている小野木の姿を思いだした。
横顔が妙に寂しかったし、
複雑な翳がある人だと思ったが、
その直感のせいか、
その新聞記事は、
それほどの驚きを彼女に与えなかった。


古代人の小屋に寝ていた小野木、
輪香子がはいってびっくりしたように起きあがってきた彼、
麦畑の中を步いていた彼、
そのどれもが清純だった。


しかし、
小野木に複雑な翳を与えたと思える頼子にも、
輪香子は親和感があった。


これは自分より姉のような女《ひと》だったし、
その洗練された美しさと教養が、
彼女に憧憬すら覚えさせた。
輪香子の側から言えば、
頼子に圧倒されたと言えた。
が、
これは不愉快ではなかった。
美しい女《ひと》だと思い、
やさしい女《ひと》だと思った。


この頼子と小野木とが結ばれていたことに、
少しもいやな動揺は起こらなかった。


小野木も好きだったが、
頼子も好きだった。
二人が、
そうなることが自然だと気づいたくらいだった。


だからそのことは、
小野木が新聞記事にあるような運命になったことに腹をたてさせた。
自分の気持なりに、
小野木をこのような立場にした理不尽さに、
何か怒りのようなものが起こった。
──輪香子の居間に、
母が顔を出した。


「輪香ちゃん、
ちょっと」

母は明るい顔をしていた。
輪香子がおやと思ったのは、
久しぶりに母のそのような表情を見たからである。
近ごろの母の顔は、
けわしいし、
顔色も悪く、
輪香子のほうで近づけなかったほどだった。


「新聞、
読んだ?」

母は明るかった。


「あ、
それね」
と、

輪香子の前の新聞にいち早く目をやった。


「たいへんな検事さんがあったものね。
でも、
よかったわ、
こんな問題が起こって。
心配していた事件がうまくどうにかなりそうだわ」

母のうれしそうな表情の原因が、
それで分かった。


「お父さまのことも、
ずいぶん心配したけれど、
この検事さんのことで、
どうにか安心なようになりそうだわ」

母は、
自分の安心を確かめるように、
「ほら、
ね」
と、

輪香子に教えるように、
その大きな見出しに指をついた。


「検察陣も大狼狽、
と書いてあるでしょ。
こんなことになると、

責任問題が起こるから、
現在の検事さんたちは交替するかも分からないわね」

輪香子は、
この時ほど母に腹をたてたことはなかった。
当然、
黙っていた。


だが、
彼女のその不機嫌な様子さえ、
母は気づいていなかった。


「お父さまも、
これを今朝ごらんになって、
何かほっとしていらしったようよ。
珍しくお父さまの笑い顔を見たわ」

母は、
いちいち報告した。


「今日は早く帰る、
と言ってらしたから、
なんだったら、
おねだりして、
三人でお食事にでも行きましょうか」

輪香子は、
何か一言、
母に言ってやりたかった。
母の無知をこれほど軽蔑したことはない。
父にも母にも、
輪香子は憎しみを覚えた。
上機嫌でいる母といっしょにいるのが、
我慢できないくらいだった。


だが、
母のほうから輪香子の部屋を出ていかなければならないことが起こった。


女中が電話だと言って、
母を呼びにきた。
はい、
と答えて、
立っていくまでの母の動作は、
近ごろにない軽快さだった。


電話機は廊下にあった。


母が何か受け答えしている。
その声の調子が変わっていた。


輪香子は、
廊下にそっと出てみた。
母が送受器を手で囲い、
背をかがめるようにして話を聴きとろうとしていた。
その様子は今までとはまるで違い、
真剣さが溢《あふ》れていた。


「はあ、
それ、
本当ですか?」

母は異様な声を出していた。


「はあ、
はあ」

と言っている母の声は上ずり、
様子がうろたえていた。


母の立っているあたりから、
異様な空気が起こっていた。
輪香子が固唾《かたず》をのんでいると、

母は送受器を音たてて置いた。


それから、
一瞬、
母は、
ぽかんとしていた。
瞳《め》を宙に向けたまま、
その場に立って動かなかった。
置いたばかりの送受器に、
力なく指がかかっていた。


輪香子の気配を知って、
母は、
はじめてこちらを向いた。
その顔がまっ青だった。


「お父さまが……」

母は、
にわかに喚いた。


「お父さまが、
地検に連れていかれたんですって。
いま、
辺見さんから電話があったわ」

母は体をふるわせ、
涙を溢れさせていた。


「夕方、
逮捕状が出るかも分からないので、
弁護士さんの選定を連絡するようにって……」

う、
う、
と母は袂《たもと》をかんで、
異様な声をのどから出した。



頼子は、
S拘置所の待合室の椅子にすわっていた。


待合室には、
十二、
三人の人が、
一方だけ向いた長い椅子に腰をかけて待っていた。
講堂のように広い部屋で、
白い壁が清潔だった。
天井は防音装置のテックスが張ってあり、
それだけ見ると、

銀行か会社の感じだった。


椅子は紫色のきれで張ってある。
一方だけに人がかけているのは、
向かいあって顔を見合わさないための配慮だった。


面会人同士は、
顔を見ることはなかった。
ここでは、
貧しい服装の人もあるし、
観劇にでも来たみたいな、
着飾った婦人もいた。
だれもが大きな声を出さない。
ひそひそと、

ささやきあっている者もあれば、
黙ってうつむいている者もいた。


アナウンスで待合人が呼びだされてゆく。
その後ろ姿を、
あとの人がそれぞれの感じで見送った。


頼子が申し込みをしてから、
すでに四十分はたった。
先ほど、
係りの人が来て、
本人はいま運動中だから、
という断わりがあった。


彼女よりあとに来た人が先に立ってゆく。
が、
今の場合、
そのほうが頼子の気持を救った。
申しこんですぐに、
夫との面会の場所にゆくのは、
心が落ちつかなかった。


広い部屋のせいか、
それとも床がコンクリートのせいか、
ひどく空気が冷たかった。
窓の外に陽が当たって、
向かいの建物の壁を明るく照らしている。


頼子は、
庭の手入れのゆきとどいた芝生と、

並木の青い葉とを、
ぼんやり見ていた。


ジーと音が鳴って、
「結城さん」
と、

アナウンスがあった。


頼子は椅子を立ちかけた。
一列に横に並んでいる人が、
彼女の方をいっせいに向いたようだった。


制服を着た係員がはいってきた。
椅子から立っている頼子を見て近づき、
「どうぞ」
と、

うながした。


面会室まで、
彼女は係員に誘導された。


「面会時間は五分間です。
どうぞ、
そのおつもりで。
大事な話から先に話してください」

その注意に、
頼子は黙ってうなずいた。


予期したような胸のふるえはなかった。


係員がドアをあけた。
はいるなり、
すぐ目の前に金網があった。
待合室の十分の一ぐらいの狭い部屋である。
どういうものか、
椅子が二つ、
先に目についた。


一つの椅子は、
金網の前にあった。
ああ、
これにすわるのだ、
と頼子は思った。
もう一つの椅子は、
その部屋のすみに置かれてあった。


頼子が金網の前に立つと、

すぐにむかいのドアがあいた。


夫がはいってきた。
見なれた洋服だった。
この場所で夫に会うことが、
それほど奇異には思えなかった。
ワイシャツも頼子の見覚えのものである。


洋服はさすがに皺が寄っていたし、
ネクタイがなかった。
もともと、

服装にはやかましいのだが、
それだけが、
この新しい環境にはいった夫の変化だった。


髪にも櫛《くし》がはいっていたし、
髭《ひげ》も剃っていた。
顔色は暗いが、
それでもやつれたあとはなかった。


夫は、
頼子の方をじっと見ていた。
複雑な目の表情で、
瞳が動揺していた。


「お元気ですか?」

頼子は椅子にすわって夫に言った。
それが、
ここで会った夫への最初の言葉だった。


「元気だ」
と、

夫も椅子にすわって言った。


「今も運動してきたところだ」

夫の声はあんがい、
明るかった。
しかし、
その表情が、
夫の虚勢だとは、
頼子に分かっていた。


だが、
金網を通して見る夫の顔は印象が違っていた。


金網がフィルターの役目をした。
フィルターはうす黒い。
夫の顔は、
その黒さのなかで動いていた。


「食事が進むのでね、
かえって元気だ」

夫は平気な言い方をした。


その声も一枚の遮蔽《しやへい》器を通ってきているような響き方をした。


「お顔色がよろしいわ」

頼子は言った。


「ここでは、
わがままができないからね」

夫は答えた。


その言葉は、
食事や行動の拘束だけを意味しているのではなかったようである。


頼子には、
夫が何を言いたいのか分かる気がした。


「留守に、
変わったことはないか?」

彼はまた金網越しにきいた。


「いいえ、
別にございませんが」

頼子は金網越しに答えた。


普通の、
平凡な夫妻の会話だった。
片すみに看守がいて、
その会話を聞いている。


頼子には感情が募《つの》ってこなかった。


ふしぎと、

恐れていたような興奮も起こらなかった。


「お下着など持ってまいりました。
あとで着ていただきますわ」

頼子は差し入れのことを言った。
自然と、

昨日、
差し入れの受付係のところで出会った二人の女性が目に浮んだ。


頼子が頼む前に、
その女性たちは結城の名前を言って、
下着や日用品や弁当などを頼んでいたのだった。
──「ありがとう」

目の前の夫は、
単純に答えた。


このひとは、
差し入れの品で、
だれのを、
いちばんに着るのだろうかと、

ふと思った。


結城は頼子に何も言わなかった。


このような立場になったことも、
別に触れなかった。
それは、
そこに腰かけて夫妻の会話を聞いている看守がいるからではなかった。
夫は頼子が新聞記事を読んでいることを、
むろん知っているのだろうが、
それについて、
説明や弁解めいたことを口にしなかった。


もとから、
頼子には何も聞かせない夫だった。
仕事のことも、
外でしていることも。
──数年間、
そのような暮らしだった習慣が、
ここでも夫をそのようにしていた。


面会時間は五分と限られていた。
頼子の気持を圧迫していることといえば、
その限られた時間の意識だった。


「きみは、
どうする?」

突然、
結城は言った。


頼子は、
初めてはっとした。


きみはどうする、
と言った夫の言葉をどう取っていいか分からなかった。


単純に考えれば、
自分の留守の間どう暮らしてゆくか、
ということだが、
夫の言い方は、
自分から別れるのか、
このままでいるのか、
それを妻に質問しているようにも思えた。


頼子は、
しばらく返事ができなかった。


彼女は、
あることを結城に言いにきたのだ。
それは、
夫への許しを請《こ》うことであり、
同時に彼女の決断を告白することだったが、
それは容易に言えなかった。


頼子がいつまでも黙っているので、
すみにすわっている看守が椅子から立った。


「奥さん」
と、

看守は言った。


「あと、

二分しかありません。
大事なお話でしたら、
早くなさったほうがいいですよ」

頼子はうなずいた。


大事な話を持ってきているのだ。
二分ではむろん話せないことだが、
しかし、
その時間でも余るくらい、
短い言葉でも言えそうだった。


「わたくしがいけなかったのです。
申しわけありません」

頼子は、
うなだれて、
それだけ言った。


結城は、
それをどう解釈したか、
相変わらずフィルターを通して、
夫の顔は、
微細な表情までは読みとれなかった。


夫の声も、
すぐには返ってこなかった。


「もういいよ」

夫は、
やっと言った。


もういいよ。
──夫のこの短い言葉の内容も、
頼子には、
どう受けとっていいか分からなかった。
もういい、
というのは、
頼子のことごとくを知った彼が、
すべてを許したという意味か、
それとも、
そのことは今さら詮《せん》ないことだと言っているのか、
よく分からなかった。


いや、
それよりも、
小野木を陥れた夫が、
もう復讐《ふくしゆう》は、
すんだから、
それでいいのだ、
と言っているようにも思えた。


頼子は、
自分の気持を、
もう少し夫に言いたかった。
だが夫婦の会話を、
第三者が聞いていることが、
やはりどこかに気にかかった。
看守は横を向いて聞いていないような顔をしている。
だが、
全身の注意を耳に集めていることは、
その様子で分かった。


看守は腕時計を見た。


「あなた」

頼子は言った。


「帰りますわ、
時間がまいりましたから」

このとき、
夫は初めて妙な表情をした。


「帰るのか」

それまでの声と違っていた。


初めて、
弱いものが、
その声の響きに出た。
妙な顔に結城が見えたのは、
これまでの生活で頼子に示していた別な顔が、
そこで急に崩れた感じだった。


「あなた」

頼子は夫の顔を見つめた。


今まで、
この夫と暮らしてきたさまざまな場面が、
瞬間に、
頭の中に次々と蘇《よみがえ》った。
遠い過去もあれば、
近い時もあった。
順序どおりでなく、
それが入り乱れていた。


「どうぞ、
お体を大切になさってください」

彼女は、
頭の中が空虚になってゆくのを感じた。


「そのつもりだ」

夫はすぐに答えた。


「ここにはいっては、
もう、
どう騒いでも仕方がないからね。
体だけがたのみだ」

夫の言葉は、
すこし前の調子がかえったようだった。


「安心しました。
あなたがお元気そうなので」

頼子は言った。


「きみも」

このとき、
夫は頼子の顔に目をすえていた。


頼子は胸を刺された。
自分の気持が夫に分かったのか、
と思った。


「元気でいることだね」

頼子は目を上げた。
夫の視線と妻の視線とが、
宙で出会った。
それは、
すさまじい勢いをもっていた。


夫も頼子も、
その視線を逸《そ》らさなかった。
夫の顔が次第にゆがんだように思えた。
その瞬間の視線のからみあいは、
互いの意識の模索《もさく》でもあり、
頼子にとって、
長い間の夫との闘争の最後でもあった。


看守が音をたてて椅子を引いた。


「お大事に」

頼子はおじぎをした。
これが最後になる夫への礼だった。


夫は黙ってうなずいた。


頼子は、
夫がドアをあけて、
係官につきそわれて去る後ろ姿を見送った。


姿勢の癖《くせ》にも変わりはなかった。
夫は一度も途中でふりかえらなかった。
ドアが閉まり、
その姿が見えなくなったとき、
頼子の胸に初めて感情が急速に充満してきた。


「では」

看守は、
頼子をうながした。


「ありがとうございました」

頼子は看守に礼を述べた。


もとの廊下に出た。
すぐそのあと、

この部屋を使うはずの面会人が步いてきていた。
中年の女性だったが、
目を赤く腫《は》らし蒼い顔をしていた。


今、
あの部屋で見た夫の顔が、
しばらく目の前から残像のように離れなかった。


中庭には、
やはり明るい陽が降っている。
地面は白く映《は》え、
草は青かった。
夫の顔を、
今、
現実にそこで見てきたのが、
步いているうち、
夢のように思えてきた。


疲れた。
──長い間の夫婦の闘争だった。
それが今の瞬間に終わったのである。


何もかもが、
終わった。
これまでの生活が、
幻《まぼろし》のように思われた。


妙に、
現実感がなかった。
自分のいま步いている廊下も、
この建物の中から見える景色も、
見えている人間も、
ほとんどが現実とは思われなかった。


熱があるときに見ているように、
すべてが平面で黄色っぽく映った。


夫との離婚は、
頼子のほうで手続きをすませていた。
あとは、
裁判を待つだけだった。
家庭裁判所の係官は、
そのとき、
この離婚が、
たぶん成立するであろう、
と言ってくれた。


本来なら、
それを夫に言うべきだった。
それを言わなかったのは、
金網越しに立っているネクタイのない夫に同情したからではなかった。
頼子には、
離婚のことを夫に言う必要がなかったのだった。


夫が何をしたのか、
頼子には分かっていた。


小野木が社会的に失墜《しつつい》したのも、
夫の策謀だった。
そのような要素を、
夫の性格は持っていた。


その最初のきざしは、
夫が温泉から帰ってきたときに、
すでにあった。
小野木と行ったS温泉のタオルを、
わざわざ頼子の目に触れるようにしておいたのである。


そのときから、
頼子の心に、
たえず夫の黒い翳が射していた。


だが、
それを、
夫に咎《とが》める資格は、
頼子になかった。
夫婦というのも、
すでに何年か以来、
名ばかりになっていたが、
それでも、
彼女が結城の妻であることに、
世俗的に変わりはなかった。
結城のやり方は、
夫の権利でもあった。


頼子は、
自分の愛していない異性と同じ家に生活する不合理を、
もう何年も前から感じていた。
これまで何度か、
夫に離婚の話を持ちだした。
夫は、
いつもそれをせせら嗤《わら》っていた。


そして、
最後にした処罰がこれだった!小野木との交渉が始まったときから、
頼子は罰を意識していた。
その結城の刑罰が、
今、
彼女にこのような形で加えられた。
夫と面会したとき、
頼子は許しを請うた。
だが、
それは彼女の罪の許容を夫に請うたものではなかった。
許されないことは分かっていたし、
許されるのを望まなかった。
が、
どのように、
結城との生活が、
夫婦の名において不合理であっても、
また、
どのようにその生活が絶望的でも、
妻としての最後の謝罪をしなければならなかった。


彼女は、
結城に離婚のことを言わなかった。
この面会が最後になることも告げなかった。
|その必要が《ヽヽヽヽヽ》、
|もう彼女になかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。


とにかく、
長い間のたたかいだった。
──そのすべてが終わった今、
頼子の感じているのは、
担《にな》っていた重いものが急に取り除かれたあとのように、
自分の体が、
頼りなく浮きあがりそうな感覚だった。


喜びでもなく、
悲しみでもなかった。


ただ、
何年間の暗鬱《あんうつ》な闘争が、
初めて消えた終了感であった。


疲れた。
──頼子が、
正門に向かって步いているときでも、
この拘置所の中にいる人に面会に来る家族がつづいた。


どの顔を見ても、
悲しいなかにも喜びが見えていた。
それは、
これから五分間でも会いたい人の顔を見て話ができることのたのしさであった。
この人たちは、
帰りには目を腫《は》らし、
肩を落として去ってゆくことであろう。


だが、
そのなかにも充実はあるはずである。
人間は悲劇のなかにもそれにふさわしい充実はかならずあるものだった。


しかし頼子にはそれがまるでなかった。
感じているのは、
茫漠《ぼうばく》とした空虚感だけだった。


步いている道路の明るさが、
目に痛いくらいだった。


拘置所の正門を出た。
前には、
差入屋などの店が並んでいる。
その店の中にも買物をする人の群れがあった。
子供づれもあるし、
老人の手を取っている者もいた。
どの顔も、
これほど真剣な買物をしている目つきは、
ほかの場合になかった。


ハイヤーを待たせておいたので、
頼子はそれに乗った。


運転手が彼女のために外からドアを閉めてくれ、
前部から運転台に回っていた。


待っている間のわずかな瞬間だった。


ちょうど、
一台の車が正門前に到着したところだった。


頼子が、
窓の外を見るともなく眺めていると、

その車の運転手がドアをあけた。
車から降りた人をふと見て、
頼子の目は急にわれに返った。


あっと、

声をたてるところだった。


車から出てきたのが、
間違いなく田沢輪香子だった。
はっきりと見覚えがある。


ただ、
違うのは、
輪香子の姿に若い溌剌《はつらつ》さが失われていることだった。
前に会ったときは、
そんな印象ではなかった。
あとから降りる人を待っているのだが、
その姿に元気が失われていた。


輪香子のほうで、
そこに頼子が車の中で見ていることなど気がつくはずがなかった。
頼子の視界には、
つづいて車から降りる青年の姿が映った。


青年は片手に風呂敷包みを提げていた。
その包みの具合から、
それが差し入れの下着類であることが分かった。


青年は明るい顔をしていた。
車から降りると、

彼は輪香子の肩を軽く叩き、
笑いかけていた。
輪香子に元気をつけている動作だった。


二人が並んで、
拘置所の門に步きかけたとき、
頼子の車も動きだした。


頼子は、
後部の窓ガラスをふりかえった。
遠のいていく二人の姿を見つめた。
青年は、
やはり輪香子に寄りそい、
彼女を励ましていた。


こちらの車が角を曲がり、
頼子の目からその光景が閉ざされた。


頼子は、
輪香子の父が、
拘置所に収容された、
との新聞記事を思いだした。


やはり、
この事件の拡大につれて、
田沢局長に逮捕状が出たのである。


頼子は、
あのお嬢さんは、
それでも幸《しあ》わせだ、
と思った。
まだ若いし、
あのように親しい友人も持っている。
頼子の目に、
いつぞや、
小野木といっしょに深大寺で初めて会ったときの輪香子の姿が浮かんだ。


小川のほとりで、
虹鱒《にじます》を見ている横顔だった。
葉や草が、
彼女の若い頬に青く映え、
それがひどく清潔に感じられたのを、
まだ生まなましく記憶していた。


あのとき、
輪香子と知りあいだ、
と小野木の口から聞いたが、
そのときに言った自分の言葉も覚えている。


──小野木さんも、
あのかたみたいな若いお嬢さんと結婚なすったらいいわ。


そうだ、
小野木はそうすればよかったのだ。


あのままだったら、
小野木も、
人生の最初に、
その運命を狂わすことはなかったであろう。
あのとき、
彼女が小野木にそう言ったのは、
輪香子の小野木を見る表情に特別な感情があったのを直感したからだった。


この直感は、
今でも間違っていないと頼子は信じている。
だが、
何もかも、
すべては終わったのである。


輪香子には、
今、
悲哀がきているが、
そのなかでも充実がある。
輪香子らしい仕合わせな充実がある。
現に、
今見た目にも、
はっきりとそれが映っていたと頼子は思って、
車に乗りつづけていた。


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